主イエス様の呼びかけ


ベック兄

(沖縄喜びの集い、2010/02/21)

引用聖句:イザヤ書6章1節-6節
1ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
2セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
3互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
4その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
5そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
6すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。

マタイの福音書28:18-20
18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ただ今、兄弟が言われたように、信じる者は戦いの中に投げ込まれるものです。
私は、前にスイスの神学校に行きました。何年間か、その校長先生はよく言ったんです。「皆さん覚えてよ、あなたがたは、悪魔の憎しみを感じなければ、あなた方の信仰は、根本的に間違っている。」
もちろん、我々の敵とは決して人間じゃない。その背後に働いているのは悪魔です。けど今、兄弟が言われたように、祈りの輪で24時間祈り続ける兄弟姉妹がいるから、本当にありがたい。だから希望だらけじゃないでしょうか。

主は生きておられます。主は祈りを聞いてくださるお方です。イエス様は、今から勝利者になるのではない、もうなっちゃたよ。確かにこの目で見える世界をみると、支配者はイエス様じゃないよ。悪魔じゃないの。目に見えるところによると、相当に。
けどもイエス様は、悪魔に支配する権利を与えていてくださるのです。最終的に悪魔だって主の御心が成し遂げられるために、用いられる器にすぎない。
イエス様は勝利者です。我々は、戦わなくちゃよりも、主を仰ぎ見れば、ただ立って主の働きを見なさい。傍観者として。主は必ず恵んでくださいます。

今日のテーマは、主イエスの呼びかけです。イエス様の呼びかけとは、確かにすばらしいけど、もっとすばらしいのは、イエス様ご自身じゃないの。
このような、いわゆるよろこびの集いとは、何のためにあるかと言いますと、色々なことを学ぶためじゃなく、イエス様をより良く知るためです。
イエス様は本当に比類ないお方です。

2ヶ月前でしょうかね、1人の若い兄弟が天に召されました。残された奥さんは、35歳。35歳でやもめとして、子供のために頑張るのはあんまりおもしろくない。
彼女は、何を書いたかといいますと、「愛する兄弟は、イエス様のもとへ帰っていきました。たくさんのみことばの種が、蒔かれました。葬儀の時、何百人がイエス様のことを聞いたのです。」
彼女にとってこれは、喜びでしたよ。たくさんのみことばの種が蒔かれました。天国がものすごく近くに感じられ、感謝です。イエス様はすばらしい。早く迎えにきてくださいますように。もうすぐ天国ですよ。「イエス様はすばらしい」と言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。

今話したスイスの神学校でも昔そうだったし、今もそうなんです。
玄関に入るとすぐ世界地図があるんです。そして、左側に何が書いてあるかと言いますと、「わたしのもとに来なさい」、右側は「全世界に出て行け」、おいでおいで、出て行け。イエス様の呼びかけとは、そういうものなんです。
他のことばで言いますと、救われるために救われたのではない。用いられるために救われたのです。そして、イエス様の呼びかけとは、結局2種類です。1つは、神の子とのため、結局救われるためです。

たしかに、へんなことを教える人間もいます。すなわち人間は皆神の子供です。うそ。
イエス様は、当時の比較的りっぱな生活をおくった聖書学者たちに何と言ったかといいますと、「あなたがたの父親は悪魔です。」そうしたら、聖書学者たちは、神の子じゃなく、悪魔の子でした。
けども、イエス様の呼びかけの目的とは、「人間は神の子供となってもらいたい。」、けどもそれだけではなく、もう1つの呼びかけとは、イエス様の弟子となるための呼びかけなのではないでしょうか。イエス様は、弟子たちを呼ばれた時、マルコの福音書の中で多くのことが、書かれています。

マルコの福音書1:16-20
16ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。
19また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。
20すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。

マルコの福音書2:13-17
13イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。
14イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
15それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
16パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」
17イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マルコの福音書3:13-14
13さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。
14そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、

ここで書かれてます、どうしてイエス様は呼んだかといいますと、彼らを身近におくためだけではなく、彼らを福音を宣べ伝えさせるために遣わしたのであります。
イエス様の呼びかけとは、従って、2種類です。神の子となるため救われるため、それからイエス様の弟子となるため、用いられるための呼びかけです。
中心人物とは、言うまでもなくイエス様です。明らかに呼びかけておられることとは、まさしくイエス様ご自身にほかならない。そこに記されている文章の動詞を見るとわかるように、イエス様は、常にまず始めに行動なさり、率先して行動を起こす方であることがわかります。

3章13節「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」とあります。そして、1章16節、19節、2章14節何回も何回も同じことばが出てきます。「イエスはご覧になった。」、「イエスはご覧になった。」云々・・・
そして、1章17節、20節、2章14節同じことばが何回もでてきます。すなわち「イエスはお呼びになった。」、イエス様はたとえば、ザアカイやサウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられました。
このことは、非常に重要な意味をもっています。なぜならばイエス様と私、イエス様とあなたというふうに、イエス様との1対1の関係こそ非常に大切な関係であるからです。また人間がイエス様を選んだのではない。イエス様が人間をお選びになって、その中に入って関わりを持って下さったからです。

今日でも人間の力によっては、人間の決定によっては救われることはありません。
本当の意味で救われた人は、どうして救われたのか、いくら考えても分からない。説明できない。やっぱり主は、恵んでくださったとしか言えないのではないでしょうか。
イエス様が我々の心の目を開いてくださり、自分の本当の姿と、イエス様によって完成された救いとを明らかに示して下さったとしか言えないのではないでしょうか。

イエス様の呼びかけとは、マタイの福音書11章28節に記されているように今日でも、1人1人にあてはまることばです。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、色々なことで悩んでいる人は、わたしのところに来なさい。」、キリスト教に入るんじゃない、ただわたしのところに来なさい。
わたしのところに来る者をわたしは、決して捨てません。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

罪を赦す。変わらない平安を与える。永遠のいのちを自分のものにすることができる。ダメな者のために、助けを求めている人のために、絶望している人々のために、イエス様は言っておられます。
そして悔い改めと信仰を通して、イエス様の現実と救いが明らかになります。けど、悔い改めと信仰は、決して人間からやってくるものではなく、まさに上から与えられる賜物です。
それですから信じる者とは、この贈り物を喜んで受け取った人々であるといえます。あなたはもうすでに、お受けになりましたか。それともまだお受けになっていらっしゃらないのでしょうか。

我々の人生にとっていったい、何が必要なのでしょうか。一番大切なことは、今話したように救われること、神の子供となることです。すなわち真の救いにあずかることです。
そのために、何が必要なのかといいますと、まず第一に自分の救われなければならない必要性を知ることです。
第二に人間的な努力は空しいということを、認めることです。すなわち、自分も他人も、もちろんあらゆる宗教も、自分自身を救うことはできないということです。すべての人間的な努力は、見込みなく、望みなきものです。

聖書が言っている救いとは、もちろん罪の問題の解決です。罪のゆえに、主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務は支払われ、罪は許され、永遠のいのちを持つと聖書は言っているのです。
けど、これは人間や宗教によるのではなくて、イエス様によってのみ与えられます。なぜならば、イエス様は罪に対する神の裁きの的になられ、ご自信の聖く、尊い血によって債務を支払い、罪を許してくださったからです。
この真理の事実を心で受け入れ信じる者は、神の平和、罪の許し、永遠のいのちを持つことができます。

すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することはできないため、どうしてもイエス様が必要であると告白する状態に至らなければならない。
「イエス様、わたしは今、罪人としてあなた様の身元にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖って下さったことを心から感謝いたします。」という態度をとれば充分です。
このようにイエス様に向かって言うことのできる人は本当に幸いです。

もう一回まとめましょうか。創造主なる神の子供となるためには、2つのことが必要です。第1は、主の言われることを認めることです。第2は、イエス様を受け入れることです。
けど、主は何を言っているのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病、それは全く改善のない改善の望みがないと言っておられます。けど、イエス様は我々の身代わりになって下さった。そしてイエス様がなして下さったことは、充分です。
そして第2の要求されているのは、主を受け入れることです。聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章17節の後半に次のように書かれています。

ヨハネの黙示録22:17
17いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

ここで、いのちの水とは、もちろん主による救いの贈り物にほかならない。ここに、ほしい者は受けるがよいと記されていますが、私たちが本当にほしがっているかどうかが、問題です。
欲っすれば受けるにちがいない。けど、ほしいと思わなければ、将来は真っ暗闇です。
イエス様は、永遠のいのちを与えるために決して、強制するようなことはなさいません。ほしい者は受けると約束されています。受ける者は持つのです。すなわち、その人は神との平和を得、罪の許しを受け、主なる神の子供とされると喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。

けれども、イエス様の呼びかけとは、前に話したようにそれだけではありません。、第2番目のイエス様の呼びかけとは、弟子となるように、わたしについて来なさいと呼びかけておられます。「人間をとる漁師にしてあげよう。」
救われるために従いなさいじゃない。けど、用いられるために主の弟子とならなければならない。けど、このイエス様の呼びかけとは、いったい何を意味しているのでしょうかね。
私たちは、救われるために救われているのではなく、主に仕えるために、用いられるために救われたということ。

救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。まだ救われていない人々も救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は、問題、疑わしいものです。
イエス様は、救いを受け入れるように、重荷を下ろしてあげようと呼びかけられた後で、ご自分に仕えるようにとも、呼びかけておられるのです。
けども、イエス様に仕えるということは、いったい何を意味しているのでしょうか。それは、あれこれ行うということじゃなくて、イエス様に従っていくことを意味しているのです。

それでは主に従っていくとは、どういうことなのでしょうか。
イエス様についていくとは、自分自身を大切にしないこと、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味しているのだと思います。
ちょっと1箇所見てみましょうか。

マタイの福音書16:24-25
24それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
25いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

ここで、いのちを救おうと思う者はそれを失うと記されていますが、原語を見ると、いのちじゃなくて、魂と書いてあるのです。自分の魂を救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。
人間のもっているいわゆる魂の働きとは、何でしょうか。まず第一に、考えること。第二に、感じること。人間の感情です。第3に、欲することです。人間の意志です。
人間の魂の能力とは、そうなんです。したがって、自分自身を否定するということは、自分の考えや、自分の感情、あるいは意思を支配させないことです。

それに対して、魂を失うということは、自分自身の意思を心の座から降ろし、イエス様をそこに置いて第一の座につけることです。
これがなければ、決してイエス様に従っていくことはできません。
イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、聖書はもっと強い表現を使っているのです。すなわち、自分自身を憎むことを意味します。

ルカの福音書14:26-27
26「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
27自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

救われていても、結局用いられない。わたしの器となることができないということです。自分を憎むこととは、自分自身に対して信用をおかないということが、どうしても必要です。
自信に満ちた態度がダメにならないと主に従うことができません。
イエス様なしには、1歩も進むことができないというふうにならなければならない。

イエス様は色々なことを話され、証し、告白しました。1つの告白とは、「わたしは自分の力だけでは、どうすることもできません。」とイエス様は告白したのです。
イエス様の思いだけを大切にしないと、妨げになります。ところが自分自身を信用しないところが、自分自身が低くなければ、わたしに従うことができないとイエス様は言われたのです。
いったいどうして、聖書は憎むというような非常にきびしいことばを使っているのでしょうか。

パウロの答えは明確でしょう。パウロはもちろん、イエス様に出会ってから、命がけでイエス様を伝えるようになっちゃった。けど、ローマ人への手紙7章18節で彼は告白しました。「私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」
確信する。どうして?経験したからです。結局、私はダメ、イエス様が守ってくださらなければ、導いてくださらなければ、用いてくださらなければ、おしまい。
旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で、次のように書かれています。こう言う箇所を見ると私たちは、誰に向かって言われたのかということです。このことばも、もちろん異邦の国々の人に言われたのではなく、主によって選ばれた民に、結局主を信じた人々に言われたことばです。

イザヤ書55:8-9
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

もう比べられない、まったく違う。これを経験するとショックです。ペテロもこのショックを受けたことがあるんです。だから用いられるようになったんじゃないでしょうか。
ペテロはね、マタイの福音書16章を見ると、次のように言ったのであります。

マタイの福音書16:21
21その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

弟子たちにとっては考えられないショックでした。イエス様が殺されることが。

マタイの福音書16:22-23
22するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
23しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

イエス様のためにすべてを捨てて、イエス様に従うようになった人は、急にサタンと呼ばれるようになった。用いられる器じゃない。知らないうちに、邪魔虫になっちゃった。
ペテロはイエス様をもちろん心から信じましたよ。信じていたにもかかわらず、イエス様から十字架を取り除こうとした時に、イエス様は、「サタンよ引き下がれ」と言われたのです。
なぜそんなことになったのでしょうか。その時ペテロは、本当の意味でのイエス様の弟子ではなかったからです。信じただけなんです。

確かにペテロの目的と動機は、別に悪くなかったよ。同情してイエス様を守ろうと思った。イエス様のためだったら、彼は命がけで戦ってもいい、そういう気持ちもあったんです。
けど、ペテロが人間的に考えて、人間的に行動したゆえにイエス様は、「サタンよ」ときびしいことばを発せられたのです。
すべてのことにおいて、わたしの思いではなく、主の御旨が行われますようにという思いを持って行動しなければならないということです。自分の思いを捨て、主の御心だけを大切にすることが、用いられるためにどうしても必要です。

マタイの福音書26章39節、42節まったく同じことばが書かれています。イエス様の祈りのことばです。

マタイの福音書26:39、42
39それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
42イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

イエス様に従うことは、毎日、自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。それは、終わりのない戦いの連続です。
さらにここで、自分自身を憎むということだけじゃなくて、自分の家族を憎まなければならないと書いてあるのです。いったいどういう話?
自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、まったくかえりみないということを意味しているのでしょうか。もちろんありえない。

あたりまえのことですけど、我々は1つの問題について考えると、一箇所だけを見ないで、聖書全体を考えなければならないのではないでしょうか。
多くの人々は、あることについて考えると、聖書から適当に一箇所だけ選んで、こう書いとるじゃないか、という態度をとるのです。これは非常に危ないことです。何があっても、聖書全体は何と言っているかと思うべきです。
言うまでもなく、主は1人1人の救いよりも、家族全体の救いを心から願っておられます。そうすると、家族を憎むとはいったいどういうこと。テモテへの手紙第I、5章8節に逆のことを書いているのです。

テモテへの手紙第I、5:8
8もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。

このことばと、前に読んだことばとは、一見したところまったく正反対のことを言っているように見えるかもしれない。聖書ははっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。
しかしながら、それと同時に私たちは、人間に対してよりも、主に対して、より忠実に従うべきであると聖書は言っています。
主、また主のみことばを第一の座につける者は、必ず家族を大切にします。けど、家族を第一の座につける者は、主を否定するのであります。イエス様は次のように言われました。これも非常にきびしいことばです。

マタイの福音書10:34-38
34わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
35なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。
36さらに、家族の者がその人の敵となります。
37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであると聖書は言っています。あいまいな態度と妥協によっては、救いが成就しません。
もしあなたが、家族の救いを真剣に望むなら、100%主の側に立たなければなりません。すなわちイエス様に従うということは、自分自身及び家族を否定し、憎み、イエス様を第一にすることになります。
妥協のない態度をとると、主はあふれるばかりの祝福を与えてくださいます。家族も約束どうりに導かれるようになります。

南ドイツのある家の外側に、ちょっと考えられない文章が書かれています。長いけど、考えるべき文章です。ちょっと紹介します。

あなたがたは、わたしを主と呼んでいる。しかし、わたしに頼ろうとしない。
あなたがたは、わたしを光と呼んでいる。しかし、わたしを仰ぎ見ようとしない。
あなたがたは、わたしを道と呼んでいる。しかし、わたしに従おうとしない。

あなたがたは、わたしをいのちと呼んでいる。しかし、わたしに近づこうとしない。
あなたがたは、わたしの知恵を認めている。しかし、聞く耳を持とうとしない。
あなたがたは、わたしの美しさを認めている。しかし、わたしを愛せない。

あなたがたは、わたしの富を認めている。しかし、わたしに頼もうとしない。
あなたがたは、わたしの永遠の存在を求めている。しかし、わたしを探そうとしない。
あなたがたは、わたしの恵みを認めている。しかし、わたしに信頼しようとしない。

あなたがたは、わたしの全能を認めている。しかし、わたしを褒め称えようとしない。
あなたがたは、わたしの誠実さを認めている。しかし、わたしを恐れない。
もし、わたしがあなたがたを呪われ、永遠の火に渡せば、驚いてはいけない。

ちょっと大変なのではないでしょうか。主は同じように言うかもしれない。
あなたがたは、よろこびの集いに参加する。しかし、聞く耳はないし、悔い改めようとしない。だから、あなたがたを祝福することができないし、わたしの力を現せないし、あなたがたを用いられない。
前に読んでもらいました箇所、イザヤ書の中で、イザヤは心から言ったのであります。「私を用いてください。私を遣わしてください」結局、そう言う人々を今日も探し求めておられます。

救われることとは、結構です。けど主は満足しない。イエス様は、主の恵みによって救われた人々を用いようと望んでおられます。
スイスの別の神学校の校長先生は、すばらしい歌を作ったんです。聖書に基づく歌です。
聖書の箇所は、エレミヤ書8章20節です。

エレミヤ書8:20
20「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

どういうメロディか分からない、けど文章だけ初めて読んだ時、圧倒されてしまった。

恵みの時は終わりに近づいている。広い世界に今や静かに、終わりの日が近づいている。
遠い砂漠の底から、不安な叫びが聞こえてくる。

私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。
私を照らす神の恵みなくしては、私たちは苦しみの闇の中、暗い道を行かなければならない。永遠に、永遠に。

あなたたちは歌い、喜びに満ちている。自分は神の子であると言う。
私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。

あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。
あなたがたは、なぜ神様がそのひとり子を遣わして、自分たちを愛していることを教えないのか。

あなたがたのおかげで、自分たちは、それを知らずに希望なく、滅びゆくのだ。
自分たちは、死ぬために生まれたのであり、死は永遠から永遠に至る我々の運命なのだろうか。

私たちには、星が輝かない。約束の光も照らされない。遠くの方に砂漠の雷が聞こえる。
なぜ、なぜ、あなたがた達は急がないのか。神は行って、全世界に十字架の勝利者を述べ伝えよと言っているのに。

あなたたちは、私達のあわれな心のために、喜ばしい知らせを持っている。
傷を癒す薬を、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに。なぜそんなに長く、沈黙しているのか。あ

なた達の信仰の岩に至る道を示すことばを、私達に聞かせて、聞かせてください。
私達の涙をぬぐってください。

私達が死につくのもあなたがたのせいです。私達の罪は悩ませ、夜は近づいています。
私達は、私達のたましいをサタンの力に与えなければならない。永遠に、永遠に。

遠くの国々から、幾百万という人々が、「収穫の主よ、聞きたまえ」と呼んでいる。
私達信者に新しい恵みを与えてください。

私達の罪を許してください。待ち焦がれている魂の所へ十字架のことばを運ぶ者となさしめたまえ。
彼らが永遠に、永遠に滅びないように。

救われることとは、すばらしい恵みそのものですけど、充分じゃない。主は、1人1人を用いたいと望んでおられます。我々の大好きな愛する姉妹のように。
あちこちの家庭集会で、その遺言をいつも紹介します。もう1回紹介しましょうか。もう皆、暗記しているでしょうけど、すばらしい。博士論文よりもずっとすばらしい。

「主の御名を賛美します。今、私は元気です。けれども、いつ召されるか分からないので、皆さんに最後のことばを残しておきたいと思います。
私の今の気持ちは、詩篇23編の「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」というとおりです。
また、「私の杯はあふれています」とのみことばは、何とうれしいことでしょう。私もそのように言えるように、導いてくださったのは、イエス様です。

ありがたいことです。イエス様がいつも共にいてくださる、その人生は何とすばらしいことでしょうか。私は、その喜びで、平安で、希望で満たされています。
ですから、今何の心配もありません。思い煩いがありません。天国に行くことを喜んでいます。皆さんとの思い出はたくさんあります。

楽しいことがいっぱいありました。私のために、色々なことをしてくださいましたね。よく尽くしてくださったね。本当にありがとうございました。
1人1人の幸せを心から願っています。主に祈っています。イエス様の豊かな祝福がありますように。私はいつまでも、主の家に住まいましょう。主イエス様に心から感謝いたします。」

姉妹は、神の子供になっただけじゃなくて、イエス様の弟子になって、大いに用いられたのです。




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