祝福してもらいたい私


ベック兄

(祝福式、2005/05/04)

今朝も集会が始まる前にひとりの人とちょっと話したのですけれども、歳もまだ若いし、34歳。うつ病になって、奥さんと子どもは実家へ帰って、けれども今まで、宗教大嫌いな男だった。
そういうことを聞くと、いつも嬉しくなる。そういう人は大好きになる。すぐ。宗教に頼ると必ず騙されるからです。
彼もおそらく、「あきらめなくてもいい。今からイエス様に頼れば間違いない。」と思うようになったと思います。そして今日このようにして兄弟たちとともに学ぶことができるのは本当にありがたい。

私にとっても最高の喜びです。兄弟たちといっしょにイエス様を紹介することができるのは、すごい恵みなのではないでしょうか。
確かに私たちはみな戦いの中に投げ込まれてしまった者です。われわれの戦いはもちろん人間に対する戦いではない。悪魔に対する戦いそのものです。

兄弟たちのメッセージは、「主を証ししたい私」、「高価である私」、「主お一人だけに喜ばせたい私」、「みことばを喜ぶ私」、「主のみこころにかなう歩みをしたい私」、「主のしもべとして主とともにいたい私」、「救いの衣をいただいた私」、そういう内容だったのではないでしょうか。
そして、結局みんな、そういう願いを持つようになれば、もうすごいのではないでしょうか。
私の話したいことは、「祝福してもらいたい私」。なぜなら、あとで祝福式がありますから。マルコの福音書の10章13節、ちょっとお読みいたします。

マルコの福音書10:13
13さて、イエスにさわっていただこうとして、

祝福してもらいたい者として、

マルコの福音書10:13-14
13人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
14イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

ここで人たちが出て来ます。弟子たちも出て来ます。そしていうまでもなく、中心なのは主イエス様なのです。
人々とは本当に正直に、素直に、子どもとともにイエス様のところに行って、「イエス様。お願い。祝福してください。」と思われたのです。
弟子たちは、「けしからん。帰れ。」と言われたから、彼らはしかられたのです。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と。

結局弟子たちの気持ちと心構えと、イエス様の考えとはまったく違う。私たちはこれをいつも覚えるべきではないでしょうか。
自分の思っていることを正しいと思えば、もうおしまい。ですから、イエス様の心構えの特徴について、ちょっとだけ考えたいと思います。
イエス様はまず自分を無にしてくださったのです。

ピリピ人への手紙2:6-7
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

イエス様は永遠なる神であられたのに、天におられたならば何の不自由もなく、驚くべき祝福のうちに住むことができたのに、自分をむなしくしてくださいました。自分の持ち物、自分の知恵、また力をすべて捨てたのです。
イエス様は人の誉れも名誉も得ようとは、ひと時だに思われなかったのです。また、自分のものを求めようとも思われなかったのです。まったく自分をむなしくしておられたのはイエス様です。

ある人は、これは自分の権利だと思い込んでしまい、戦うようになりますけれど、われわれの持つ権利とは自分の権利を捨てる権利にすぎない。
すなわち自分をむなしくすることです。イエス様が自分の喜びを求めることや、自分の名誉を求めることや、富を求めることとはまったく無関係でした。
イエス様の切なる願いは次のことがらでした。すなわち、「父よ。あなたの御名が、あなたの御名だけが崇められますように。」

イエス様は、「わたしは自分の栄光を求めない。父の栄光を求める。」と言えたのです。
イエス様は、「わたしは自分の意思ではなく、わたしを遣わされた方の意思によって歩むのである。」と言えたのです。
次にイエス様は自分自身を卑しくしてくださったのです。同じくピリピ人への手紙2章の8節。

ピリピ人への手紙2:8
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

本当の意味でのへりくだった方、謙遜なるお方とはイエス様おひとりしかない。
イエス様は言えたのです。「わたしはへりくだっている。」、イエス様は真心からこういうふうに言えたのです。
すなわちイエス様は自分のことを完全に忘れました。自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。自分自身を喜ばせるとは、自己満足です。人はみな簡単な楽な道を望むのではないでしょうか。やっぱり問題にはいりたくない。

自分の利益を追求するのは人間です。けれどイエス様は自分自身を喜ばせなかった、ただひとりのお方です。
悪魔は傲慢のかたまりですけれど、イエス様は自分自身を卑しくしてくださったのです。そして父なる神のみこころとはいったい何なのでしょうか。ピリピ人への手紙2章に書かれています。
主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。ペテロも同じことを強調したのであります。

ペテロの手紙第I、5:5
5みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

パウロも、

コロサイ人への手紙3:12
12それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

とコロサイにいる人々に書いたのです。
なぜ実りが少ないのでしょうか。なぜ御霊はしばしば悲しまれるのでしょうか。
なぜならば私たちは自分自身を喜ばせているからなのではないでしょうか。自分自身を同情するからなのではないでしょうか。

もうひとつイエス様は、人に仕えるお方だったのです。へりくだる者だけが従うことができ、従う者だけが仕えることができるのです。
イエス様は次のように告白したのであります。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と。イエス様はしもべの形をとり、弟子たちの足を洗ってくださったのです。それはまさに奴隷の仕事にほかならなかったのです。けれどもイエス様はそれを喜んでしてくださったのです。
私たちの生まれつきの性質の特徴は、自分自身のことだけを考えるということではないでしょうか。だからこそ人は不幸になり、孤独になります。

パウロは、もちろん刑務所の中で信ずる者の成長のために本当に心配し、祈りながら書き記したのです。
主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。イエス様は自分を無にしてくださり、自分を卑しくしてくださり、死にまでも従順に従う者となり、救いの代価を払うことによって、犠牲になることによって、本当の意味で人に仕えたのです。
結果はすばらしいものです。ピリピ人への手紙2章の9節から。

ピリピ人への手紙2:9-11
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

父なる神は主イエス様に一番高い御位をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられますけれど、しかし、イエス様はただ一人でそこにおられることを思っていない。
イエス様が十字架に架かってくださったのは、信ずる者のひとりひとりがイエス様の心構えを持ち、御座に着くことができるようになるためでした。
だからこそ私たちもどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に通ずる十字架の道を選びましょう。

主の目標を心の目で見た人は、自分自身のことをそんなに大切にしない。自我という足かせから解放されます。主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。
私たちはすべてを、すなわち自分が持っている考え、持っている意思、持っている感情を主にささげ、また、自分の当然持ってよいと思われる権利もイエス様にささげようではないでしょうか。
その結果はどういうものなのでしょうか。パウロは体験として次のように書いたのです。

ピリピ人への手紙3:8
8私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。
すべての問題の原因は、われわれの生まれつきの性格にあるのではない。自分のわがままの気持ちにあります。特にいつも自分を正当化しようとする気持ちや、傲慢な思い、自己追求などに問題の原因があります。

確かに、イエス様のために生きたいと思う人は犠牲をささげるようになるでしょうけれど、「損する。」と言わない。失うことはない。多くのものを得るようになります。
自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみを追求する者は心からの満足を得ることができないし、前進することもできなくなります。
自分自身の思い、感情、意欲などを大切にせず、ただイエス様だけがすべてのことにおいて最優先されるという備えができている人は間違いなく豊かに祝福され、主の姿に似た者に変えられるようになります。




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