引用聖句:ローマ人への手紙4章17節-21節
ヘブル人への手紙11:8-12
ヘブル人への手紙11:17-19
ドイツのいわゆる宗教改革者であるルターは、もちろんいろいろな人々に攻撃されましたし、ローマ法王によって迫害され、ルターを殺す人は大いなる褒美をもらう云々と、彼はずっと逃げ続けましたし、ある立派な家お城を持つ人に誘われて「ここで住めば安全です。」 彼は、確かに悩みましたし、落ち込みましたし、奥さんが非常に賢い人だったらしいです。ある時、もうやっぱり死んだ方がいいと思っていた時、彼女は黒い洋服を着たのです。ルターはびっくりして「なんですか?」「私は、葬儀に行きます」「誰が死んだの?」「あなたの神」 そして家の前の看板に、「ルター」をはずして「vivid」と書いたのです。意味は「彼は生きている」、結局主は生きておられる。 イエス様は復活なさいました。イエス様は、生きておられるお方です。そしてこの間、よみがえりに基づく信仰生活の大切さについて、一緒に考えてまいりました。今日はちょっと続けたいと思います。 イエス様を通して初めて、内容ある人生とはっきりとした目的を持った意味のある人生が確立されます。イエス様の御許に来るということは、もっとも大切であり、なぜならば救われることだからです。 主イエス様は、御許に来る人を決して決して捨てないからです。永久的に受け入れられるに違いない。 最初私たちは、何を手に入れるかを大切にします。たとえば、罪の赦し、まことの心の平安、変わらない喜び、生き生きとした希望を得ることとは、確かに大切ですけども、それからさらに進行しなければならないのではないでしょうか。 というのは、いつまでも元の状態にとどまることは、許されないからです。 主を通して私たちがいただいたものは、確かにすばらしい。しかし、さらに私たち自身が変わらなければならないのではないでしょうか。 まず第1に主を知ること、次にイエス様と共に歩むことこそが要求されています。今読んでもらいました箇所は、おもにアブラハムについての箇所でした。 彼は、信者すべての者の父、すなわち信仰者の模範と言われています。彼の生活を通して、私たちは次のことを知ることができます。すなわち、私たちの信仰生活にとって、もっとも大切なことは、死者をよみがえらせた方、すなわちよみがえりの神との交わりを持つことです。 よみがえりに至る主イエス様の道は、十字架を通ってきました。我々の場合もそれと全く同じです。私たちも自己を否定し、自我に死ねば、よみがえりに基づいた生活を送ることができます。どのような困難があっても、そのような困難を超越して、勝利者となることができる。 私たちは、よみがえりに基づいた信仰生活を送る時、その戦いの勝利は保障されています。 五旬節の後、イエス様の弟子たちは、迫害され、徹底的に憎まれました。しかし、あらゆる攻撃においても彼らは、圧倒的な勝利者になることができました。 今日もアブラハムの経験した7つの経験について、ちょっと考えてみたいと思います。第1番目の経験は、次のようなものでした。 創世記11:31
アブラハムは、多くの人と同じように、自分の利益やこの世の財産を求めるという、自然の要求を持っていました。自分のふるさとにおける安全と快適さは、アブラハムが好んだものでした。 しかし、主は否と仰り、別の所へ移ることを命令されました。アブラハムは、慣れ親しんだふるさとを離れなければならなかったのです。 私たちは、我々の生涯について、どのように考えているのでしょうか。もし、主がすべてを捨てて、別の所へ移りなさいと命令されれば、どういう態度を取るのでしょうか。 2番目の経験は、創世記11章31節の後半に書いてありますが、彼らは、カナンの地まで行く予定だったのですが、その途中のカランまで来て、そこに住みついてしまったと書いてあります。 アブラハムの父は、中途半端なことしかできませんでした。つまり、何かを始めてもそれは完成まで続かなかったのです。多くの信者は、このアブラハムの父と同じことをしているのではないでしょうか。 この世から引き出された者ですが、しかし、彼らは自分の財産や利益などのために、この世の誘惑に負けて、中途半端な状態に留まってしまう。アブラハムの家族は、カランで非常に好ましい場所を見いだし、そこで快適な生活をしました。 実際今日も、多くの信者は妥協してしまい、あれやこれやと心を動かしたりする適当な生活をします。しかし、それは快適な生活であるかもしれないけども、長い目で見ると必ず後悔するようになります。 主は、そのようなアブラハムの快適な生活に対して、否と仰り、アブラハムは、そのみことばに従いました。 創世記12:4-5
主は、我々の生活に満足しているのでしょうか。我々の生活は、妥協によって特徴づけられてはいないでしょうか。 確かに私たちは、主イエス様にだけ仕えたいと思います。しかし、実際心は燃えても肉体は弱いということを経験し、そのため諦めてしまって、もうどうなっても仕方がないと思う信者がいるのではないでしょうか。 けれども、ここにおいても主は、否と仰います。私たちが、自分の自我を捨てて、すべてを主に明け渡す時に、初めて私たちは、内面的、霊的に成長することができます。 第3番目の経験は、次のようなものです。アブラハムは、そこから出てカナンの地に着きました。しかし、妥協者であるアブラハムの父は、そこに着く前にカランの地で亡くなったのです。 アブラハムは、そこで一つの選択の前に立たされました。すなわち、彼はソドムとゴモラの周りの実り豊かな土地を取るべきか、あるいは、それよりも実りの少ない地域を取るべきかという二者択一です。 アブラハムは、実り豊かな地域を見て、それが気に入って、欲しいという気持ちを持ちました。アブラハムは、ロトよりも年上でしたから、選択の権利はアブラハムにあったわけです。アブラハムは「主よ。私はどうしたらいいの。」と祈り、そしてその時主は否と仰り、アブラハムはそれに従いました。 この場合にも、アブラハムは、自分自身の考えを大切にしないで、主の導きに従ったのです。結局それは、結果的に見て正しい選択であったことが判明いたします。 私たちは、自分の利益を取るのでしょうか、あるいは自分はどうなってもかまわない。ただ主の導きだけに従いたいという態度を取るのでしょうか。 そのどちらの道を選ぶかによって、私たちは、よみがえりの力を経験するか、しないかが決まります。 創世記13:1-12
4番目のアブラハムの経験とは、何だったのでしょうか。すなわち次のことです。アブラハムは、敵に対する圧倒的な勝利者の後で戻ってきた時、ソドムの王はアブラハムに対して贈り物によって、影響を与えようとしました。 しかし主は否と言われたので、アブラハムはそれに従い、何一つ受け取ることをしなかった。すなわちこの世から認められることを、意識して退けたのです。 ずっと創世記14章22節、23節を見ると解かります。 創世記14:22-23
このような態度を取ったのは、祝福されたアブラハムでした。この世の名誉は何にもいらない。この世から認められることは全く必要ない。これこそがアブラハムの態度であり、初代教会の祝福された秘訣でもあったのではないでしょうか。 今日しばしば見られることは、この世の手段でもって主に仕えようとしたり、この世から認められたいというような行ないなのではないでしょうか。 ですから、そのような方々は、よみがえりの力を経験することができません。 アブラハムの第5の経験は、次のようなものです。主は、イシュマエルに対して、はっきりと否と仰いました。 創世記17:15-22
イシュマエルとは、肉の結果すなわち自分の努力の結果として生まれた者です。 13年間のあいだアブラハムは、主がイシュマエルを認めてくださるのではないかと思いました。18節「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」とありますね。けれども、主は違う、否と仰せになられました。 それは私たち人間の肉の努力とは結びつかないのです。そのためにアブラハムは結局、主の否というみことばを了解せざるを得ませんでした。アブラハムは、主に従ってイシュマエルを追放しました。イシュマエルに対して、はっきりとした態度を取ったのです。 第6番目のアブラハムの経験とは、何だったでしょう。アブラハムは、神が決して代用品を了解なさらないということを知っていました。 主なる神は、アブラハムとサラに一人の息子を約束してくださいましたが、そのために主なる神は、人間の自分の努力や助けを全く必要なかったのです。主なる神は、奇跡を成してくださり、人間の目には全く不可能と思われたこと、すなわちアブラハムとサラに一人の息子が生まれるということを実現なさいました。 それから神は「このはしためをその子といっしょに追い出しなさい。」とアブラハムに命令なさいました。これはまた再び、主の否というご返事でした。主が否ということばは、常に自我の死を意味します。アブラハムもまた、我々と同じような人間でした。 創世記21:11
イシュマエルをのけものにするということだけではなく、充分ではなかったんです。彼は家族から追放されなければなりませんでした。 主は、妥協に対して、長く忍耐することがお出来になりません。アブラハムは、まずウルを捨て、次にカランを捨て、それから実り多いヨルダン平野を捨て、そして今や彼は、イシュマエルをも追い出さなければならなかったのです。 分離は深刻な、したがって耐え難いほどのものとなってきました。けどもそれによって、アブラハムは信仰的、霊的に深まるようになり、成長したのであります。 第7番目のアブラハムの経験とは、次のようなものでした。本当に辛い分離がやってきました。 創世記22:7-8
だいたい3日間です。考える暇があった。主は、イサクに対して否と仰せになりました。イサクは、主によって与えられた者であり、それは本当に奇跡でした。わが子イサクを縛って、祭壇の上に置くことは、アブラハムにとってどれほど辛いことだったでしょうか。 けれどもアブラハムは、その備えをしました。彼は主に、しかりと言いましたが、それは彼にとって最も高価な代価でした。 私たちは、そのような状態からどれほど離れているのでしょうか。ローマ人への手紙13章11節「あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。」 今や、私たちも眠りから覚めるべき時、また主イエスに用いられるべき時が来ています。しかしそのことは、自分自身に対して死ぬことによってのみ可能となる。 私たちは、アブラハムと同じように、主の否に対してしかりと答え、それを了解することができるようになれば、本当に幸いです。 アブラハムとは、主に心からより頼んだ人であり、また主の否に対する了解を学んだ男でした。結果として、絶えず主をより良く知りたい、絶えず続く新しい成長が与えられたのです。 アブラハムの経験は何であったかと言いますと、アブラハムは毎回、主の否に対してしかりという態度を取りましたので、溢れるばかりの豊かな祝福を受けることができたのです。 自我の死は、いつもよみがえりの力の新たな経験に、私たちを導いてくれます。 そこで、最後にアブラハムが自我に死ぬことによって、どのような祝福を受けたかについて手短に見てみたいと思います。 まず第1に、自分の故郷であるウルを離れる前に、主なる神からの祝福が約束されていました。そして、アブラハムは主に忠実に従った時、主は偽らないお方であるということを、体験的に知ることができたのです。 第2に、アブラハムは、目的地の手前にあるカランの地に住む前に、主は従順に対する豊かな祝福を約束してくださいました。それに対して、主はアブラハムに、ご自身が真実であることを体験的に教えてくださり、アブラハムは、豊かな祝福にあずかることが許されたのです。 第3に、アブラハムがロトに土地の選択を任せた時、そしてこの世的には、大変な損失を被った時、主は次のように仰せになりました。 創世記13:14-15
とアブラハムは聞いたのです。そして主に従いました。主に従った時、このすばらしい約束を与えられました。私はどうでもいいという態度を取ると、常に成長、拡張、豊かさが与えられます。 第4に、アブラハムがこの世の賜物、ソドムの王の贈り物を断固として断った時、その時初めて主は次のように仰せられました。 創世記15:1
ここで、非常にということばが使われていますが、それは大切な意味を持っています。なぜなら、アブラハムはソドムの王からの贈り物を拒んだ時、天の王は、アブラハムに非常に大きな報いを提供してくださったからです。 主のためにすべてを捨て、自分が認められることを少しも臨まない人は、主ご自身によって、溢れるばかりの豊かな恵みを与えられます。 15章5節に記されているように、アブラハムは、上をすなわち天を見上げました。上あるいは天とは、豊かな報いを意味しています。なぜなら、まことの報いは、常に上から与えられるものであるからです。 よみがえりに基づく信仰生活とは、あらゆる環境、あらゆる不可能なこと、あらゆる人間に超越していることを意味します。 創世記15:5
この約束は、もちろん我々にも与えられているのではないでしょうか。 コロサイ人への手紙3:2
思うと豊かな祝福が与えられるとあります。 第5に、アブラハムがイシュマエルに対する神の否を受け入れ、そして主なる神が、自分の息子を必ず与えてくださると信じた時、13年後に、主はアブラハムに新たに啓示してくださいました。 創世記17:2
という約束が与えられました。 そして第6番目に、アブラハムはイシュマエルを追放して、主なる神の側に立った時、17章6節の約束を与えられました。 創世記17:6
要求されることは、自分の力、また努力により頼むことを止めること、そして自分のとおりにことが進まなくても、主に信頼しより頼むことです。そうすると、豊かな祝福が与えられます。 最後に第7番目ですけど、アブラハムは自分のすべてであった息子イサクを犠牲に捧げることをよしとした時、その時から最も実り多い信仰生活の実況を始めるようになりました。 アブラハムによって捧げられたイサクは、小羊なるイエス様を象徴するものでした。私たちは、イエス様が捧げられた犠牲のことを、思い起こすことによって、自分自身を新たに主に捧げようではありませんか。 我々の人生は、はたしてアブラハムの人生と同じようなものなのでしょうか。すなわち、主に対する全きより頼みの人生なのでしょうか。 また主の教説的な答えに対する了解の人生なのでしょうか。そして、絶えず続く新しい成長の人生なのでしょうか。 パウロの人生の特徴は、アブラハムの人生の特徴と全く同じものだったようです。パウロは次のように告白しました。 ピリピ人への手紙3:10-11
そのよみがえりの力は、いかにして我々の人生において、有効なものとなることができるのでしょうか。それは、イエス様の十字架が、我々の人生において本当の経験となることによって実現されます。 パウロは、有名なガラテヤ人への手紙2章20節で言ったのです。 ガラテヤ人への手紙2:20
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