引用聖句:ヘブル人への手紙7章25節
これこそ良いニュースなのではないでしょうか。主はできる。主にとって不可能なことはない。 結局、初代教会の兄弟姉妹の喜びにあふれた証しとは、それだったのです。 われわれの主は生きておられます。この主は何でもできるお方です。 結局、人間は悩む者です。今の世界はひとつの大きな病院です。けれども今の個所、ヘブル人への手紙7章25節を見ると、はっきり書き記されています。「イエス様はできる。」 何とかできるよりも、「完全に救うことがおできになるお方」です。 そしてこの個所を見るとはっきり言えることは、近づくことが許されている。祈ることが許されているだけではなく、主ご自身が待っておられます。 人間は時々挨拶として、「よく来たね。」、と言います。けれど私たちは祈ると、イエス様は必ずそう言います。「よく来たね。待っていたよ。あなたの祈りを聞きたくて、聞きたくてしょうがない。」 主ご自身が近づいてくださるお方です。詩篇の59篇の10節を見ると、次のように書かれています。 詩篇59:10
放蕩息子の父親のように、主は迎えてくださるお方です。 将来、私たちは何を経験するようになるのかは、私たちは今もちろん分かりません。喜びを与えるものなのか、悲しむ者になるのか、まったく分かりません。けれど一つのことだけを私たちは確信できます。 すなわち、主ご自身がまず私たちを迎えに来てくださる、ということです。忘れないようにしましょう。 主は今日、または明日、もしかすると明後日、われわれを迎えに来てくださるのです。 急な山道を登るとき、主は力をもって迎えに来てくださいます。暗やみの道に行くとき、主は光をもって迎えに来てくださいます。つらい道を歩むとき、主はなぐさめをもって迎えに来てくださる。 寂しい道を歩くとき、主は愛をもって迎えに来てくださいます。危険な道を歩むとき、主は勝利をもって迎えに来てくださるのです。 イエス様は完全に救うことがおできになるお方です。 イエス様を生んだマリヤという女性は、この救いにあずかるようになったのです。聖書は次のように書かれています。みなさん暗記していることばでしょうけれども、すごい信仰の表われであります。 ルカの福音書1章の46節から48節までちょっとお読みいたします。 ルカの福音書1:46-48
このマリヤはほかの言葉で言いますと、「私は幸せです。主は私の救い主である。」、このことをマリヤは身をもって体験しました。 すなわち主なる神は遠く離れているところにおられるお方ではない。怒りに満ち満ちたお方でもない。イエス様を私たちの救いのためにこの世にお遣わしになったから、私たちは大いに喜ぶことができるのです。 マリヤのように、「主なる神はわが救い主。」と言うことができる人は本当に幸せです。 イエス様は私たちに完全な救いをもたらすために、この世に来られました。救いとはいったい何なのでしょうか。 言うまでもなく、まことの救いとはいわゆる人間の求めている幸せではない。救いとは、本当の愛であり、絶えざる平安であり、主の前に立つことができるための義であります。したがって救いとは、過去の克服です。 主なる神は人間のわがままを赦すお方です。イエス様は債務と罪の支払いと赦しを提供しておられます。むなしさからの解放を提供しておられます。イエス様は人間ひとりひとりの救い主となるために、約束された救い主としてこの世に来られたのです。 聖書は次のように言っています。天の使いのことばです。 ルカの福音書2:11
複数形ではなくて単数形で読んでもいいでしょう。あなたのために、救い主がお生まれになった。 イエス様は、わたしは、失われた人を捜して救うために来たのです。と言われました。 結局、イエス様にとって大切であったのは、失われた人々でした。自分はOK。そういう人々のためにイエス様は来られなかったのです。 ヨハネの福音書3:17
とあります。 ペテロは次のように宣べ伝えたのです。 使徒の働き5:31
長い間イエス様のことを分かろうとしなかったパウロは、回心の奇蹟を経験するようになり、それから殉教の死を遂げる前に書いたのです。 テモテへの手紙第I、1:15
イエス様はただひとりの救い主です。イエス様が罪の問題を全部解決してくださったゆえに、それゆえに、イエス様こそただひとりの救い主であられます。 けれどこのイエス様はいかにしてわれわれの救い主となることができるのでしょうか。 当時の羊飼いたちは、この世に現われた救い主を拝みました。礼拝したのです。当時の博士たちは、同じくイエス様を礼拝し、それだけではなく、すべての支配権をイエス様に明け渡したのです。 私たちはまずイエス様のみもとに行き、すべてを幼子のように告白し、自分のわがままを悔い改めなければならない。そして次のように祈ることが大切です。 「私は心から罪を悔い改めて、まったく新しい人間となることが許されますように。」、すると同時に、さらに私たちは心なる感謝をささげることです。 「私はあなたに心から感謝いたします。あなたが私の身代わりとなって、尊い代価を支払ってくださり、私の罪を赦し、贖うために死んでくださったことを心から感謝申し上げます。」 私の罪と債務は赦され、支払われている。今や良心の呵責に責められることもなくなった。この確信がわれわれの生活の土台となっていない場合には、私たちにとってすべてのすべてはむなしい。一番大切なものが欠けているのではないでしょうか。 イエス様を本当に体験した人はもはや孤独な人ではない。イエス様が私のために生きておられ、いつもともにおられ、私のために全力をもってすべてをなしてくださる、というこの確信を持つことができるのです。そしてイエス様の力は無制限なものです。 イエス様はこの地上における生涯においても、この力を明らかにしてくださったことがあります。波などに対して、ご自身の絶対的な力をお示しになりました。福音書の中であります。 ルカの福音書8:25
もちろんイエス様は、ただ、いわゆる自然を従わせる力を明らかにしてくださっただけでなく、もっと大いなる力を明らかにしてくださったのです。すなわち、罪を赦す力です。 マタイの福音書9:2
マタイの福音書9:6
このようなことばをイエス様の口から聞いた人々は、いっぺんに変えられたに違いない。子よ。あなたの罪は赦されている。もう安心しなさい。 使徒の働きの中で、 使徒の働き10:38
すなわちナザレのイエス 使徒の働き10:38
とあります。 この地上においてイエス様は、無制限の力について語ったことがあります。だいたい最後のことばだったでしょう。 マタイの福音書28:18
イエス様は永遠のいのちを与える権利も持っておられます。 ヨハネの福音書17:2
とあります。 そしてまたさらに、イエス様はご自分のいのちに対する権威をも持っておられました。よく知られている個所です。 ヨハネの福音書10:18
イエス様は確かによみがえらされたのですけれど、それだけではなく、自分の力でよみがえる力を持っておられたのです。 私たちとイエス様との違いは言葉に言い表わすことができないほど大きなものです。イエス様の権威は無限であり、それに対して本当に真面目に考えれば、われわれ人間の権威などとはまったく無力なものです。 私たちは来る日も来る日も自分の力をはるかに超えたものを要求され、それが続くと、まったく逃れ道のない状態に陥ってしまうのです。 そのときに私たちはわれらの救い主なるイエス様に次のように祈り、願い求めることができるのです。 「主イエス様よ。あなたの恵みと権威をどうか豊かに示し、現わしてください。あなたなしにはもう、私は一歩も先へ進むことができないからです。」 このへりくだった態度を取ると、主は働いてくださるのです。イエス様はわれわれの祈りにこたえて、ご自分の大いなる権威を現わしてくださるのです。このように、すべてを主にゆだねた者には、必ず主が大いなる力と権威を現わしてくださいます。 またイエス様は、私たちが日々新たにイエス様を救い主として体験し、イエス様こそ完全に救うことができるお方であることを体験的に知ることを望んでおられます。 イエス様はわれわれに大いなる力を現わすことができるために日々、主との交わりを持つことがどうしても必要です。 けれど残念なことに多くの信者は自分のことだけを考え、いつも自分のことでいっぱいになってしまい、自己中心的な生活をすることによって、主を結局忘れてしまいます。 この事実を多くの信者は認めたがらないが、その実際生活を見ると、そのことがよく分かります。 詩篇の106篇。イスラエルの経験について書かれていることばです。 詩篇106:21
彼らはすでに救われた者であったにも関わらず、いつの間にか自己決定と自己支配の生活に戻ってしまったのです。 私たちが自分の力で主に仕えようとしたり、主に完全により頼むことをしないならば、そのことが取りも直さず自分の救い主を忘れていることを意味しているのです。 私たちが救い主を忘れ、おのが道を行くときに、主はいったいどのような振る舞いをするのでしょうか。主は知らん顔をするのでしょうか。 もしそうだったら大変です。44節を見るともちろん違う。 詩篇106:44
とあります。すなわち、いかなることがあっても、イエス様は救い主であられ、ご自分に属する者をお見捨てにならない。 パウロはこのことを強調するために、当時の信ずる者に書いたのです。テモテへの手紙第IIの2章13節。彼の書いた最後の手紙です。 テモテへの手紙第II、2:13
信ずる者 テモテへの手紙第II、2:13
イエス様 テモテへの手紙第II、2:13
結局、変わらない。イエス様ご自身が変わらないし、イエス様の愛も変わらない。彼にはご自身を否むことができないからであるとあります。 3,000年前に当時の世界を支配したダビデも、このことを体験的に知っていたのではないかと思います。 彼の告白とは、サムエル記第IIの22章に書かれています。本当にすばらしい信仰の告白です。22章の2節、3節をお読みいたします。 サムエル記第II、22:2
主は私のものです サムエル記第II、22:2-3
これはダビデの単なることばではなく、体験したものでした。私を救う私の救い主ということばは、ダビデにとって決して理論ではなかったのです。彼が体験したものでした。だから彼はこういうふうに主をほめたたえるようになったのです。 このことばを発したダビデと同じように、私たちも日々われわれを助け、救うことのおできになる救い主を体験し、歓呼の声を上げることができればさいわいではないでしょうか。 22章の4節です。 サムエル記第II、22:4
私たちがなすべきことは、ただ主を呼び求めることだけです。助けを求めることだけです。 私たちは本当に自分自身に絶望しない限り、心の底から主を呼び求めることをしない者なのではないでしょうか。 私たちはどうすることもできない性質を持っているということを本当に分かったならば、自分の力で何かをしようとせずに、ただまことの救い主なるイエス様を呼び求めることしかできないでしょう。 すなわち、祈る者は本当の意味で頼る者です。まったく別の者と変えられ、今まで知らなかったものを体験するようになります。 詩篇の85篇の4節に戻りまして、ここで作者は次のように祈ったのです。 詩篇85:4
それは信ずる者にとってまったく恐ろしい状態です。信ずる者として自分は救われていると信じて疑わない者であっても、主とわれわれの直接の交わりではなく、その間に何ものか妨げるものが存在していると、感ずる例が少なくないでしょう。 けれど主は常に私たちを待っていてくださり、私たちが心から悔い改めるならば、罪を全部赦す備えをしておられるのです。 主は新しい喜びを与え、新しい力を授けてくださるのです。 詩篇85:6
私を 詩篇85:6
大いなる救い主は、新たなる始まりを差し上げたいと願っておられるのです。 主は完全に救うことがおできになります。 私たちも新たなる出発をしようではないでしょうか。完全な救いをいただこうではないでしょうか。 私たちが罪人であるがゆえに、聖なる主の前に恐れかしこんだことがあったのでしょうか。 私はわざわいなる者、汚れた者、無関心な者、支配欲に満ちた者、臆病者、ねたみ深い者、愛のない者です。このように叫んだことがあるのでしょうか。 主の前にはすべてが明らかにされ、主は何から何まですべてお見通しであり、すべての思いが主には知られています。 けれどこの聖なる主こそ、あなたの救い主です。 主イエス様は私たちを贖って、罪を赦してくださり、そのためにご自分のいのちを与えてくださったのです。 旧約聖書の福音書であるイザヤ書の中で、すばらしいことばがいっぱい出てきますが、43章のまず3節を読みます。 イザヤ書43:3
信じても信じなくても事実です。わたしはあなたの救い主です。 イザヤ書43:11
主は私たちに目を留められ、こういうふうに呼びかけておられます。 イザヤ書43:1
イエス様はさばかれたり、宣告をなさったり、罰したりするのではなく、私たちを助け、救うお方としてそば近くにおられるのです。 私たちはこの救い主であるイエス様に無条件に、絶対的に、残すところなく、明け渡そうではないでしょうか。 イエス様はご自分の権威、ご自分の栄光をわれわれの生活の中に、われわれの生活を通して現わしたく思っておられます。 「あなたのみこころがなりますように。私はあなたの導きにすべてをゆだねる決心ができております。」 このような心構えがいつもできている者はさいわいです。 「主よ。私はただあなただけにより頼みます。」、このように、日々新たに言うことのできる者は確かに幸せです。 強く、救い主なる主イエス様は、どこでも臨在しておられます。このイエス様は完全に救うことがおできになるお方です。 私たちの前に、またわれわれの周囲にあって、われわれを取り巻いている物事が、われわれを不安に陥れるようなことが少なくない。 けれどもイエス様は私たちの前に、隣に、後ろに立っておられるのです。私たちは決して、決してひとりぼっちではありません。主はわれわれの近くにおられます。それですから私たちは前進することができるのです。 イエス様は自分のご臨在、自分の力、自分のものを明らかにしようと望んでおられます。 旧約聖書のことばですけれども、集会のカレンダーの中でも引用されている個所です。非常に信じにくいことばです。 なぜならば、まったく理解できない。 ゼパニヤ書3:17
どうしてでしょうか。おそらく答えられる人はいない。どうして?主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。 イエス様の代わりの死こそが、この愛されている証拠そのものです。 私たちもこの作者のように言うことができるのでしょうか。それとも、そうでないため、主が悲しげに見ておられるのでしょうか。 最後に、主は救うことができる。完全に救うことができることについて、ちょっと五つの証しを見てみましょうか。 まずダニエルの三人の友だちの証しです。ご存知のように、彼らは妥協するよりも死んだほうがマシだ。という態度を取ったのです。何があっても彼らは主に頼ったから、火の燃える炉の中に投げ込まれるようになったのです。 ダニエル書3章の17節。当時の世界を治めたネブカデネザルの大王に向かっての答えです。彼らはもちろん外国まで連れて行かれたし、外人でした。けれども主から離れられなかったのです。 ダニエル書3:17
結局私たちは火の燃える炉の中に投げ込まれても結構です。 ダニエル書3:17
この三人はただ自分の仕えている主の誉れだけを見て、自分たちの身の上に何が起ころうが構わなかったのです。私たちも自分の名誉を無にして、ただ主の誉れだけを大切にするならば、主の救う力を毎日体験することができる。 第二番目の証しは、アブラハムの証しであります。 ローマ人への手紙の第4章の中で、アブラハムの信仰生活について短く書かれています。 ローマ人への手紙4:20-21
どういうふうになるかもちろん分からなかったのです。このアブラハムも結局、栄光を主に帰したため、主は成就する力があることを確信し、体験することができたのです。 主は救うことができる。主にとって不可能なことはない、と彼は喜んで証しすることができた。 第三はパウロの証しであります。彼は主の大いなる力を何回も何回も経験したから、次のように書き記すことができた。 コリント人への手紙第II、9:8
結局、主はできる。主にとって不可能なことはない。 同じくパウロはエペソ人への手紙の中で、同じような内容なのですけれど書いたのです。 エペソ人への手紙3:20-21
パウロは、主はできると疑わずに喜んで告白したのです。 殺される前に彼はまた書いたのです。テモテへの手紙第IIの1章12節の後半だけお読みいたします。 テモテへの手紙第II、1:12
主はできる。 第四はヘブル人への手紙の著者の証しであり、告白です。この作者はわれらの主を大いなる大祭司として常に生きておられ、常にとりなしていてくださるお方であるから、著者は心から主をほめたたえたのです。 彼の証しは初めに読まれた個所です。ヘブル人への手紙7章25節です。 ヘブル人への手紙7:25
ヘブル人への手紙2:18
主はできる。 最後に、第五番目ですけれど、ユダの証しです。イエス様の肉体の弟だったのですけれども、彼はわれわれを守ることのできるお方として、またイエス様の御姿に似た者として、私たちを造り変えることができるお方であると証ししたのです。 ユダの手紙の最後の二節です。24節と25節です。 ユダの手紙1:24-25
主は生きておられ、主はできる、と考えると、本当に安心して将来に向かうことができるのではないでしょうか。 |