引用聖句:テサロニケ人への手紙第I、4章1節
ヨハネの福音書15:4-8
コロサイ人への手紙1:10
ドイツで過ごした時は本当に祝福された時であり、日本人だけではなくてドイツ人でさえも導かれ、救われたのです。 このような混乱した時代の中で、十字架につけられたイエス様を宣べ伝えることができるのはすごいのではないでしょうか。 宗教のために宣伝するとまともな人はもちろん、「結構です。」、にせものはほしくないから。結局人間はひとつのいくらすばらしい教えであっても救われません。 イエス様の教えとは最高です。比べられるものがないのです。けれどイエス様の教えによって、だれも救われません。 すべての宗教は、ひとつの教えを信じ込めばOKと言いますけれど嘘。結局、宗教の中心とは十字架でなければまったく役に立たない。 イエス様を知るようになった人はもちろん後悔しませんし、その人こそがイエス様を喜ばせたい気持ちを持っています。ですから今日の主題は、「主イエスを喜ばせよ」というものです。 イエス様を信じ、また知るようになった兄弟姉妹は、イエス様無き人生のみじめさを認識するようになりました。 またいかなる人力も努力も、主なる神と人間との間の隔ての壁を取り除くことができないことも知るようになったから、自分が破産したことを宣告し、自分の債務をイエス様に告白する恵みにあずかるようになったのです。 幼子のような信仰でもって、罪の赦しを要求することの結果として、イエス様の血によって自分は贖われ、神の子どもとされたことを知るようになったのです。 そしてもはやさばかれることがないことをも確信することができるのです。いうまでもなく、わかったからではない。聖書はそう言っているからです。 そしてイエス様を知るようになった兄弟姉妹は、イエス様に喜ばれたいと必ず望むようになります。 もっとも大切なことは一体何なのでしょうか。いうまでもなく一番大切なことが成されるということなのではないでしょうか。 現代人はみな非常に忙しい毎日を送っています。このこと、あのことはどうしても行なわなければならないということを私たちももちろん知っています。 私たちはなるほど、このこともあのことも喜んでやりたいと思うけれど、どんなに頑張っても時と力には限りがあり、すべてのことをすることはできない。 だから私たちは何が一番大切なことかと考えるべきなのではないでしょうか。 もっとも大切なことは、主イエ様に喜ばれることです。今、兄弟もお読みになりました個所。テサロニケ人への手紙第Iの4章1節に書かれています。 結局、新たに信仰に導かれたエペソにいる兄弟姉妹に対してパウロは書いたのです。 テサロニケ人への手紙第I、4:1
結局救われることとはもちろんすばらしい。主しかなさらない奇蹟ですけれど、それだけでは十分ではない。ですから使徒たちはみなやっぱり信者たちに教えたのです。いかにして主を喜ばすことができるのかと。 確かに救われている人々と、救われていない人々との間の区別があるのです。救われている人々はイエス様を喜ばせたいという願いを持っていますけれど、救われていない人はイエス様に対して目くらであり、イエス様の声に対してつんぼです。イエス様と関係を持っていないからです。 私たちは毎日、自分の思いはイエス様に喜ばれるか、自分の言動はイエス様に喜ばれるかを新たに問うべきなのではないでしょうか。これこそもっとも大切なことです。 喜ばれるということばは普通どのように使われているのでしょうか。 ほかの人に喜ばれるということばは、好みが合うか、考えが一致するという場合によく使われます。結婚の場合も、その前に必ず気に入られるということが起こるはずです。 もちろん例外もある。強制されて結婚する人も、結婚されてしまった人もいる。これこそもう悲劇そのものではないでしょうか。 けれども普通だったらやっぱり、外観、性質、全存在が魅力的な場合、男性も女性も「気に入った。」と言います。 しばしば多くの場合、外面の顔形から出発します。「彼女は美しい。」、「彼は男らしい。」と言います。恰好がいい、だから気に入るようになり、だから好きになる。 もちろんこれは本当の愛ではない。しばしば多くの人が失望しているという現実があります。というのは、外側の見かけは偽りであるからです。外側の美しさよりも大切なのは、内面的な性質です。 人間は騙したり、騙されたりします。ですから非常に多くの苦しみ、悩み、絶望に陥るのです。 けれどここでは人間に気に入られるのが大切なのではなく、生きるまことの主なる神に気に入られるのが大切です。 私たちはこのことについて真剣に考えると、驚かざるを得ないでしょう。というのは、いったい私たちはどうやって光そのもの、少しも暗いところをご存じない主イエス様に喜んでいただけるのでしょうか。 いったいどうして私たちは絶対的な聖さと神聖さそのものであられるイエス様に喜ばれることができるのでしょうか。 どうしたら私たちは愛そのものであられるイエス様に喜んでいただくことができるのでしょうか。 イエス様は光そのものです。けれど何と多くの利己的な性質、偽善と二重人格が私たちのうちにあることでしょうか。 イエス様は絶対聖なるお方です。しかし何と多くの嘘と不純がわれわれの内にあるのでしょうか。 イエス様は愛そのものです。けれども何と多くの自己追求と自己中心がわれわれの内にあることでしょう。 イエス様はいかに私たちを気に入ってくださるのでしょうか。 人間の想像以上に主なる神はみこころにかなう人間をほしいと計画してくださいました。エペソ人への手紙の1章の4節を見ると次のように書かれています。 エペソ人への手紙1:4
世界の基に置かれる前、主はもうすでに私たちひとりひとりのことを考えてくださったのです。 主ご自身がご自分のほうから私たちと主との間の裂け目を塞ぐ道を用意してくださいました。すなわち御子イエス様がわれわれの贖いの代価を支払ってくださいました。 その代価はイエス様がささげてくださったのです。よく読むローマ人への手紙5章の8節に次のように書かれています。 ローマ人への手紙5:8
犠牲になった。死に渡された主イエス様こそが、父なる神の愛の表われそのものです。 父なる神はどうして人間を喜ぶことがおできになるのでしょうか。それは決して主に喜ばれる生涯を送ろうと私たち人間が自分の力で努力することではなく、御子イエス様が私たちの代わりに死んでくださり、そして私たちのために生きてくださるからです。 救われたばかりの兄弟姉妹に対して私たちはしばしば言うべきではないでしょうか。今からいわゆるクリスチャンらしい生活をしようとすることをやめてもらいたい。どうせ出来ないからです。 多くの人はやっぱりちょっと驚くのです。「そのことが要求されるでしょう?」、けれどもイエス様のものになったとしても、イエス様を喜ばせようとする自分の努力はすべて敗北から敗北へという結果に至るだけです。 イエス様がお生まれになったとき、御使いは次のように告げ知らせたのです。よく知られている個所なのですけれども、ルカの福音書2章9節からお読みいたします。 ルカの福音書2:9-11
期待された救いの神である。メシヤです。 ルカの福音書2:12-14
御心にかなう人々という表現が出てきます。生きるまことの神が喜んでくださるのは、ただイエス様だけです。 今、イエス様が受け入れてくださる方はイエス様のうちにあり、主イエス様の義によってみこころにかなった人間とされています。けれどそれは自分自身のすばらしさのゆえではなく、ただイエス様の贖いのゆえにそうされています。 イエス様のうちにある者。すなわちイエス様と結び付いている者の生涯は変えられます。そこに実を結ぶことが見られるのです。エペソ人への手紙1章の、続いて前に4節読みました。5節からちょっと読みます。 エペソ人への手紙1:5-7
人間の努力の結果ではない。学んだ報いでもない。神の豊かな恵みによるのです。 また前に読みました、コロサイ人への手紙1章の12節を見ても似てる個所があります。 コロサイ人への手紙1:12-14
これは初代教会の確信、喜ばしい証しでした。 主を喜ばせる秘訣とはいったい何なのでしょうか。もう一回ヨハネの福音書の15章。信ずる者にとってもっとも大切な個所の一つではないでしょうか。 ヨハネの福音書15:4-5
とどまっていなければ、ついていなければもちろんダメ。とどまっているなら、 ヨハネの福音書15:5
おそらく、信ずる者たちの間で一番信じられていないことばはこれではないでしょうか。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。頑張れば何とかなるのではないか。とんでもない。 ヨハネの福音書15:6
残るのは灰ぐらいです。 ヨハネの福音書15:7
すごい約束ではないでしょうか。 ヨハネの福音書15:8
自分の努力ではなく、内におられるイエス様。これこそ勝利と祝福と実を結ぶことの秘訣です。 主に喜ばれること。これこそもっとも大切なことです。それは実際には何を意味しているのでしょうか。ちょっと3つのことが言えます。 第一番目。主はわれわれの裏表の無い愛を望んでおられます。私たちの努力よりも、われわれの裏表の無い愛を望んでおられます。 第二番目。主イエス様は、われわれの喜びを持った奉仕を望んでおられます。喜んで自発的にできなければやめたほうがいい。 第三番目。イエス様はわれわれの正直な態度を望んでおられるのです。 まず主はわれわれの愛を、真心からの愛を望んでおられます。申命記の6章5節。ちょっと開きましょうか。 申命記6:5
主の存在を認めなさいではない。あるいは主を信じなさいなのでもない。主を愛しなさい。 イエス様はご存知のように、3回ペテロに尋ねたのです。「どう?あなたはわたしを愛するの?」、もっとも大切なのはそれなのです。 もちろんイエス様は今日も私たちに同じように問うておられるのです。「あなたはわたしを愛するの?」、もっとも大切なのは心から主を愛することです。 イエス様を愛するということは、ただ主を信ずるということ以上のことです。聖書全体は主を愛することを強調しています。 例えば旧約聖書のホセア書の6章6節なのですけれども、 ホセア書6:6
もう一ヶ所。 サムエル記第I、15:22
耳を傾けること。主よ、私はどうしたらいいのという態度を取ること。 サムエル記第I、15:23
当時の王であるサウルはもちろん主を信じ、主のために生きたいと思ったことがあります。けれども本当の意味で悔い改めなかったのです。 そうすると主の恵みを経験することが出来ないし、結果として主を愛することができない。 あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。彼の最期は自殺でした。 イエス様を愛する者は、主がどういうことを喜んでくださるかをわきまえています。だからこそ次のことを覚えるべきです。 何かある律法が私たちを導くのではなく、主イエス様に対する愛がわれわれを導くべきです。 毎日、「主よ。私は何をしたらいいのでしょうか。あなたは何を望んでおられるのでしょうか。」と尋ねましょう。そうすると主の祝福が豊かにそそがれます。 イエス様に喜ばれること、これこそもっとも大切なことです。それは実際には何を意味しているのでしょうか。今話したように、主はわれわれの裏表の無い愛を望んでおられます。 二番目。主はわれわれの喜びをもった奉仕を望んでおられるのです。 イエス様に喜ばれる奉仕とは、自分自身を無にした奉仕であり、イエス様のために喜んで犠牲を払う備え、そしてまた、自分自身をささげ、自分を否定する備えのできた奉仕です。 そういう生涯はイザヤ書に記されています。58章の5節からちょっと読みます。 もちろんこれはいわゆる異邦人、主を知らない人々に言われたことばではない。イスラエルの民、主を信ずる者に言われたことばです。 イザヤ書58:5-10
このような個所を見ると、人間、信ずる者の考えと主の考えとはまったく違う。自己否定が要求されます。 すなわち自我の死。自分自身の願いを捨てること。自分自身の利益を捨てることです。主は何を望んでおられるのか。今話したように、ふた心のない愛、それから、喜んで行なう奉仕を通して主イエス様が喜んでくださいます。 最後にもう一つ。すなわち、正直になること。正直な態度を通してもイエス様が喜んでくださると聖書は言っています。 もう一回旧約聖書の歴代誌第Iの29章。 歴代誌第I、29:17
直ぐなことを愛されるとあります。もう一ヶ所、 箴言11:20
まっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。 箴言11:27
主に喜ばれるが、 箴言11:27
箴言12:2
主に喜ばれる。 箴言12:2
箴言12:22
失敗することは別に大変なことではありませんけれど、曖昧にすること、隠すこと、陰でコソコソすることは大変な問題です。ただ人前だけ上手に繕い、人間を喜ばせようとする人は、物事を曖昧にしたり、隠したりします。 けれどイエス様の前に光のうちを歩む者はもはや、隠したり、曖昧にしたりすることはできません。 イエス様に喜ばれる生涯は、これこそ私たちの人生の内容であるべきではないでしょうか。その秘訣は、私たちのうちに主イエス様がおられるということです。私たちはいつも失敗ばかりする者ですけれど、イエス様は何事でもお出来になります。 主に拠り頼み、徹頭徹尾主に信頼する者は、勝利から勝利に至ります。ヘブル人への手紙の13章を見ると次のように書かれています。 ヘブル人への手紙13:20-21
とあります。ここで、みこころを行なうことができるお方とは、結局うちに住み給う主イエス様です。 もっとも大切なことはいったい何なのでしょうか。答えは、主に喜ばれることです。 そして主はわれわれの裏表の無い愛を望んでおられますし、われわれの喜びをもった奉仕を望んでおられますし、また、われわれの正直な態度を望んでおられるのです。 最後にちょっとだけこの生活を送ったひとりについて考えて終わります。 創世記の5章。アダムからの7代目の男、エノクについて書かれています。 彼は主から見ると本当に成功した男でした。みこころにかなう人でした。 創世記5:23
当時彼は若者でした。当時みな、九百歳以上になったのです。 創世記5:24
考えてください。エノクは神とともに歩んだ。結果として、 創世記5:24
死を見ないで、そのままで天国へ行ってしまった。幸せな男ではないでしょうか。 ヘブル人への手紙の中でもう少し詳しく説明されています。11章の5節。信仰によって、信頼することによって、と考えたほうがピンと来るのではないでしょうか。何かを信ずることよりも、どなたかに頼るべきです。 ヘブル人への手紙11:5
携挙(けいきょ)を経験したのは、彼が初めてではないでしょうか。死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。 移される前に、彼は神に喜ばれていることが証しされていました。 エノクはみこころにかなう人でした。主に喜ばれた男でした。 主に喜ばれるということは、エノクにとって毎日、毎日主とともに歩むこと。一瞬、一瞬主と結び付いていることを意味しました。 信ずるということはただ単に主のみことばを幼子のように受け入れるということだけではなく、意識して主にのみ拠り頼むということでもあります。 信仰がなければ、主に喜ばれることはまったく不可能であると、このヘブル人への手紙にも書かれています。いったいどうすれば私たちは主に喜ばれることができるのでしょうか。 それは私たちが主を信頼し、主とともに歩むことによってです。それは日々主に信頼して、お従いするということを意味します。 パウロは次のように書くことができたのです。コリント人への手紙第IIの5章の9節です。本当に当時の信ずる者の勝利を得た秘訣ではないでしょうか。 コリント人への手紙第II、5:9
パウロは信者たちが未信者の真ん中に、主に喜ばれるようにと切に願っていたのです。 初めに読みましたコロサイ人への手紙1章の10節は本当に大切なことばです。われわれの結婚指輪に刻まれたことばは、この10節なのですけれども。9節から読みましょうか。 コロサイ人への手紙1:9-10
こういうふうにパウロは、もうすでに救いにあずかった人々のために心から祈り、叫びました。また彼の殉教の死を遂げる最期の手紙の中で次のように書いたのです。テモテへの手紙第II、2章の4節です。 テモテへの手紙第II、2:4
主を喜ばせることこそがもっとも大切です。もう一ヶ所。 ヘブル人への手紙12:28
主に喜ばれることこそがもっとも大切です。エノクという名前の意味は、「主にささげられた者」を意味します。いい名前。「主にささげられた者」、これこそまさに、なぜエノクが主に喜んでいただけたかの秘訣です。 私たちもまた主イエス様に献身し、主の意のままに奉仕する備えができているのでしょうか。最後にもう一ヶ所読んで終わります。 ローマ人への手紙12:1-2
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