主イエスと病人


ベック兄

(吉祥寺学び会、2012/02/14)

引用聖句:マルコの福音書7章31節-37節
31それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
36イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

今の世界は問題だらけです。「解からない、どうしたらいいか全く解からない、どうすればいいのでしょうか」と多くの人々は思っています。
けれど、聖書の中でも同じようなことばが出てきます。「私は出入りするすべを知りません。」とソロモン大王様が告白しました。王様として彼は本当に正直でした。「私はできません。」何も知らない、彼は自分の無力さを知るようになりました。
人間は、自分の無力さを知るようになると、絶望するか、祈るかのどちらかなのではないでしょうか。ソロモンは祈りました。「私は、小さい子供で出入りするすべを知りません。どうか聞き分ける心を僕に与えてください。」、聖書の報告とは、主はこの祈りを聞いた時、嬉しくなった。喜ぶことができたとあります。この願い事は、主の御心にかなったとあります。

ソロモンは祈りました。意識して主に頼ろうとしたのです。今の読んできてくださった箇所は、よく知られている箇所です。この箇所のために一つの題名をつけようと思えば、だいたいいつも同じ題名です。「主イエスと病人」
イエス様はいのちそのものです。イエス様の中に、喜び、平安、力が満ちています。
それとは反対に、病人には苦しみ、悩み、孤独、弱さなどが渦巻いています。そして病人は、ここに出て来る耳が聞こえず、口のきけない人と同じように結局、病気のために人間社会からは締め出されてしまっているのです。その意味でイエス様と病人とは、お互いに相容れない関係にあるわけです。

けれども二人は一緒にならなければ、新しい救いの道を得られない。どうしても一緒にならなければならない。イエス様は、病人のために来られたのですから、イエス様と病人とは一緒にならなければならないのです。
健康な者は、医者を必要としないが、病人は医者を必要とする。「悩んでいる人々、孤独になっている人々、困っている人々こそがわたしを必要とする」とイエス様は言い続けたのです。
「わたしは、失われた者を見いだして救いだすためにこの世に来た」とイエス様は自分の与えられた使命について証ししてくださったのです。

病人、すなわち喜びと希望を失った者は、イエス様を必要とします。イエス様は、病人のために来られ、病人のために生きておられます。
ここに登場する耳が聞こえず、口のきけない人は、耳と舌とを持っていたのですが、あまり役に立たないものでした。使えないものだったから。
口のきけない人、耳が聞こえない人とはもちろん悩む人々です。彼は当時あちこち歩いた時、「あの人は誰、あの孤独な人は誰」とみな解かったんです。淋しかった。

もちろんこの人はただ単に表面的な外側の苦しみだけじゃなくて、心の奥底に悩みと苦しみを持っていました。耳と舌とを持っていましたけれども、使うことができなかったから。そうすると使えなければ役に立たないのではないでしょうか。
このようにして、必然的に彼は周囲の世界から切り離され、孤独になったから、そのことによって外側の苦しみだけじゃなくて、心の悩みと苦しみとは大きかったのではないでしょうか。
この人に対しては、多くの医者もどうすることもできませんでした。長い間、非常な苦しみと悲しみの中に閉ざされていたのです。この苦しみは非常に深かったから、人間的な同情、人間的な慰めではどうすることもできませんでした。この病は単なる空想や夢ではなく、恐るべき現実でした。

イエス様は、この病人をいったいいかにして癒したのでしょうか。イエス様は、「彼を一人連れ出した」と書いてあります。イエス様は、彼と二人だけになりたかったんです。この病人にとって、イエス様との出会いは、彼の一生を根本から変えてしまう転換点を意味していました。
私たち一人ひとりも、苦しみ悩む時には、イエス様と二人だけになる時間を持つようになれば幸せです。ただ一人になるということは、もちろんあんまり面白くない。恐ろしいほど無力の状態に置かれることを意味しているのではないでしょうか。
現代人は、ただ一人になることを恐れるため、テレビを見たりして、気を紛らわさざるを得ない。人間は孤独になることを欲しくない。その状態から逃げることを考えています。

イエス様なく一人でいることは、確かに最も恐ろしいことです。けれどイエス様と二人だけでいることは、最もすばらしいことなのではないでしょうか。
いろいろな問題、苦しみ、悩み、不安などに取り囲まれて一人でいることは、確かにいやです。けれどそこにイエス様が入ってこられると、喜び、力、平安に満ちた新しい変化が起こるのです。
普通イエス様が癒しをなさる時、だいたい99%でしょう、みことばをもって奇跡を瞬間に行なわれましたけれど、この場合は、ことばじゃなくて行ないによって、病人に接近されました。

イエス様は、病人の両耳に指を差し入れ、それから舌に触れました。それによって、もちろん病人は解かった。イエス様が耳と舌に触れることによって、何かをなさるということを感じました。
イエス様は話し合いによって病人に近づかれたのではなく、行ないによって病人に近づかれました。それからイエス様は天を仰ぎ見ました。病人も、もちろんイエス様がなさるのを見て、同じように天を見上げたことでしょう。そのことによって病人は解かった。すなわち本当の救いが上から来るものであると解かったのです。
それからイエス様は、その人に「開け」と言われました。このイエス様のみことばは、もちろん単なる音ではありませんでした。普通人間が同じように言っても、それは単なる一時的な音にすぎない。すぐに消えてしまうけれど、イエス様のみことばは、そうではない。

イエス様のみことばは、決して単なる慰めや願望の言葉ではありません。群衆は、耳が聞こえず、口のきけない人が癒されたのを見て、一方ならず驚いて言いました。

マルコの福音書7:37
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

この男の人生は、イエス様との出会いによって根本から新しく造り変えられたのです。疑いと絶望とは、その瞬間にいっぺんに消えてしまいました。それこそまさに、喜びと祝福に満ちた新しいいのちが生まれたのであります。
このように喜びと祝福に満たされた新しいいのちは、もちろん誰にも提供されているすばらしい主イエス様の贈り物です。
聖書によると、生まれつきの人間の霊的な状態は、ちょうど耳が聞こえず、口のきけない人が周囲の人々から切り離されていたのと同じように、主なる神によって新しく生まれ変わっていない人は、主なる神との交わりを持つことができない。断絶の状態に置かれています。耳を持ち舌を持っていても、耳が聞こえず、口のきけない人が大勢いるのではないでしょうか。

聖書は言っています。「耳のある者は聞くがよい。」この意味は、耳があっても聞こえない可能性があり得るということです。
このような状態について書かれている聖書をちょっと見てみましょうか。

イザヤ書6:9-10
9すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

と主は預言者を通して語ったのであります。
私たちは、主に対して耳が聞こえない者なのでしょうか。本当に動かない土台を持っているのでしょうか。孤独ではないでしょうか。今の箇所から明らかのように、主なる神によって新しく生まれ変わった人々だけが、主のみことばを聞くことができる。
自分のわがままを悔い改めたくない人は、みことばを心の耳で聞くことができません。もちろんそれは、決して未信者だけでなく、信じる者であっても、気がつかない罪を犯している場合でもみことばを聞くことができないということです。

ソロモンという大王様は、大切なことばを書いたのです。「自分の背きの罪を隠す者は、成功しない。それを告白してそれを捨てる者は、あわれみを受ける。」隠さない者はあわれみを受ける。人間にとって必要なのは、それだけなのではないでしょうか。「主はあわれんでくださった」と言える人は本当に幸せです。
ヨハネは次のように書いたのです。「もし、私たちが(すなわちもうすでに救われた人々)自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいます。」
自分の罪、苦しみ、悩み、煩いを主に告白すれば、結局、新しい喜びが与えられます。「聞く耳と見る目とは、二つとも主が造られたものです。」とソロモン王は言ったのであります。

またイザヤは、「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝ごとに私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」
ダビデという王様は、悔い改めた結果、証ししました。彼の告白とは、次のものです。「あなたは、私の耳を開いてくださいました。」これはいったい何を意味しているのでしょうか。
これは新しいいのちが贈り物として与えられているということです。「あなたは、私の耳を開いてくださいました。」と言える人は幸せです。

前に読みました病人は、以前は耳が聞こえず、口のきけない者であったため、周囲の人々と話をすることができなかったけれど、癒された後で、必ず大声で賛美をし、イエス様を褒め称えたにちがいない。
イエス様と出会って、救いの体験をし、意識的に罪の生活から離れている者は、ただ昼夜、イエス様を賛美し、証しをする幸いにあずかっているのです。
パウロも同じようなことを経験しました。「というのは、私が福音を述べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは私がどうしてもしなければならないことだからです。もし福音を述べ伝えなかったら、私は災いにあいます。」とパウロは言ったのであります。

主の声を聞くことと、主を証しすることとは平行して行なわれるものです。たとえば、「あなたの罪は赦されている。わたしはあなたを贖ったのだ。」と主の声を聞き、救いの体験を持った者は、必ずそのことを証しせずにはおられない者となります。
けれど多くの人は、本当の出会い、救いの体験を持っていないため、主の証し人となることが少ないのではないでしょうか。
なぜ当時の病人は癒されたのでしょうか。耳が聞こえず、口のきけない人は、何人かの人々によってイエス様の御許に連れて来られたからです。

マルコの福音書7:32
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

主に祈ったんです。したがって、この病人にとってはそれらの人々の手助けが、どうしても必要でした。つまりこのようにみじめなあわれむべき病人を助けた人々が、そこにいたのです。
彼らは、望みなき者をイエス様のもとに連れて来ました。彼らはまたこの病人のために祈ったんです。「手を置いてやっていたただきたい」と彼らは心から祈りました。
彼らは、イエス様がその病人にさわれること、それと同時に病が癒されたことをもちろん信じました。イエス様はいのちそのものです。そのいのちであられるイエス様が、病人に触られると、病気は逃げてしまいました。

イエス様はいのちそのものです。そのいのちであられるイエス様が病人に触られると、もちろん病人は癒されます。病気が癒され、病人は健康になることができるのです。私たちは、病人をイエス様の御許に連れて来た人々と同じ者であると言えるのでしょうか。
私たちも、イエス様が病人に触られるようにと、病人のために手助けをしているのでしょうか。私たちは、自分自身のことに忙しく、悩んでいる人々をイエス様の御許に連れて行く時間すらないということが、しばしばあるのではないでしょうか。
すなわち、私たちは悩んでいる人々に対して、心の目を開いているのでしょうか。あるいは閉ざしているのでしょうか。もしも、心の目を開いているならば、悩んでいる人々を一人でも多く、主の御許に連れて行かなければなりません。

イエス様にとって、不可能なことはありません。だから祈るべきなのではないでしょうか。「イエス様、どうか家の親、家の主人、子供、友人に手を置いてやってください。」と心から主にお願いし、祈らなければならないのではないでしょうか。
私たちは、救われていない人々に対して、無関心であったり、無責任であったりすることは許されません。その病める人に対して主が、我々を通し、主の大いなる御業を表すための器となり、通り良き管となることこそ、一番大切なのではないでしょうか。
イエス様が我々をお用いになる秘密は何でしょうか。イエス様は、我々の模範なのではないでしょうか。何と書いているかと言いますと、「主イエスは天を仰いだ。」としるされています。このことは、イエス様自身が、自分の力によらず、父なる神にすべてをゆだねられたことを意味します。

このように私たちも全く、主により頼むなら、いかに苦しい状態であっても、主に対する目が開かれ、新しい道が開かれます。けれど、主により頼まないないならば、他の人々の苦しみや悩みを通して、目が開かれることがない。
そして私たちが、悩んでいる人々をイエス様の御許に連れて行き、その人々が出会い、交わりを持つことができる時、本当の救いが体験され、豊かな祝福を得ることができるのです。
それは主の一言によって、行なわれるのです。

私たちは、他の病人、ここでは、耳が聞こえず、口のきけない人ですけれど、彼らに向かって、癒しのことばを語ることができるのでしょうか。あるいは、この耳が聞こえず、口のきけない人のようにだまっているのでしょうか。
イエス様は常に変わることのないお方です。すべての力がイエス様によって、自由自在に用いられるのです。
我々の周囲にある苦しみや悩みは、ますます大きなものとなりつつあります。私たちは、主の妨げとなることなく、主の器として用いられるように祈れば、主は必ず応えてくださるのです。

前に一つのドイツ語の歌を紹介したことがありますけれど、あの歌を始めて読んだ時、もうびっくりして、ちょっと深いことを思うようになりました。
その元なることばとは、エレミヤ書8章20節です。

エレミヤ書8:20
20「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」

こういうことばでもって、アレキサンダーというスイスの神学校の校長先生が作った歌です。

「恵みの時は、終わりに近づいている。広い世界に今や静かに終わりの日が近づいている。
遠い裁きの底から、不安の叫びが聞こえてくる。
私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。
私たちを照らす神の恵みなくしては、私たちは苦しみと闇の中、暗い道を行かねばならない。

永遠に、永遠に。あなたたちは歌い、喜びに満ちている。自分は神の子であるという。
私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、ひどい苦しみに満ちている。
あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。

あなたがたは、なぜ神様がそのひとり子を遣わして、自分たちを愛していることを教えないのか。
あなたがたのおかげで、自分たちはそれを知らずに、希望なく滅び行くのだ。
自分たちは、死ぬために生まれたのであり、死は永遠から永遠に至る我々の運命なのだろうか。
私たちには、星が輝かない。約束の光も照らされない。遠くの方に裁きの雷が聞こえる。

なぜ、なぜ、あなたがたは急がないのか。
神は、行って全世界に十字架の勝利者を述べ伝えよと言っているのに。
あなたがたは、私たちのあわれな心のために喜ばしき知らせを持っている。
傷を癒す薬、苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに。なぜそんなに長く、沈黙しているのですか。

あなたたちの信仰の岩に至る道を示すことばを、私たちに聞かせてください。
私たちの涙をぬぐってください。私たちが、死につくのもあなたがたのせいです。
私たちの罪は悩ませ、夜は近づいています。私たちは、私たちの魂をサタンの力に与えなければならない。

永遠に、永遠に。遠くの国々から、幾百万という人々が、収穫の主よ、聞きたまえと呼んでいる。
私たち信者に、新しい恵みを与えてください。私たちの罪を赦してください。
待ち焦がれている魂の所へ、十字架のことばを運ぶ者と成さしめたまえ。彼らが永遠に滅びないように。」




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