救いは主のもの(ヨナの証し)


ベック兄

(レトロテープ聞き取り、1987/03)

引用聖句:ヨナ書1章1節-6
1アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。
2「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
3しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュヘのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。
4そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。
5水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。
6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

(最初数秒録音中断)

・・・大変な戦いです。ヨナもこのことを辛い体験を通して知るようになったのです。

この間学びました、イエス様の弟子たちもこのことを体験的に知るようになったのです。彼らの考えは何であったかと言いますと、何千人の人々を変えるように頼みなさい。
けどもイエス様は、「とんでもない。あなたがたの手で彼らを食べさせなさい。彼らに何かあげなさい。彼らの空腹は満たされるように。」そしてイエス様はもちろん奇蹟をなしてくださり、みんなは満腹されたと聖書は言っているのです。
私たちは絶対に悪いとは思われないけれど、主のみこころに反することを何としばしばしているのではないでしょうか。

ヨナ書を見ると、1章に書かれていますけれども、彼は眠った、深く眠ったということがわかります。これはもちろんとんでもないことだったんですね。
眠りそのものは決して悪いことじゃないし、主によって定められたことでしょう。
イエス様はよく弟子たちに「しばらく休みなさい。」と言われたのです。けどもイエス様はいつも弟子たちに「いいよ。休んでもいい。」と言わなかったんです。

ゲッセマネの園でイエス様は何と言ったかと言いますと、「まだ眠って休んでいるのか。」と言われたのです。
矛盾してるんじゃないかと思う人もいるかもしれない。「しばらく休みなさい。」「まだ眠って休んでいるのか。」、同じイエス様が言われたことばであり、同じ弟子たちに向かって言われたことばなんです。
もちろんそのとき眠ったり休んだりしているときではなく、目を覚まして祈り続けるべきだったんです。ヨナの場合ももちろんそうだったのです。

ヨシュア記7:10-12
10主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。
11イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。
12だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、

云々と書いてあります。そして、

ヨシュア記7:13
13立て。民をきよめよ。

とあります。彼は地にひれ伏したと書いてあります。
ヨシュアは地にひれ伏すこととは結局、礼拝することを意味しています。彼は真心から主を礼拝したのです。もちろん主に祈ったのです。
けど、そのとき主は全然満足しなかったし、喜ばなかったのです。そのときは結局主に祈るべきとき、礼拝するときではなかったからです。罪が聖められなければならないときだったからです。

結局罪の問題が解決されないときは、地にひれ伏しても、いくら拝もうと思ってもダメであるからです。
だから主は、「もうやめなさい。立ちなさい。」と言われたのです。そのときそこには不従順、盗み、隠し事があったからです。そのようなものがあった場合にはもはや祈ること、礼拝することは意味がないんです。

われわれの場合はいったいどうなのでしょうか。いかに多くの不従順を告白しなければならないことがあるのではないでしょうか。また、何と多くの盗みを犯したことでしょうか。
自分の名誉を人にまさって誇りたがったり、自分が中心になりたがったり、人に、人間によく思われたがったりすることなどはすべて盗みであると聖書は言っています。

主にだけ栄光あれという態度を取らない人は結局、盗人であると聖書は言っています。すべての誉れ、すべての栄光とはただ主にのみ帰されるべきですと。
われわれは何と多くの隠し事、偽り、偽善などを行なっているのでありましょうか。
もしそうすると敬虔の形をしていても、その実を否定する者になると聖書は言っているのです。

その前の出エジプト記の14章。似てることが書いてますけども。

出エジプト記14:15
15主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。

と書いてあります。この個所によると、モーセは主に祈ったのです。叫んだのです。そして主はモーセに命令したのです。
まず、「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。」と尋ねたのです。
結局主は喜ぼうとしなかったのです、その時。もちろん主に叫ぶべきときがありますし、祈らなければならないときがあります。

けどもそのとき、祈るべきとき、叫ぶべきときよりも、従順に従うときだったのです。主はそのとき、全き従順を待ち望んでいたのです。
このような個所を見るともちろんわかります。主の思いと信ずる者の思いとはいかに違うものであるかということではないでしょうか。

人間だって祈るべきとき、結局眠ってしまいます。罪を告白し、光の中に明らかにしなければならないときに祈り始めます。また主はわれわれの従順を待っておられるときに、私たちは主に叫んでしまうのです。
主の目から見ると、人間のやってることは全部めちゃくちゃで、もうおかしくて、おかしくてしょうがないのではないでしょうか。
だからいつも取るべき態度は、「主よ。私はどうしたらいいの?」という尋ねる態度でなければならないのです。

私たちはこのような事実について考えると、主がいかに忍耐をもち、大いなるみわざによって私たちを取り扱われ、決して見捨てることをなさらないことに気が付くようになるのではないかと思うんです。
私たちが祈らなければならないときに、眠ってしまったり、罪を告白して明らかにしなければならないときに、祈り始めたり、主に従順でなければならないときに、叫び出したりするならば、そのときにはもはや主との交わりをもつことができないことを知らなければならない。
このような行動は主との交わりの結果ではない。結局、人間のわがままの現われになるということではないでしょうか。主に結び付いていない証拠になります。

何回も言いましたように、パウロはどうしてこういうふうに主に用いられ、祝福されたかと言いますと、彼は死ぬまでいつも、「主よ。私はどうしたらいいの。」と叫び続けたからです。いわゆる自信が全然無かったんです。
彼はもちろん最高の教育を受けた人ですし、立派な聖書学者だったんですけれども、自分の知恵に頼るとおしまいだとはっきりわかったから、「主よ。私はどうしたらいいの。さっぱりわかりません。あなたが教えてくださらなければ大変です。お願い。」
この態度を取ると、もちろん主は大いに祝福してくださるのです。なぜならば、すべての栄光が主に帰するようになるからです。

このヨナの考え方と主の考え方も、もちろん全然違ったんです。彼はいわゆる普通の信者だけではなくいわゆる預言者でした。
預言者たちは特別な使命を受けて、特別に選ばれた人々だったんです。彼は主のしもべだったのです。
1章を見るとわかります。彼は非常に急いでいたのであります。どうして彼は急いだかと言いますと、宮に行くためにそんなに急いだのではない。あるいは、王に呼び出されたから急いだのではない。あるいは、何か特別の使命を受けていたから急いだのではないとはっきりわかります。

1章の3節を見るとわかります。ヨナは、主の御顔を避けてタルシュシュへのがれようとしていたことがわかります。主から逃げようと思ったから、一生懸命になったんですね。
考えてください。主によって救われ、主によって召された預言者ヨナは、主の御顔を避けてのがれようと一生懸命になったのです。
どうして彼は逃げようとしたのでしょうか。どうして神のしもべが主の御顔を避けようとしたのでありましょうか。

自分の信仰を捨てたからじゃない。彼は前とまったく同じように主を信じたのであり、主に用いられようという気持ちももっていたのです。
けども彼の考え方と主の考え方とはまったく違ったから、だから逃げるようになってしまったのです。神が何を望み、神が何をなそうとしてるかを思い計ることができなかったのです。

1章1節を見ると、ヨナに主のことばが与えられたことがわかります。これこそがすばらしい経験ではなかったかと思うんです。
みことばを自分のものにすることこそが大切であり、みことばこそが喜び、まことの平安、生き生きとした希望の源です。主のことばは単なることばではなく、ひとつの事実であり、行ないであり、出来事です。
2節ですね。「立って、大きな町ニネベに行き、これに向かって叫び、呼ばわるように。」と主がヨナに命じたのです。

大きな町ニネベはわざわいだったんです。神はヨナを立たせて、その町に向かうことを望まれたのです。
「神の怒りが近づいてる。」、ヨナはそのことを警告し、説教するように急ぐべきだったのです。
神はニネベを戒めたく思われ、また注意することをも望んでおられたのです。結局神はニネベに対して無関心ではなかったのです。あわれみをもっておられたのです。

そのとき神のしもべであるヨナの態度はどうだったでしょうか。近づいてくる神の怒りと、滅び行くニネベの町に対して彼は無関心だったんです。関係ほしくなかったのです。
彼らはみな異邦人であり、神の民に属さない者であるからもう、関係ほしくないという態度を取ったのです。
神はヨナを用いようと切に望んだんですけども、彼はそれをほしくなかったのです。「ユダヤ人のためだったら何でもやる。けど、あれだけ嫌です。」と。

ドイツにひとつの歌がありますね。次のような内容なんです。
「神はあなたを招いておられます。わたしのために行きなさい。
あなたは神の福音の、まだだれも伝えなかった人に宣べ伝えることを
勇気を出して、あえて行なうべきである。
急げ。警告せよ。叫び。
そして主の御名によってゆけ。
神はあなたを用いようと望んでおられる。」

そういう歌なんです。
ヨナに対する命令はそういうものだったのですけども彼は従おうとしなかったのです。

3節によると彼は、ヨッパに下って行ったと書いてあります。主の顔を避けて逃げることは、もちろん非常に危険なことです。
創世記4章16節によると、カインも、主の前から去って行ったと書いてあります。主の前から去って行った。
そしてヨブ記の1章12節によると、悪魔も主の前から出て行ったと書いてあります。

カインは、主の前から去って行った。悪魔も主の前から出て行ったと書いてありますけども、ここで神のしもべであるヨナも同じことをしてしまったのです。
ヨナはヨッパに下って行った。ヨナは、タルシュシュ行きの船を見つけたと書いてあります。
逃げるための船を見つけたんです。もう嬉しかったでしょう。ヨナにとって願ったり叶ったりすることだったんです。「船があるじゃないか!やっぱり導きじゃないか!」

神はヨナの逃避を本当に好都合にしておられるのでしょうか。主はご自分のしもべの不従順に対して、それでよろしいと言われるのでありましょうか。
3節の後半ですね。「そして彼は船賃を払った。」と書いてありますね。
ただではなかったのです。払わなければならなかったのです。もちろんそれは高いものだったに違いない。

タルシュシュまでの距離は、ニネベまでの距離よりも三倍も遠かったから、船賃もニネベに行くよりは、少なくても三倍は高かったに違いないのではないかと思います。
主の顔を避けると、多くの費用を費やさなければならないことは確かです。決して上手くいきませんし、成功しない。
この高い費用を払うということは、決して金銭的な意味だけではない。

金の問題だけだったら多くの問題は解決されるでしょう。けどもヨナの場合は金の問題ではなかったのです。
彼の安らぎ、彼の心の平安、彼の喜びはダメになってしまったのです。主の顔を避けるときには、多くの費用を払わなければならないことに注意しなければなりません。
前に引用したドイツの歌の2節と3節は次のようなものです。

「神は今日も招いておられます。心の備えをしなさい。
主の招きを避けようとするのですか。神の御顔を避けようとするのですか。
失われた者たちのために犠牲を払おうとはしないのか。
もはや本当の喜びをもちたいとは思わないのか。

あなたの神に対して常に拒み続けるのか。
神は今日も招いておられます。心を備えをしなさい。
主はここにおられる。主に対して従順に「はい。」と言いなさい。

主に自分のわがままな意思を明け渡しなさい。
そうすれば主はあなたの心を静め、主の平安で満たされるのです。
自分の意思を行なう者は、決して神のみこころに安んじることはない。
主はここにおられ、あなたの心からの返事を待っておられる。」

こういう歌なんです。
3節に、「ヨナは、ヨッパに下って行った。」と書いてあります。そして5節に、「ヨナは船底に降りて行った。」、下った、降りて行った。
ヨナはヨッパに下り、船底に降りて行った。それゆえヨナがいつも下へ、下へと向かっていることがわかるんです。

われわれの心の奥底をもっとも揺り動かすものはいったい何なのでしょうか。切に主を第一とし、主に従ってゆく心構えのできていない者はたちどころに神から引き離され、下へ、下へと落ちていくのです。
この1章を読むとわかりますね。突然嵐がやって来て、激しい暴風が起こったんです。この暴風とはもちろん主によって遣わされたものであり、逃げようとする神のしもべを捕らえるためのものだったのです。
そのとき水夫たちは非常に驚くようになり、恐れるようになったのです。大声で叫ぶようになったのです。いくら異邦人であっても、もうダメだとわかると必ず祈るようになり、叫ぶようになります。

彼らはもちろん、人間的なこと全部やったんですね。船の積荷を海に投げ捨てたと書いてありますし、それからどうして私たちは今死ななければならないのか。どうして滅びなければならないのか。
原因はどこにあるのかと彼らは真剣に考えるようになったんです。この嵐とは果たして偶然におこったのでありましょうか。果たして運が悪かったのでしょうか。不幸な出来事に過ぎなかったのでしょうか。いったいどうしてなのでしょうか。だれのせいなのでしょうか。
われわれのせいなのでしょうか。と彼らは口々に叫びました。彼らは真剣に考えたんですけども、考えようとしなかった人は神のしもべでした。

私たちは困難や病気、いろいろな問題に直面すると、すなわち理解しがたいことが起こった場合には、いったい、なぜかと問うことをするのでしょうか。何のためかと考えるのでありましょうか。
それでもちろん神のみこころだったでしょう。水夫たちは急にヨナのことを思い出したんです。
あの見知らぬ者はいったいどこにいるのかと思って、そしてヨナを捜すようになったんです。そのとき彼は船底で横になり、ぐっすり寝込んでいたのです。本当の恐ろしい無責任ではないではないでしょうか。神のしもべである預言者はぐっすり寝込んでいたのです。

彼は使命をもっていたにも関わらず、寝込んでしまったのです。多くの人間が危険な状態にあるときでも、神のしもべであるヨナは眠ったんです。
上では台風が荒れ狂っているときに彼は船底にぐっすり寝込んでいたのです。
6節は非常にいいところですね。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。」と船長は言ったんですね。生きるまことの神を知らない異邦人はそう言ったのです。

いつも神のしもべは聞かず、気が付かず、何にも知らなかったんです。当然です。
眠っている者は聞くことができません。眠っている者は見ることができません。眠っている者は知りたいと思いません。
結局ヨナは神の声を聞こうとはしなかったのです。また悩み、苦しんでいる人々に目を留めようともしなかったのです。なぜならば彼は主の御顔を避けて逃げてしまったからです。

こういうふうに主から逃避している人々は非常に多いのではないでしょうか。主の声を聞きたくない人は多いのではないでしょうか。
従いたくないからです。

ヨナ書1:6-7
6船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」
7みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。

すべては神のしもべである、まことの神を知るようになったヨナのせいだったんです。
水夫たちには何の責任も無かったのでありましょうか。もちろん水夫たちも同じく罪人ではなかったのでしょうか。彼らはヨナよりも罪が軽かったのでありましょうか。

そうじゃないと思うんです。けどもヨナは神によって召された預言者であり、神のしもべだったんです。それにも関わらず彼は主の顔を避けて逃げてしまったんです。だからここに不幸が起こったのです。
彼らは、水夫たちは、「告白せよ。言いなさい。いったいどういうことか。」と彼に聞いたんです。これは結局彼の逃避の最後になってしまったんです。

神から遣わされた嵐はヨナを捕まえました。異邦人たちはヨナの告白を迫りました。ヨナはそれ以上、逃げることができなくなってしまったのです。
けども逃避は神の御手の中で終わりました。これこそが計り知れない恵みではないでしょうか。いかなる者も神から逃げ切ることはできません。

主なる神は引かれたくじによってヨナを明るみに出されたのです。主は女中の指差しによってペテロを明るみに出されたのです。
神は預言者ナタンを通してダビデの罪を明るみに出されたのです。また神は天の光を通してダマスコに向かうサウロを明るみに出されたのです。
明るみに出されることこそが神のあわれみの証拠ではないでしょうか。神は忍耐をもって待っておられ、そして自分の愛によってこのヨナをも回復してくださったのです。

ヨナはいったい何を告白したのでしょうか。「私は神の民に属する者です。私は救われた者です。神の恵みにあずかった者です。私はすべてを造られた栄光の主を知ってる者です。私は滅びゆく人々に対してさばきが臨・・・」

(テープ A面 → B面)

・・・者だったのですけど、私は主に対して不従順であり、主の顔を避けて逃れようとしたと彼は正直に告白したのです。
結局彼は自分を言い繕うことをしないで、すべてが自分のせいであることを率直に認めたんです。彼は人間に対して債務を負っていることを認めたのです。
彼は自分が死に価する者であることを告白したのでありますし、死の判決を受け、海の中に投げ込まれることをよしとしたのです。罪の支払う報酬は死です。

罪を犯したたましいは死ななければならないと聖書は言っています。けどもそれだけではなく神は悪者の死を喜ぶだろうか、彼がその態度を悔い改めて生きることを喜ばないだろうかと書いてあります。
ヨナはいかに悔い改めたかということを前に兄弟の読まれた箇所を通して知ることができます。ヨナはいったい何を経験したのでしょうか。彼は死の谷を通って来ました。

主は彼からそれによって多くのものを奪い、けどそれだけではなく、主は彼に多くのものを与えたのです。
いったい何を奪われたのでありましょうか。ヨナのわがままな意思、ヨナの逆らい、ヨナの目くらであること。自分の力、いわゆる自信を奪われてしまったのです。
全部は主の働きの妨げであったからです。

では彼から何を奪われなかったのでしょうか。彼の使命です。ヨナはわがままだったからもう、ほかの人捜しましょう。捨てちゃいましょうと神は思わなかったのです。
そして何が与えられたのでありましょうか。彼は主の光によって自分の本当の姿を見ることができ、完全な赦しと、今まで経験したことのない恵みにあずかるようになったのです。
そして主に、何があっても従います。という意志も与えられたのです。ヨナは船から海へ投げ込んでもらい、それによって多くのものを得ることができたのです。

新しく変えられたヨナは、陸地に上がることが許されたのです。まったく変えられたヨナは、主の命令を聞いたのです。

ヨナ書3:2
2「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」

神のことばは今度はヨナによって応えられました。彼は主に従い、ニネベに行ったのです。
ニネベは非常に大きな町だったんです。そこには12万人の人々が住んでおりました。もう40日すると全員滅ぼされると彼は叫び続けたのです。
結局彼は、神はあなたがたに対して無関心ではないと40日間宣べ伝えたのです。

ニネベはもちろん取りも直さずこの世の象徴であります。この世は非常に大きなものです。何百、何千万人という救われるべき人がいます。そして神はもちろん彼らを愛しています。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

ニネベを愛された。神はそのために御子イエス様を死に渡されたのです。イエス様は全人類の罪の報いを受けてくださったのです。
パウロは、キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されたと書き記したのであります。

ヨナは滅びゆくたましいに対する神の大いなる愛を知り、一日中歩き回って、恐れることなく、主のことばを宣べ伝えたのです。結局彼は完全に変えられたのです。
彼は町中を歩き回って、大いなる悪がはびこっているのを見、主のさばきのことばを宣べ伝えたのです。なぜ彼は恐れなかったのでありましょうか。

さばきのことばを宣べ伝えると、もしかすると誤解され、迫害され、殺されるのではないかと彼はもちろん思ったでしょうけども、心配せず、彼は宣べ伝えたのです。
どうしてでしょうか。彼は死の谷を通って来たからです。自分自身を捨てたからです。まったく妥協せずに主に従おうと決心したからです。
だから人間を恐れる恐れから完全に解放されたのです。そのような人をもちろん主は用いることができるのです。

死の谷を通って来た者、また自分自身を捨てた者を主は今日も捜し求めておられるのであり、必要としておられます。
ヨナはさばきを宣べ伝えただけではなく、主の恵みも宣べ伝えたのです。なぜならば、もう40日と言ったからですね。もう40日すると滅ぼされると彼は言ったのです。
滅ぼされるということはもちろんさばきです。けど、40日ということばは結局恵みを意味しているんですね。なぜならば40日間の間に罪を悔い改めることができるからです。悔い改めると主は恵んでくださり、救ってくださると聖書全体は言ってるからです。

今日も恵みの時です。今日自分の罪を明るみに出し、赦しを受ける者は救われます。けど恵みの時は限られています。
だからこそ、「恵みを受けなさい。主の提供されてる罪の赦し、まことの平和、永遠のいのちを受け入れなさい。」
これこそが喜びの訪れであり、福音です。

ニネベには何が起こったのでありましょうか。ヨナは誤解され、追い出され、殺されたのでしょうか。決してそうではない。
3章のずっと5節から9節まで読むとわかります。ニネベは罪を悔い改めたんです。ニネベは神に呼ばわりました。ニネベは立ち返りました。ニネベはさばきに陥ることなく、恵みにあずかることができたのです。
ペテロの手紙第IIの中で、3章の9節になりますけれども次のように書き記されています。

ペテロの手紙第II、3:9
9主は、...ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

と書いてあります。主は、ひとりでも滅びることを望みません。すべての人々が例外なく、悔い改めに進むことを望んでおられるとあります。
そしてその前に、

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が

すべてはすべてですね。例外なく。

テモテへの手紙第I、2:4-6
4救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
5神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
6キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。

何というすばらしい事実でありましょうか。キリストはすべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。
私たちは主が願っておられることを、主が望んでおられることを理解してるのでありましょうか。
主なる神は愛と救いを提供したく思っておられます。主は自分自身を捨て、主の愛によって救いを得させるしもべたちを求めておられます。この世は滅びに向かって進んでおります。

ニネベは例えば、ある場合には自分の家庭であり、ある場合には自分の職場でありましょう。けど主についてのはっきりとした証しを公にすることを恥じてはなりません。
ローマ人への手紙の中でパウロは、「私は福音を恥とは思いません。」と告白したのです。

私は福音を、福音の代わりにイエス様と言ったほうが正しいかもしれない。福音そのものはひとつの教えではないからです。イエス様ご自身であるからです。「私は主イエス様を恥とは思いません。」
私たちはイザヤのように、「主よ。私はここにいます。私を遣わしてください。」という態度を取ると、本当に感謝だと思います。

ちょっとそこまでにしたいと思います。




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