引用聖句:ヨハネの福音書20章19節-31節
一昨日でしたかね、いわゆるイースター、イエス様の復活された日の記念日でした。だいたい日本のカレンダーには書いてない。たまに日本のカレンダーも役に立つ。どうしてであるかと言いますと、火葬場が空いているかどうか。けどもおそらく、外国どこの国に行っても、イースター復活祭と書いているのではないでしょうか。 日曜日だけじゃなくて、月曜日も必ず休みです。もちろん学校もそうですし、市役所もそうですし、やっぱり、お祝いするべきですけど、心からお祝いする人はどうかね。喜びを持って「我々の主は、復活なさった。生きておられる。」と言うことができなければ、悲劇的なのではないでしょうか。 もし、イエス様が復活なさらなかったならば、今日このような集会はない。もしそうだったら、イエス様の死とは、いわゆる殉教者の死にすぎなかった。我々と関係のないものです。 非常に残念なのは、イエス様の死を十字架の上の死を、信じた人は一人もいなかった。笑い話じゃないか、当時の状況を見ると解かります。ユダヤ人は、ユダヤ人を十字架につけたことがない。一回も今日まで。けどイエス様は、はっきり「わたしは、十字架の上で死ぬ。」もちろんこれは、旧約聖書の預言の実現だけだったのです。 そしてイエス様は「わたしは、復活する。」と言われたのは、笑い話じゃないか。考えられない。もし弟子たちぐらいにイエス様のことばを信じたならば、ちょっと悲しいけど、まだ2日、まだ1日、何時間の後でまた会えるという確信があれば、いくら辛くても3日間だって食べなくてもいいよ。3日間だって寝なくてもいい。もうちょっとで会える。 信じた人は、一人もいなかった。人間とはそういう者です。 イエス様は、復活なさいました。イエス様は、生きておられます。今日は、このイエス様のよみがえりに基づく生活について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 イエス様を通して、初めて内容ある人生へと、はっきりとした目的を持った意味のある人生が、確立されます。 イエス様の御許に来るということは、けっきょく救われることを意味します。 最初は、私たちが何を手に入れることができるかということに重点が置かれます。たとえば、罪の赦し、まことの心の平安、まことの喜びと生き生きとした希望などです。けど、時代はそれからさらに進行しなければならないのではないでしょうか。 というのは、いつまでも元の状態に留まることは赦されないからです。すなわちイエス様を通して、私たちがいただいたものは、確かにすばらしいことです。 しかし、さらに私たち自身が変わらなければなりません。 まず第1に、イエス様を知ること。そして次に、イエス様と共に歩むことが必要です。 すなわち、今話したように、主のよみがえりに基づく信仰生活こそが、要求されています。 このような生活を送ったのは、アブラハムという男です。このアブラハムについて、すばらしいことが書いてあるのですけど、ローマ人への手紙4章17節をお読みいたします。 ローマ人への手紙4:17-21
もう一箇所読みましょうか。 ヘブル人への手紙11章、信仰の大切さについて書いてあります。 ヘブル人への手紙11:8-12
ヘブル人への手紙11:17-19
このアブラハムは、私たち信者すべての者の父、すなわち信仰者の模範と言われています。彼の生活を通して、私たちは次のことを知ることができます。すなわち、私たちの信仰生活にとって、最も大切なことは、死者をよみがえらせた方、すなわち、よみがえりの神との交わりを持つことです。 信者は、ただ単によみがえりの事実を信じるだけではなく、よみがえりに基づいて信仰生活を送ることが、どうしても必要です。これはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。それは、いろいろな状況や環境に動かされることなく、それらを超越した生活をするということに他なりません。 ちょうど、イエス様が復活して、父なる神の御座の右に座するようになったと同じように、私たちもまた、本当のいのちを持っているならば、イエス様と共によみがえり、すでに今、天に移されているはずです。 よみがえりに至るイエス様の道は、十字架を通って行きました。我々の場合もそれと全く同じです。私たちも、自己を否定し、自我に死ねば、よみがえりに基づいた生活を送ることができます。 私たちは、よみがえられた主との交わりを持っているのでしょうか。持っていないならば、それは私たち自身の責任です。なぜならば、自分勝手な道を行ったことの結果であるから。 私たちは、悪魔のせいとか、周囲の事情とか、他の人々のせいにしがちです。しかし、根本問題は、自分の自我にあることを知らなければなりません。 パウロの祝福された奉仕の活動は、刑務所に入れられることによって、中断されました。しかし、彼は、エペソ人への手紙2章6節、すなわち「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」と書くことが出来たのです。 どのような困難があろうとも、そのような困難を超越して、勝利者となることはできます。 私たちが、よみがえりに基づいた信仰生活を送る時、その戦いの勝利は、保障されています。 五旬節の後、イエス様の弟子たちは迫害され、憎まれました。しかし、あらゆる攻撃においても、彼らは圧倒的な勝利者となることができたのです。彼らは自分のことを忘れ、イエス様のために生きたい、イエス様に用いてもらいたいと心から思ったのであり、犠牲になったのです。 私たちは、よみがえりに基づいた生活をすることの必要性に対して、イエス様によって、目を開いていただきたいものです。 ここで、もう一度、よみがえりに基づいた信仰生活とは、いったいどういうことなのでしょうか。少し考えてみたいと思います。そのために私たちは、もう少し詳しく、アブラハムの生涯を見てみることにしましょうか。なぜならば、アブラハムは、死者を復活させる神を信じた人であったからです。 アブラハムの生涯のおもな特徴は、次の3つにまとめられます。 第1番目、主に対する全きより頼み 第2番目、主の教説的な答えに対する了解 第3番目、絶えず続く、新しい成長 まず、主に対する全きより頼みについて聖書から見てみましょうか。 すべてのことにおいて、アブラハムは主により頼みました。なぜならば、自分自身は何にも出来なかったからです。したがってアブラハムは、主に従おうとする時には、どうしてもよみがえりの力を経験しなければなりませんでした。 我々と同じように、アブラハムもまた、おもに多くの過ちを通して、このことを学びました。3回アブラハムは、自分勝手に事を行なってしまいましたが、その結果、罪の中に入ってしまいました。私たちも、自分の力で何かをしようとする時は、いつももはや、よみがえりに基づいた信仰生活を送ることができない。罪の真ん中に入り込んでしまうのではないでしょうか。 最初の失敗は、創世記12章にしるされています。 創世記12:10-20
アブラハムは、ちょっとだけ約束の地にいました。しかし、それから飢饉がやってきました。もちろんこれは、偶然に起こったものではない。そのためアブラハムは、行ないに不安を感じ、エジプトへ出て行き、もはや主を見上げる代わりに、自分勝手なことをしてしまった。 「私は、約束の地を自分自身の力で見つけたのではなく、それは主の導きによるものでした。だから、今ここに発生した大飢饉も、私のせいではなく、主の責任によるものです。私を養ってくれるものは、今まで導いてくださった主ご自身である。」とこのような信仰を続けることができれば、アブラハムは本当に幸せでした。 しかし、実際は残念ながら、彼は自分勝手なことをしてしまった。外側を見るならば、アブラハムはより豊かになり、快適な生活を送っていました。しかし、内側を見ると、彼は妥協によって、弱くなり、その結果主は、彼が罪を悔い改めて、カナンの地に戻ってくるまでは、彼を導くことが出来なかったのです。 第2の失敗は、同じく創世記16章に書かれています。 主は、アブラハムに一人の子供を約束なさいました。しかし、彼は考えました。「私たちは、今や主に全くすべてを委ねることは出来ません。私たちにとっては、主のなさることはあんまりにも遅すぎて、助けとはなりません。だから自分たちの力で、何とかしなければならないことでしょう。」とアブラハムは思って、結局絶望してしまいました。 主は、アブラハムに息子をお与えになることを約束されました。しかし、その約束は、なかなか成就いたしません。アブラハムは、だんだん歳を取りついに85歳になってしまい、その望みはほとんどなくなってしまいました。 彼は、それまで主と共に歩み、多くの幸いなことどもを経験してまいりました。しかし、今、息子を与えてくださるという主のお約束は、望みがなくなってまいりました。 人が絶望しますと、いろいろな違った反応を示します。ある人は、絶望状態に陥ると、諦めてしまいます。またある人は、逃れるために自分で何かしようとします。アブラハムの場合がそうだったのです。 アブラハムは絶望しました。妻サラは、子を産みません。そこで妻サラは、使え女で名をハガルという、一人のエジプトの女をアブラハムの妾として与えました。 ハガルは、まもなくアブラハムの子を産みました。これは一体何を意味しているのでしょうか。アブラハムは、その行ないによって、主なる神はできない、だから自分でことを行なおうという、いけないアブラハムの心を現しています。 アブラハムは、主は望みの神ではない、私がやらなければ、主は成し得ないという気持ちになってしまいました。アブラハムは、絶望に陥りました。その時、アブラハムは主により頼まないで、自分でことを行ないました。その結果はどうだったでしょうか。悪魔が勝利を取りました。 悪魔は、我々の状態を見て、大喜びの時がしばしばあるのではないでしょうか。私たちは、口で「主はできない。主はこの状態を解決できない。だから自分でやろう。」と口でこそ、もちろん言いませんが、しかし、実際の生活において、それをやっている場合が往々にしてあるのではないでしょうか。 アブラハムは、何でも出来る主を仰ぎ見ないで、自分で問題を解決しようと思ったのです。しかしこれは、肉の思い、自分の思い、すなわち私たちは、徹頭徹尾、主に委ねることはできない、主の時が来るまで待つこともできない、時間がかかりすぎると。その結果、アブラハムは、エジプトの女ハガルと一緒になって、子供をつくりました。 アブラハムは、第1回目の失敗の後、エジプトを離れましたが、今また再びエジプトと結びついてしまいました。なぜなら、ハガルはエジプトの女だったから。そして、このことは今日に至るまで、一つの大きな悲劇の源となりました。なぜならイスラエル人の何千年もの敵は、ハガルの子孫であるアラビア人だからです。 第3の失敗は、創世記20章に書いてあります。結局、アブラハムは自分を守るために、嘘をついてしまったのです。自分で心配するか、主に頼るかのどちらかです。 イサクが生まれる前、アブラハムは嘘をついて、自分の妻を自分の妹だと言いました。アブラハムは、不信仰のゆえに嘘をつきましたが、それは彼が、用心深くふるまおうとしたからです。 けど、彼の心配は全く根拠のないものでした。アブラハムの失敗は、よみがえりに基づかない信仰生活がどのようなものであるか、またどのような実を結ぶものであるかを、我々に示しています。 しかし、それ以外の点ではアブラハムは、よみがえりに基づく信仰生活を送り、全く主により頼んで、すべてを主に捧げました。私たちは、主の導きと主の助けがなければ、全く無力な者であるということを知るようになり、その結果、本当に主により頼んだ信仰生活を送っているのでしょうか。 アブラハムの祝福された生活の特徴は、今話したように、主に対する全きより頼みでした。もう一つ、主の教説的な答えに対する了解、あるいは主の否に対する了解だったのではないでしょうか。 アブラハムは、これを願ったり、思ったり、望んだりしましたが、それに対して、主は再三再四、否と言われました。この否という主のことばは、アブラハム自身の考えや目的の死を意味していました。 しかしその死に続いて、よみがえりが成就されたのです。このよみがえりの力は、ただ十字架を経験すること、すなわち自己否定の結果としてのみあげられるのです。 この否という主のことばの意味、内容は、病気になったり、お金がなかったり、その他いろいろな困った状態を意味しますが、しかし、そのような否定的な状態に対しても、しかりという肯定的な返事をすることができれば、祝福され、新しく生かされ、用いられるようになります。 アブラハムは、このことを何回も経験し、それに対して7回、アブラハムは了解し、その都度、自分自身の死を、すなわち自分自身の考えを否定することを学びました。 それ以来、アブラハムは勝利から勝利への信仰生活を送るようになったのです。このアブラハムとは、信仰の父と呼ばれるようになり、それだけではなく、主なる神の友と呼ばれるようになりました。 |