引用聖句:マルコの福音書6章45節-52節
イエス様は当時、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われただけではなく、今日でも同じように呼びかけておられます。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めているよりも命令されています。「しっかりしなさい。わたしだ。」 全部イエス様のせいにすれば、非常に楽になる。どういう問題があっても不幸があっても、イエス様が許しちゃったからイエス様のせいです。そして、イエス様の導きはもちろん完全です。 私たちは、理解できないのは決まっている。けれども間違いなくそうです。 今日、おもにイエス様の導き、またイエス様の教育、目的とはいったい何なのでしょうかという質問について一緒に考えてみたいと思います。 答えは2つです。第1番目、イエス様のご栄光を明らかにすることであり、もう一つは主の御姿に変えられるためです。 まず第1にイエス様ご自身です。イエス様は、ご自身を現したく思っておられます。私たちは、自分が本当に取るに足りない者であるということをよく知っているのでしょうか。私たちは、自分の状態あるいは絶対に良くならない自分中心の生活を本当に知っているのでしょうか。 すべてのことにおいて、イエス様はご自身を啓示したく思っておられます。私たちがイエス様に出会って、イエス様を体験的に知るようになったのは、もちろん主のあわれみ恵みの結果です。 そして私たちが、イエス様に出会って体験的に知るようになって、初めて我々の苦しみや悩み、あるいはあらゆる問題が解決されるのです。 今日の箇所を見ると、イエス様が舟に乗り込まれると、風がやんだと記されています。これは、あらゆる問題が解決されることを意味します。イエス様は、私たちにご自身をより多く啓示したく思っておられるのです。 しかも私たちを通して、他の人々にご自身を現したく思っておられます。 弟子たちを教育する目的は、弟子たちがイエス様の権威をより良く知ることによってそれを確信し、イエス様に完全に拠り頼むようになることでした。弟子たちがイエス様を徹頭徹尾信頼することこそ、主が求められた目的でした。 弟子たちは、どれほど多くの不信仰があったことでしょうか。信仰とは、イエス様に対する絶対的な信頼に他なりません。この信仰がないと、自分のことばっかり考えるようになるのです。不幸になろうとする者、イエス様の力を知ろうと思わない人は、自分のことばっかり考えるのもいいでしょう。 また信仰とは、主の全能なることを確信することです。この確信がなければ、常に疑惑が起こってきます。疑いの結果は、信仰生活の麻痺、そして喜びのない状態です。 信仰とは、目に見えないものに目を注ぐことです。これが欠けると、目に見えるものに対して不安や心配を感じるようになるでしょう。そしてそれによって、主は栄光をお受けになりません。 主の導き、また主の教育の目的は、主ご自身のご栄光を明らかにすること、そしてそれと結びついて、主ご自身に似た者に造り変えられることです。 私たちは、イエス様を見上げ、常に主を体験している時に、自ずからそのような者に造り変えられていくことです。 よく知られている箇所ですけど、コリント人への手紙第II、3章18節を見ると、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹の成長のために、次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、3:18
教育とは、自分自身の努力や試みによって起こるのではなく、ただ主を見上げることによって、主を見上げて歩む時にのみ実現されます。 教育者であるイエス様は、決して命令なさるのではなく、ご自身がお手本となっておられるのです。 私たちは、主に似た者になりたいと思うならば、この世の見えるものに目を奪われることなく、見えないものに、イエス様に目を注がなければならない。 次に第2点すなわち主の導き、また主の教育の手段について、ちょっとだけ一緒に考えたいと思います。 教育の手段とは、まず第1に、もちろんイエス様ご自身です。 さらに言うならば、まず模範的な祈り人、次に自然を従わせる権威を持ったお方、そしてすばらしい慰め主であられるイエス様を、より良く知ることです。 イエス様について考えると、言えることはイエス様は、真に模範的な祈り人でした。イエス様はだた一人、山で祈られました。イエス様は再三再四、退けられて一人でお祈りしたのです。 私たちにとっても、主イエス様と同じように一人で静かに祈り、主との交わりを持つことが、どうしても必要です。さもなければ、悪魔の虜になってしまうのです。 群衆を帰した後で祈るために一人で、山に登られた。夕方になったが、まだそこに一人でおられた。そこでイエスは、彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。似ている箇所はいっぱいあります。「イエスは、彼らをつれてベッサイダという町をひそかに退かれた。」とそういう文章はいっぱいあります。 結局イエス様は、弟子たちにも静かな所へ行き、祈ることを命じられました。静かな時を持つということは、何もしないということではなく、主を深く思い、主に深い祈りを捧げて交わりを持つことを意味しています。 イエス様でさえも、祈りの生活の必要性を感じておられました。イエス様は、私たちよりもはるかに忙しいお方でしたが、それにもかかわらず、静かな時を持つためにその時間を作られました。 現代人の多くは暇がないと言うのです。どうして?、時間を作らないから。作ろうと思えば誰でもできる。イエス様は、いつも考えられないほど忙しかったけど、時間を一番大切なことのためにお作りになりました。 「イエスは朝早く、また暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。それから群衆に別れ、祈るためそこを去って山の方に向かわれた。夕方になったころ、舟は湖の真中に出ており、イエスだけが陸地におられた。」 「主ご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。この頃イエスは、祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」こういう文章は、次々と出てきます。 これらの箇所は、イエス様の祈りの生活の一部を描き出しています。 我々の祈りの生活は、いったいどうでしょうか。私たちも同じように、祈りの生活に励むようにと主は命令しておられるのです。 旧約聖書の中で、「主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。」、歴代誌第I、16章11節とあります。絶対に後悔しない。溢れる祝福を経験します。 また有名な山上の垂訓、マタイの福音書7章7節「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」 主をより良く知るために、主の祝福を経験するために条件があります。「求めなさい。探しなさい。たたきなさい。」とあります。 マタイの福音書26:41
ルカの福音書18:1
ヨハネの福音書16:24
エペソ人への手紙6:18
テサロニケ人への手紙第I、5:17
3つのことばだけ。けど考えられないほど大切です。 ヤコブの手紙5:13
これらのみことばから明らかのように、主は私たちが、絶えず祈り求めることを要求しておられます。 けれども、祈るためには、いくつかの条件があることを忘れてはなりません。 歴代誌第II、7:14
「もし、あなたがたが心を尽くして、わたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」云々とあります。 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすればそのとおりになる。」とイエス様は約束してくださいました。「ですからあなたがたは、お互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。」「義人の祈りは、働くと大きな力がある。」とヤコブの手紙5章16節にも約束されています。 求めるものは何でも、神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」とヨハネの手紙第I、3章22節にあります。 今までに第1番目、主が祈り求めること命じられたこと、そして2番目、その祈りが満たされるための必要条件について考えてきましたが、これから3番目ですけど、祈りに対する主の答えについて、ちょっと考えてみたいと思います。 詩篇91:15
イザヤ書58:9
イザヤ書65:24
と約束されています。「求めなさい。そうすれば与えられます。」 ヨハネの福音書15:7
すばらしい。嘘を知らないお方の約束です。ここでもう一度、先ほどの箇所すなわちマルコの福音書6章46節から48節までのところに戻って、模範的な祈り人としてのイエス様について、もうちょっと考えたいと思います。 マルコの福音書6:46-48
イエス様は祈られて、弟子たちが困っているのをご覧になりました。一般的に言って、主の御前で静かに祈る者は、一つの問題を見る場合にも、高い次元から見ることができ、普通の人よりもはるかに多くのことを見通して、その問題に対する解決への導きをも、見いだすことができるのです。 イエス様は、その時に弟子たちの苦しんでいるのをご覧になりましたが、もちろん今日でも、我々の信仰生活のあらゆる事柄を見ておられるのです。 創世記6:5
「みな、いつも悪いことだけ」このように主は、ノアの時代にも人々の心をご覧になりました。主は、常に我々の考えや思い、また動機などを見ておられるのです。いかなる罪をも主の前に隠すことはできません。 我々の生活の中で、債務という問題はどうなっているのでしょうか。すべてを忘れようとする試みは、まったく空しいものです。債務はあくまでも債務であって、ただちに支払われない限りいつまでも残るのです。債務を支払われた者だけが、罪を赦すことができるのです。 そしてそのことをイエス様が成してくださいました。このようにしてイエス様は、十字架でご自分のいのちを、尊い代価として捧げてくださったゆえに、今日もその福音を提供していてくださるのです。このすばらしい救いを自分のものにすることができるのは、考えられないあわれみなのではないでしょうか。 出エジプト記3:9
と書いてあります。主は、モーセの時代においても、エジプトがイスラエル人をしいたげられているのをご覧になりました。しかし、イスラエル人をエジプトから救い出してくださり、完全な救いを成し遂げてくださいました。 イエス様を知らない者は、誰でも悪魔、罪、この世の奴隷となっています。本当の解放は、ただイエス様だけが実現してくださることがお出来になります。我々の場合には、私たちを不自由にし、喜びを失くさせるような我々を支配している事柄があるのでしょうか。 イエス様は、それらのものをご覧になるだけではなく、実際にそれらのものから解放してくださるお方です。詩篇の作者であるダビデは、また次のように書いたのであります。一つの告白でもあります。 詩篇34:16-18
これこそダビデの証しであり、体験でした。 ノアの時代またモーセの時代だけではなく、ダビデの時代にも、主はすべてをご覧になり、あらゆる苦しみや悩みからご自分の民を救い出してくださったのです。 歴代誌第II、16章9節非常にすばらしい、絶えず覚えるみことばじゃないでしょうか。 歴代誌第II、16:9
したがって私たちの心が、主と全く一つになっているかどうかということが、一番大切な問題です。 主の導きの手段とは、教育の手段とは、今考えたようにまず第1に、イエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様、次に第2番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様です。 前に読みましたマルコの福音書6章48節の後半に「主は湖の上を歩かれた」と書いてあります。 しかし今日、このみことばの終わりに疑問符を打ち、この事実を認めないばかりか、批判する動きさえ強まっているのではないでしょうか。 しかし、イエス様を本当に体験した者は、この事実を少しも疑わずに、全知全能なる主がそれをする力を持っておられることを確信しているのです。 来るべきメサイアの支配と権威は、すでに旧約聖書で預言されました。おもにイザヤ書の中ですけども、 イザヤ書9:6
マタイの福音書8:27
イエス様が、力ある神と名付けられていることからにしても、主イエス様が自然現象をも支配し、湖を静め歩かれたことは決して不思議なことではなく、いわば当然のことだったわけです。 けども風や湖を静めるなどということは、主イエス様にとって、それほど大したことではありませんでした。なぜならばイエス様は、はるかに大きな御業を成されたからです。 すなわち、罪を赦し、ご自分の力でよみがえり、永遠のいのちをお与えになられたのです。マタイの福音書の9章の中で、この事実について次のように書き記されています。 マタイの福音書9:2
マタイの福音書9:6
ヨハネの福音書10:18
ヨハネの福音書17:2
イエス様は、十字架の死、また復活の後で弟子たちにこう言われました。 マタイの福音書28:18
エペソにいる兄弟姉妹たちに、このイエス様の偉大さを伝えるために、パウロはまた書いたのです。 エペソ人への手紙1:22
ペテロもこのイエス様の偉大さ、与えられた場所について、また書いたのです。 ペテロの手紙第I、3:22
イエス様は、すべての力と権威を持っておられますが、私たちの中では、イエス様の存在がどのようになっているのでしょうか。イエス様は、我々にとって見知らぬ人なのでしょうか。もしそうならば、私たちには神なく望みなく、永遠の滅びに至る道が横たわっているだけです。 それともイエス様は、私たちの救い主となっておられるのでしょうか。救い主になっておられるなら、私たちは主との平和を持ち、罪を赦されて永遠のいのちを持っているのです。 しかし、イエス様は主となることを望んでおられるのです。私たちの生活の中に、イエス様が中心となっておられる時にのみ、私たちはイエス様と共に遺産を受け継ぐ者となることができ、ことばに言い尽くせないほどの栄光にあずかることができるのです。すなわち、イエス様と共に御座に着くという特権にあずかることができます。 主の導きの目的、主の教育の手段とは、今一緒に考えてまいりましたように、まず第1にイエス様ご自身であり、すなわち模範的な祈り人であるイエス様、次に2番目、自然を従わせる権威を持つお方であるイエス様です。 最後に3番目、すばらしい慰め主であるイエス様です。 マルコの福音書6:50
このみことばは、簡単な気休めではなく、このみことばの背後には、全能なる主が立っておられます。私たちは、本当に主に拠り頼んでいるのでしょうか。我々の目に見えるあらゆる恐れや不安、心配ごとなどから目を転じて、ただ主イエス様だけを見上げましょう。 私たちは、自分自身を見たり、他人を見たり、あるいは自分の感情、考え、意志を大切にすることなく、絶えずみことばを第一としなければなりません。 おもにイザヤ書をいわゆる旧約聖書の福音書の中で、すばらしいことばがいっぱい出てきます。 イザヤ書43:1
イザヤ書43:25
イザヤ書41:10
イザヤ書41:13
全部、複数形じゃなくて単数形に書かれているから、ありがたいのではないでしょうか。 なぜイエス様は、このようなことばを言われたのでしょうか。言われた目的とはいった何なのでしょうか。答えは、ヨハネの福音書16章33節でしょう。 ヨハネの福音書16:33
主の導き、主の教育の手段とはいったい何なのでしょうか。今考えたように、主ご自身です。もう一つ患難なのではないでしょうか。しかもそれは、最大の苦しみです。 マルコの福音書6章45節を見ると、イエス様が弟子たちをしいて船に乗り込ませたことがわかります。すなわち、イエス様に従う時には、必ず患難がやって来るということです。しかし、このような患難を通して主は、一つの決まった目的を達成しようとしておられるのです。 教育というものは、一朝一夕にして出来上がるものではなく、長い時間をかけて少しずつ出来上がっていくものです。ここでも、弟子たちの場合にイエス様の教育を、完全に学ぶことができなかったため、訓練を繰り返して学ぶことはなかったんです。 マルコの福音書4章35節から41節を見ると、その以前にも弟子たちが激しい波風を見て、あわてふためき、弟子たちに向かってイエス様は、「信仰がないのは、どうしたことですか。」と言われたことが記されています。 マルコの福音書6章の場合には、事情は非常によく似ています。なぜならば、この場合にも風が吹き、波が立っていたからです。そしてこの時も、弟子たちは不安と恐れでいっぱいでした。しかし、この場合にはイエス様が、遠く離れた所におられたため、前の場合よりもさらに悩みが大きかったことが解かります。 イエス様が弟子たちの所にやって来られた時は、すでに明け方の3時か4時頃だったと記されています。したがって、弟子たちは非常に長い間、困り果てていたことが解かります。 すべての望みが消え果た時こそ、イエス様が登場なさる時です。その時、初めて主は、我々に救いの御手を差し伸べてくださるのです。 |