引用聖句:詩篇81篇10節-14節
ヘブル人への手紙12:1-2
夏中だいたい同じことを考えてきたのです。すなわち「みことばの大切さ」についてです。人間はどういう態度をとるべきかについてです。 今読んでもらった箇所の中で、主は人間を満たしたい気持ちでいっぱいです。けど、人間が聞く耳を持っていなければ、人間は不幸になり、主は悲しくなるのです。 ミゲルスベルグへ行った兄弟姉妹は、書かれているみことばを思い出すでしょう。「主よ、語ってください。私は聞いております。」 人間は、良い地であれば、まかれた種は実を結ぶようになります。そうでなければ、悲劇的なのではないでしょうか。 結局、新約聖書の手紙はどうして書かれたかと言いますと、使徒たちは、いろいろな問題に答えるためです。そして、手紙を見るとはっきりわかる二種類の信者がいます。 パウロが手紙の中でよく書くことができたのは有り難い。私は、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています。 いや、すごいなのではないでしょうか。もう感謝でいっぱいでした。すべてのために。 けれども、別の箇所をみると同じパウロは正直に、「私は困っている、悩んでいる、苦しんでいる。」、どうしであるかと言いますと、せっかく救われた人々は相変わらず、自分勝手な生活をしてしまっているから。成長しなかったからです。 どうして、その違いがあるかと言いますと、あるせっかく救われた人々は、再臨について考えると、「まだまだ来ないでしょう、イエス様は。」、ほかの人々は、「今日かもしれない。」と期待して首を長くして待っているのです。 結局、ある兄弟姉妹は自分のために生活し、自分自身を実現しようと思っている。 ほかの兄弟姉妹は、何があってもイエス様を喜ばせたい、イエス様だけが盛んになり、私はどうでも良い、大切ではないという態度をとるのです。 意味は、ある兄弟姉妹はやっぱり中心になりたい、役割を演じたい。そうでないと、やっぱり面白くない。不平不満を言います。 ほかの兄弟姉妹は、イエス様のみにすべての栄光を帰して行きたいと心から、望んでいるのです。 結果として、ある兄弟姉妹はつまづきを与え、分裂を起こす者であり、ほかの兄弟姉妹は、本当に命がけで集会全体の一致が現われることを心から望んでいるのです。 一言で言いますと、ある兄弟姉妹は相変わらず暗闇の中にいるのであり、別の兄弟姉妹は、マルコの福音書5章に出てくる女のように、イエス様の前に出てひれふし、イエス様に真実を余すところ無く打ち明ける兄弟姉妹です。 ダビデは、祈ったよりも叫んだのではないかと思います。 詩篇26:2
私たちが心からなる願いを持って、自らのうちを主の光によって照らし試して頂く必要があります。 その光に照らされると、誰でもが小さくなります。顔を上げられなくなります。 どうしようとしか、考えられないのではないでしょうか。 私たちにとって最も大切なのは、主の声を聞くことなのではないでしょうか。人間は一度耳を持っていますけど、もし聞く耳を持っていなければ悲劇的です。 過去を振り返ってみると、楽しかったことや悲しかったこともあったでしょうし、いろいろな思いが浮かんでくるけど、その中でも一番素晴らしかったことは、疑いもなく主に聖書を通して語ってもらった。 主は、いろいろ悩むことによって、病気になることによって語ってくださった。それを通して主の声を聞いた。もう忘れられない。 私たちの心の奥底にある強い要求は、「主の御声を聞きたい。主と親しい交わりを持ちたい。」ではないでしょうか。 どうしても必要なことは、主の声を聞くことであり、その他のことはたいしたことではありません。 そして、主の声を聞くと人間は喜ぶようになる。心配から解放されて、前向き生活ができるようになります。 今朝は、ちょっとひとつの質問についてだけ考えたい。主の声とはどう言うものですか? 第1に主の声とは力強いものであります。 ヨハネの黙示録1:15、17-18
ヨハネは、天にお帰りになった、高く上げられたイエス様を見た時、死人のようになったとあります。そして、彼はこの大水の音のような声を聞いた時に、やっぱり主の足下に倒れました。 結局主の声は力強い声です。人間の声よりも、はるかに力強いものです。 私たちは人間の声を聞いて、なんとしばしば、がっかりしたり打ちのめされた気持ちになったことなのではないでしょうか。なんと多くの人々が、賞賛の言葉や批判の言葉によって動かされることでしょう。 ある先生は、生徒に行ったのです。「あなたの人生は、だめになる。」、そう言って自殺未遂になってしまったのです。 確かに、人間の声は大きな影響を及ぼすものです。けども、自分の心の声も、力を持っているのではないでしょうか。 聖書は、人間の心についてなんと言っているのでしょうか。 創世記8:21
人の心と書いています。決して、未信者の心とは書いていません。 エレミヤ書17:9
テトスへの手紙1:16
すなわち、良いわざについては失格者であると記されています。 人間の思いとは、主の思いとは違った方向に向いているのです。従って、自分自身の心の声を大切にする者は、知らないうちに悪魔のわざに陥ってしまうのです。 イエス様はかつて弟子達に、ご自分がやがて十字架につけられることを公にされた時、ペテロはイエス様を止めようとしました。 マタイの福音書16:15-17、21-23
ね。イエス様は、「あなたは幸いです。」と言っただけではなく、「下がれサタン」とペテロに言わざるを得なかったのです。 ペテロは、自分の心の声に負けちゃった。 ですから、イエス様はペテロに向かって「下がれサタン」「お前は神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。 自分の心の声や他人の声ではなく、悪魔の声も、もちろん私たちの働きを妨げようとしているのではないでしょうか。 悪魔の目的は、私たちがいつも自分のことばかり考え、自己決定や、自己支配に陥ることにほかならない。悪魔がこの目的を達成すると、もはやイエス様の声を聞くことができなくなってしまうのです。 したがって自分の心の声を否定し、他人の声にも動かされることなく、悪魔の声に対しても耳をふさぐ者だけが、主の声の偉大さ、主の声の素晴らしさを体験することができるのです。 イエス様の声の替わりに、人間の声を大切にする結果は決して良いものではない。イエス様の霊によってではなくて、自分の声によって動かされる者は、本当に哀れなものです。みことばの上に立たず、悪魔のささやきに耳を貸してそれに従う者は、道に誤まってしまいます。 イエス様の声を、ほかの声よりも大切にする者は本当に幸せです。その時にのみ私たちは、主をよりよく知ることができ奇蹟を体験することができるようになります。 主の声とは、いったいどう言うもの?第1の答えは、主の声は力強い。大水の音のように力強いものであります。 第2番目の答えは、イエス様の声は、人を納得させる力を持っています。 一つの実例は、皆さんよくご存知なんですけど、使徒の働き9章に書かれていますパウロの証しです。 パウロは3回も詳しく自分の経験について書いたのであります。 使徒の働き9:1-5
このサウロは、後のパウロは、主に仕えたいと切に望んでいたのです。そのためにパリサイ人と同じように、神様の律法を大切にした者でした。 彼は、イエス様を最もひどい偽り者と思ったのです。そのためにイエス様の弟子であるステパノ、はじめての殉教者であるステパノが石で殺された時、彼はそこにいたのです。そばにいて、喜んだのです。 彼は、熱心にイエス様を信ずる者を迫害する者でした。けれども、主の声によって一瞬にして納得させられました。 その時から彼は、「主よ、私は何をしたらよいのでしょうか。」と言う問いを持ちながら、絶えず主の声を求め続けました。 彼は、皇帝のネロに捕らえられた時でさえ失望落胆せずに、むしろ反対にイエス様の僕、イエス様の奴隷とされていることを喜び、そのことにたえず感謝したのであります。 イエス様の声を聞くことによって、彼はいっぺんに変わりました。彼の人生は180度の転回をして、そのことが絶えず喜び感謝することの秘訣だったのです。 パウロと同じように、「主よ私は何をしたらよいのでしょうか。どうぞ、御心だけを明らかにしてください。僕に語ってください。」と祈ることのできる信者は本当に幸せです。 イエス様の声とはいったいどういうものでしょうか?今話したように、第1は主の声は力強いものです。第2番目に、主の声は人を納得させる力を持つものです。 第3番目に、イエス様の声は命を与えるものです。ヨハネの福音書11章43節をみると、イエス様の声が出てきます。 ヨハネの福音書11:43
ご存知のように、ベタニアの小さな町に、マルタ、マリヤ、ラザロの3人兄弟が住んでいました。そして、イエス様はしばしば彼らの所に立ち寄られ、素晴らしい交わりを持っていたのです。 彼らにとって、イエス様の声を聞くことは最大の喜びでした。けど今や彼らは最大の悲しみに見舞われました。すなわち、ラザロが死んだのです。 けど、イエス様は死人に向かって叫び、「出てきなさい。」と呼ばわれたのです。死人は、イエス様の声を聞くのです。そしてイエス様の声を聞くことによって死人は生き返るのです。 たとえば、義務的に聖書を読んだり集会に行ったりすることは、まさに死んだ者にほかならない。イエス様のみ声を聞くことはどうしても必要なことです。なぜならば、主の声は命を与える力を持っておられるからです。 今まで、死が支配していた所にも、イエス様の御声を聞くことによって命が、生まれました。 イエス様の声とはいったいどういうものでしょうか。力強いものです。納得させる力を持っているものです。そして、命を与えるものです。そして第4番目に、イエス様の声は招きの声です。みなさんのよく知っている箇所です。マタイの福音書11章28節です。 マタイの福音書11:28
苦労している者は解放されるべきであり、重荷を負っている者は休むべきです。 今日、想像することのできない程、重荷になるものが充ち満ちているのではないでしょうか。多くの信ずる者でさえも、もはや本当の喜びを見いだすことがむつかしくなっているのです。 多くの信者は、聖霊の導きに対して心を頑なにしてしまうのです。イエス様に従うこと以外に楽しみを求めようとしてる信者も、います。意識して、悪魔との関係を断ち切らない限り、私たちは悪魔のてだまにされてしまいます。 現在、主イエス様との関係がどうであれ、あなたの悩みと苦しみがどのようなものであれ、主イエス様は呼んでおられ、招いておられます。 あなたは、苦痛、心配、不安、動揺のうちにいるなのでしょうか。イエス様は、「すべての重荷を負って疲れている人は、私の所に来なさい。私が、あなたがたを休ませてあげます。」と、約束しておられます。 あなたは、不幸、不満、不自由でしょうか。また、あなたの心には喜びがないのでしょうか。イエス様は、「私のもとに来なさい。あなたがたは、この世では悩みがある、しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」と言われます。 あなたは、心の中のあなたの弱い点、あなたが逆らうことのできない点をいつも掴んでいるので元気がないのでしょうか。イエス様は、「私のもとに来なさい。私に呼び求めよ。あなたは、私のうちにおいて、すべてのことにおいて、勝ち得て余りある。」と、約束しておられます。 あなたの心の中には、今まで誰も満たすことができなかった癒しがたい空腹があるのでしょうか。イエス様は、「私は命のパンです。私のもとに来る者は、もはや飢えることがない。」と約束しておられます。 あなたの魂は、どんな医者に見せても治らないような、あるいは、からからに乾いた土地のような渇きを持っているのでしょうか。イエス様は、「誰でも渇く者は私の所に来なさい。飲むが良い。」と招いていてくださるのです。 あなたの一日は、失望と誘惑と試練に満ちていて、あなたの目の前は、真っ暗なのでしょうか。イエス様は、「私は世の光なのです。私に従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光を持つ。」と約束しておられます。 あなたの魂が、罪で汚れているのを見て、この魂が清められるのかとあなたは疑っているのでしょうか。イエス様は、「私の所にすぐ来なさい。私に呼び求めよ、たとえあなたの罪が緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」と言っておられます。 本当に、イエス様の声は招きの声です。第5番目。イエス様の声は、慰めを与えてくれます。ヨハネの福音書11章にもう一回もどりましょうか。 ヨハネの福音書11:23、25-26、40、43-45
この時マルタとマリヤとは、兄弟ラザロの死を非常に悲しんでいました。その状態は全く望みのない状態でした。その時は、最も絶望的な状態になってしまっていたのです。 なぜならば、ラザロの死体は、死んでから四日もたっていたため、すでにくさっていたからです。けど、このような全く絶望的な状態の中にイエス様の声がはいってきました。「私は甦りです。」 人間の目には絶望的に見え、どうすることもできないような状態においても、イエス様のみ声は逃れ道を与えてくださるのです。私たちが、いかなる者であるかが大切なのではなく、イエス様が、いかなるお方であるかと言うこと。すなわちイエス様が甦りであられることが一番、大切なことなのです。 自分自身がだめな者であることを知り、沈んでしまう人も今日決して少なくない。 すなわち、そのような人達は自分の無力さ、自分の惨めさを知って絶望していしまいます。そのような失望、落胆した者、絶望した者にとって、ただ一つの逃れ道は、イエス様のみ声を聞くことです。 「私は甦りであり、あなたの命である。」と言うイエス様のみことばは、なんという慰めを与えてくれることでしょう。 イエス様の声とはいったいどういうものなのでしょうか。 慰めを与える声だけではなく、第6番目の声は、導き伴い行く声であります。ヨハネの福音書10章から読ませて頂きます。 ヨハネの福音書10:27-29
イエス様のみ声を聞きそれに従う者は、永遠の安全を持っています。イエス様の願いは、私たちを導き、伴い行く声であります。 イエス様は決して私たちを、奴隷のように束縛することを望まず、私たちの本当の幸せを思っておられます。 マタイの福音書9:36
飼う者のいない羊とは、なんという姿でしょう。飼う者のない羊とは、羊飼いのいない羊です。 もうすでに2,600何前にエレミヤという預言者は次のように書いたのであります。 エレミヤ書50:6、17
飼う者のない羊は、休む所がありません。飼うもののない羊は、獅子に追われ散った羊です。 エゼキエルという預言者も同じようなことを書きました。 エゼキエル書34:6
飼う者のない羊は、もろもろの山に散らされている羊です。 飼う者のない羊は、誰も探す者のない尋ねるもののない助ける者のない羊です。 飼う者のない羊は、弱り果てて倒れています。 今日も、このような飼う者のない羊のようにさ迷っている人々がなんと大勢いることでしょうか。 羊飼いなる主イエス様のみ声に従うということは、全く明らかな導きを意味しています。 イエス様の声に聞き従う者は弱り果てて、散らばって導きのないさ迷う羊のようではなく、はっきりとした安全な導きを持っているのです。 「彼らを私の手から奪い去るものはない。」、そうイエス様は約束してくださいました。私たちがイエス様のみ声に聞き従う時、はじめて本当の満足が与えられます。 あなたは、イエス様の声に聞き従い、イエス様に導いて頂こうとしてるのでしょうか。 それとも、自分勝手に自分の道を歩もうとしているのでしょうか。 主の声とは、いったいどういうものでしょうか。力強い声です。納得させる力のある声です。命を与える声であり、招きの声であり、慰めを与える声であり、導き伴い行く声です。 もうひとつ第7番目に、イエス様の声は願っている声です。 よく引用されるヨハネの黙示録3章20節を見てみましょう。 ヨハネの黙示録3:20
イエス様は立って戸をたたいて、呼んでいると書き記されています。このようにイエス様は、常にまだ救われていない人々の心を叩いておられ、その人がイエス様の声を聞いて戸を開けることを、そしてその中に入ることを心から願っておられます。 けど、イエス様はただ単に救われていないイエス様の心を叩いて、イエス様の声を聞いてもらいたいだけではなく、もうすでに救われた信ずる者に対しても、その心の戸を叩いておられます。 イエス様を主として、主にすべての支配権をゆだねる用意のできている信者は、なんと少ないことでしょう。それこそ、少なからず信者がイエス様と生き生きとした交わりを持たないことの原因です。 イエス様と食事を共にするということは、イエス様との交わりを持つことです。そして、イエス様と私たちと交わりを持つことこそ、イエス様ご自身の切なる願いですから、主は私たちの心の戸の外に立って扉を叩く。呼んでおられます。 イエス様は、私たちとひとつになることを望んでおられます。イエス様は、友と語り合うように私たちと語り合うことを望んでおられるのです。 イエス様を紹介したバプテスマのヨハネは次のように告白したのです。 ヨハネの福音書3:29-30
イエス様は、バプテスマのヨハネのことを最高の預言者であったと言われました。彼の告白です。 イエス様の友であるヨハネは、イエス様の声を聞いて喜び満たされました。ですから、本当に満ち足りて喜びたいと思う者は、本当に、主の声を聞くべきです。 イエス様だけが栄えることを切に望み、そのためならいかなる犠牲をも払う覚悟を持ち、そのためには自分が衰えることも厭わないという者こそ、完全なる満足を得ることができるのです。 イエス様は、私たちと最も親密な深い交わりを持ちたいと願っておられます。 それは、私たちが主の前を光の中を歩むとき、隠された罪が無くなった時に初めて可能になります。 イエス様との交わりは、本当にイエス様と一体になることに他ならない。それこそ、イエス様が切に望んでおられることでありますし、そして、私たちも同じ願いを持つべきなのではないでしょうか。 今まで見てきましたように、イエス様の声はあまりにも力強かったので、ヨハネはそれを聞いた時に死んだようになって倒れてしまいました。 イエス様の声はあまりにも説得力があったために、猛狂った迫害者であったサウロは本当に、燃えた証し人に生まれ変わりました。 イエス様の声は、命を与える力を持っていたので、死んだラザロをすぐに生き返らせることができたのであります。 イエス様の声は招く声であったので、何千万人の苦しんでいる人々がイエス様のみもとで憩うことができたのです。 イエス様の声は慰めを与える声であったため、自殺をしかかった人々が生きる望みを与えられたのです。 イエス様の声は導く声でもあったので、さ迷う人々が、イエス様のみ声によって立ち返ることができ、本当の満足を見いだすことができたのです。 イエス様の声は、願っておられる声でもあったために、多くの人々はイエス様を救い主としてだけではなく主として受け入れ、本当の満足を与えられたのです。 イエス様はいつも変わることなく、以前と同じお方です。主の声も、昔と異なるところがないのです。 主の声を聞こうと思えば、そのみ声がほかのものよりも強いものであることがわかります。 イエス様の声は、あなたをも納得させようとしているのです。 命を与える主のみ声は、あなたの生活をも満ち足らせようと願っておられるのです。 招いておられるイエス様の声が、重荷を負って苦しんでいる人を、解放し、完全な安らぎと憩いを与えてくださるのです。 慰めを与える主のみ声は、あなたが過去に起こしたもろもろの罪を洗い流して下さり、あなたが完全にすべてを主に明け渡すことができるようにしてくださるのです。 万物をお造りになった主は、私たちとの生き生きとした交わりを望んでおられるのです。 私たちは、イエス様の声に聞き従う覚悟ができているのでしょうか。それとも、私たちは、自分の心の声や他人の心の声、悪魔のささやきが、うずまいている状態に留まろうとしているのでしょうか。 イエス様の声に聞き従うただ一つの道は、自分が衰えて、イエス様が栄えることを望む心構えです。 この心構えを私たち一人一人が持つ時にはじめて、イエス様は、私たちとひとつになってくださるのです。 |