流れる祝福の秘訣


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/05/24)

引用聖句:詩篇33篇8節、18節
8全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。
18見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

詩篇103:13
13父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

詩篇128:1-4
1幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。
2あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
3あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。
4見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

今朝の学びの題名は、「流れる祝福の秘訣」。すなわち主を恐れることです。
主を恐れることとは、どうして必要なのでしょうか。主は怖いから恐れるのではない。聖なるお方ですから。

マラキ書3:16-18
16そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
17「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
18あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。
昔、親しい友がいたんですけど、彼は人を絶対に誉めなかった。ただ、彼の褒め言葉の一つは、「見て、見て。あの兄弟、向こうの姉妹は、主を恐れている」、それは彼の最高の誉め言葉です。
結局、主を恐れればオーケー。祝福が必ず流れます。

はっきり言えることは、すなわち、主のない人生はまったく無価値で無意味です。なぜならば、主のみが永遠のいのちをお与えになり、本当の満足を与え、すべての問題を解決する力を持つお方であるから。
そして同じように言えるのは、主の祝福がなければ、人生は惨めなものになってしまいます。
今読んでもらいました詩篇128編で、「幸い、また幸福、そして幸せ、それから実を結ぶ」という表現が出てきますが、すべては主の祝福の結果であると言えます。

ひとりの姉妹は、本当にいろいろな面白くないことを経験しました。自動車事故で手足が思うように使えなくなったけど、見舞いに行った時、「イエス様を知るようになったから、幸せになったよ。もうちょっとで天国かもしれない。」と言えました。
私達は、自分だけにより頼むと惨めなことは決まっています。だからこそ、主の助けまたは主の祝福を求める必要があり、そのために主に目を向けざるを得ない。
主の祝福こそすべてに勝って大切です。いかなる事情においても、主の祝福を得たいと願うべきではないでしょうか。

昔のヤコブは、確かに嘘つきでずるい男でした。けどもいろいろなことで悩むようになったから、心の目が開かれた結果、祈ったんです。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
主の祝福を受ける人々とは、いったいどういう人々なのでしょうか。
ある時電話がありまして、「家の息子は捕まえられた。警察に捕まえられた。泥棒したから。」、けれどもその母親は、全然悲しい顔をしなかったよ。声ではなかった。結局彼女は何と言ったかと言いますと、「嬉しい。息子は主を恐れるようになったから。」

結局、主を恐れること、主は聖なるお方であるから大切です。
主を恐れるとはいったい何なのでしょうか。主を恐れる恐れを持つことです。

詩篇111:10
10主を恐れることは、知恵の初め。

本当の意味で主を恐れた人々の証しに耳を貸しましょう。
アブラハムは、「私は、ちり灰にすぎません。」と主の前に自らの真相を告白しています。ヨブは、「私は、自らを恨みちり灰の中で悔います。」と言っています。アサフは、「私は、愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。」と告白しています。
ダビデは、「私は、主に対して罪を犯しました。」と叫んだのです。イザヤは、「災いなるかな私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だ。」と。ペテロは、「主よ。私から離れてください。私は罪深い者です。」と告白しています。

100%言えることは、このような、「主よ離れて下さい。罪深いから。」と言う祈りは絶対に聞かれない。主は離れようとしないよ。
ヨハネは、聖い主を見た時、その足元に倒れて、死人のようになったと書きしるされています。万物の創り主なる神を恐れる人こそ幸いであり、幸せである、また幸福です。万物の創り主とは、あんまり聖い偉大なるお方ですから、恐れるべきです。
すべて主を恐れ、主の道を歩む者は、へり下って心砕かれた人です。そしてまた主の光によって、自分の惨めさと自分の空しさを知るようになった人々です。そういう人々こそが、主によって探し求められています。

イザヤ書66:2
2――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主を恐れることと、主のみことばにおののくこととは同じです。今の世界で求められているのは、どういう人々でしょうか。皆さん解かってる。頭のいい人々、優秀な人々、魅力のある人々、金を持つ者、権力を持つ人たちなのではないでしょうか。
主なる神の求めているのは、そういう人々ではない。心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。
十何年前でしょうかね、ある兄弟の事務所に、貼られたポスターは次のようなものでした。「人間は、騙されやすい。」、大きな字で書いていました。

人間は騙されやすい。確かにそうです。そうでないと弁護士だって、あまり仕事がないのではないでしょうか。けども、主なる神は騙されません。
砕かれている心を持たない人は、祝福されえない。みことばにおののかない人は、決して祝福されえない。主を恐れない人は、何があっても祝福されえないのです。
ひとつの問いがでてきます。すなわち、万物の創り主なる神を恐れるとはいったい何でしょうか。そのための条件は何でしょうか。3つです。

第1番目主を個人的に知ることです。主についていろいろなことを知ることじゃなくて、主ご自信を知ることです。
第2番目主を喜ばせたいと願うことです。
第3番目主にすべてを捧げることです。

第1番目、最も大切なのは主を知ることです。そのために人間は、いろいろなことで悩みます。そのために主は、いろいろな面白くない困難や問題を与えて下さいます。
主を知るために、私達はまず、自分は主から離れている者であること、自分はわがままであること、すなわち罪の中に失われている者であることを認めなければならない。
主の判断は、すべての人は罪を犯したため、主の栄光を受けられなくなっている。義人はいない、正しい人はいない、一人もいない。それから自分は、自分で自分を救うことができないことも認めなければなりません。

いわゆる良い働きや良い生活をすることによっては、決して主を知ることがないし、救われません。
ただ一人のお方が、人間を救うことがお出来になります。すなわち人間の代わりに救いの代価を払って下さった、主イエス様です。
ペテロは、ペテロの手紙第Iの中で次のように書いたのであります。

ペテロの手紙第I、3:18
18キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様の御許に導かれた人々こそが、主ご自身を知り、救いにあずかった者です。
そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって人間を恐れる恐れから解放されています。
主を知ることは、罪より救われ、地獄より救われ、天国が保証されていることを意味します。

信じるようになった人はみな、自分の心の中に持っておられた満たされない心に気づかれ、自分は主なる神から離れた者であり、そして主からの罰を受けなければならないということに気づかれました。
その時にイエス様の十字架の福音について聞かれ、「私の受けるべき刑罰を受けられ、死なれたイエス様を信じ、誰でも重荷を負っている者は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげよう」というイエス様の招きに従ったのです。
主を知ることは、「自分のわがままは赦されている。私は義とされている。私は主なる神との平和を持っている。主は私の救い主です。私は霊的な死から永遠のいのちに移された。私は永遠のいのちを持っている。」という事実を確信することです。

ある姉妹は32歳で天に召されました。彼女の切なる願いとは何であったかと言いますと、「イエス様を喜ばせたい。」ということでした。
もちろん言うまでもなく、イエス様を信じるようになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力はすべて敗北から敗北へという結果に至るだけです。
召される前、5、6人の兄弟姉妹といっしょにお見舞いに行ったのです。夜だったんですけど、死にそうな人だったらどこの病院でも入ることができます。けれどもやっぱり皆驚いたんです。

彼女を励ます必要はなかったよ。私達は励まされた。「いやー、羨ましい。」と思ったのです。妹の姉妹は、もう言葉がなかったから、ただ「姉ちゃんは強い。」としか言えなかったのです。
昔は、この武蔵野文化会館でよく音楽会をして、証し会をやって、そしてある時に、いわゆる先生たちだけ話してもらったんですね。幼稚園の先生、中学の先生、高校の先生、大学の先生たちが証しして。
別の時、お医者さんたちと看護師さんたちだけ証しして、別の時、ガンになった人々ばっかり証ししたんです。

その時、姉妹ももちろんガンになっちゃったし、いつまでも解からなかったけれども、喜んで皆の前へ行ったんです。「ガンだって別に、行く先は決まっているよ、天国です。皆さん、イエス様を信じたら、絶対に後悔しない」と言いました。輝いた顔で。
終わってから廊下でちょっと会ったんです。全然喜んでいる顔じゃない。悲しそうな顔で私に聞いた。「どう、イエス様は私の証しを聞いた時、喜んだの?」それだけ、イエス様が喜んでくださったかが心配で心配でしょうがなかった。

イエス様を喜ばせたいという気持ちこそがあったのです。もちろん、父なる神が喜んでくださるのは、本当はイエス様しかない。大切なのは、このイエス様と結びついていることです。結びついていれば、生涯は変えられます。
そこには実を結ぶことが見られます。自分の努力ではなく、内におられるイエス様こそ、勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。
ご存知のように、いろいろな生き方があります。たとえば、自分自身を喜ばせる生き方、あるいは他の人を喜ばせる生き方、または主を喜ばせる生き方であります。

多くの人々の特徴は、自分自分だけを、自分自身のことだけを考えるということではないでしょうか。だからこそ、結婚生活、家庭生活や社会生活がうまくいかない。結果は恐ろしいほどの形相、妬み、憎しみです。
イエス様は、自分自身を喜ばせようとはなさらなかったと聖書は言っています。自分自身を喜ばせるとは、いったいどういうことでしょうか。自己満足です。
なぜ実りが少ないのでしょうか。なぜならば、自分を喜ばせているから。何かの役割を演じたいと思うから。自分自身を同情するからです。

人間を喜ばせようとする人は、知らないうちに人間の奴隷になります。内面的に不自由になり、大変神経を使ったりします。
それによって不幸になり、失望します。
一言葉で言いますと、主を恐れることのない人は、心の支えを持たず、自分のことばかり考え、そして他の人を省みることをせず、どうしようもない、もはや抑えることのできない者になります。

ドイツのひとりの詩人は次のように歌ったのです。
「人間が私を批判したり、誉めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ、あなたに喜んでいただけることこそ、私にとっては、すべてのすべてです。」と。
この態度をとる者は人間の判断から解放され、隣人に対する行動は正しいものとなり、自分自身のために生きるのではなく、他の人々のために生きたいと思うようになります。主に喜ばれたいと切なる願いの結果は、こういうものです。

主を恐れるとはいったい何を意味しているのでしょうか。そのための条件は何でしょうか。
今2つの点について考えたんですね。
第1番目、主を個人的に知ることです。第2番目、主を喜ばせたいと願うことです。

最後に第3番目ですけど、主を恐れるとは何でしょうか。
すなわち、主にすべてを捧げることです。
ちょっと創世記の22章を見てみましょうか。

創世記22:2
2神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

捧げることとは、その意味で、殺しなさい。

創世記22:5
5それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、

子どもを殺すじゃなくて、

創世記22:5
5礼拝をして、あなたがたのところに

二人で、

創世記22:5
5戻って来る。」と言った。

創世記22:12
12今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

主は、アブラハムに「あなたの愛しているひとり子イサクを、いけにえとして捧げなさい。」と言われた時、アブラハムは、「主よ、どうして、なぜ、何のために息子を殺さなくちゃならないの。もしイサクが死んだなら、あなたの約束はほごになり、何の価値もなくなるのではないの。」と言ってつぶやくことを断じてしませんでした。どうしてでしょうか。
彼は、はっきり解かったからです。すなわち、主は真の礼拝者を求めておられるということです。礼拝することとは、捧げることです。そして捧げることとは、主を恐れる結果である。
この12節に書いてありますね。「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。」主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。だから詩篇の作者は、「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。」とあります。

ある姉妹は本気になって、「イエス様、もしそれを通して主人が救われれば、私にガンを与えて下さい。」と祈ったのです。ご主人は救われました。けども彼女はガンになったからじゃなくて、彼は脳溢血で倒れたからです。
主の祝福を受ける人々は、いったいどういう人々でしょうか。第1番目の答えは「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。」、もう一つの答えは、「幸いなことよ。主の道を歩む者は。」とあります。
生まれつき主の道を歩む者は、もちろん一人もいません。生まれつきの人間について聖書は何と言っているでしょうか。

エペソ人への手紙2:1-5
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
3私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
5罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

主の道を歩むとはいったい何を意味しているのでしょうか。
1番目、光の中を歩むことです。
有名な、よく知られている大切な箇所は、ヨハネの手紙第I、1章7節です。

ヨハネの手紙第I、1:7
7もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

2番目、真理に歩んでいることです。

ヨハネの手紙第III、1:4
4私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。

3番目、信仰によって歩むことです。
有名なコリント人への手紙第II、5章7節

コリント人への手紙第II、5:7
7確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。

おそらく、この世で幸せになりたくない人はいないでしょう。けれども、幸せになりたいと思っても、本当に幸せになることは出来ないと思い込んでいる人は大勢いるのではないでしょうか。
主の道を歩むことこそが、幸せの秘訣です。
自分勝手な道を歩む者は束縛され、不自由になり、間違いなく不幸になります。けれども主の道を歩む者は、必ず祝福されるから幸せになります。

したがって、光の中を歩み真理を歩みましょう。信仰によって歩みましょう。絶対後悔しないからです。私達が必要とするただ一つのものは、主の祝福を受けることなのではないでしょうか。
なぜならば主は、主の祝福を受ける時、すべてのものを持つようになるから。すなわち心は満たされ、喜びをもって、平安をもって、生き生きとした希望をもって毎日過ごすことが出来るのです。
主の祝福が、我々の上に留まることが出来なければ、私達は本当に哀れな者です。

すべての点において主は祝福したいと望んでおられます。
主の祝福の一つの現れとは、前に読みました2節3節です。もう一回読みます。

詩篇128:2-3
2あなたは、自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう。
3あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、

親子の楽しい交わり、

詩篇128:3
3オリーブの木を囲む若木のようだ。

親子の楽しい交わりとは、稀なものになりました。この世界は、本当に冷たいものになってしまったのです。ぶどうの木とオリーブの木とは、主の祝福の賜物を象徴するものであります。
一言葉で言いますと、すべての点において主は、我々を祝福したいと心から願っておられます。毎時間ごと、毎分ごと、毎秒ごと、一瞬一瞬、主は我々を祝福したいと願っておられます。
しかも、今日から生涯に至るまで、主は祝福したいと願っておられます。そして、その生涯のある時、私達は永遠に栄光の主と一つになることを許されるようになります。この主に誉、賛美、崇拝がありますように。

最後にソロモンの書いたもの、箴言10章22節を見ると次のように書かれています。

箴言10:22
22主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

ある時、悩んでいる姉妹から電話がありまして、「主人は主を全然恐れていません。家へ帰ると、大きな声を出したりして、子どもはみな泣いています。恐ろしくて誰が何と言っても聞く耳がない。祈るしかない。」と、姉妹は正しい結論を出したのです。




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