引用聖句:マルコの福音書10章32節-45節
司会の兄弟は市川へ行って、「霊的な人に出会った。」と。この霊的な人とは子どもでした。考えさせられることではないでしょうか。 昨日「日々の光」の中で、皆さん、大部分の方がお読みになったと思いますけど、ソロモン王の書いたことばが出て来たんです。 伝道者の書9:11
主のみこころと人間の思いとは全く違う、とソロモン王ははっきりわかったのです。今日の題も、「主のみこころと弟子のおもい」にしたいのです。 人間の考えと主の思いとは全く違うものです。 ある人は霊的であり、ある人は霊的ではないと、私たちは考えますけど、霊的とはいったい何なのでしょうか。市川の子どものようなものではないかと言えます。 今、読んでもらいました箇所を見ると、はっきり言えることは、イエス様こそが霊的であり、そして弟子たちは霊的ではなかった、ということです。 私たちはいろいろなことについて考えると、それだけ覚えるといいのではいいのではないでしょうか。すなわち、イエス様は霊的であり、私は霊的ではない。終わり。 ペテロは(ひとりの弟子は)霊的ではなかった、とイエス様は言われました。彼は人のことを思ったからです。福音書は、このペテロについて、次のように書かれています。 マタイの福音書16:15-17
まあ、幸せ マタイの福音書16:17
マタイの福音書16:21-23
ペテロとは、もちろん霊的ではなかった。 自分の考えていることは正しい。イエス様が殺されたらとんでもない話になる。また、聖書は言っています。 マタイの福音書26:33-39
霊的な人の祈りとはそれです。私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。 マタイの福音書26:40-41
イエス様は霊的であり、弟子たちは決して霊的ではなかったのです。 先週、ちょっと伊那の姉妹の家で集会がありまして、まあ、自前の家でほんとにすばらしい絵が掛かっています。その羊の絵です。集会の兄弟が描いた絵です。 彼は司会をしたんですけど、集会の前にちょっとあの絵を見ながら、彼に聞いたんです。 どうだったの。この絵を描くのは。 いやあ、大変だった。そのためにせっかく北海道まで行きましたが、なかなかうまくいかなかった。主に拠り頼まなければもうできません。この絵とは、ぼくの力ではない。 イエス様とひとつになるのは幸せです。イエス様から離れたら恐い。何にもできないからです。 言いたいことばは、どうでしょう。そのとき、少なくともそのとき、兄弟は霊的でした。(笑い)ほんとにうまいでしょう、彼は。すごい絵を描く兄弟なんです。けれども、彼はね、自信がないんです。 それを見たとき、嬉しくなった。結局、自信があって、あれぐらいだったら、もう、いいよと言えば、主は見向きもしなよ。 結局、イエス様とひとつになるのは幸せだという証しこそが、ほんとにすばらしいのではないでしょうか。 このマルコの福音書の中で、イエス様のこと、弟子たちのことがよく書かれています。 前に言いましたようにイエス様はすべてをご存知であり、動揺せず、恐れないお方であり、へりくだって弟子たちに仕えたお方でした。 弟子たちは何にも理解しない者であり、驚き恐れる者であり、また高慢と支配欲に満ちた者だったのです。結局、決して、霊的ではなかった。 マルコの福音書10:32
十字架の死について、イエス様は話されたのです。イエス様は、ご自分に定められた十字架への道を、甚深されようとしました。けれど、そのとき弟子たちは心配するようになり、恐れを覚えたと書いてあります。 弟子たちの心は何にも理解しなかったし、恐れおののいておりましたし、また、一方、彼らの心の中には高慢と、自分が人よりも上に立ちたいという気持ちがあったんです。 それに対してイエス様はすべてをご存知でした。 どのような場合にも堅く立って恐れることのないお方でした。それから、ほんとにへりくだって、喜んで、犠牲になられたのです。 イエス様はご自分が苦しみを受け、十字架上で死ななければならないということを、つぶさに知っておられたのですけど、イエス様がそのことを話されたとき、不思議にも一度として、悲しみの口調から語られなかったのです。 イエス様がこの世に来られたご目的は、もちろんキリスト教という宗教を作るためではなかったし、新しいことを教えるためではなかったのです。死ぬためだけでした。 「救いの代価として、自分のいのちを与えるためにわたしは来たのだよ。」と、イエス様は何回も、何回も言われたのです。 エルサレムとは、イエス様にとって、何を意味していたのでしょうか。人々に退けられ、はずかしめを受け、苦しみを受け、十字架を荷い、そこで死ななければならない土地であることを示しています。 けれど、イエス様はこの土地にある弟子たちに対して、自分の決意を語られたのです。結局、今から、この世に来た唯一の目的とは、死ぬためだったよ、とイエス様ははっきり言われました。 イエス様が選んだ弟子たちは、結局、将来、用いられる器となるべきである。人々を漁る漁師にすると言われました。 そのためには、徹底的に自分自身を知ることが要求されたのです。 イエス様は、弟子たちとは全く違ったみこころをお持ちでした。また、イエス様のご目的と、弟子たちが心の中で願っている目的とは、全く違うものでした。 だから、まず弟子たちは、自分自身の心の状態に目を開かれなければならかったのです。弟子たちの心の奥底に潜んでいるものが、明るみに出されなければならかったのです。 弟子たちはイエス様に出会い、イエス様が約束された、「救い主である。」という確信を得て、それからすべてを捨てて、イエス様に従ったのです。 弟子たちは、イエス様と共にいて、実に多くのことを体験しました。 何千とも知らない人々が、イエス様のみことばを聞こうとしてみもとに集まって来た。おびただしい群集がイエス様についていたのです。何千とも知らない人々がイエス様によって、食事を与えられました。また、みもとに運ばれた病人たちは、みな、瞬間的にもちろん、ただで癒されたのです。 それまでの主イエス様は、弟子たちと親しい、まあ、友達のようなお方だったのではないでしょうか。 けれど、イエス様がご自分の死について話されるようになったとき、全く別人になっちゃったんです。 イエス様は何を考えているのか、どういう気持ちなのか、と全くわからなくなってしまったのです。けれども、イエス様は堅く立って、動かされることがなく、十字架への道を歩み出されたのです。それゆえ、イエス様は弟子たちにとって、そのとき、見知らぬ他人のようにあられたのです。 イエス様のみこころは、弟子たちの思いとは全く異なっていたのです。弟子たちは、彼らと主イエス様との間には大きな隔たりがあるということを気付かれるようになったのです。 イエス様がご自分の十字架について、お語りになる度に、弟子たちとイエス様との決定的な違いが明らかになりました。弟子たちはその度にお互いの序列をめぐって、いさかいを引き起こしたのです。 マルコの福音書10:35-39
ここで、「私たち」、私たちということばが出て来ますね。 「私たちの頼み事をかなえていただきたい。」 「私たちをすわらせてください。」 「私たちはできます。」 これは、自己中心の願いの表われでした。彼らは、決して霊的ではなかったのです。自分のことしか考えられなかったのです。 これらのことばからわかることは、彼らが自分自身にことに対して、全くめくらであった、ということです。自分に対して、目が開かれていない者は、他の人々に対して妬みを持ったり、競争心をもたらします。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。 聖書全体の言わんとしていることはそれです。 弟子たちの持っていた最大の問題は何であったかと言いますと、自分自身について何にも知らなかったことです。その印しは第一にうぬぼれ、また、第二に自分の力に頼ることです。 前に話した兄弟と全く違う態度なのではないでしょうか。 マルコの福音書10:39-40
この二節を見れば、彼らは自分たちが何か偉い者であると思っていたんです。とんでもない思い違いでした。 自分たちがイエス様の右と左にすわるにふさわしい者であると彼らは思ったのです。とんでもない考え方でした。 前に話したように、ペテロのことを考えてもわかります。 マルコの福音書14:31
けれど、ペテロだけでなく、他の弟子たちもみな、同じ思いでした。だから、31節に マルコの福音書14:31
と書いてあります。シモンはイエスに言った。 「主よ。ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと覚悟はできております。」 霊的でないというのはそういうものです。 主の約束はうぬぼれの強い者に対しては与えられていない。謙遜な者に対してだけ与えられています。 イエス様は何回も、何回も同じようなことを強調してくださいました。すなわち、だれでも自分を高くする者は低くされます。自分を低くする者は高くされる。 結局、主なる神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになるのです。私たちの態度とはいったいどういうものなのでしょうか。 イエス様は言われたのです。主の問いとは、「何をしてほしいのか。」というものでした。イエス様は、よくいろいろな人々にそう言われたのです。何をほしいの〜。 三つの実例について、ちょっとだけ考えましょうか。 まず、バルテマイの答えについてです。 マルコの福音書10:36
これはヤコブとヨハネへの答えでしたね。イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」と。 この質問に対して、この質問について、少し考えたらわかります。イエス様が私たちに対して、「何がほしいのですか。」と語ってくださることは、確かにすばらしい恵みです。 けれど、この質問に対して、何と答えたらいいのでしょうか。 バルテマイはどうだったでしょう。10章になります。マルコの福音書10章46節から良く知られている箇所ですけど、ちょっとお読みいたします。 マルコの福音書10:46-52
イエス様の弟子になっちゃった、命令されたからじゃない。もう、イエス様から離れられない。バルテマイはめくらであり、こじきでした。 けれど、それよりも悲惨なことは、バルテマイがイエス様を知らなかったことです。 イエス様を知らないということは、私たちが何ものにも替え難い損失です。イエス様を持たない者には、喜びも、平安も、希望もありません。 バルテマイは、イエス様のみが、自分を救ってくださることがおできになるということを確信したのです。だから、彼は「何としてもイエス様に出会いたい!」と思いました。 バルテマイはこのことを、ただ単に、頭の中で繰り返しているだけではなく、それを行動に移したのです。つまり、「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」すごい、すばらしい祈りです。必ず、答えられる祈りです。 「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」彼は叫び求めたのです。哀れみを叫ぶと、私たちには必ず主からの答えが与えられます。イエス様はバルテマイに向かって、「わたしに、何をしてほしいのですか。」と語られました。 バルテマイは、自分がめくらであり、こじきであるということを自覚していました。それゆえ、彼は「目が見えるようになりたい。」と頼んだのです。 バルテマイは自分自身がどのような者であるかを、よくわきまえておりましたから、主のみこころにかなった答えを、お答えすることができたのです。かつては、めくらであり、こじきであったバルテマイは、目が見えるようになり、イエス様に従う者となったのです。 バルテマイはイエス様のみが、自分に真の満足を与えてくださるお方であるということを、知っていたから、イエス様のあとに従うことのみを、自分の喜びとしたのです。 二番目の実例は、イエス様のふたりの弟子であるヤコブとヨハネです。ヤコブとヨハネもイエス様から、「何をしてほしいですか。」と尋ねられました。 彼らはバルトマイと違って、主イエス様の弟子であり、主イエス様を神の御子である、と信じていました。彼らは、山の上で、主のみからだが変わり、ご栄光をお現わしになるのをつぶさに見ました。 父なる神のご栄光を見、父なる神の声までも聞いたのです。この彼らに向かって、イエス様は同じ質問をしたのです。すなわち、「何をしてほしいの〜。」と。 ところが、バルトマイとは反対に、彼らの答えは、みこころにかなわないものでした。彼らは 「私たちの頼み事をかなえていただきたい。」 「私たちをすわらせてください。」 「私たちはできます。」 と、答えたのです。これらの答えを聞いて、イエス様のみこころは、どんなにか痛んだことでしょう。彼らの霊的状態は、ちょうどヨハネの黙示録にあるラオデキヤの教会の信者たちと同じようでした。ヨハネの黙示録の3章17節、皆さん、よく知っておられる箇所なんですけど。非常に驚くべきことばです。 高く引き上げられたイエス様の、ラオデキヤで導かれ、救われた兄弟姉妹に言われたことばです。 ヨハネの黙示録3:17
イエス様のみこころとはそのいのちを捧げることでしたけれども、弟子たちは人々の上に立ち、支配することを願っていたのであります。イエス様の弟子でありながら、主と全く違う思いでした。 ヤコブとヨハネは主に従うということは、自分自身を無にすることである、ということを、まだ理解することができなかったのです。 一度、従ったけど、ほんとの意味での弟子ではなかったのです。 ヤコブとヨハネは自分自身の魂の状態に対して、目が開かれていなかったのです。ですから、結局、彼らの答えは、バカらしい答えでした。 もうひとつの実例はソロモン王様のことではないかと思います。 ソロモン王様も、またこれと同じ質問を与えられたのです。旧約聖書の列王記第Tの3章になります。 列王記第T、3:5
「あなたに何を与えようか。願え。」何でもできる方が、ちっぽけな人間に向かって、「あなたに何を与えようか。願え。」と。 列王記第T、3:6-12
5節でですね、あなたに何を与えようか。ソロモンは主を信ずるものであり、また自分自身に対しても、正しい自己認識を持っていました。 7節に「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とさました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。」と。 世界一の政治家の告白とはそれです。「私は小さい子ども出入りするすべを知りません。」、当時、ソロモンは国民に慕われ、尊敬されていた王様でした。 ソロモンは主に願って、善悪を判断する心を求めました。結局、何が霊的か、霊的でないか、わからなかったから。ソロモンは自分には、結局それがないから、与えてくださいと願いました。 私たちはこのソロモンの願いのうちに、真のへりくだりと正しい自己認識を、読み取ることができるのではないかと思います。 ソロモンは自分自身のために、何かを求めたのではなく、あまたの民、つまり、主に属する民のために、兄弟姉妹のために善悪を判断する心をお求めになったのです。 ソロモンは自分自身のことを求めたのではなく、主なる神のご栄光を帰すことを、心から願ったのです。 その結果は、ソロモンが自分自身で求めたことよりも、はるかに超えることを主から受け取ったことができたのであります。 12節。今、わたしは、あなたに言った通りにする。ちっぽけな人間の言った通りに主はする。見よ。わたしは、あなたに知恵の心と判断する心を与える。あなたの先にあなたのような者はなかった。また、あなたのあとにあなたのような者も起こらない。その上、あなたの願わなかった富と誉れをあなたに与える。あなたが生きているかぎり、あなたに並ぶ者はひとりもいないであろう。 どうして、主はソロモンに願わなかったのに、富と誉れを与えたのでしょうか。 与えても危なくない。傲慢にならない。へりくだっているからです。わたしの栄光しか求めなかった。求めていないと主はわかったからです。 有名な山上の垂訓の中で、マタイの福音書6章33節に次のように書かれています。 マタイの福音書6:33
そうしなければもちろんダメ マタイの福音書6:33
マタイの福音書6章33節。まず第一に主の国、主の義を求めなさい、そうすれば、豊かに祝福されます。 エペソ人への手紙3章の20節を見ても、パウロは当時の信ずる者に、次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙3:20-21
主は豊かに祝福したい、と望んでおられます。 旧約聖書のマラキ書。マタイの福音書の前のマラキ書の3章10節にも内容的には同じことが書かれています。 マラキ書3:10
何でもできる方が試してみなさい、と言っておられます。また、ルカの福音書6章の38節に次のように書かれています。 ルカの福音書6:38
主は私たちにも、「あなたがたは何をしてほしいのか、何を与えましょうか。」と尋ねておられます。私たちはどのような答えを主に答えられるのでしょうか。 ヨハネの福音書の16章の中で、次のように書かれています。 ヨハネの福音書16:23
あなたがたが、わたしの名によって、何かをわたしに求めるものなら、わたしはそれをしましょう。 みんな、このことばを知っているし、ある意味で信じるかもしれないけど、本気になって、自分のものにしなければ主は悲しむ。 わたしの名によって、何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。すごい約束です。 16章の23節の後半を見ても、同じようなことばが書かれています。 ヨハネの福音書16:23-24
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