主の呼びかけ・願い


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/05/31)

引用聖句:詩篇81篇11節-16節
11しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
12それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
13ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。v
14わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。」
15主を憎む者どもは、主にへつらっているが、彼らの刑罰の時は永遠に続く。
16しかし主は、最良の小麦をイスラエルに食べさせる。「わたしは岩の上にできる蜜で、あなたを満ち足らせよう。」

今読んできてくださった10節は、多くの人々にとっての大好きなことばの一つじゃないでしょうか。
これは主の呼びかけですかね。主の願いです。「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」
主しか出来ないのではないでしょうか。

「満ちる」ということばは、聖書の中でよく出てくることばです。「満ちる」とは終わりの時を意味します。すなわち終わりの時代には、悪が満ち満ちて成熟し、また正義も満ち満ちて成熟に至ります。
イエス様を退ける者は、いっそう遠くイエス様から遠ざかるようになります。そしてイエス様を喜ばせようと思う人は、自分自身を無条件にイエス様に明け渡すことによって、イエス様に似た者になっていきます。
我々にとって何よりも大切なのは、私達が何によって満たされているかなのではないでしょうか。我々の動かす力がどこから来るものであり、我々の支配者が誰であるかということです。

今日は、簡単に一つの面白くない点について考えたいと思います。すなわち人間の心、悪に満ちている人間の心についてです。
いわゆるヒューマニズムの立場に立つ人々の考えは、人間の心の中に良いものがあるという考えが基礎になっています。
これらの人々は、人間の環境が改善され、人間が自分で努力をするならばより良いものになることができるという考えです。もちろん夢の世界です。

主なる神のみことばである聖書は、人間の心ははなはだしく悪に染まっている。その中には何一つ良いものがないと言っています。もうすでに、聖書の初めの創世記を見ると書いてあります。
その時、人間は何人いたのかちょっと分かりませんけれど。

創世記8:21
21人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

これは主の判断です。
だいたい2,600年前に、エレミヤという預言者も同じようなことを言ったのです。

エレミヤ書17:9
9人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

とあります。すなわち心は、よろずのものよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
イエス様も全く同じことを言わざるを得なかったのです。よく知られている箇所です。

マルコの福音書7:21
21内側から、すなわち、人

人とは人間、全人類、未信者だけではない、

マルコの福音書7:21-23
21の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
22姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
23これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

外側からではない。これこそが人間が誰でも心の中に抱いている思いであると、何でも知っておられる主は言われます。
我々を取り囲んでいるいろいろな世のもの、つまり週刊雑誌やテレビの番組や、人々の愛のない結婚生活や非常の経済的な状況。
またモラルの退化している政治の時代などを考えあわせてみると、聖書の指摘している事柄が真実であることを認めざるを得ないのではないでしょうか。ソロモンという王様は書いたのです。

伝道者の書9:3
3人の子らの心は悪に満ち、生きている間、その心には狂気が満ち、それから後、死人のところに行く。

とあります。また、

エゼキエル書9:9
9この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。

とあります。これらの言葉はまさに、現在の状態に対して語られているのではないでしょうか。
人間の心がいかに悪に染まっているかということを、ちょっと新約聖書から3つの例を引いて考えてみましょう。使徒の働き13章から魔術師エルマの例を引いてみましょうか。
パウロは、彼について次のように言いました。ちょっと大変なことばです。

使徒の働き13:10
10言った。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。

エルマは、意識して真理に敵対した者でした。
真理のみことばの特徴はありのままであること、また素直であることです。エルマはこれとちょうど反対に、偽りの者またよこしまの者と言われたのです。
2番目の例はナザレ、イエス様の故郷の人々の例です。ルカの福音書4章を見ると書かれています。イエス様が故郷の人々に、福音を述べ伝えた時、彼らが初めて示した反応は良いものでした。

ルカの福音書4:22
22みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。

けどもイエス様が彼ら自身について、すなわち彼らの悪に満ちた心について真実をありのままに語られた時、彼らはもう大変だった。

ルカの福音書4:28-29
28これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
29立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとした。

これを見ると解かります。ナザレの人たちはひどく怒り、つまり怒りに満たされイエス様を追い出して殺そうとしました。
彼らは自分自身ではなく、敬虔な者であると自認していたのです。彼らは安息日ごとに会堂に集い、神のみことばを聞きましたけど、自分自身の心をまっすぐに見つめて悔い改めようとする気持ちがなかったんです。
その結果、彼らの心を満たしていたものは、主にある喜びではなく、怒りでした。

3番目の例はアナニアとサッピラです。使徒の働き5章3節に書かれています。

使徒の働き5:3
3そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

ここで、「どうしてあなたはサタンに心を奪われたのか」と書かれていますけど、原語によればここは「サタンに心を満たされたのか」という意味になっています。
アナニヤとサッピラは初代教会に属する者であり、自分の財産の大部分を捨てて、主に仕えようという気持ちを持っていました。彼らはうわべでは自分の持っているものをすべて捧げて、主イエス様に仕えているのだという態度をとりました。
けど事実はそうではなかったのです。

彼らがとった態度は偽善者の態度でした。それゆえ、彼らの心には悪魔が付け込むすきがあったのです。彼らの心を満たしていたものは、イエス様の真実ではなく悪魔の偽善でした。
それゆえ主なる神の裁きが直ちに彼らの上に下されました。
私達もまた、主のみことばによって常に吟味されていなければならない。

我々の言葉と行いとの間に隔たりがあるのでしょうか。私達はいったい何によって満たされているのでしょうか。我々の心を満たしているものは、悪い考えや汚れ不品行でダメまた愛のないことではないでしょうか。
私達は聖書を読む時に、単なる習慣や義務的な気持ちから読むのではなく、「しもべは聞いております。主よ、お語りください」という態度をとって読んでいるのでしょうか。
主の前にへりくだり、自分自身は粉々に砕かれてもかまわないという心の用意があるのでしょうか。

これまで私達は、主なる神が人間に対してどのような判断を持っているかについて見てきました。この事柄が要約する言葉は、ローマ人への手紙3章に出てきます。
もちろんこのローマ人への手紙3章を見ても、新約聖書に書いているんですけど、全部例外なく旧約聖書からの引用なのです。

ローマ人への手紙3:10-18
10それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
11悟りのある人はいない。神を求める人はいない。v
12すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
13「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
14「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
15「彼らの足は血を流すのに速く、
16彼らの道には破壊と悲惨がある。
17また、彼らは平和の道を知らない。」
18「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

神に対する恐れがなければ、もう祝福があり得ない。主を恐れないともちろん祝福はないし、人間は結局悩むようになります。
主を恐れる恐れを持つ必要性について、聖書の中でたくさん書いてあります。一番短い文章かもしれない。

詩篇111:10
10主を恐れることは、知恵の初め。

皆さんご存知ですけど、この世で認められている者とはやっぱり出来る人々です。頭のいい人々、優秀な人々、魅力ある人々、あるいは金を持つ人々でしょう。権力を持つ者です。主の考えとは全く正反対です。
主の求めているのは心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れる人々です。砕かれている心がない人は祝福されえません。
みことばにおののかない人は、決して祝福されえない。主を恐れない人は、何があっても祝福されえないのです。

主を恐れた人々はかつていっぱいいました。例えば、アブラハムも主を恐れた人でした。
彼は何と言ったかといいますと、「私はちり灰にすぎません」、ちり灰だって役に立たないものです。おいしいスープでさえも作れないね。
アブラハムはそう言っただけじゃなくて、そう思ったんです。だから神の友と呼ばれるようになりました。

「私はちり灰にすぎない」、結局ちり灰とは全く価値のないものだから捨てられるべきでしょう。それと同じように、アブラハムは「私も全く価値のない者です。捨てられてもいい者です」と、詩篇の作者であるアサフも同じ思いだった。
彼は言ったんですね。「私は愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」と告白しています。結局私はどうしようもない者です。
主を恐れる兄弟姉妹は、へりくだって心砕かれた人々です。そしてまた主の光によって、自分のみじめさと自分の空しさを知るようになった兄弟姉妹です。今日、主はいったいどういう人々を探して求めておられるのでしょうか。イザヤは次のように答えました。

イザヤ書66:2
2――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主の救いにあずかるようになった人々にパウロは、次のように書いたのです。書く必要があったからです。
未信者じゃなくて、主の恵みによって救われた人々に、何を書いたかといいますと、ガラテヤ人への手紙5章19節から21節までお読みいたします。

ガラテヤ人への手紙5:19-21
19肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

未信者にではなく、信じる者に彼はこういうふうに書かなければならなかったのです。
なぜ、まだ滅びに向かっていく何百万という人々が、一度もイエス様のことを聞かないまま歩みつづけているのでしょうか。これはみな私達信じる者の罪のゆえです。
私達が自分のことを願っているからなのではないでしょうか。

なぜイエス様のからだである我々の兄弟姉妹は、弱く力なく、悪の霊に戦うのに弱いのでしょうか。それは私達が自分のことを考えているからです。
なぜ多くのせっかく救われた人々は、なまぬるく不熱心で、自己満足しているのでしょうか。それは自分のことばっかり求めているからです。
聖霊の宮であるべき我々の心は、往々にして悪魔の城となることがあります。聖霊の宮であるべき我々の心は、しばしば強盗の巣となってしまいます。これを信じ認めているのは、残念ですけどほんの少数の信者たちだけなのではないでしょうか。

私達は主の器となるため、主に仕えるために救われましたけど、しばしば我々の内に古き人が我々を支配し、指導してきたのではないでしょうか。
我々の心の中に浮かぶ願いは、イエス様の目的にかなっているのでしょうか。私達は主を見上げ、イエス様にご自分の形を内に形作って頂き、我々の思いは清められているのでしょうか。
パウロは、御霊によって私達が神とともに働く者であるということができました。けど私達は本当に御用にかなう者なのでしょうか。

イエス様は御自分の思うとおりに、我々を用いることができるのでしょうか。それとも私達は、自分の思うことばかりをやっているのでしょうか。
パウロは、おもにコリントで主によって救われた人々のことを考えたのです。彼らはパウロの悩みの種でした。
コリント人への手紙第I、6章13節からちょっと読みましょう。結局どうして書いたかといいますと、彼の祈った結果だったでしょう。彼らにとってどうしても必要だったにちがいない。

コリント人への手紙第I、6:13-20
13食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。
14神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。
15あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
16遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。
17しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
18不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

イエス様が私達を値を払って買い取ってくださいました。ですから私達は、イエス様のからだの肢体となることができました。からだは頭に従わなければなりません。私達は何とイエス様に不従順なことでしょう。また何と高ぶる者でしょう。
私達は、イエス様の肢体として用いられる器ではなく、遊女の肢体となってしまったのではないでしょうか。
ヤコブも救われた人々のために祈りました。救われても、彼らは彼の悩みの種でした。ヤコブの手紙4章4節です。非常にちょっと厳しいことばです。救われた人々に書かれたことばです。

ヤコブの手紙4:4
4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

主の御前に自分の本当の姿を知っている者は、取税人のように「私は強盗であり、罪を犯した者であり、御前に全くダメな者です」と言うでしょう。
主の祝福を得る道とはいったいどういうものでしょうかね。初めに自分の汚れた様を見て、自らの物足りない様を知り、飢え渇きを持つことです。
多くの人々は、自分ではなく他の人々に不満を投げかけています。批判したり、裁いたりします。他の兄弟姉妹にどんなに不満を持っても喜んでいるのは悪魔だけです。

他の兄弟姉妹を不満に思うのではなく、まず自分自身を物足りなく思わなければなりません。
私達主のものになった者は、聖霊の宮であっても強盗の巣になる可能性があるということを知らなければなりません。
ちょっと旧約聖書から一箇所読みます。

歴代誌第II、29:5-9
5彼らに言った。「レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。
6というのも、私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行ない、この方を捨て去って、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたからです。
7また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。
8そこで、主の怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らを人々のおののき、恐怖、あざけりとされました。
9見なさい。私たちの父たちは剣に倒れ、そのため、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、とりこになっています。

この箇所だけを見ても解かります。聖所の中に忌まわしい者が、汚れがあった。6節見ても解かります。当時の信じる者は主を捨て、主のすまいに顔をそむけなかった。
7節、主に香をたかずとありますが、すなわち信じる者たちは、祈りの生活を送っていなかったと解かります。主の助けを求めなくてもいい、何とかなるのではないか、そういう気持ちを持っていたのです。
また9節を見ると、ある者は剣に倒れ、ある者は捕虜となったとあります。これはみな、この世との妥協から生まれたものでした。今日の信じる者の群れの様と似ているのではないでしょうか。

主の宮に汚れがありました。これが民がみじめになった一番の原因です。
主の臨在の場所である宮は、主の御支配が去り、ただ汚れるにまかせられていたのです。
以前には共に集い、主を賛美し、御臨在を味わった人々が、今は主を離れ、主に用いられるどころか、悪魔の虜いなっているといった状態です。イスラエルの民が虜になったように喜びを失い、礼拝の精神を失くし、哀れな様になっていたのです。

当時、レビ人たちは自分の罪を認め、告白するためにいけにえの動物を祭壇に持ち入ったりこれを殺し血を流して、主に悔い改めました。
神の宮は主の御臨在と主の支配を表す場所でした。汚れが宮に満ちた場合、徹底的に清められなければなりません。
ヒゼキヤの時の汚れた宮は、16日間かかって清められました。我々も心を探っていただき、どんな小さな罪も主の御前に告白し、清めていただいたら幸いなのではないでしょうか。

私達信じる者として、与えられている使命はいったい何でしょうか。神の宮であることです。
私達は自分のものではなく、主のものです。
もう一箇所読んで終わります。

ヨハネの黙示録2:4-5
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。




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