引用聖句:マルコの福音書6章45節-52節
ヘブル人への手紙12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」、最も大切な呼びかけなのではないでしょうか。なぜならば、イエス様から目を離すと、誰でも落ち込みます。どうしたらいいか解からなくなってしまうからです。 今お読みになった箇所を見ると、イエス様は弟子たちを教育しようと望んでおられました。イエス様の教育の目的、イエス様の導きの目的とは、いったい何だったでしょうか。 2つのことが言えます。 第1番目、主イエス様のご栄光を明らかにするため 第2番目、イエス様の姿に変えられることです。 まず第1に、イエス様ご自身です。イエス様はご自身を現したく思っておられます。 私たちは、自分が本当に取るに足りない者であるということを知っているのでしょうか。私たちは、自分の失われた状態、あるいは絶対に良くならない自分中心の性質を、本当に知っているのでしょうか。 すべてのことにおいて、イエス様はご自身を明らかにしたい、啓示したいと思っておられます。私たちがイエス様に出会って、イエス様を体験的に知る時に初めて、私たちの苦しみや悩みやあらゆる問題が解決されるのです。 今日の箇所を見ると、イエス様が船に乗り込まれると風がやんだと記されていますが、これはあらゆる問題が解決されたことを意味します。イエス様は、私たちにご自身をより多く啓示したいと思っておられます。しかも我々を通して他の人々にご自身を現したく思っておられます。 弟子たちを導くために、弟子たちを教育する目的は、弟子たちがイエス様の権威をよりよく知ること、それを確信すること、イエス様に完全に拠り頼むようになることでした。 弟子たちがイエス様を徹頭徹尾、信頼することこそイエス様が求められた目的でした。弟子たちには、どれほど多くの不信仰があったことでしょうか。 信仰とは、イエス様に対する絶対的な信頼にほかならない。この信仰がないと、自分のことばっかりを考えるようになるのです。不幸になろうとする者、主の力を知ろうと思わない人は、自分のことばっかり考えるのもいいでしょう。 また信仰とは、主の全能なることを確信することです。この確信がなければ、常に疑惑が起こってくるのです。疑いの結果は、信仰生活の麻痺あるいは硬直化、そして喜びのない状態です。 信仰とは、目に見えないものに目を注ぐことです。これが欠けると、目に見えるものに対して不安や心配を感じるようになります。そしてそれによって、イエス様は栄光を受けることができないのです。 主の導きの目的は、イエス様のご栄光を明らかにすることであり、そしてそれと結びついてイエス様は、彼らを連れてそして自分のご栄光を現そうと思っておられるのです。 イエス様に似た者に造り変えられることも、主の目的です。私たちは、イエス様を見上げ、常に主を体験している時に、おのずからそのような者に造り変えられていくのです。 パウロは、もちろんそれを考えながら、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。 コリント人への手紙第II、3:18
導きとは、教育とは、自分自身の努力や試みによって起こるのではなく、ただ主イエス様を見上げて歩む時にのみ実現されます。 本当の意味での教育者であるイエス様は、決して命令なさるのではなく、ご自身がお手本となっておられます。 私たちは、イエス様に似た者となりたいと思うならば、この世の見えるものに目を奪われることなく、見えないものに目を注がなければなりません。 主イエス様の導きの手段とはいったい何なんでしょうか。主の導き、また教育の手段とは、イエス様ご自身であり、さらに言うならばまず模範的な祈り人、次に自然を従わせる権威を持ったお方、そしてすばらしい慰め主です。 イエス様について考えると言えることは、イエス様はまことに模範的な祈り人でした。イエス様は、ただ一人山で祈られました。イエス様は、再三再四、退けられて一人でお祈りしたのです。 我々にとってもイエス様と同じように、一人で静かに祈り、主との交わりを持つことがどうしても必要です。さもなければ悪魔の虜になってしまうのです。福音書の中で、次のような箇所がいっぱい出てきます。 マタイの福音書14:23
マルコの福音書6:31
ルカの福音書9:10
イエス様は、弟子たちにも静かな所へ行き祈ることを勧めただけじゃなくて、命じられました。静かな時を持つということは、何もしないということではなく、主を深く思い、主に深い祈りを捧げて交わりを持つことを意味します。イエス様でさえも、祈りの生活の必要性を感じておられました。 イエス様は、私たちよりもはるかに忙しい方でしたが、それにもかかわらず、静かな時を持つためにその時間を作られました。 イエス様は、朝早くあるいは夜に、また真夜中でさえも、そのための時間をお作りになられたのです。 マルコの福音書1:35
マルコの福音書6:46-47
ルカの福音書5:16
ルカの福音書6:12
これらの箇所は、イエス様の祈りの生活を一望描き出されています。 我々の祈りの生活はいったいどうでしょうか。私たちも同じように、祈りの生活に励むようにと主は命令しておられるのです。 歴代誌第I、16:11
マタイの福音書7:7
マタイの福音書26:41
ルカの福音書18:1
イエス様は、弟子たちに一つの終わりのことばとして言われました。 ヨハネの福音書16:24
すばらしい祈りへの呼びかけなのではないでしょうか。 テサロニケ人への手紙第I、5:17
ヤコブの手紙5:13
これらのみことばから明らかなように、主は私たちが絶えず祈り求めることを要求しておられます。 しかし、祈るためにはいくつかの条件があることを忘れてはなりません。 歴代誌第II、7:14
エレミヤ書29:13
と約束されています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とマルコの福音書11章24節に約束されています。 また有名なヤコブの手紙5章16節の中で、「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と書かれています。 ヨハネも、ヨハネの手紙第Iの中で似ている箇所を書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:22
今まで主が祈り求めることを命じられたこと、次に2番目、その祈りが満たされるための必要条件について、考えていきましたが、これから第3番目、祈りに対する主の答えについて、考えてみることにしましょう。 詩篇91:15
イザヤ書58:9
イザヤ書65:24
と約束されています。 ルカの福音書11:9
またイエス様は、終わりのことばとして言われました。 ヨハネの福音書15:7
ここでもう一度、先ほどの箇所マルコの福音書6章46節から48節までのところに戻って、模範的な祈り人としてのイエス様について、さらにちょっと考えたいと思います。 マルコの福音書6:46-48
イエス様は祈られて、弟子たちが困っているのをご覧になりました。一般的にみてイエス様の御前で、静かに祈る者は、一つの問題を見る場合にも、高い次元から見ることができ、普通の人よりもはるかに多くのことを見通して、その問題に対する解決への導きをも見い出すことができるのです。 イエス様はその時に、弟子たちの苦しんでいるのをご覧になりましたが、今日でも我々の信仰生活のあらゆる事柄を見ておられます。主は見るお方です。全部知っておられます。 もうすでに創世記6章5節に次のように書かれています。 創世記6:5
「みな」、「いつも」、「だけ」とあります。このように主は、ノアの時代にも、人々の心をご覧になられました。主は、常に我々の考えや思い、また動機などを見ておられます。いかなる罪をも主の御前に隠すことはできません。 私たちの生活の中で、債務という問題はどうなっているのでしょうか。すべてを忘れようとする試みは、全く空しいものです。債務はあくまでも債務であって、直ちに支払われない限り、いつも残るのです。債務を支払われた者だけが、罪を赦すことができます。 そしてそのことをイエス様が成してくださいました。このようにしてイエス様が十字架でご自分の命を、尊い代価として捧げてくださったゆえに、今日もその福音を提供していてくださるのです。私たち一人ひとりも、このすばらしい救いを自分のものにしたいと思わないでしょうか。 出エジプト記3:9
主は、モーセの時代においても、イスラエル人をしいたげているのをご覧になりました。しかし、イスラエル人をエジプトから救いだしてくださり、完全な救いを成してくださったのです。 イエス様を知らない者は、誰でも悪魔、罪、この世の奴隷となっています。本当の解放は、ただイエス様だけが実現してくださることがお出来になります。我々の場合には、私たちを不自由にし、喜びを無くさせるような我々を支配している事柄があるのでしょうか。イエス様は、それらのものをご覧になるだけでなく、実際にそれらのものから我々を解放してくださいます。 詩篇の作者であるダビデは、次のように告白、また証しすることができました。 詩篇34:16-18
とあります。これこそダビデの証しであり、体験でした。 ノアの時代やモーセの時代だけでなく、ダビデの時代にも主はすべてをご覧になり、あらゆる苦しみや悩みからご自分の民を救い出してくださいました。 歴代誌第II、16:9
したがって、我々の心が主と全く一つになっているかどうかということが、一番大切なのではないでしょうか。 主の導き、教育の手段とは、今話したように、まず第1にイエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様であります。 次に主の導きの第2番目の答えは、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様ご自身です。前に読みましたマルコの福音書6章48節の後半に「主は湖の上を歩かれた。」とあります。けど今日、このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ強まっているのです。 しかしイエス様を本当に体験した者は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主がそれをする力を持っておられることを確信しているのです。 来るべきメサイアの支配と権威は、すでに旧約聖書で預言されています。 何を書いているかと言いますと、イザヤ書の中で一番、将来の主の支配なさることの結果について多くのことを書いてあります。一箇所だけ見てみましょうか。 イザヤ書9:6
マタイの福音書の中で、人々は驚いてこう言った。「風や湖までもいうことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と。 イエス様が、力ある神と名づけられている事柄にしても、イエス様が、自然現象をも支配し、湖をも静め、歩かれたことは決して不思議なことではない。いわば当然のことだったと言えます。 けれども、風や湖までも静めるということは、イエス様にとってそれほど大したことではありませんでした。なぜならば、イエス様ははるかに大きな御業をなされたからです。すなわち、罪を赦し、ご自分の力でよみがえり、永遠のいのちをお与えになられたからです。 マタイの福音書9:2
マタイの福音書9:6
ヨハネの福音書10:18
ヨハネの福音書17:2
イエス様は、十字架の死と復活の後で、弟子たちにこう言われました。マタイの福音書28章18節です、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と。 パウロもエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。 エペソ人への手紙1:22
ペテロも同じ事実について書いたのです。 ペテロの手紙第I、3:22
イエス様は、すべての力と権威を持っておられますが、私たちの中ではイエス様の存在がどのようになっているのでしょうか。イエス様は、我々にとって見知らぬ人なのでしょうか。もしそうなら、私たちには神なく、望みなく、永遠の滅びに至る道が横たわっているだけです。それでもイエス様は、我々の救い主となっているのでしょうか。 救い主になっておられるならば、私たちは父なる神との平和を持ち、罪を赦されて永遠のいのちを持っているのです。けれどもイエス様は、主となることを望んでおられます。我々の生活の中に、イエス様が中心となっておられる時にのみ、私たちは主と共に遺産を受け継ぐ者となることができ、言葉に言いつくせないほどの栄光にあずかることができるのです。 すなわちイエス様と共に御座につくという特権にあずかることができるのです。 今まで2つのことについて考えましたね。 まず第1に、イエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様。次に2番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様でした。 最後に3番目、すばらしい慰め主であるイエス様について、ちょっと考えたいと思います。 マルコの福音書6:50
このみことばは、簡単な気休めではなく、このみことばの背後には、全能なる主が立っておられます。私たちは本当に、主により頼んでいるのでしょうか。 我々の目に見える、あらゆる恐れや不安、心配事などから目を転じて、ただ主だけを見上げましょう。私たちは、自分自身を見たり、他人を見たり、自分の感情、考え、意思などを大切にすることなく、絶えずみことばを第一としなければならないのではないでしょうか。 イザヤ書の中で、もうすばらしい約束のことばがいっぱいあります。イザヤ書43章1節、私もこのことばによって、救われ、確信を持つようになったのです。 イザヤ書43:1
イザヤ書43:25
イザヤ書41:10
イザヤ書41:13
なぜイエス様は、このような約束のことばを言われたのでしょうか。答えは、ヨハネの福音書16章33節なのではないかと思います。 ヨハネの福音書16:33
主の教育、主の導きの手段とはいったい何なのでしょうか。今話したように、一つ目はイエス様ご自身です。2番目、患難なのではないでしょうか。しかもそれは、最大の苦しみです。 マルコの福音書6章45節を見ると、イエス様が弟子たちをしいて船に乗り込ませたことが解かる。すなわちイエス様に従う時には、必ず患難がやってくるということです。 しかし、このような患難を通してイエス様は、一つの決まった目的を達成しようとしておられます。 教育というものは、一朝一夕にして出来上がるものではなく、長い時間をかけて少しずつ出来上がっていくものです。ここでも弟子たちの場合に、イエス様の教訓を完全に学ぶことが出来なかったため、長い間いろいろなことで悩むようになりました。 マルコの福音書4章35節から41節を見ると、その以前にも弟子たちが、激しい波風を見てあわてふためき、弟子たちに向かってイエス様が「信仰がないのは、どうしたことですか。」と言われたことが書き記されています。 マルコの福音書6章の場合にも、事情は非常によく似ています。なぜならば、この場合には風が吹き、波が立っていたからです。そしてこの時も、弟子たちは、不安と恐れでいっぱいでした。しかし、この場合にはイエス様が遠く離れた所におられたため、前の場合よりもさらに悩みが大きかったことが解かります。 イエス様が弟子たちの所にやって来られた時は、すでに明け方の3時か4時頃だったと記されています。しかし弟子たちは、非常に長い間、困り果てていたことが解かります。 すべての望みが消え果てた時こそ、主が登場なさる時です。 その時初めて、イエス様は私たちに、救いの御手を差し伸べてくださるのではないでしょうか。 |