引用聖句:マタイの福音書5章3節
マタイの福音書6:9-10
マタイの福音書6:33
あるドイツ人は、テレビ局の方に次のように聞かれました。「あなたにとって最も大きなショックとは、いったい何でしょうか。癌になることでしょうか。全財産を急に失くすことでしょうか。あるいは、一生涯、車椅子の中で生活することでしょうか。」 財産家の彼の答えは、「もし、人間を造られた方、いわゆる神様がおられれば、それこそ考えられないことです。」と。 神がおられれば、もちろん死は終わりではない。そうすると必ず、死後、さばきを受けることになります。結局、天国か地獄かのどちらかです。 確かに、地獄、すなわち永久的に光が見えないこと。平安なし、喜びなし、希望なし。永遠に存在することとは、考えられないほど恐ろしい状態です。 天国について聖書は言っています。 ヨハネの黙示録21:4
本当に来たるべき栄光はすばらしいものです。だからこそ初代教会の兄弟姉妹は、確信して証ししました。 ローマ人への手紙8:18
と。生きる希望、また、はっきりとした確信を持たない人は、本当にかわいそうです。行く先は、真っ暗やみであるからです。私たちの目的とは、天国でなければ全てはむなしい。心を満たすものはない。 最近、福音書を読むとはっきりわかります。ちょっと驚くべきことです。すなわち、私たちの主イエス様は、天国の栄光についてよりも、地獄の恐ろしさについて話されたということです。 永遠に滅びないで、天国にはいるために何をしたらいいのでしょうか。今、兄弟の読んだ個所の中ではっきり書かれています。 むなしくなることです。貧しくなることです。結局、降参することです。ダビデ王の態度を取ることです。 ダビデは次のように告白しました。現在の政治家を見ると、考えられない話ですけれど、ダビデは、私は悩み、そして貧しいのです。 詩篇86:2
もし、私たち、今日来られたひとりひとり、このことを言うことができれば、もうすごい。 私は悩み、そして貧しいのです。私は神を恐れる者です。だから私は祈っています。すなわち今日の集いも、悩む者の集い、貧しい者の集い、主を恐れる者の集いとなりますように。 今、いっしょに読まれました個所、マタイの福音書の5章3節は非常に有名な個所です。 マタイの福音書5:3
幸せ。 マタイの福音書5:3
結局、天国は マタイの福音書5:3
貧しい者の富についての個所ではないでしょうか。結局このことばこそ、みこころにかなう者の目的と要求が何であるかを表わしているのではないでしょうか。 それは要するに御国であり、神の国であり、永遠の世界であり、すなわち天国です。いうまでもなく大切なのは、心の態度であって、その他の外側の諸問題は、心の態度によって解決され得るのです。 また、6章の33節です。多くの人々のよく知っていることばです。 マタイの福音書6:33
結局、主を第一にすれば、目的が天国であれば、+α、与えられます。必要なもの全部、必ず与えられます。 天国とは何なのでしょうか。 今読みましたマタイの福音書6章9節、10節を見ると答えは明らかです。天国とは、主の支配です。天国とは、絶対的な義、揺るぐことのない平安、また、とこしえの喜びです。イエス様は言われました。 マタイの福音書6:9-10
まさにここにこそ、天国とは何かという問いに対する答えが記されているのではないかと思います。 天国は、主の御名のあがめられるところです。主のみこころそのものが行なわれるところです。天国において主の御名があがめられ、みこころが行なわれるのです。 その際大切なことは、この地上において天国が実現し、主の御名があがめられ、みこころが行なわれることです。これこそ主のご目的であり、そしてわれわれの目的でもあるべきです。 主の恵みを味わうようになり、罪の赦しをただで価なしに受け取ると、そして、主イエス様との交わりによってあらゆる重荷から解放されると、もうすでにこの世において始まっている天国のようなものではないでしょうか。 けれど最終的な天国の成就は、イエス様が目に見える形で再びこの地上に来られる時になされます。 主イエス様こそ、かつて自分自身を無にしてくださったお方が天国の王です。 イエス様の支配が明らかになると、いつでも天国があります。すなわち、これこそ義、平安、喜びです。 そういう意味で、イエス様に頼る者は、すでに天国を体験的に味わい知ることができるのではないでしょうか。 だれでも、罪と債務を持ったそのままの状態で主イエス様のみもとに行き、イエス様の平安、また、イエス様の喜びにあずかるようになります。 当然の話ですけれども、目的は人間の行ないを決定するものです。非常に残念なのですけれど、現代人の多くは、目的を持っていない。 どうして生まれたの。どうして行かなくちゃいけないの。死んでからどこに行くのと、大部分の人間は知らないし、考えようとしません。 そうすると今の生活とは、働いて、食べて、寝ることだけではないでしょうか。結果としてもう疲れて、全く倦み疲れてしまうことです。 確かにある人々は、「いや、違うよ。はっきりとした目的を持っている。」と言うかもしれない。 けれども、聞くと、大した目的ではない。例えば、財産を貯えることです。名誉人になることです。けれどこのように次元の低いものによって、人間の心は満たされない。 イエス様に頼る者の目的は、主の栄光と誉れとなるように、ということです。そしてまた、この地上で天国が明らかに現わされることです。 どういう人々が天国にはいるのでしょうか。イエス様の答えとは、はっきり、「貧しい者たちです。」 もちろん、心が貧しいということは、決していいものではない。霊的に貧しいということは、決して祝福ではなく、反対にのろいのようなものではないでしょうか。 霊的な貧しさは、聖霊の訓練から逃げようとすることから生じるものです。その反対に、霊的に豊かな人は、イエス様のために多くの患難を通して苦しんだ人々です。 多くの苦しみや悩みを通して、彼らのうちにイエス様が形作られるのです。このように、霊的に富んでいる人は、この幸せをほかの人にも分け与えることができるのです。 けれど、心が貧しいとは、いったい何なのでしょうか。心が貧しいとは、主の光の前で自分の貧しさ、みじめさを認めることです。イザヤ書の57章。よく知られている個所なのですけれども、聖書全体の言わんとしていることをまとめていることばでしょう。 イザヤ書57:15
主の呼びかけ。主のすばらしい約束です。 心の貧しい人とは例えて言うならば、主の前におけるあわれな乞食のような者です。心砕かれている人です。へりくだっている人です。そして、主の光によって自分のみじめさ、自分のむなしさを知るようになった者です。 またそういう人々は、自分には主のみこころにかなったものが一つもないことを知るようになった人々です。 例えばルカの福音書18章。みなさんよく知っている個所なのですけれども、いわゆる取税人、ローマ帝国、すなわち、敵国のために税金を集めた人々なのですけれども、けれど、このルカの福音書18章に出てくる取税人こそが、主の求めておられる心の貧しい者でした。 彼は本当に心からそう思って願いました。「神さま。このような罪人である私をあわれんでください。主があわれんでくださらなければ、もうおしまいです。」 ちょっと9節から読みましょう。ルカの福音書18章9節。 ルカの福音書18:9
自分はOKだ、 ルカの福音書18:9-10
遊ぶためにではない。時間を潰すためではない。祈るために、エルサレムの ルカの福音書18:10
当時の聖書学者、立派な生活を送った、尊敬された人格者 ルカの福音書18:10
今話した ルカの福音書18:10-13
イエス様の判断はすごいでしょ。 ルカの福音書18:14
義と認められることとは、罪の赦しを受けることだけではなく、その人は一度も罪を犯さなかったかのようにされることです。 理性でもってつかめない。想像できない。けれど義と認められることとは、それなのです。それから聖書全体の言わんとしていることは、 ルカの福音書18:14
そういう貧しい人々が捜し求められています。パウロとは結局、そういう人だったのではないでしょうか。 彼は自分自身について書いたことがあります。私は使徒、特別に選ばれた主のしもべたちの中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。私のことはそれでもいいと。 全ての聖徒たちのうちで、全てのイエス様を信じる者たちのうちで一番小さな私と、彼は言うようになったのです。イエス様を信じる人はたくさんいる。けれど、一番小さいのは私ですと彼は言いました。また、殉教の死を遂げる前に、テモテという愛弟子に書いたのです。 テモテへの手紙第I、1:15
一番ひどいのは私です。心の貧しさとはそういうものです。 イエス様を知らない人々とは、誇って、自分勝手な道を歩もうとします。 実際、救いのない人々は、乞食よりも貧しい者です。それをわかるようになれば、救いは近いのではないでしょうか。したがって、心の貧しい者となることこそ、一番大切です。 すなわち、主の霊によって自分の本当の姿を知り、恐れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることは大切です。 心の貧しい者は、自分が強く、偉大な富んだ者ではない。本当にみじめであわれな存在に過ぎないことを認めることです。 このことを本当に知る人だけが、思うところの全てを超えて豊かに施すことのできる方、すなわちイエス様を知るようになります。 おごり高ぶる者、本当に心砕かれていない者は、約束も望みもなく、のろいのもとに置かれると聖書は言っているのです。 心が貧しいとは、いったいどういうことなのでしょうか。もうひとつの答えは、コリント人への手紙第IIに書き記されています。イエス様についての個所です。 コリント人への手紙第II、8:9
人間は富む者とならないと、人生は的外れなものです。 確かにイエス様の偉大さについて、私たちはいくら考えても、聖書を読んでも、ちょっと考えられない。ピンと来ない。つかめない。想像できない。 聖書は、イエス様によって全てが造られた。イエス様のためにこの大宇宙が創造されたと聖書は言っています。このイエス様とは、始めのない、終わりのない、永遠なる神です。永遠から生きておられるお方です。 この主イエス様は、全人類を救うためにただ33年間この地上におられ、ご自身の自由意思で貧しくなった。私たちのために。 このイエス様の貧しさとは、いったい何なのでしょうか。すなわち、父なる神に対してご自分で選んだ依存です。 わたしは何もできなくなった。わたしは何を話したらいいか全くわからない。どうしたらいいのですか。わからない。父に教えられなければ、父に導かれなければ、もうお手上げですとイエス様は何回も言われました。おもにヨハネの福音書の中で・・・。 幾つかの個所をちょっと見てみましょうか。 ヨハネの福音書の5章19節。全部イエス様の言われたことばであり、すなわち、イエス様の啓示そのものです。 ヨハネの福音書5:19
わたしは、 ヨハネの福音書5:19
ヨハネの福音書5:30
ヨハネの福音書6:38
ヨハネの福音書7:16
ヨハネの福音書8:28
ヨハネの福音書12:49
ヨハネの福音書14:10
ヨハネの福音書14:24
今読みましたルカの福音書18章のことばも、イエス様のことばよりも、結局父の教えたことばでした。結局イエス様は、考えられないほど貧しくなられました。 人間になる前に、イエス様は何でも知っておられたし、何でもできた。人間になることによって、父から離れたら何もできないことを知るようになったのです。 イエス様は父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行なったことだけをイエス様は行なったのです。 イエス様は決して、決してご自分で勝手になさることはしませんでした。その意味で私たちは、イエス様のことを全くわからない。 私たちはやっぱり何かを聞いたり見たりすると、自分で考えるのです。それから判断するのです。 イエス様はそういうことを一秒もしたことがない。まず、お父様。あなたはどういう意見ですか。わたしはどうしたらいいのですか。全くわからない。教えてください。と、イエス様はいつも思われたのです。結局、父に全く拠り頼んで、いつも父のみこころに服従なさったのは、主イエス様です。 イエス様の最大の祈りとは、「わたしの思いではなく、あなたの思いがなるように。」、これこそがイエス様の絶えざる取られた態度でした。 恵みとあわれみに富んでおられたイエス様は、たとえ困っている人がいても、決して自分勝手な行ないはせず、常に父なる神のみこころだけを行なったのです。これこそ、心が貧しいことにほかならないのではないでしょうか。 最後に、もうひとつの質問について考えたいと思います。すなわち、心が貧しいから、そして天国は自分のものであるから幸いであると言われている人たちに、私たちは属しているのでしょうか。また、属していないのでしょうか。 今まで、人間と主との正しい関係にはいることについて考えてまいりました。 その際、だれが天国に属し、だれが天国に属さないかということに全てがかかっていることがわかりました。 天国にはいるための条件とは、次のようなものです。イエス様ははっきり言われました。 ヨハネの福音書3:3
このニコデモという男は、聖書全体を徹底的に研究した男で、疑わずに信じました。主のために生きたいと思ったのですけれど、彼は新しく生まれ変わっていなかったのです。 どうしても必要な条件は、新しく生まれ変わることです。そして新しく生まれ変わることとは、結局、人間の努力の結果ではない。聖書の勉強をした結果でもない。聖霊の働きによるものです。 ヨハネの福音書3:6
その前の5節。 ヨハネの福音書3:5
人は御霊の働きによって初めて、自分の罪や主に対するそむきなどがわかるようになります。人は御霊の働きによって初めて、イエス様の流された血の価値を知るようになります。流された血を感謝する者は、この流された血の力を体験するようになります。 また人は、御霊の働きによって初めて、自分の罪が赦されていることと、永遠のいのちを与えられていることを知り、また、確信するようになります。こういうふうに、人は新しく造り変えられるのです。今まで主に対して拒んでいた者が、主を喜んで受け入れる者となります。 このようにして、生き生きとした信仰を持つ者は、喜んで主に従いたい。主に用いてもらいたいと願うようになります。 天国の王であるイエス様は、わが国はこの世のものではないと言われたのです。だからイエス様は、当時の人々に否定され、殺されたのです。 もしイエス様が、わが国はこの世のものです。ローマ帝国に対して反発しましょう。戦いましょうと言われたならば、イスラエル人はみな、例外なく命懸けで戦ったに違いない。 けれどイエス様は、わたしの国はこの世のものではないと言われたのですから、やっぱり彼と関係を持ちたくない。十字架につけるということになりました。 あなたがたも、悔い改めて子どものようにならない限り、決して天の御国にははいれませんと、イエス様ははっきり言われました。 天の約束はだれに当てはまるのでしょうか。心砕かれ、本当に悔い改めた人こそ、その人です。 旧約聖書の中で、次のような個所があります。 歴代誌第II、7:14
結局、主はいやしたい、救いたい、解放したい、まことの喜びに満たしたい、と心から望んでおられます。 心を開けば、新しい世界を知るようになります。 ちょっと短く、八人の証しを聞きましょう。まず、マナセという王様についてです。 歴代誌第II、33:12
その時初めてマナセは 歴代誌第II、33:12
結果として、彼は奇蹟を経験しました。解放されたのです。 ヨブは、 ヨブ記42:6
と書いてあります。 ダビデは、 詩篇34:18
詩篇51:17
詩篇138:6
と。 息子であるソロモン王は、 箴言16:19
箴言29:23
箴言22:4
と告白したのです。 ミカという預言者は、 ミカ書6:8
と、主はミカを通して言われたのです。 イザヤは次のように書いたのです。 イザヤ書29:19
とあります。 そしてイエス様は、前に読んだように、 マタイの福音書23:12、ルカの福音書14:11、ルカの福音書18:14
と言われました。 ヤコブは、 ヤコブの手紙4:6
と。 最後に、三つの例を考えて終わりたいと思います。 第一番目は、ある聖書学者、律法学者がイエス様のもとにやってまいりました。いうまでもなく、彼は教養のある人で、聖書にはよく精通しておりました。彼は正直にイエス様に質問しました。イエス様の答えは、 マルコの福音書12:34
結局イエス様はこのことばによって、一方において、質問した聖書学者を勇気づけ、他方において、質問した学者が、まだ神の国にはいっていないということを指摘なさったのです。「あなたは神の国から遠くない。」 今日も多くの人はこのように、「あなたは神の国から遠くない。」と言われる状態にあるのではないでしょうか。 必要なのはへりくだること、イエス様を罪を赦すお方として受け入れることです。 イエス様による贖いのみわざを感謝し、神の国にはいることができるように。イエス様を自分の救い主として信じ、受け入れる者は、今日、神の国にはいることができる。救われると、聖書は言っているのです。 パウロは当時の兄弟姉妹に書いたのです。 コロサイ人への手紙1:13
これは救いです。暗やみの圧制から、イエス様のご支配の中に移されることです。 二番目。ある日、別の人がイエス様のところへ行って・・・、イエス様に従って行く覚悟をしたのですから、イエス様のところへ行ったのです。けれど彼は、神の国を第一のものとは考えていなかったようです。イエス様は彼に何と言ったのでしょうか。 ルカの福音書9:62
ルカの福音書18:29-30
第三番目の例は、ある教会に宛てられたことばです。ヨハネの黙示録に書かれている、スミルナに住んでいる兄弟姉妹に向かって言われたことばです。 ヨハネの黙示録2:9-10
イエス様はあの兄弟姉妹に言えたのです。「あなたは富んでいる。」 私たちもこのような者に属しているのでしょうか。私たちは神の国に属し、永遠のいのちを持っていると、本当に確信しているのでしょうか。 私たちは心の貧しい者なのでしょうか。自分の力で何かをしようとせず、常に、自分の思いではなく、主のみこころがなるようにと、心から祈っているのでしょうか。 わたしは、あなたの貧しさを知っている。しかしあなたは実際は富んでいる。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものであるからです。 |