引用聖句:ローマ人への手紙6章12節-22節
ローマ人への手紙7:14
コリント人への手紙第II、5:15
今日のテーマは「主のために生きる大切さ」としたいと思います。 今読んだ箇所だけではなく、似ている箇所はもちろん新約聖書の中でいっぱいあります。たとえばパウロは、ローマ人への手紙12章1節に、 ローマ人への手紙12:1
また、コリントにいる兄弟姉妹に、パウロは書いたのです。 コリント人への手紙第II、8:5
もちろんパウロだけではなく、ペテロも全く同じように当時の信じる者を励ましたのであります。 ペテロの手紙第I、4:2
こういう箇所でみな強調しているのは、主のために生きることこそが、考えられない大切だけではなく、すばらしい特権なのではないでしょうか。 一つの質問について一緒に考えたいと思います。 いわゆる献身した生活は、いったい何なのでしょうか。献身は、主に捧げた自由意志の供え物です。 その供え物というのは自分自身であり、それはもはや人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためであり、前に読んだ聖句の中ではっきり記されています。 すなわち「あなたがたのからだを神に捧げなさい。」また「彼らは自分自身をまず主に捧げたのである」とは自由意志の供え物を意味しています。その供え物は自分自身です。と言いますと、あなた方のからだを神に捧げなさい。彼らは自分自身をまず主に捧げたのである。」と書いてあります。献身は、主に捧げた供え物です。 だから「あなたがたのからだを神に捧げなさい。彼らは自分自身をまず主に捧げた」と書き記されています。そしてこの献身の結果は、肉に起こる残りの生涯を、もはや人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためであるとあります。 したがって、私たちはちょっとだけ5つの点について、一緒に考えてみたいと思います。 第1番目、供え物 第2番目、自由意志の供え物 第3番目、自分自身の供え物 第4番目、主に対する供え物 第5番目、主なる神の御旨によって過ごすことの大切さ まず供え物について考えましょう。 献身は、満たした手を意味しています。すなわち旧約聖書の時代で、主なる神を崇拝する人々は、自分を最も良い物を持って主に捧げたんです。満たした手で礼拝する者は、主の御前に出るわけです。これは献身です。 同じように主から救われた者は、大喜びで自分自身を主に捧げます。 昔、多くの人々は奴隷として取り扱われました。ある日、恐ろしくて震えている奴隷が、競売の場所に立ちました。今までに彼は、奥さんと子供たちと一緒にもちろん奴隷として働いたのです。しかし、今から離れるかもしれない。 喜びなしに彼は恐ろしい競売の終わりを待っていました。最後に、良い着物を着ている主人が、彼に向かって「ねえ、私はあなたを買ったよ。あなたは自分のものだ。」と言いました。「はい。ご主人様」と彼は素直に答えました。 「私はあなたを高い値段で買ったよ。」奴隷はうなずいて、痛く泣きながら賛成したんですけど「私はあなたを買ったばかりでなく、あなたを自由にするために買ったんだよ。さあ、あなたは自由です。どこへ行ってもよろしい。」と言った時、奴隷はひれ伏して「いいえ。ご主人様、私はいつまでもあなたの奴隷として働きたい。どうぞ、あなたに仕えることを許してください。」と答えました。 同じように、イエス様は、我々を悪魔の奴隷から解放されました。イエス様は、神の小羊として、ご自分の血によって、我々のために代価を払ってくださいました。私たちもこの奴隷と同じように、主の御前にひれ伏し、私たちの全生涯を、私たちの救い主として、救い主に捧げようと思わないでしょうか。 イエス様は、我々の全生涯の生贄、供え物を欲しいのです。これは絶えず覚えるべきです。ですからパウロは、いつも大喜びでキリストの僕、すなわち主イエスの奴隷であるパウロと書いたのです。 同じ事実は、イエス様の生活によって明らかになります。 ヘブル人への手紙10:7、10
この聖句は、詩篇40篇6節から取りました。「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。」とあります。 ヘブル人への手紙のことばと今読んだ詩篇のみことばは、意味として同じですが、言葉の使い方はちょっと違います。「あなたは、いけにえやささげ物を望まない。」という表現がヘブル人への手紙と詩篇に同じです。 しかし、次の「わたしのために、からだを備えてくださった」とはヘブル人への手紙の手紙にだけ書いてあります。その代わりに詩篇で「あなたは、わたしの耳をつきぬいた。」と書いてあります。けれども、これはいったい何を意味しているのでしょうか。 もし、自由にさせられた奴隷は、自由意志に主人の家で働き続けたい時、戸の柱に立たなければなりませんでした。そして主人は、きりを持って奴隷の耳を突きぬきました。突きぬきられた耳は、自由意志で全生涯を、愛する主人に捧げたことを意味しています。 聖霊はイエス様は、いかにして父の御旨に従ったかを示すために、この耳を突きぬくことを用いています。「あなたは、いけにえと供え物とを喜ばない。あなたは、わたしの耳を突きぬいた。」とあります。 また、イエス様はパリサイ人たちに向かって、「わたし自身の考えでするのではなく、わたしを遣わされた方の御旨を求めているからである。」と言われたのであります。 また「わたしは、あなた方の中で給仕をする者のようにしている。」とイエス様は言われたのです。イエス様は、自分の意思、自分の全生涯を大喜びで父に捧げました。 我々の場合はどうでしょうか。はたして自分の全生涯を、自分を愛していらっしゃるイエス様に捧げようと思わないのでしょうか。私たちは、主のものであるかどうかが、今問題ではなく、大切なのは私たち一人ひとりが、もうすでに主の所有物である自分を、主に捧げたかどうかが疑問です。 生まれ変わった者だけが、主に献身することができるのです。したがって、救われるために別に献身しましょうなどと言うのはおかしい。馬鹿らしいことです。私たちは、主のものだからこそ、新しく主に全生涯を捧げましょう。 私たちは、私たちのものではない。なぜならば主が高い代価を払いましたから。 聖書は言っています。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、主から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたはもはや、自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。それですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。」 主に対する供え物は、もうすでに主に属している者を意味しています。尊い血潮によって清められた全生涯を、主に捧げましょう。イエス様は、我々の供え物をいつも受け入れます。なぜなら、もうすでにご自分のものであるからです。 ある日、金持ちが宝石店に行って、とっても高いダイヤモンドを買ったけれども、買った金剛石を持ち帰りませんでした。しかし、次の日、宝石商人は反対して、買ったダイヤモンドをあげなかったのです。法律的にあのダイヤモンドは、金持ちのものでしたが、商人の不正によって役に立ちませんでした。 私たちは、この不正な宝石商人に似ているのではないでしょうか。「あなたがたは知らないのか。自分のからだは聖霊の宮である。あなたがたはもはや、自分自身のものではない。あなたがたは、もうすでに代価を払って買い取られたのです。」 私たちは、続いて自分で支配者となりたいのでしょうか。尊い血潮によって清められた全生涯を、主に捧げましょう。私たちは、突きぬけられた耳を持っているのでしょうか。突きぬけられた耳は、自由意志で全生涯を愛する主人に捧げたことを意味します。 2番目、主に対する供え物は、自由意志の供え物であるべきです。 主なる神は、人間の意思を尊敬しますから、決して強制しません。イエス様は、我々の心の戸の前に立って、願って、戸を叩き泣いておられるかもしれない。 しかし、私たちを決して強制しません。主のみことばは、我々に当てはまるのでしょうか。「わたしは、お前を幾たび集めようとしたことであろう。お前を幾たび集めようとしたことであろう。それなのにお前は、応じようとしなかった。」と。私たちは、主に次のように言いたいのでしょうか。 「主よ。あなたは私のために一番高い代価を払ったことを、私は知っている。しかし献身するために今適当な時期じゃないんだと思います。私は、いろいろな計画を持っていますし、そして快楽が欲しいのですから。今全生涯を主に捧げたくないのです。」と主に言えるのでしょうか。 ご存知のように、イスラエルの民の最初の王様は、サウルという王様でした。彼は王様になった時、サムエルという預言者は民に言った。「主が選ばれた人をご覧なさい。民のうちに彼のような人はないではありませんか。」民は皆「王、ばんざい。」と叫んだと書いてあります。 しかし、よこしまな人々は、この男が「どうして我々を救うことができよう。」と言って彼を軽んじ、贈り物をしなかった。しかし、サウルは黙っていたと書いてあります。同じように、私たちの王様である主イエス様は、ご自分のご栄光を捨てて、弟子たちの中で給仕をする者のようにしていた。 私たちのために、十字架に犠牲の死によって罪そのものとされました。イエス様は、私たちの愛が持つように罪とされました。しかし私たちは、今までに主に献身しようと思いませんでした。それにもかかわらずイエス様は、私たちを強制しなかったんです。決して強制しません。イエス様は、サウル王と同じように、黙っていた。 なぜなら愛は、自由意志の供え物を欲しいのであるから。匂いなしのバラ、天から降った汚い雪はありえないことです。しかし同じように、強制した献身は馬鹿げたことです。自由意志の供え物は、主の心を喜ばれる献身です。イエス様の犠牲の死は、自由意志の供え物、本当の献身でした。 もし私たちは、イエス様の大いなる苦しみと尊い血潮を考えると、これは言い表すことのできない、父なる神の偉大なる愛であることを認めざるを得ません。 ところで私たちは、心を頑なにして、主に全生涯を捧げたくないという状態を取れば、イエス様は、黙っておられます。決して強制しません。私たちの愛する主の声を聞きましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」 私たちは、自分の心の戸を開こうとしませんでしょうか。主に自分の全生涯を明け渡そうなのではないでしょうか。自分の一番愛したものも主に捧げようとしないのでしょうか。 自分の全生涯を主に捧げた人々は決して損しません。「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。これは、主との親しい交わりを意味します。主との交わりは、何という大きな富でしょうか。 3番目、主の欲しいものは、私たち自分自身です。 金や時間や奉仕は、主の心を満足させられません。「主は愛なり」、したがって主は、我々の心を欲しいのです。 箴言23章26節、ソロモン王は次のように書いたのです。主の口になって言ったのです。 箴言23:26
もちろん本当の献身をした人は、自分の金や時間や才能を全部、主に捧げます。しかし、多くの信者は、自分の力を尽くし、金や時間を捧げます。 ところで、これは充分ではありません。主に喜ばれる供え物は、自分自身です。と言いますと、「あなた方のからだを神に捧げなさい。」と書いてあります。 初代教会の兄弟姉妹たちについて、パウロは次のように証ししました。「彼らは、自分自身をまず主に捧げたのである。」と。主は、イエス様は、私たちの罪のためにご自身を捧げられました。私たちは、自分を主に捧げようと思いませんか。 パウロはいつも、私たちの主イエスキリストについて語っています。もし、わたしたちは自分を主に捧げなかったら、主を主としてまだ受け入れません。 あらゆる信者は、イエス様を自分の救い主として受け入れたことは明らかです。「イエス」は何を意味しているのでしょうか。 マタイの福音書1:21
したがって、イエスという名前は「救う者」「救い主」を意味しているのです。すなわち、過去におけるイエス様は、私たちを罪の債務から救ったのであり、現在におけるイエス様は、私たちの罪を罪の力から解放され、未来におけるイエス様は、私たちを罪の免罪から救うお方です。 私たちは赦された罪に対する平安を持っていますし、また打ち勝った罪の勝利を経験します。そして将来における私たちは、無くなった罪の栄光の日を待ちます。 イエス様は、本当に偉大なる救い主です。私たちは、パウロと一緒に「私は、自分の信じてきた方を知っている。」と言うことができれば本当に幸いです。 この偉大なる救い主であるイエス様は、「いつも生きていて、私たちのためにとりなしておられるので、イエス様によって神に生きる人々を完全に救うことが出来る」とヘブル人への手紙7章25節に書き記されています。どんな苦しみや困難があっても、私たちの救い主は、決して失敗しないのです。 彼は、あらゆる悲しみを解決する救い主です。たしかにイエスという名は、救い主を意味しているばかりでなく、この偉大なる尊い救いの業を行なったお方です。 イエス様は、我々の救い主です。これは我々の永遠にわたる喜びです。 さて、キリストという名前は、油注がれた方を意味します。そしてイエス様は、ご自分の霊をもって我々にも注がれました。ですから私たちは、主イエス様を、キリストとして油注がれた方として知るようになったのです。 パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのであります。 コリント人への手紙第II、1:21-22
ヨハネも当時の信じる者にまた次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、2:20
聖霊すなわち神の霊、主イエス様の御霊は、我々の内に宿っているのです。聖霊は、我々を慰め、導き、清め、主イエス様のものを現し、イエス様に似た者とし、私たちに愛と平安と喜びを与えてくださいます。救われた者は、主イエス様を救い主として、また油注がれた方として受け入れました。 ところで、もしイエス様は、我々の救い主だけであるならば、祝福の満たしを経験しません。祝福の満たしへの道は、イエス様の絶対的な支配です。イエス様の絶対的な支配のもとに充足していることによってのみ、満たしがやって来ます。 イエス様の絶対的な支配のもとに充足しているのは、奴隷のみじめな生活ではなく、勝利と栄光と満たしを意味しています。これは事実です。 イエス様は主でなければ、それは我々の困難、霊的な弱さと失敗の源です。イエス様は、我々の救い主であることは本当にすばらしい現実です。けれどもイエス様は、救い主であるばかりでなく、我々の主、支配するお方とならなければなりません。 私たちは、パウロと同じように「私の主イエスキリスト」と言えるのでしょうか。主とは主人、支配者を意味します。したがって私たちは、全生涯を主に捧げたかどうかが問題です。 イエス様は、我々の金、我々の時間、我々の才能、私たちの奉仕を支配することができるのでしょうか。私たちは、イエス様を主と名づけられるでしょうか。自分の力でこれはあり得ません。聖霊によらなければ、誰でもイエス様は主であると言うことはできないとあります。 コリント人への手紙第I、12:3
またパウロは、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」とローマ人への手紙8章16節です。私たちの霊とともにと書いてあります。 私たちの考え、また私たちの感情や志すことと共にではなく、私たちの霊とともにと書いてあります。どうでしょう。御霊みずから、我々の霊とともに私たちの罪が赦されている、また私たちが神の子であることを証ししているのでしょうか。 しかし、同じように聖霊自ら我々の霊とともに、私たちが主イエス様の支配のもとにあるということについて証しするでしょうか。 イエス様は、我々の生涯の絶対的な支配を持っているのでしょうか。 初代教会の兄弟姉妹について書かれています。すなわち「彼らは、自分自身をまず主に捧げたのである。」 ヨハネの福音書20:1-2
ヨハネの福音書20:27-28
ヨハネの福音書21:7
マグダラのマリヤとトマスとペテロとヨハネは、皆イエス様を主と名づけられたのです。彼らは、全生涯を愛する主に大喜びで捧げました。イエス様は、彼らを強制しなかったんです。彼らは、意識して自由意志で、自分自身を愛する主に捧げました。 初代教会の兄弟姉妹は、イエス様を主として認められ、自分自身をこの主に捧げたのです。 イエス様は、我々一人ひとりの救い主だけではなく、我々の油注がれた方、すなわち主なのでしょうか。 4番目、私たちは、主の御心にかなう供え物、主ご自身に捧げられた供え物であるべきです。 召しに対するまた働く場所や働く方法に対する供え物ではなく、主ご自身に対する供え物であるべきです。 ある人々は、主に捧げた生活と伝道者になる事は同じだと考えていますけど、これは大きな間違いです。問題なのは、主ご自身に捧げられた供え物です。もしこの問題が解決したら勝利を経験します。 聖書は言っています。「彼らは、自分自身をまず主に捧げたのである。彼らは自分自身をまず主の御心に従って、主に捧げまた私たちにも捧げたのである」とあります。多くの信者は、熱心に主のために働く、他の人々を救おうと努めています。しかし、何とわずかな実、永久的に残る実でしょう。 どうしてでしょうか。彼らは決して、自分自身を主に捧げなかったからなのではないでしょうか。 初代教会の兄弟姉妹は、まず自分自身を主に捧げたとあります。 主は私たちを、ご自分の器、ご自分の道具として、いつ用いるのでしょうか。ということは解かりません。 また主は、どんな奉仕のためにお使いになるだろうということも解かりません。 しかしイエス様は、私たちの罪のためにご自分を捧げられましたから、私たちも主に全生涯を捧げましょう。 最後に5番目、自分自身を自由意志で、主に捧げる供え物は、自分の意思によらないで主の御旨によって過ごすことのためです。 主の御旨によって過ごすことが問題です。主に捧げられた生活の目的は、御心が行なわれることです。 肉の思いと主の御心は正反対です。生まれながらの人は、主の完全な御心に対して騒動を起こします。イエス様の偉大なる救いを受け入れた人間は、主の御心を行なおうと願っています。 献身の結果は、肉における残りの生涯をもはや人間の欲望によらず、主の御旨によって過ごすためです。 私たち、自分自身を主に捧げようと思わないでしょうか。あの奴隷と同じように、自由意志で全生涯を、大喜びで主に捧げましょう。 最後にもう一箇所読んで終わります。 歴代誌第I、12:18
私たちは尊い血潮とイエス様の言い表すことのできない尊い犠牲の死を考えると、同じように叫ばざるを得ないでしょうか。 「主イエスよ。我々はあなたのもの。生きておられる神の子よ、我々はあなたと共にある。平安あれ、あなたに平安があれ。あなたを助ける者に平安があるように。」 これこそが、自由意志の献身なのではないでしょうか。 |