引用箇所:ガラテヤ人への手紙2章20節
昨日ここで結婚した兄弟・姉妹の最も大切な言葉は、今読まれた言葉です。信ずる者にとって、一番大切な言葉ではないかと思います。 今朝の主題は、「主イエスに喜ばれる人生の秘訣」であります。 このガラテヤ人への手紙2章20節の中でパウロは、七つの根本的な真理を証ししています。すなわち、 (1)信ずるものの人生は、まったく新たなる歩みである。 (2)信ずる者の人生は、死ぬべきからだでもっての歩みである。 (3)信者の人生は、絶えざる勝利の歩みであるべきである。 (4)信ずる者の人生は、信仰の歩みであるということです。 パウロはこれら四つの事実を述べた後で、主なる神に喜ばれる人生の秘訣を明らかにしています。 (5)主イエス様が私たちのためにご自身の命を捧げてくださったということ。 (6)イエス様が私たちから私たちの古い命をとってくださったということ。 (7)主イエス様がご自分のいのちを私たちの内に生きておられるということ。 次に、今述べた七つの事実について一緒に考えてみたいと思います。もう一回読みます。 ガラテヤ人への手紙2:20
パウロはこのみことばの一節でもって、個人的な証しをしています。2,000年以来この証しによってあらゆる国の信者は、祝福されたのであり、臨在したもうイエス様は、今もなおこのみことばを通して、私たちをも祝福なさりたいと思っておられます。 多くの人々にとって、このみことばは未解決の奥義であります。というのは、パウロは、自分は、「自分は十字架につけられて死んだ」と言っているにもかかわらず、また同時に彼が、生きていることを強調してしますから。 人はどうして、死ぬことと生きていることとを同時にできるのでしょうか。 パウロが証ししている最初の真理は次のことです。すなわち、その第一の真理として挙げられていることは、先ほど申し上げましたように、信者の人生が「まったく新たなる人生である」ということです。 今日、信ずる者の人生というものは、以前の人生とは違って教会に行き、聖書をあちこち読み、より良い人間になろうと努力するという具合に変わるものだと思っている人がいます。 残念なことですが、今日、教会にはこのようなヒューマニストたちが大勢いるのではないでしょうか。 彼らは、自分はクリスチャンであると自称し、イエス様についてたくさんのことを知っておりますけれど、実は一度もイエス様に出会ったことがなく、従ってイエス様を個人的に知ることもないのです。 ついでに申し上げるならば、こうした理由から今日の組織されたキリスト教と関係を持ったり、そうした教会の会員になったりすることは、まことのキリスト者とは無縁のものであるということです。 神のみことばである聖書は、まことの信者の人生がまったく新たなる人生であるということをはっきりと証ししています。すなわち、それは、新しく生まれ変わることによって、上から与えられるいのちです。 イエス様は、新しく生まれ変わることの必要性を、極めて明確に指摘しています。有名なヨハネの福音書3章の3節です。 ヨハネの福音書3:3
この回心は、人間の努力の結果ではなく、もっぱら聖霊のなさってくださる御わざです。聖霊の働きを通して、自分の人生には罪と債務があるということ、そしてこの罪と債務は贖わなければならないということを知るようになりました。 それから、罪人としてイエス様のところに行き、イエス様を自分の人生の中に受け入れたのですけれど、イエス様ご自身は、永遠のいのちそのものです。 ですから、イエス様を自分のうちに受け入れる者は、そのことによって新しいいのち、主なる神のいのち、永遠のいのちを持っているのです。 救われると言うことは、古き命が変えられたり、改善されたり、新しく作り変えられることを意味するのではなく、私たちがまったく新たなるいのちを得ることを意味するのです。 ペテロの手紙第II、1章4節を見ると、次のように書かれています。すなわち、イエス様を受け入れたものは誰でも、「神のご性質にあずかる者」であるとあります。神ご自身のご性質にあずかる。 今まで、自分の古い罪の性質に支配され、がんじがらめになっていた者、罪の奴隷となっていた者は、今や神のご性質にあずかるものとなっているのです。 別の言葉で表現するならば、パウロは、ガラテヤ人への手紙3章27節で「あなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。」と言っています。 使徒パウロは、「私はキリストとともに十字架につけられました。」と告白しています。それによって彼は、自分の今までの人生を指摘しているのです。 すなわち、彼は真面目一徹であり、最高の教養を身に着け、聖書に精通しており、道徳的に最高の生活を送り、主なる神に喜ばれる願いを持っていたのです。 けれど、実際はどうかと言うと、彼はまったく盲でした。彼は、ナザレのイエスが人を惑わす者、偽る者、神を否定する者だと思い込んでしまいました。 彼は、救われイエス様を信じた人を迫害しました。けれど、よみがえられたイエス様は、彼に出会ってくださり、その瞬間、彼は自分が今まで考えていたことは、まったく違っていたこと、また今まで歩んだ道も間違った道であったことを知りました。 しかしパウロは、そのことを正直に告白することができるほど正直な人でした。彼は、降参し、イエス様を自分のうちに受け入れました。古きいのちは十字架につけられ、債務は帳消しにされ、罪は赦され、贖われました。パウロは、自分の経験したことを次のように書き記したのです。 コリント人への手紙第II、5:17
新しく造られた者とは、まったく新たなるいのち、すなわち主イエス様のいのちのことであり、永遠のいのちを意味しています。 第二の真理は、信ずる者の人生は、肉のうちにあるいのちであるということです。主なる神から与えられたこの新たなるいのちは、我々のからだを通して、すなわち日常生活を通して明らかにされるべきです。 このからだ、この世において明らかにされるべきものとは、主なる神のご性質が、古い罪の性質よりも強くなることなのです。肉にある人生は、試練、苦しみ、悩み、痛みをもたらします。 けれど、自分自身に対する自分の権利を放棄する準備のできている者は、主の力、すなわち、守ってくださり、活力を与えてくださり、高めてくださるイエス様の力を経験します。 第三の真理は、信者の人生は、絶えざる勝利の人生であるべきということです。私たちは、このガラテヤ人への手紙2章20節を読むと、勝利の喜びを感ずることができます。 けれど、非常に多くの人々の人生は、失望、落胆、失敗によって特徴づけられているのではないでしょうか。けれども、イエス様のいのちは、いかなる失望も、落胆も、失敗も知りません。 それは勝利のいのちなのですから。この克服していくいのち、勝利のいのちは、我々のために備えられ、提供されています。パウロは、この命が実際にどのようなものであるか私たちに告白しています。 コリント人への手紙第II、4:7-11
第四の真理は、信ずる者の人生は、信仰の人生であるべきです。 多くの人々の問題は、彼らが信じたいと思わないことです。けれども信仰なしには、主なる神に喜ばれる人生を送ることも、また不可能です。 ですから聖書は、次のように言っています。今度はヘブル人への手紙の3章の12節。 ヘブル人への手紙3:12
信ずる者の人生は、信仰の人生であるということは、これらのことからも明らかです。信仰の対象は、言うまでもなく主イエス様です。信仰の土台は、神のみことばである聖書です。 パウロは次のように証ししています。私は神の御子を信じる信仰によって生きていると。 信仰とは、何を意味しているのでしょうか。主なる神の約束を真理として認め、信頼することです。 私は、意識してみことばに頼り、主なる神がおっしゃることを信じ、その上で、それにもとづいて主の言われたとおり行動します。幼子のように信ずることができる。何故なら、主なる神は偽ることがおできにならないからです。 信ずる者、本当に救われたものの人生は、今考えたように、まったく新たなる人生であり、死ぬべきからだでもっての歩みであり、絶えざる勝利の生活であり、そして信仰の生活であります。 このような人生は、主なる神に喜ばれる人生です。けれど、私たちはどうすればこのような人生を送ることができるのでしょうか、という問いが現れてきます。パウロは、三つの事実を指摘して、それとともにその秘訣および奥義を我々に示しています。 まず一つの事実は、主イエス様が私たちのために、ご自身の命を捧げてくださったということです。それから主イエス様が、私たちから古いいのちを取り去ってくださったという、別の表現をすれば、私たちを私たちの古い性質から解放してくださったということです。 もう一つの真理および事実は、イエス様が、主のいのちが我々の内に生きておられるということです。 生ける主なる神は、ここで御子なるイエス様について、そしてまた、あらゆるキリスト者について三つのことを言っておられます。 本当のキリスト者は誰でも、これら三つの事実を信じています。なぜならば、主なる神はそれらを真理として証しし、嘘偽りをおっしゃらないからです。 主なる神が、御子と私について、御子イエス様とあなたについて、御子主イエス様とあらゆるキリスト者について語っている最初の事実は、次のことです。すなわち、イエス様は、我々のためにご自身のいのちを捧げてくださったということです。 パウロが、このガラテヤ人への手紙2章20節でのべた、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子」というみことばは、このことを表しています。 まことのキリスト者が誰でも、この事実を信じ、身をもって体験しています。私たちが救われたときの最初の経験は、惨めな、滅び行く罪深い罪人として、イエス様に祈ったということでした。 なぜ、イエス様に祈ったかと言いますと、イエス様だけがわれわれの身代わりとなってくださり、私たちのために身代わりとしてご自身のいのちを捧げてくださったからです。 十字架の上で主イエス様は、私たちが受けなければならなかった罰をご自身の身に受けてくださったのです。ペテロの手紙第Iの3章18節を見ると次のように書かれています。 ペテロの手紙第I、3:18
罪なきお方が、われわれの身代わりとなってくださり、死刑の罰をご自身の身に受けてくださいました。 信ずる者の最初の経験は、次のようなものです。イエス様は、罰を、天罰を、ご自身の身に受けてくださり、そのような恥を恥とも思わず、流された血潮によって私たちの罪、また債務は贖われたのです。 イエス様を受け入れたものは、このことを自分の経験として証しすることができます、これこそが、われわれの喜びと平安の根拠でもあります。 信ずる者の生活の始めは、私たちがイザヤ書の53章を、身を持って自分自身に当てはめることができるときに始まります。 53章5節。皆さん、よくお読みになった箇所です。 イザヤ書53:5
こういうふうに証しする人は本当に幸せです。 イエス様はわれわれの罪深い、望みなき状態を良くご存知でした。そしてまた、罪が罰せられなければならないということも、イエス様はご存知でした。罰せられることなしには、罪の赦しはありえない。これは、主なる神のご判断です。 それですから、イエス様はわれわれのために罰をご自身の身に受ける決心をしてくださったのです。このことをパウロは、次のような言葉で言い表しています。 すなわち、イエス様は、私のためにご自身をお捨てになりました。もう一箇所読みましょうか。テモテへの手紙第Iの2章3節から読みます。 テモテへの手紙第I、2:3-6
イエス様は、私たちのためにご自身のいのちをお捨てになりました。これは、生ける神が、御子主イエス様とわれわれについて語られた最初の素晴らしい事実です。 イエス様は、私のために十字架でご自身のいのちをお捨てになってくださいました。イエス様を信ずるということは、私たちがこの事実を信じ、自分のものにし、そのために感謝することを意味しています。 主なる神の愛は、イエス様が我々の代わりに罰を受けてくださり、ご自身のいのちを捧げてくださったことを通して明らかにされました。 まことの愛は、自分のことを考えません。まことの愛は、ただ他の人の幸せだけを考えます。 まことの愛は、どのような犠牲を払うことも覚悟しています。 神の御子は、「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった。」このようにパウロとともに、言うことができれば幸いです。 どうして私は、66年前にイエス様を信ずるようになったのでしょうか。どうして日本まで来たのでしょうか。どうして今日、愛の福音を宣べ伝えることが許されているのでしょうか。 このことを経験した者は、もはや自分自身のために生きることはできない。喜んでイエス様のために生きたい、と願わざるを得ないのであります。 主なる神の愛は、御子の犠牲の中に表されました。皆さん暗記しているヨハネの福音書3章の16節ですね。 ヨハネの福音書3:16
あなたを、私 ヨハネの福音書3:16
とあります。 けれども主なる神は、ただ単に世を愛されただけではなく、主の愛は一人ひとりの人間に向けられています。 今日、ここにお集まりになられるお一人おひとりが、結局、神の大いなる愛の対象そのものです。 どうか、次のことを覚えていただきたいと思います。あなたは、まったく個人的に主なる神に愛されている。主なる神は、あなたに対して無関心ではありません。 主なる神は、あなたの永遠の救いのことをいつも考えておられます。主なる神は、あなたを愛し、あなたのために御子イエス様をお与えくださいました。 主イエス様は、この地上におられた時、あざけられ、捨てられ、憎まれ、誤解されたお方でした。氷のように冷たい無関心が、イエス様に向けられましたが、イエス様はご自身を犠牲になさる備えをしてくださいました。 主なる神に喜ばれる人生の秘訣としての二番目の大いなる事実は、次のことです。すなわち、主イエス様が、私から私の自己に支配された生活を取り去ってくださり、私を自己中心的な生活から解放してくださったということです。 イエス様は、私たちのために十字架で死んでくださったとき、ただ単に私たちのためにご自身を捧げてくださっただけではなく、私たちを自己中心的な生活から解放してくださいました。パウロは次のように証ししています。 主イエスが十字架で死んでくださったとき、私もまた主とともに死にました。イエス様の死にあずかることによって、私たちは、私たちの自己追求的な、自分勝手な罪深い生活から解放されるべきです。 ここで大切なことは、私たちが理解したり、感じたりすることではなく、事実そのものです。 生けるまことの神は、その事実を次のように証ししています。 イエス様が死んでくださったとき、罪の力は破られました。信ずる者は、もはや罪の中にとどまることも、罪の中に生きることも必要ないのです。ローマ人への手紙6章1節からお読みします。 ローマ人への手紙6:1-5
とあります。 ローマ人への手紙6:6-8
信ずるものは、 ローマ人への手紙6:9-10
イエス様 ローマ人への手紙6:10
イエス様 ローマ人への手紙6:10-11
とあります。この7節ですね。 ローマ人への手紙6:7
という表現が出てきます。死者は、もはや罪を犯すことができません。死者は、もはや常軌を逸することはできません。死者は、もはや愛のない態度を取ることもできません。死者は、もはや嘘偽りを言うことができません。 もしも、誘惑がわれわれに近づいて来るならば、私たちはイエス様のところに逃げて行き、次のように言うことができます。 「イエス様、私はあなたとともに私の利己的な性質に別れを告げ、古い自分は死にました。私は、もはや私のことを考える必要がないことを感謝します。どうか私を守り、導き、助けてください。」、私たちがこの態度を取るとき、イエス様の勝利にあずかる者となるのです。 世界的に有名なジョージ・ミュラーという男は、かつてドイツからイギリスに渡り、そこで大勢の孤児たちのために孤児院を作りましたが、そこで彼は数々の不思議な主のみわざを経験しました。 そのジョージ・ミュラーは、ある時、自分の祝福された人生の秘訣について聞かれたことがありました。その時の答えは、次のようなものでした。 「ある日、私は古い自分が死んだことを経験しました。その時からもはや自分自身のこと、すなわち自分が感じたり、考えたり、欲したりすることは、もはや大切ではなくなりました。なぜなら、私は自分に対して死んだからです。」と。 最後に、神に喜ばれる人生の秘訣としての大いなる事実について考えたいと思うのです。すなわち、これは第七の事実になりますが、主イエスが私の内に生きておられるということ。したがって、主イエス様のいのちが、私の内に生きておられるということです。 主イエス様は、ただ単に私のためにご自身のいのちを捨ててくださっただけではありません。イエス様は、ただ単に自己中心的な生活から私を解放してくださっただけではありません。イエス様は、私の内に生きておられるのです。 パウロは、だから次のように証ししたのです。もう一度、ガラテヤ人への手紙2章を読みます。 ガラテヤ人への手紙2:20
パウロがよみがえられたイエス様に出会ったとき、彼は降参し、自分の全生涯をイエス様に明け渡すことをいたしました。 その時、すべてのものが新しくなったのです。すなわち、まことの喜び、本当の平安、生ける望みが、彼を満たしたのです。イエス様こそ、すべてを新しくしてくださったのです。 しかし、パウロについて言いうることは、新しく生まれ変わったすべての人についても言いうるのです。 われわれの証しとは、どうあるべきなのでしょうか。 「私は、いわゆるキリスト教の中に入ったのでもなければ、何か一つの教えを受け入れたのでもない。生けるまことの神が、主イエス様を通して、私の内に住むようになりました。」、と。 あらゆるキリスト者にとって、主なる神のご目的は、イエス様のいのちが一人ひとりの中に生き、その一人ひとりの中を通して明らかになることです。イエス様のいのちが、明らかになれば、すごいのではないでしょうか。パウロは、次のように証ししました。 ピリピ人への手紙1:21
コロサイ人への手紙1:27
コロサイ人への手紙3:4
とあります。 ドイツの宗教改革者であるマルティン・ルターは、かつて次のように言いました。 「もし誰かが、私の心の戸を叩いて、この中に誰が住んでいるのと尋ねるのなら、ここにはイエス・キリストが住んでおられます。以前にはマルティン・ルターがいましたが、彼は死に、今やイエス・キリストがおられます。」 私たちがなすべきただ一つのことは、生けるまことの神がお語りになることを信ずることです。 主なる神がおっしゃることは、それを私たちが理解しようがしまいが、事実です。 三つの大いなる事実について、今まで、私たちは学んできました。 すなわち第一番目、イエス様が死んだとき、イエス様は私たちのために死んでくださった。二番目、イエス様が死んだとき、私たちはイエス様とともに死んだということ。 そして三番目、イエス様はよみがえられた方として、われわれの内に聖霊を通して生きたいと願っておられるということです。 生けるまことの神は、主の語られることを私たちが信じることを期待しておられます。そしてまた生けるまことの神は、私たちが喜んで次のようにイエス様に答えることを望んでおられます。 「私は、イエス様が、私のために死んでくださったことを信じます。私はイエス様とともに死んだことを信じます。私は、イエス様が、今、私の内に生きておられることを信じます。」と。 「私はあなたのみことばに頼り、信頼します。私はみことばをはっきりと理解することができません。何も感ずることもできませんけれど、あなたがそのようにおっしゃっておられ、あなたのみことばが真理です。」 ガラテヤ人への手紙6章14節を見ると、これももちろんパウロの証しです。素晴らしい告白です。 ガラテヤ人への手紙6:14
十字架におけるイエス様の購いのみわざによって私たちは救われ、まことの平安とどうしても必要な罪の赦しが与えられました。それですから、パウロは、次のように歓呼の声を上げたのです。けれど、この十字架は、信ずる者の生活の中で働くことができなければならない。十字架の働きの結果は、ますます、自分の罪深さを認識するようになり、次のように叫ばざるを得ないのです。「わざわいなるかな。私の内によいものは一つもありません。私は、もはや、少しも自分に信頼できませんし、誇るべき何ものも持っていません。」と。 信ずる者にとって最大の敵は、何でしょうか。それは、自我です。聖霊の働きを妨げるものは、自己中心の生活、すなわち、自分の意志、自分の願い、自分の感情です。 主なる神は、強制的に人を救おうと思っておられません。 また、自己中心の生活をやめることを、誰にも強制なさいません。救われたくない人は、神の怒りにとどまります。自己中心的な生活を捨てたくない者の人生は、絶えず上がったり下がったりし続けます。自分勝手に生活し、自分の名誉を求め、自分自身の権利を放棄したくない者は、惑わされ、また、他人を惑わします。 それですからイエス様が、われわれの古い人ともに十字架につけられた。私の自己追求的な自我から解放されたという事実は、聖書の喜ばしい知らせです。イエス様は、私たちを主の栄光のためにお用いになりたいと、切に願っておられます。実際、イエス様は、信ずる者を誰でもお用いになりたいと思っておられます。奉仕の条件は何でしょうか。やはりこのガラテヤ人への手紙2章20節です。もう一度読みます。 ガラテヤ人への手紙2:20
どうか、自分自身に対するあなたの権利を断念し、そうすれば、あなたは新しい歩みをすることができ、新たなる霊でもってイエス様に仕えることができるようになります。 主がわれわれすべての者に、日々、そして一瞬一瞬、主に喜ばれる人生を賜りますように、そして主が、本当に祝福したくて、祝福したくて仕方がないということを、絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 まとめましょうか。主なる神に喜ばれる人生の秘訣とは、 1.まったく新たなる歩み 2.死ぬべきからでもっての歩み 3.絶えざる勝利の歩み 4.信仰の歩み 5.ご自身を捧げてくださったイエス様 6.自己追求的な生活から解放された私たち 7.私たちの打ちに生きておられるイエス様 であります。 |