引用聖句:マルコの福音書4章21節-25節
日々の歌89番の歌は、若いドイツの女性が作った歌なのです。 主に出会ってから、やっぱりイエス様を宣べ伝えたいと心から願いました。同じ気持ちを持つ人と婚約しました。彼は、先に中国まで行ったのです。 もちろん彼女は早く行きたいと思ったし、1年後彼女は中国に追いかけて行ったのです。もちろん船の旅だったのです。彼女が港に着いた時、彼ではなくて宣教団体の責任者が迎えに来たのです。 どうして婚約者は来ていないのでしょう。ちょっと不思議だったのです。 責任者は悲しそうな顔で言ったのです。「残念ですけど、彼は天に召されたから、まず彼のお墓に行きましょうよ。」 その彼のお墓で、彼女は89番を作ったのです。考えられないのではないでしょうか。全部、イエス様のおかげなのです。彼女は結局、みことばに頼ったから、悩みながら喜ぶようになったのです。 集会が始まる前に、いつものように「今日のメッセージの題名は?」と聞かれたのです。今日の題名は、ちょっとおかしいかもしれない。「愚かな人間と、主の悩み」です。 人間は、どうして愚かであるか。主は、どうして悩んでいるのでしょうか。 詩篇の81篇を見ると答えができます。 詩篇81:10
喜びの希望と平安に、わたしたちを満たしたくて満たしたくて仕方がない。これは主の切なる願いです。 10節で終われば良いのですけど、11節の「しかし」からわが民へ呼びかけます。未信者じゃないんです。わが民は声を聞かない。 詩篇81:11-14
愚かな人間がどういうものであるかと言いますと、聞く耳を持たない人です。そして結局、主は悩んでおられます。 聖書の目的とはいったい何なのでしょうか。 同じく詩篇119篇の115節に、ダビデは次のように告白したのであります。 詩篇119:105
私たちは何のために生きているのでしょうか。死後にはいったい何があるのでしょうか。これらは、私たちがぜひ知らなければならない大切なことです。 こうした人生の根本問題の解答は、すべて聖書の中にあります。聖書は、主なる神が人類に与えられた唯一の真理の書です。 パウロは、彼が殉教の主を遂げる前の最後の手紙に、愛弟子であるテモテに書いたのです。 テモテへの手紙第II、3:15
聖書は、できる。聖書の中心は福音です。それは、滅び行く人類を救うためになされた主なる神の愛による救いの道です。 私たち人間は、主なる神と生きるように作られましたけど、その創造主なる神から離れて罪を犯し、つまり主なる神からの刑罰を受ける者になってしまいました。 けれども主なる神は、罪を必ず罰する義なるお方であると同時に、滅びゆく人類を深く憐れまれる偉大なるお方でもあるので、ご自身の御子イエス・キリストを通して救いの道を備えられました。 それが主イエス様の十字架です。その主イエス様を自分の救い主と信じるなら、主なる神はその人の罪を赦し、神の子供として永遠の命を与えて下さいます。 そのことを、教えるために聖書が与えられているのです。 前に紹介したことがあるのですけど、ある「聖書の日記」を紹介致します。 1月15日 静かな一週間を過ごした。新年の数日間の夜、私の持ち主は私を規則正しく読んだ。しかし、今は私を忘れているらしい。 2月02日 今日、整頓された他の物と一緒にほこりを払われた。そうして、もとの場所に戻された。 2月08日 持ち主が朝ご飯が終わってから、少しの間用いられた。持ち主は、2、3箇所読んだ。持ち主と一緒に教会へ行った。 3月07日 整頓され、ほこりを払われ、もとの場所へ置かれた。教会に行ってから、玄関に置きっぱなしにされたいたから。 4月02日 今日は忙しかった。持ち主は、集会で司会をやった。私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所を開くのに、持ち主は苦労した。 5月05日 午後いっぱいおばあさんの膝の上にいた。おばあさんが訪ねてきて、コロサイ人への手紙2章5節-7節を読んで、おばあさんは涙を流した。 5月09日 今、毎日、午後、おばあさんの膝の上にいる。私はそこを居心地良く感じる。おばあさんはしばしば私を開き、また私に語りかける。 5月10日 おばあさんが帰った。私はもとの場所に戻された。お別れの時、おばあさんに接吻してもらった。 6月03日 今日誰かが私のページの間にクローバーの葉を2、3枚はさんだ。 7月01日 着物やほかのものと一緒にトランクに詰められた。休みにどこか旅行へ行くらしい。 7月07日 まだ、トランクの中に居る。 7月10日 トランクの中の他の物はほとんどみな取り出されたのに、私はまだトランクの中だ。 8月10日 再び家に帰ってもとの場所に戻された。かなり長い旅行だった。しかし、私は読まれなかったのに、なぜ一緒に行かなければならなったのだろう。理解に苦しむ。 9月01日 ひどく息苦しく暑い。2冊の雑誌と小説、それに古い帽子が私の上に乗っかっている。取りのけてくれたらうれしいのだが。 9月05日 整頓され、ほこりを払われ、きちんと置かれた。それから、今日花子が少しの間私を使った。花子は、お兄さんを亡くした友達に手紙を書いた。それで、手紙に適当な聖句を探したのだ。 9月31日 また、ほこりが払われていない。 ・・・これが、私たちの聖書の日記でなければ、ありがたいなのではないでしょうか。 もちろん私たちはたまに聖書を読むでしょう。けれども、聖書とは本当に人間に与えられている最高の宝物です。 イエス様は、福音をはっきり教えたよりも、みことばを通して自分自身を啓示してくださいました。それを聞いた人々は、イエス様を救い主として、受け入れるか拒否するかのどちらかの態度をとるのです。多くの人々は光を愛して、イエス様のもとに来ましたが、光よりも、闇を愛してイエス様のもとを去った者も、いっぱいいました。 真理を聞く者は、いつでもそれを受け入れるか拒むかの選択を迫られます。今回、御代田まで来られた人々の場合も、そうなのではないでしょうか。救いを必要としている人々は、イエス様のみもとに来て助け求めます。 当時の聖書学者たちは、いつでもイエス様のみことばに反対し、民衆の大部分もイエス様のみことばに対して無関心でした。 結局、当時2種類の人々がいました。救いを必要としていることを自覚している人々、また自分には救いが必要でないと思い込んでいる人々です。 第1の人々は、イエス様に対して心の開かれたいた人々であり、第2の人々は、主を、主と同時に救いを拒んだ人々です。 イエス様に対して心を開く人々は、心の目が開かれて救いを自分のものにすることになります。 けれども救いを拒む者は、暗くされ、何も持たない者、希望も救いも喜びも持たない者になてしまうのです。 今読んで頂きましたマルコの福音書に、みことばの働きについて書き記されています。 強調されているのは、聞く耳を持つことこそが一番大切である。なぜなら、みことばの間違った聞き方もあり、それからみことばの正しい聞き方もあるからです。 みことばの働きについて、少しだけ一緒に考えてみたいと思います。 先週、私たちは、みことばを正しく聞くことがいかに大切であるかを見て参りました。 種とは、いわゆるみことばです。マルコの福音書4章23節ですね マルコの福音書4:23
みことばを正しく聞くことも、また間違って聞くことがあり得ます。 それ故、聖書からみことばを正しく聞いた例と、間違って聞いた例を、ちょっと12づつ見てみたいと思います。 まず間違った聞き方をした例からみてみましょう。まずアグリッパ王様でした。 使徒の働き26:28
パウロはこの王様に対して、あなたは預言者を信じていると27節で語りました。けれども彼は信仰に至る決断をすることはできませんでした。結局、彼の聞いた言葉は無駄でありました。 間違って聞いた例の2番目は、ペリクスと言う男です。 使徒の働き24:25
このペリクスもまた福音を聞きましたけれども、恐れを感じて決断を下すことを将来に伸ばしました。けども彼は、それ以来福音を聞くチャンスを失ったであろうと思われます。 主なる神は、みことばに対して、即座に決断することを常に求めておられます。 今度は新約聖書、ルカの福音書18章23節。いわゆる金持ちの青年についての箇所です。 ルカの福音書18:23
この金持ちの青年は、この時決断することを望んでいましたけれども、その決断によって自分から失われるものを惜しんだのです。 彼の場合にも、福音を聞くことが徒労に終わってしまったのです。 間違って聞いた例の4番目はピラトについて。 マタイの福音書27:24
このピラトは、イエス様と出会い個人的にイエス様のみことばを聞き福音に接しましたけど、イエス様の側に立つことを望みませんでした。彼の聞き方も無駄であったと言えます。 5番目は、ガラテヤ地方に住んでいたユダヤ人たちであります。 ヨハネの福音書6:41
ガリラヤのユダヤ人たちは、福音を聞きましたけど、それにつまづいてしまったのです。 6番目は、うわべだけの弟子達です。 ヨハネの福音書6:60
彼らは、福音を正直な心で聞こうとはしなかったのです。 イエス様が弟子達に対して求めておられる厳しさを受け入れることができなかったのです。 7番目は、アテネの人々です。 使徒の福音書17:32
アテネの人々は新しいもの好きで、いつもでも何か目新しいことを求めていましたが、福音について聞いた時、彼らはそれをあざ笑ったとあります。彼らの聞いたことも無駄でした。 使徒の働き13:8
エルマについて書かれています。エルマは、聞いた福音に対して意識して反対したのであります。 間違って聞いた例の9番目、アンテオケのユダヤ人について書かれています。 使徒の働き13:46
アンテオケにいたユダヤ人たちは福音を拒みました。それゆえ、彼らは永遠の命に預かることができなかったのです。 間違って聞いた例の10番目は、ナザレの人々です。 ルカの福音書4:28-29
イエス様の故郷であるナザレの人々は、福音に対して受け入れる心を持たなかっただけではなく、イエス様を追い出して殺そうとするほど、荒々しい怒りに満たされたのであります。 エペソにいるユダヤ人たちについても、同じようなことが書かれています。 使徒の働き19:9
エペソのユダヤ人たちは主なる神の国について聞きましたが、彼らは意識して心を頑なにしてしまったのです。 当時の大部分の聖書学者たちについて、 マタイの福音書12:24
聖書学者たちの多くは、イエス様が神の子であるということを知っていたにもかかわらず、彼は悪魔と共に働いているんだと主張したのであります。 みことばとは、いつも内容のない空想の言葉ではなく、いつも主なる神の啓示そのものです。 たえず覚えるべきこととはなんであるかと言いますと、私たちが主のみことばに対してどのような態度をとるか、私たちが主イエス様ご自身に対してどのような態度をとるかということです。 今話した12の例に出てくる人々は、みんな福音を聞きました。けれども、その聞いたことは無駄に終わってしまった人々です。 主のみことばは、聞く者に3つのことを勧めます。 <1>悔い改め <2>信仰 <3>従順 です。主の言葉を聞いても悔い改めようとしない人、信じようとしない人、従順に従おうとしない人は、みことばを正しい態度で聞いている人とは決して言えません。 聞く耳を持つことこそが一番大切です。なぜならば、みことばの間違った聞き方もあり、それから幸いなんですけど、みことばの正しい聞き方もあるからです。 今から正しくみことばが聞かれた12の例を見てみたいと思います。ベレヤという町にいるユダヤ人たちです。 使徒の働き17:11
この町にいるユダヤ人たちは、ただ単にみことばを聞いただけではなくて、そのことを自分で聖書から確かめようとしたのです。彼らはそのために時間を費やし、苦労を厭いませんでした。 私たちは日常生活でよく「あの人、いい人でしょう。」と思うかもしれない。けど、良い人とはベレヤのユダヤ人たちのように、毎日毎日、熱心に聖書を調べる人々です。 パウロは福音を宣べ伝えた。反応は、本当にそうだったら有り難い、もしかしたらウソかもしれない。騙されたくないから、自分で調べましょう。 ここで話している兄たちの言っていることも、そのまま受け入れなくても良い。自分で調べた方がましなのではないでしょうか。聖書はなんと言っているか。結局、それだけなんです。 ベレヤの人々はそう言う人々だったから、パウロはうれしかった。 使徒の働き16:14
今度はひとりの女性、ルデヤです。彼女はみことばを聞くだけではなくて、心を開いてそれを受け入れたのです。これも正しい聞き方です。 正しくみことばが聞かれた例の3番目は、イエス様を産んだマリヤです。 ルカの福音書2:19
マリヤはみことばを心に受け入れただけではなく、そのみことばについていろいろと考え、主を賛美したのです。 使徒の働き17:4
テサロニケにいるユダヤ人たちです。テサロニケのユダヤ人たちは、みことばをただ単に聞くだけではなく、みことばに従順に従いました。従順のない信仰は本物ではない。 正しくみことばが聞かれた例の5番目は、ある異邦人の女です。 マタイの福音書15:27
私は汚れた者です。捨てられてもいい者です。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。 イエス様は女に向かって、あからさまにあなたは異邦人であり、汚れた者であると言われました。けども、この女はみことばを聞いて、腹を立てずにかえって謙遜になったのです。みことばを正しく聞く者は、へりくだります。 正しくみことばが聞かれた例の6番目は、サマリヤの女についてヨハネの福音書に詳しく書かれてます。 ヨハネの福音書4:17-19
この女は、イエス様のみことばによって裁かれることに甘んじたのです。 今日の人々は、みことばを上から見下ろして、みことばを自分の考えで裁こうとします。けど、このことによって得る者は何ひとつありません。損をするばかりです。 みことばに対して正しく聞くことは、自分がみことばの下に立って、みことばが自分自身に対してなんと語っているかと聞き分けて、それを受け入れることです。 生まれつきの盲人の聞き方も正しかった。 ヨハネの福音書9:35-38
心からみことばを聞く者は、その必然的な結果としてイエス様を礼拝するようになります。聞いて礼拝せざるを得なくなります。これは、正しい聞き方の結果です。 正しくみことばが聞かれた例の8番目は、コリネリオと家族です。 使徒の働き10:33
みことばを正しく聞くことは、コルネリオのように喜んでそれを受け入れることです。彼らはその場で悔い改めて主を信じて、救われたばかりでして、同じ日、夜、洗礼を受けました。 正しくみことばが聞かれた例の9番目は、バプテスマのヨハネです。 ヨハネの福音書3:29
ここで書かれているバプテスマのヨハネのように、みことばに耳を傾け、その聞いている事柄に対して心から喜ぶ人は、正しい聞き方をしていると言えます。 けど、正しく聞くということは、自分が衰えイエス様が栄えるという願いを起こさせます。 正しくみことばが聞かれた例の10番目は、パウロです。 使徒の働き26:19
パウロは、みことばを聞いて、彼の人生を完全に方向転換しました。 彼の望んでいた唯一の事柄はイエス様に栄光を帰し、イエス様を喜ばせることでした。 正しくみことばが聞かれた例の11番目は、ベタニヤのマリヤです。 ルカの福音書10:39
時間を作って、このベタニヤのマリヤのように主の足下に座ることは、みことばを聞く正しい態度です。多くの信者に欠けているのは、世の事柄から離れてみことばに聞き入る態度なのではないでしょうか。 私たちには、このようにイエス様のみことばを聞き、イエス様に語って頂きたいという切なる願いがあるなのでしょうか。また、イエス様に対して、自分の願いを余すところ無くお話ししたいという思いがあるのでしょうか。 正しくみことばが聞かれた例の12番目は、エマオに向かう弟子達です。 ルカの福音書24:32
心が燃えるとは、そこに愛があるということの記です。正しく聞くことは、エマオの途上の弟子達のように主のことばに対して、愛の心を燃やすことであります。 先週も一緒に考えて参りました。みことばがそれを聞いた人々にどのような働きを及ぼすかは、その人の心の状態が、道ばたのようであるか、岩地のようであるか、いばらのようであるか、あるいは良い地のようであるかによって決まって来ます。 つまり聞く者の態度によって、その人が救われるか、それとも滅びるかきまります。 マルコの福音書4:23-25
このことばによれば、正しい態度でみことばを聞きたいと望んでいる者は、その態度を賜物として与えられることがわかります。 真理を知ることは恵みによります。けれどもそれを望む者には、主はいつもそのための力も与えられます。 けどそれを、望まない者は真理を理解する力を与えられることはありません。 マルコの福音書4:12
彼らは、どうして悔い改めて赦されることがないのでしょうか。主に対して信仰の決断をした人が実際に信仰生活を歩み出すことがなければ、その人が悔い改めることを望んでも、それができなくなります。 悔い改めることを望まない者は、悔い改めのための力を与えられることはありません。ここでは、どっちつかずに立場は許されません。主のみことばは、受け入れるか、拒むかのどちらかです。 主のみことばを受け入れるとは、とりもなおさずイエス様を受け入れることです。そして、イエス様を受け入れることとは、永遠の命を持つことです。 マルコの福音書4:8、20
このことばには、実の結び方にもいろいろあることが書いてあります。30倍、60倍、100倍と書いてあります。 良い地は様々な実の結び方をします。 よく知られているヨハネの福音書15章から読みます。信ずる者にとって、非常に大切なことではないかなあと思います。イエス様の告白であり、証しです。 ヨハネの福音書15:1-4
私はぶどうの木であなたがたは枝です。ここで、実を結ぶことについて、もっと多く実を結ぶことについて、さらに多くの実を結ぶことについて書かれています。 主は、私たちが多くの実を結ぶことを望んでおられます。それでは、どのようにしたら多くの実を結ぶことができるのでしょうか。 それは、樹液が幹を通って枝にまでよく行き渡ることができるならば、多くの実を結ぶことができます。御霊が私たちを満たし、導き、支配することができるならば、私たちは多くの実を結ぶことができるようになります。 イエス様は、信じる者ひとりひとりが誰であれ、多くの実を結ぶことができるためには、どんなことでもしてくださいます。 信ずる者が少ししか実を結ばない者であるか、多くの実を結ぶ者であるかは、その人自身の選択にかかっています。 私たちの信仰生活はさらに多くの実を結ぶ者となるために、主によって刈り込みをされなければなりません。 私たちが主によって刈り込みをされる。つまり清められるならば、私たちは多くの実を結ぶ者となります。 その時、結ぶ実は、自分の意志によってできた実ではなく、主が私たちのために備えてくださった御霊の実です。 ホセア書14:8
もし、イエス様が私たちのうちにあって、私たちを支配することをおできになるならば、その必然的な結果として、私たちは多くの実を結ぶ者となります。 信ずる者は、誰でも多くの実を結ぶ者とならなければならない。そして、そのような民は世の光であると言われるのです。 実を結ばない民は、隠れた光のような民のような者であり、なんの役にも立ちません。 多くの実を結ぶ良い地にまかれた種は、多くの人々に祝福をもたらすことができる輝いた光のようなものです。 それは、価値のある役に立つものであり、それによって人々を主のみもとに導くことができるのです。 イエス様は、私たちを人を綱とる漁師として用いられたいと思っておられます。けれどもそれは、みことばを心の中に受け入れて、みことばに働いてもらわなければ不可能です。 わたしたちは主の御声を正しく聞きたいという心からの願いを持っているのでしょうか。 主の望み態度とは、サムエルという青年のように祈るべきです。「主よ!語ってください。しもべは、聞きます。」従いたいのです。 パウロの切なる願いも、心からの祈りも同じものでした。「主よ、わたしは何をしたら良いのでしょうか。語ってください。」 イエス様の時代の当時の民衆は、教えてもらいたいと思ったから、みことばを聞きたいと望んだからイエス様のみもとに集まりました。 でも、聖書の教えを勉強した宗教家たちは、イエス様を殺そうとねらったのです。意識して聞きたくなかったからです。 ダビデの告白、経験とは次のようなものです。最後に詩篇から2箇所お読みします。 詩篇19:7-11
詩篇119:49-50、76-77
ひとことで、まとめると主を愛する者は、聞く耳を持っていると言うことです。 |