引用箇所:申命記28章1節-14節
今、読んでくださった箇所の内容は、一つの祝福される約束なのではないかと思います。6節をもう一回読みます。 申命記28:6
祝福されるという約束は、将来にたいする大いなる勇気づけなのではないでしょうか。この28章においては、主は祝福したい、と書かれています。 もちろん、私たちは自動的に主の祝福に与るというのではなく、われわれの従順に対する答えとして祝福されます。従順に対する答えです。 もう一回読みます。1節ですね。ここで、「もし、〜なら」という条件付ですね。 申命記28:1-2
とあります。 新約聖書においても、主の祝福は、われわれの従順、われわれの心の態度にかかっています。 有名な山上の垂訓の中で、マタイの福音書の6章33節、みんな暗記していることばでしょうけれども、 マタイの福音書6:33
そうしなければ、もちろんダメ。第一にすれば、 マタイの福音書6:33
すべてが与えられれば、これこそ幸せなのではないでしょうか。 ここで申命記の28章6節。 申命記28:6
とあります。このみことばは、将来に対する大いなる勇気づけそのものなのではないでしょうか。 私たちの前に横たわっている将来は、暗黒かもしれない。将来は失望させるものであったり、勇気を失わせるものであったりするかもしれない。 私たちすべてのものは病気であったり、家族の死であったり、心配や悩みであったり、いろいろな困難なことを経験するでしょう。将来に対して、勇気づけるものが何かあるのでしょうか。 もちろんその通りです。だからここで、「あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」と約束されています。このことばは、本当に勇気を与える約束です。 すべての点において、祝福が約束されています。けれど、主の祝福は健康とか、富とか、美しさといったような様々な事柄ではなく、イエス様です。イエス様ご自身です。 一言で表現するならば、私たちはイエス様のうちにすべてを持っているということです。イエス様のうちに汲み尽くすことのできない富が、われわれ一人ひとりのために開かれています。有名なローマ人への手紙8章32節を見ると、書かれています。 ローマ人への手紙8:32
それで私たちは次に、主が何をおできになるのでしょうか、主がわれわれに何をしてくださると約束しておられるのでしょうか、について少しだけ一緒に考えてみたいと思います。 確かに、ここで私たちというのは、主を愛する者、また主に属するすべての人を意味しているのです。その際、私たちは五つの事実について考えましょう。 第一の事実は、決してダメにならないイエス様の愛であり、 第二の事実は、十分なるイエス様の恵みであり、 第三の事実は、溢れるばかりのイエス様の配慮であり、 第四の事実は、間もなく起こるイエス様の再臨であり、 そして、第五の事実は、イエス様によって受け入れられることです。 それでは、これから一つひとつの事実について順番に見てみたいと思います。 第一番目の事実は、決して、決してダメにならない主イエス様の愛です。すなわち、私たちは将来を見ると誰も、決してダメにならないイエス様の愛を確認することが許されています。 イエス様が、過去において、私たちを愛してくださったということ、またイエス様が今日も、われわれを愛してくださるということ、そして、永遠にわたって私たちを愛してくださるということは、決して動かされることのない事実です。 エレミヤ書31:3
とあります。 イエス様の愛について、私たちに疑いを持たせようとしている悪魔に、決して惑わされてはなりません。 イエス様の愛は、決して決してダメにならないものです。ヨハネの福音書13章1節を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書13:1
とあります。イエス様は弟子たちをいかに愛されたのでしょうか。死に到るまで残すところなく、余すところなく愛されたのです。 弟子たちはもちろん、イエス様に愛されるに値しなかったということを私たちは知っています。弟子たちは惨めで、どうしようもないほどダメな人々でした。イエス様が捕まえられたとき、弟子たちは逃げてしまったのです。 一人の弟子であるペテロは、突然、もうイエス様とは何の関係も持ちたくないと思ってしまいました。 けれど、イエス様の愛は永遠の愛です。イエス様の愛は、たとえ拒まれたとしても、引き続き愛し続けてくださいます。イエス様の愛は、たとえ足で踏みにじられても、愛してくださいます。 放蕩息子が親を捨てたときも、遊女と遊んで財産を使い果たしたときも、また父親から遠くはなれていたときも愛されました。 ある信者は、主が主を愛する者だけを愛すると思っています。けれどそれは大変な間違いです。偽りです。 再三再四、救われた者たちは、来て、債務を告白し、自分の生活の中の罪を告白します。覚えるべきことは、信ずる者も、あらゆる罪を犯しうるのです。 そして、悪魔が罪に誘惑することに成功すると、次のように信者たちを疑います。 「あなたは、神の愛をないがしろにした。あなたがやったことは本当にひどいよ。」こういうことを通して、主の愛に対する疑いが、頭をもたげ始めるのです。 そういう時に、ある人は来て次のように言うでしょう。「私はこの罪を犯してしまった。しかも、私はそれを意識的にしてしまいました。主が私を、なおも愛してくださることはあり得ない。まったく不可能です。」 悪魔は、信ずる者をこれほどまでダメにすることができると思っています。 確かに私たちは、愛されるに値しないものです。私たちの誰一人として、愛されるに値しないのです。けれど、罪を犯してしまったので、主が愛することをやめたり、信者たちを捨てたりするということは、まったく、ひどい嘘、偽りです。 主の愛は永遠なるものです。イエス様は愛し続けてくださいます。そして、この愛は最後的に勝利をおさめてくださるのです。 意識して嘘と偽りの生活を行う信者もいます。信者の生活の中にも、あり得ないようなことが存在します。すなわち、信者であっても、罪を犯し、あり得ないようなことを行なう可能性は常にあるのです。 けれど、最大の確実性をもって、主のみことばは、イエス様の愛は決してダメにならないと言っています。 主の愛は決して変ることがありません。イエス様はわれわれ一人ひとりを、まったく個人的に愛してくださいます。 もちろん、イエス様は罪を憎まなければならないけれど、イエス様は罪人が立ち返るまで、罪人を愛し続けてくださいます。 私たちがしたことであれ、しなかったことであれ、どんなことをも主の愛を変えることはできません。 ヨハネの手紙第I、4:10
と書き記されています。 イエス様は、いつご自分に属する者を愛することをやめるでしょうか。聖書の答えは、決して愛することをやめない、ということです。 どうかこのことを、決して忘れないでください。 イエス様はあなたを愛しておられます。あなたを愛し続けてくださいます。イエス様の愛は、決してダメにならず、決して絶えることがない。 われわれの前には、きわめて不確かな将来がありますけれど、しかしわれわれは、絶対的な確信を持っています。すなわち、イエス様の愛は決してダメになりません。 だから申命記の中で、「あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」と約束されています。 第二番目の事実、すなわち、充分なるイエス様の恵みについて少し考えたいと思います。勇気を与える約束です。 私たちは将来を見ると、主の充分なる恵みを確信することが許されています。「わたしの恵みは、あなたに十分である。」とコリント人への手紙第IIの中で記されています。 「私の恵みは、あなたにとって十分だよ。」とイエス様は保証してくださいます。 将来には、苦しみも悩みもあるということは、われわれはみんな知っています。 試練と誘惑もたくさんあることでしょう。私たちは嘆きや失望を経験するでしょう。私たちがこういう事実を考えると、勇気づけとか、励ましというものが存在するのでしょうか。 その通りです。まことに存在しています。というのも、私たちは、決して決してダメにならないイエス様の愛の確信だけではなく、十分なるイエス様の恵みの保証をも持っているからです。 パウロは、このイエス様の十分なる恵みを経験しました。 しかも彼の経験は、イエス様がなすことができること、そしてまた、われわれのために、今日もなおなしたいと望んでおられること、しかも、われわれの人生の終わりに至るまで、イエス様の願っておられることを、私たちにも示しています。 もう一度読みましょうか。コリント人への手紙第IIの12章を見るとわかります。12章の7節からお読みいたします。 コリント人への手紙第II、12:7-10
素晴らしいパウロの証しなのではないでしょうか。今、読んだみことばについて、一度真剣にゆっくりと考えることはとても大切です。パウロは、主が十分なる主の恵みに対してパウロに保証を与えてくださったとき、何と答えたでしょう。 彼は、次のように言ったのでしょうか。「主よ。この場合、私は病気を我慢する覚悟です。私は満足し、諦めます。私はもはやそのことについて不平や不満を言ったり、嘆いたりしません。」と、これと似たような何らかの反応を示したのでしょうか。 いいえ、そうではない。パウロのとった反応は、まったく別のものでしたね。今、読みました9節の後半から、 コリント人への手紙第II、12:9-10
パウロの語ったことばを、注意して見てみましょう。「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」「私は、キリストのために、甘んじています。」と。最初の二、三節は、パウロがいかに苦しみ、内面的に動揺したかを私たちに描き出しています。 彼は、肉体のとげを取り除いてくださるように、与えられた病気を癒してくださるようにと主に頼みました。彼は、癒してくださるようにと三度も主に懇願しました。しかし、主の答えは次の通りでした。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と。 けれど最後の二、三節は、パウロがいかに主の恵みを受けたか、パウロがいかにこの恵みの十分さを経験したか、そしてまたキリストの力がさらに一層明らかになるため、パウロがいかに弱くあることを望むかを描き出していますが、何という素晴らしい証しでしょう。 主は、私たちも、そのような証し人になることを望んでおられます。 これは可能です。どうしてでしょうか。コリント人への手紙第IIの9章の8節。その答えが書き記されています。 コリント人への手紙第II、9:8
私たちは不確実な将来を見ると、第一番目、主の決して決してダメにならない愛を確信することができ、第二番目、主の十分なる恵みを絶対に確信することができます。けれど、それ以上のものがわれわれに約束されています。 そこで私たちは、これから三番目の点に進むことにしましょうか。 第三の事実は、そして第三の勇気を与える約束は、あふれるばかりのイエス様の配慮です。すなわち、私たちは不確実な将来を見ると、主のあふれるばかりのご配慮を確信することができます。 将来を見ると多くの人々が不安を持ち、心配で苦しんでいます。いったい将来はどうなるのでしょうか。 けれども、イエス様を知る者として私たちは、イエス様がわれわれの牧者であり、私たちを決して捨てないということを知っています。それですから、私たちは心安らかに言うことができます。「主は私の牧者であるから、私は、乏しいことはない。」 さらに、またダビデはこう書き記したのです。詩篇の37篇を見ると次のように書かれています。37篇23節からお読みいたします。 詩篇37:23-25
とダビデは告白したのであります。 また、34篇9節、10節を見ると次のように書かれています。 詩篇34:9-10
とあります。 あなたが将来を見て心配になるようなときには、主が、預言者でありしもべであるエリヤが飢饉のときいかになさり、配慮してくださったかを読めば、非常に助けになります。 一節だけ読みましょうか。 列王記第I、17:6
創造主は、何でもできるお方です。 それから川の水が枯れてしまった。そのとき、主はエリヤを実際、自分自身は何も物を持たないやもめのところに、金持ちのところではなくて、やもめのところに導きました。 そこで奇跡が起こったのです。17章の16節ですね。 列王記第I、17:16
とあります。主に属する者は、主が私たちを助けてくださることを知ることが許されています。主はわれわれのことを配慮してくださいます。あふれるばかりに主はわれわれを心配してくださいます。 パウロは刑務所の中で、やっぱり主をよりよく知るようになりました。この刑務所の中で、彼はピリピ人への手紙を書いたのです。刑務所に入らなかったならば、おそらく書く暇が無かったかも知れない。 4章の19節を見ると次のように書かれています。 ピリピ人への手紙4:19
どうしてそんなことを書くことができたのか。刑務所の中で体験したからです。私の主はすごい。必要な物を与えてくださると、彼は経験しました。 第四の事実、そして第四の勇気を与える約束は、間もなく起こる主の再臨です。 すなわち、私たちは不確実な将来を見るとき、間もなく起こるイエス様の再臨を確信することが許されています。 私たちは、主が来年いらっしゃるかどうかとか、来月いらっしゃるかどうかとか、来週いらっしゃるかどうかとか、あるいは主が明日いらっしゃるかどうかということを、もちろんわからない。 けれど一つのことは確かです。それをヤコブは次のようなことばで書き表しています。 ヤコブの手紙5:8
新聞やテレビを見ると、私たちが終末の時に生きているということを、私たちに示してくれることがたくさん書かれています。そのときのしるしは、満たされています。 そして、これらのいわゆる終末のときのしるしは、すべて千年王国を建てるために主イエス様が目に見える形で再臨なさることと密接な関係を持っています。 けれど、その目に見える形でのイエス様の再臨の前に、目に見えない再臨、いわゆる携挙が起こります。それですから、携挙はいつの瞬間でも起こりうるのです。 この目に見えない再臨、このいわゆる携挙とはいったい何でしょうかね。聖書はこの事実について言います。 すなわち、信ずる者が取り去られることです。死を見ないで、そのままで直接天国に行くようになることです。死を見ることなく主と会うため、空中で主のところまで引き上げられます。 イエス様はそのとき、小羊の婚姻のために栄光のうちに主とともに連れて行ってくださいます。ちょっとテサロニケ人への手紙第Iを見てみましょうか。よく知られている箇所です。 テサロニケ人への手紙第I、4:16-18
このみことばによって、お互いにどれほど勇気づけられることでしょう。 パウロは、イエス様の携挙と再臨についてのこの箇所を、「お互いにこのみことばにより励ましあいなさい。」ということばで結んでいます。 何という不確実な将来に対するわれわれのための励ましでしょうか。 われわれの主は、いつでも来ることがおできになり、それから、私たちはいつまでも主のそばにいることになるのです。 イエス様は、今日にでも来ることがおできになります。 毎日、私たちは、この期待を持って過ごすべきなのではないでしょうか。 主を待つ者は、心の備えができています。 主を待つ者は、自分の生活の中のいかなる罪をも甘受しません。 主を待つ者は、さまよっている人たち、救われていない人々を、主の御元に導きたいという切なる願いを持って、主について証しするいかなる機会をも過ぎ去らせません。 最後に第五の事実、また第五の勇気を与える約束とは、真心からイエス様によって受け入れられることです。これもすごいのではないでしょうか。 すなわち、私たちは不確実な将来を見ると、真心からイエス様によって受け入れられるという核心を持つことが許されています。 確かに、再臨にいたるまでの間に、さらに一層多くの信者が召されるかもしれない。けれど私たちは、そのときに至るまで、まだ生きているなら死の谷を通る必要なく、一瞬にして引き上げられます。 けれど、私たちがその前に召されるなら、そのとき勇気づけとか、励ましとかいうようなものが存在するのでしょうか。 まったくその通り。存在します。というのは、死は信ずる者にとって、すでに征服されてしまった敵だからです。 それですから、パウロは次のように書くことができたのです。ピリピ人への手紙1章の21節。刑務所の中のことばです。 ピリピ人への手紙1:21
コリント人への手紙第II、5:8
死ぬということは、からだを脱ぎ捨てることを意味しています。けれど、霊は一瞬のうちにイエス様と一つになります。 ピリピ人への手紙1:23
詩篇の作者は、「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」と116篇の15節に書かれています。 私はイエス様のものです。私はイエス様を信じ、信頼しています。けれど、私は無価値な者で、何にも値しない者ですと、よく言われます。確かに、その通りです。それは、誰の上にも当てはまるものです。 私は真心から主に愛され、受け入れられるに値する者であるということを、正直な気持ちで言うことができる人は、一人もいません。 けれど確かなことは、主に属する者は、どなたでも真心から愛され、受け入れられるのです。その理由は、私たちが、それに値する者だからなのではなく、イエス様の手柄です。 イエス様は、私たちの贖いのために代価を支払ってくださいました。イエス様は、私たちのためにご自身のいのちを捧げてくださいました。 イエス様は、私たちを永遠にわたってご自身の御そばにおいておきたい、おらせたいと望んでおられます。 私たちは、どのように受け入れられるのか、想像することができません。 イエス様ご自身が私たちを向かえ受け入れてくださいます。私たちは顔と顔を合わせて、主にまみえるのです。 初めに読みましたところをもう一度読みます。 申命記28:6
私たちが必要とするただ一つのものは、主の祝福です。私たちは主の祝福をいただくとき、すべてのものを持っているのです。主の祝福がわれわれの上に留まることができないとき、私たちは最も哀れな者です。 すべての点において、主はわれわれを祝福したいと願っておられます。毎時間ごと、毎分ごと、毎秒ごと、一瞬一瞬、主は私たちを祝福したいと望んでおられます。 しかも、今日から将来に至るまで、主はわれわれを祝福したいと望んでおられることについて考えると、とても礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。 |