主の教育と導き


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/11/20)

引用聖句:マルコの福音書6章45節-52節
45それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
47夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
48イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。
49しかし、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声をあげた。
50というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
51そして舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった。
52というのは、彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである。

ヘブル人への手紙12章2節に「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」、最も大切な呼びかけなのではないでしょうか。なぜならば、イエス様から目を離すと、誰でも落ち込みます。どうしたらいいか解からなくなってしまうからです。
今お読みになった箇所を見ると、イエス様は弟子たちを教育しようと望んでおられました。イエス様の教育の目的、イエス様の導きの目的とは、いったい何だったでしょうか。
2つのことが言えます。

第1番目、主イエス様のご栄光を明らかにするため
第2番目、イエス様の姿に変えられることです。

まず第1に、イエス様ご自身です。イエス様はご自身を現したく思っておられます。
私たちは、自分が本当に取るに足りない者であるということを知っているのでしょうか。私たちは、自分の失われた状態、あるいは絶対に良くならない自分中心の性質を、本当に知っているのでしょうか。
すべてのことにおいて、イエス様はご自身を明らかにしたい、啓示したいと思っておられます。私たちがイエス様に出会って、イエス様を体験的に知る時に初めて、私たちの苦しみや悩みやあらゆる問題が解決されるのです。

今日の箇所を見ると、イエス様が船に乗り込まれると風がやんだと記されていますが、これはあらゆる問題が解決されたことを意味します。イエス様は、私たちにご自身をより多く啓示したいと思っておられます。しかも我々を通して他の人々にご自身を現したく思っておられます。
弟子たちを導くために、弟子たちを教育する目的は、弟子たちがイエス様の権威をよりよく知ること、それを確信すること、イエス様に完全に拠り頼むようになることでした。
弟子たちがイエス様を徹頭徹尾、信頼することこそイエス様が求められた目的でした。弟子たちには、どれほど多くの不信仰があったことでしょうか。

信仰とは、イエス様に対する絶対的な信頼にほかならない。この信仰がないと、自分のことばっかりを考えるようになるのです。不幸になろうとする者、主の力を知ろうと思わない人は、自分のことばっかり考えるのもいいでしょう。
また信仰とは、主の全能なることを確信することです。この確信がなければ、常に疑惑が起こってくるのです。疑いの結果は、信仰生活の麻痺あるいは硬直化、そして喜びのない状態です。
信仰とは、目に見えないものに目を注ぐことです。これが欠けると、目に見えるものに対して不安や心配を感じるようになります。そしてそれによって、イエス様は栄光を受けることができないのです。

主の導きの目的は、イエス様のご栄光を明らかにすることであり、そしてそれと結びついてイエス様は、彼らを連れてそして自分のご栄光を現そうと思っておられるのです。
イエス様に似た者に造り変えられることも、主の目的です。私たちは、イエス様を見上げ、常に主を体験している時に、おのずからそのような者に造り変えられていくのです。
パウロは、もちろんそれを考えながら、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのであります。

コリント人への手紙第II、3:18
18私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

導きとは、教育とは、自分自身の努力や試みによって起こるのではなく、ただ主イエス様を見上げて歩む時にのみ実現されます。
本当の意味での教育者であるイエス様は、決して命令なさるのではなく、ご自身がお手本となっておられます。
私たちは、イエス様に似た者となりたいと思うならば、この世の見えるものに目を奪われることなく、見えないものに目を注がなければなりません。

主イエス様の導きの手段とはいったい何なんでしょうか。主の導き、また教育の手段とは、イエス様ご自身であり、さらに言うならばまず模範的な祈り人、次に自然を従わせる権威を持ったお方、そしてすばらしい慰め主です。
イエス様について考えると言えることは、イエス様はまことに模範的な祈り人でした。イエス様は、ただ一人山で祈られました。イエス様は、再三再四、退けられて一人でお祈りしたのです。
我々にとってもイエス様と同じように、一人で静かに祈り、主との交わりを持つことがどうしても必要です。さもなければ悪魔の虜になってしまうのです。福音書の中で、次のような箇所がいっぱい出てきます。

マタイの福音書14:23
23群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

マルコの福音書6:31
31そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。

ルカの福音書9:10
10さて、使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。

イエス様は、弟子たちにも静かな所へ行き祈ることを勧めただけじゃなくて、命じられました。静かな時を持つということは、何もしないということではなく、主を深く思い、主に深い祈りを捧げて交わりを持つことを意味します。イエス様でさえも、祈りの生活の必要性を感じておられました。
イエス様は、私たちよりもはるかに忙しい方でしたが、それにもかかわらず、静かな時を持つためにその時間を作られました。
イエス様は、朝早くあるいは夜に、また真夜中でさえも、そのための時間をお作りになられたのです。

マルコの福音書1:35
35さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

マルコの福音書6:46-47
46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
47夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。

ルカの福音書5:16
16しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

ルカの福音書6:12
12このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

これらの箇所は、イエス様の祈りの生活を一望描き出されています。
我々の祈りの生活はいったいどうでしょうか。私たちも同じように、祈りの生活に励むようにと主は命令しておられるのです。

歴代誌第I、16:11
11主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。

マタイの福音書7:7
7求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

マタイの福音書26:41
41誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。

ルカの福音書18:1
1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

イエス様は、弟子たちに一つの終わりのことばとして言われました。

ヨハネの福音書16:24
24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

すばらしい祈りへの呼びかけなのではないでしょうか。

テサロニケ人への手紙第I、5:17
17絶えず祈りなさい。

ヤコブの手紙5:13
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

これらのみことばから明らかなように、主は私たちが絶えず祈り求めることを要求しておられます。
しかし、祈るためにはいくつかの条件があることを忘れてはなりません。

歴代誌第II、7:14
14わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。

エレミヤ書29:13
13もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。

と約束されています。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とマルコの福音書11章24節に約束されています。
また有名なヤコブの手紙5章16節の中で、「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」と書かれています。
ヨハネも、ヨハネの手紙第Iの中で似ている箇所を書いたのです。

ヨハネの手紙第I、3:22
22また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。

今まで主が祈り求めることを命じられたこと、次に2番目、その祈りが満たされるための必要条件について、考えていきましたが、これから第3番目、祈りに対する主の答えについて、考えてみることにしましょう。

詩篇91:15
15彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。

イザヤ書58:9
9そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。

イザヤ書65:24
24彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。

と約束されています。

ルカの福音書11:9
9わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。

またイエス様は、終わりのことばとして言われました。

ヨハネの福音書15:7
7あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

ここでもう一度、先ほどの箇所マルコの福音書6章46節から48節までのところに戻って、模範的な祈り人としてのイエス様について、さらにちょっと考えたいと思います。

マルコの福音書6:46-48
46それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
47夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。
48イエスは、弟子たちが、向かい風のために漕ぎあぐねているのをご覧になり、夜中の三時ごろ、湖の上を歩いて、彼らに近づいて行かれたが、そのままそばを通り過ぎようとのおつもりであった。

イエス様は祈られて、弟子たちが困っているのをご覧になりました。一般的にみてイエス様の御前で、静かに祈る者は、一つの問題を見る場合にも、高い次元から見ることができ、普通の人よりもはるかに多くのことを見通して、その問題に対する解決への導きをも見い出すことができるのです。
イエス様はその時に、弟子たちの苦しんでいるのをご覧になりましたが、今日でも我々の信仰生活のあらゆる事柄を見ておられます。主は見るお方です。全部知っておられます。
もうすでに創世記6章5節に次のように書かれています。

創世記6:5
5主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

「みな」、「いつも」、「だけ」とあります。このように主は、ノアの時代にも、人々の心をご覧になられました。主は、常に我々の考えや思い、また動機などを見ておられます。いかなる罪をも主の御前に隠すことはできません。
私たちの生活の中で、債務という問題はどうなっているのでしょうか。すべてを忘れようとする試みは、全く空しいものです。債務はあくまでも債務であって、直ちに支払われない限り、いつも残るのです。債務を支払われた者だけが、罪を赦すことができます。
そしてそのことをイエス様が成してくださいました。このようにしてイエス様が十字架でご自分の命を、尊い代価として捧げてくださったゆえに、今日もその福音を提供していてくださるのです。私たち一人ひとりも、このすばらしい救いを自分のものにしたいと思わないでしょうか。

出エジプト記3:9
9見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。

主は、モーセの時代においても、イスラエル人をしいたげているのをご覧になりました。しかし、イスラエル人をエジプトから救いだしてくださり、完全な救いを成してくださったのです。
イエス様を知らない者は、誰でも悪魔、罪、この世の奴隷となっています。本当の解放は、ただイエス様だけが実現してくださることがお出来になります。我々の場合には、私たちを不自由にし、喜びを無くさせるような我々を支配している事柄があるのでしょうか。イエス様は、それらのものをご覧になるだけでなく、実際にそれらのものから我々を解放してくださいます。
詩篇の作者であるダビデは、次のように告白、また証しすることができました。

詩篇34:16-18
16主の御顔は悪をなす者からそむけられ、彼らの記憶を地から消される。
17彼らが叫ぶと、主は聞いてくださる。そして、彼らをそのすべての苦しみから救い出される。
18主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

とあります。これこそダビデの証しであり、体験でした。
ノアの時代やモーセの時代だけでなく、ダビデの時代にも主はすべてをご覧になり、あらゆる苦しみや悩みからご自分の民を救い出してくださいました。

歴代誌第II、16:9
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

したがって、我々の心が主と全く一つになっているかどうかということが、一番大切なのではないでしょうか。
主の導き、教育の手段とは、今話したように、まず第1にイエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様であります。
次に主の導きの第2番目の答えは、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様ご自身です。前に読みましたマルコの福音書6章48節の後半に「主は湖の上を歩かれた。」とあります。けど今日、このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ強まっているのです。

しかしイエス様を本当に体験した者は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主がそれをする力を持っておられることを確信しているのです。
来るべきメサイアの支配と権威は、すでに旧約聖書で預言されています。
何を書いているかと言いますと、イザヤ書の中で一番、将来の主の支配なさることの結果について多くのことを書いてあります。一箇所だけ見てみましょうか。

イザヤ書9:6
6ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

マタイの福音書の中で、人々は驚いてこう言った。「風や湖までもいうことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」と。
イエス様が、力ある神と名づけられている事柄にしても、イエス様が、自然現象をも支配し、湖をも静め、歩かれたことは決して不思議なことではない。いわば当然のことだったと言えます。
けれども、風や湖までも静めるということは、イエス様にとってそれほど大したことではありませんでした。なぜならば、イエス様ははるかに大きな御業をなされたからです。すなわち、罪を赦し、ご自分の力でよみがえり、永遠のいのちをお与えになられたからです。

マタイの福音書9:2
2すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

マタイの福音書9:6
6人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。

ヨハネの福音書10:18
18だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

ヨハネの福音書17:2
2それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

イエス様は、十字架の死と復活の後で、弟子たちにこう言われました。マタイの福音書28章18節です、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と。

パウロもエペソにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

エペソ人への手紙1:22
22また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

ペテロも同じ事実について書いたのです。

ペテロの手紙第I、3:22
22キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

イエス様は、すべての力と権威を持っておられますが、私たちの中ではイエス様の存在がどのようになっているのでしょうか。イエス様は、我々にとって見知らぬ人なのでしょうか。もしそうなら、私たちには神なく、望みなく、永遠の滅びに至る道が横たわっているだけです。それでもイエス様は、我々の救い主となっているのでしょうか。
救い主になっておられるならば、私たちは父なる神との平和を持ち、罪を赦されて永遠のいのちを持っているのです。けれどもイエス様は、主となることを望んでおられます。我々の生活の中に、イエス様が中心となっておられる時にのみ、私たちは主と共に遺産を受け継ぐ者となることができ、言葉に言いつくせないほどの栄光にあずかることができるのです。
すなわちイエス様と共に御座につくという特権にあずかることができるのです。

今まで2つのことについて考えましたね。
まず第1に、イエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様。次に2番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様でした。
最後に3番目、すばらしい慰め主であるイエス様について、ちょっと考えたいと思います。

マルコの福音書6:50
50というのは、みなイエスを見ておびえてしまったからである。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

このみことばは、簡単な気休めではなく、このみことばの背後には、全能なる主が立っておられます。私たちは本当に、主により頼んでいるのでしょうか。
我々の目に見える、あらゆる恐れや不安、心配事などから目を転じて、ただ主だけを見上げましょう。私たちは、自分自身を見たり、他人を見たり、自分の感情、考え、意思などを大切にすることなく、絶えずみことばを第一としなければならないのではないでしょうか。
イザヤ書の中で、もうすばらしい約束のことばがいっぱいあります。イザヤ書43章1節、私もこのことばによって、救われ、確信を持つようになったのです。

イザヤ書43:1
1恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

イザヤ書43:25
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤ書41:13
13あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。

なぜイエス様は、このような約束のことばを言われたのでしょうか。答えは、ヨハネの福音書16章33節なのではないかと思います。

ヨハネの福音書16:33
33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

主の教育、主の導きの手段とはいったい何なのでしょうか。今話したように、一つ目はイエス様ご自身です。2番目、患難なのではないでしょうか。しかもそれは、最大の苦しみです。
マルコの福音書6章45節を見ると、イエス様が弟子たちをしいて船に乗り込ませたことが解かる。すなわちイエス様に従う時には、必ず患難がやってくるということです。
しかし、このような患難を通してイエス様は、一つの決まった目的を達成しようとしておられます。

教育というものは、一朝一夕にして出来上がるものではなく、長い時間をかけて少しずつ出来上がっていくものです。ここでも弟子たちの場合に、イエス様の教訓を完全に学ぶことが出来なかったため、長い間いろいろなことで悩むようになりました。
マルコの福音書4章35節から41節を見ると、その以前にも弟子たちが、激しい波風を見てあわてふためき、弟子たちに向かってイエス様が「信仰がないのは、どうしたことですか。」と言われたことが書き記されています。
マルコの福音書6章の場合にも、事情は非常によく似ています。なぜならば、この場合には風が吹き、波が立っていたからです。そしてこの時も、弟子たちは、不安と恐れでいっぱいでした。しかし、この場合にはイエス様が遠く離れた所におられたため、前の場合よりもさらに悩みが大きかったことが解かります。

イエス様が弟子たちの所にやって来られた時は、すでに明け方の3時か4時頃だったと記されています。しかし弟子たちは、非常に長い間、困り果てていたことが解かります。
すべての望みが消え果てた時こそ、主が登場なさる時です。
その時初めて、イエス様は私たちに、救いの御手を差し伸べてくださるのではないでしょうか。




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