あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい


ベック兄

(国立家庭集会、2001/11/01)

引用聖句:マタイの福音書25章34節、41節
34そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

今歌った聖歌の中で、「のぼり来よ」という表現が出てきます。聖書からの引用なんです。
ヨハネの黙示録の4章の1節だと思います。「ここに上れ。」
主はこのように呼ぶと、人間は結局召されるようになり、天国へ行くようになります。

初代教会の人々とはみんな、私たちの国籍は天国ですと確信しました。
この間ちょっと、四国に行きまして、ひとりの高校生にも初めて会いまして、彼は色々な質問をしたんですけど、もっとも大切な質問のひとつは、「天国はあるの?地獄があるの?」
そういうこと聞かれれば、自分で考えてもまったく無意味でしょ?天国行ったことがないし、地獄味わったことがないし。そうすると結局聖書しかない。

結局イエス様は、「聖書とは真理そのものである。」と言われたんです。
イエス様は聖書のことを信じたのです。だから私たちも理解できなくても安心し、信ずることができる。
今読まれた二ヶ所読むと、イエス様ははっきり、天国もあるし、地獄もあるとはっきり言われたのです。

マタイの福音書25:34
34王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

御国とは天国の別名にすぎない。もちろんイエス様はよく、「わたしは天から来られた者です。」と言われました。
イエス様とはもちろん天国の王そのものであります。そしてイエス様は、結局将来ある人々に、祝福された人たちをという声が聞こえるようになります。
どうして?御国を継ぎなさい。天国におはいりなさい。この天国とは、世の初めから備えられてるものです。

主の恵みによって救われた人々のために、天国があるとあります。そして41節を見ると、地獄という表現は使われていませんけど、その代わりに、別名として永遠の火ということばが使われていますね。

マタイの福音書25:41
41それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。

祝福された人たちじゃない。逆なんです。

マタイの福音書25:41
41わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

イエス様はここではっきり言われたのは、みんな天国行ってもらいたい。そのためにわたしは救いの代価を払います。
けども、提供された罪の赦し、永遠のいのちを意識して拒む者のために、永遠の火しかない。けども、この永遠の火であり、いわゆる地獄とは、人間のために備えられてるもんじゃないよ。
悪魔とその使いたち。すなわち、悪魔と悪魔の霊にだけ、地獄はあるはずです。

今、当然です。地獄は空っぽです。だれもいない。なぜならば悪魔でさえも、主なる神に近づくことができる。毎日近づきます。
聖書は、夜昼悪魔は主なる神に言って、信ずる者を訴えます。未信者を訴えようとしません。信ずる者だけ。
結局あらゆる人間よりも、悪魔は熱心に祈るんじゃないかな。

私たちは夜じゅう、寝てる間に祈らないと思うよ。あり得ない。けども悪魔は、夜昼、私たちを訴えます。結局祈るんです。
どういうふうに祈るかと言いますと、「あなたのいわゆる救われた連中たちを見なさい。ひどいじゃないか。みんな救われてると言いながら、けど、相変わらず、わがままなのではないか。自分勝手な道、行くんじゃないか。」

もちろん悪魔の言ってることは本当なんです。ですから弁護士がいないと本当に困っちゃう。
けどもイエス様こそが、私たちの弁護士そのものであります。
イエス様は、「わたしは代わりに罰せられた。わたしの流された血はその証明である。」と言うから、悪魔はもうお手上げなんです。なんにも言えないから。

主はあるとき、「祝福された人たちおいで、おいで。御国におはいりになりなさい。」と言うようになります。
けどもある人々にも、「勝手にのろわれた者ども。永遠の火にはいれ。」
どうしてこういうふうになるかと言いますと、彼は意識的に御国にはいろうとしなかったからです。

ある人々は、あんな者はひっどーい罪を犯したからもう赦され得ない、地獄とは正しい罰だと考えますけど、この考え方は、宗教的ですけど聖書的じゃない。
人間はどうしていつか永遠の火にはいるかと言いますと、ひどい罪を犯したからじゃない。頭下げたくなかったからです。
提供された罪の赦しを意識して拒んだからです。

そのためだけ地獄があるし、天国もある。
そして私の行く先は天国であると確信できる人は、本当に幸せなのではないでしょうか。

みなさんは聞いたと思うんです。吉祥寺である気の毒な男がいまして、彼は9月11日、世界貿易センターに入って、110階まで行こうと思って、切符を買ったんです。ただで行かれないんですって。
切符を買って、乗る瞬間、上に飛行機が入っちゃった。彼は逃げたんです。
ある人は、「良かったねぇー。」と言うんです。けど、本当の見方もある。五分先に行ったならば天国でしょう、今。気の毒な男。
天国だったらもう、うらやましい。今まで、「生きなくちゃいけない。苦しまなくちゃいけない。心配しなくちゃいけない。」、いや、そんなに面白くないよ。
けども、この間の日曜日の礼拝のとき、彼は立って祈ったそうですって。やっぱり今まで生ぬるかった。今からこそ、イエス様のために生きたい。
そういう結論になると非常にありがたい。結局主は、「おいで。」と言えなかったのです。彼はまだ用いられるべきであったからじゃないでしょうか。

将来の大切な出来事に着ついて、ヨハネの黙示録に書かれています。
もう、この世で色々な祭りとお祝いがあるんですけど、将来の天国で行なわれるお祝いについても、もちろん想像することができないし、けど、最高のものだと思います。

ヨハネの黙示録19:7
7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

花嫁は立派になった。と書いてないんです。用意ができた。
もちろん、ここで慣れていない言葉が使われています。小羊の婚姻とは、小羊なる主イエス様の結婚のようなものである。そしてイエス様は花婿であり、イエス様に属する者はみな、花嫁と呼ばれてるのです。

イエス様はそのために近いうちに再臨されます。
イエス様は当時の弟子たちを励ますために、力づけるために、希望を与えるために言ったのであります。

ヨハネの福音書14:2-3
2わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様はひとりで天国にいたくない。私たちのような者と一緒にいたい。
ちょっと考えられない。どうしてか、なぜか誰も分かりませんけども、間違いなくそうなんです。
イエス様はまた再臨なさいます。再臨を待ち望むために救われたと聖書もはっきり言っているのです。

何年前だったかもう忘れました。たぶん二十年前かもしれない。まだ旧軽井沢で集会がありまして、そのときある兄弟は、再臨についてメッセージしたんです。
このメッセージを聞いたある男性は途中で怒って「馬鹿らしい!!」、娘に命令して、「帰ろう!!」
結局娘としてもお父さんに反発しても意味のないことですから、彼女は運転中だったから、帰るつもりだったけどダメでした。

考えられない霧があったんです。もう、五メートル先のこと見えない。ですからもうやっぱり危なすぎる。諦めてあの古い家で泊まっちゃったんです。
そしてその男性もその次の朝、悔い改めてイエス様を信じ、救われちゃったんです。

確かに最後のことについていくら考えても、ちょっとピンと来ないよ。一体どういうことかまったく分からないなのではないでしょうか。
この間ちょっと聞いたんですけども、もう80年前に、この日本である本が出版されるようになったんです。
いわゆる空中再臨についての本だったんですけども、ちょっとその前に、テサロニケ人への手紙第I、ちょっと見てみましょうか。

テサロニケ人への手紙第I、4:13
13眠った人々のことについては、

ここで、眠ったという表現使われています。それは寝てしまったことじゃなくて、死んだ、亡くなった人々のことについて、

テサロニケ人への手紙第I、4:13
13兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。

意味は、どうしても知ってもらいたいということ。

テサロニケ人への手紙第I、4:13-14
13あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
14私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。

分かったからじゃない。理解できたからじゃない。納得させられたからじゃない。けども彼らは信じた。復活なさったイエス様を知るようになっちゃったからです。

テサロニケ人への手紙第I、4:14-15
14それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
15私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

先に召された人々は先です。

テサロニケ人への手紙第I、4:16-18
16主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
17次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
18こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

イエス様は来られます。
この箇所を見ると、もちろんイエス様ご自身再び来られるのです。そしてそのとき、先に亡くなった、召された人々の灰になったからだがよみがえります。栄光のからだ、復活のからだになります。
イエス様が、キリストの復活の日の朝にもっていたからだと同じからだになります。

このからだとはからだです。霊じゃない。ピンと来ないけど・・・
弟子たちはもう、おそらく窓だけじゃなく、雨戸も閉めて、ドア全部閉めて、もう、恐ろしくなったからです。そして急に、もちろん窓から入らなかったし、ドアから入らなかったし、イエス様は真ん中に立っていたんです。

霊だったら分かるけど、そうじゃないよ。イエス様。「わたしを触ってください。肉と骨があるだろう。霊は肉と骨をもってない。わたしはもってる。」
それからもちろん弟子たちと一緒に食べたんです。イエス様は肉体をもって復活なさったのです。
けどもこのからだとは、やっぱりからだでしょう。なぜならば釘痕もあったからです。けどもやっぱり全身違うものでした。

もちろん完全です。私たちの将来もつからだとは、完全なるからだです。
今のわれわれの経験してる救いはちょっと、半分しかないでしょうね。今の経験できる救いとは、たましいの救いだけよ。
たましいの救いとは結局、生ける希望をもつこと。赦されたこと確信すること。私は罰せられる者ではなく、大いに愛されてる者であるという確信をもつこと。もう、すっばらしい。けども、半分だけでしょう?

私たちはからだの救いを経験していない。いくら強い信仰をもっていても、喉が痛くなる可能性がある。頭痛くなる可能性もある。
癌になる人もいるよ。死ぬ人もいる。ですから、私たちは今現在、からだの救いを経験できません。
灰になったからだは、復活のからだに変えられる瞬間、完全な救いを経験するようになります。ですから、使徒たちはみんな、「私たちはからだの贖われることを待ち望んでいる。」と言ったのです。

パウロだって多くの人々いやしました。死人までもよみがえらせたんです。
けど自分で病気になったとき、お手上げでした。なんにもできなかった。
彼は死ぬまで病気でした。けども彼は、「私は困難をも喜んでる。」

主は彼になんと言ったかと言いますと、「パウロ。あなたの思うとおりにあなたはいやされたら、あなたは必ず傲慢になります。用いられれば。傲慢になるとアウトです。わたしはへりくだった者しか用いられない。」と、
「パウロ、選びなさい。元気になりたいの?病気そのままでいいの?」

パウロは、「病気、そのままでいい。私は高ぶるようになり、用いられなくなると、何のために救われたのか分からない。」
彼は死ぬまで病気だったけど、高ぶらなかったから死ぬまで用いられるようになったのです。

先に亡くなった人々とは、先によみがえります。
ある兄弟はね、たぶん九十歳のとき、何と言ったかと言いますと、「空席待ちです。」
行く先は決まってる。天国だ。けど、なかなかイエス様、呼ばない。そういう気持ちだったんです。羨ましいじゃない。もうちょっとで天国です。

先に召された人々は、先によみがえり、栄光のからだをもつようになります。結局、灰の中からよみがえりのからだ出るようになり、そして先に天に行った霊とたましいとまた一つになるんです。
そのあとで、生き残ってる人々は、急に姿を消す。80年前に日本で出てた本を部分的にちょっと読みましょうか。

「いったい何から話せばよいのか分からない。そもそも朝起きたと
きから、おかしかった。
夜中すぎまで確かに隣で寝ていた妻が、朝になるといなかった。一
度夜中に起きたとき、確かに妻は隣で寝ていた。朝いつものように
起きたが、居間にも台所にも妻の姿はない。今までこんなことは一
度もなかった。
仕方がないので、自分で朝食を作り、仕事に出かけた。歩いて駅ま
で行くと、すぐになにか様子が変であることに気づいた。いつもの
改札の係の姿が見えず、駅長が代わりにその仕事をしていた。彼は
怒ってイライラした様子であった。

 なぜ駅長が切符切りをしているのだろうと不思議に思いながら、
改札を通った。間もなく電車がホームに入って来たので、急いで
飛び乗った。
私のすぐ横にいた三人の人が話してるのが聞こえた。私は気が狂い
そうになった。

(テープ A面 → B面)

・・・人たちに何が起こったのだろうかという内容であった。私は、
それ以上聞きたくなかった。

 言葉で言えない不安で胸がしめつけられそうであった。電車の中
を見回すと、どの人も不安な、怯えたような表情をしていた。自分
は夢を見ているのかと思った。誰もひとことばも喋らなかった。突
然、ひとりの人がこう言った。

『いったい、何が起こったというのでしょうね。今朝のニュースに
よると、一晩でたくさんの人が亡くなったそうだ。
 恐ろしいことだが、私の息子は前から言っていた。昨晩のような
ことが近いうちに起こることを、私にはだいたい見当がついてる。
息子はなんでも私に言っていた。今でもあの子の声が聞こえるよう
な気がする。
 近い将来に、主イエス・キリストに属する者がみな、この地上か
らいなくなるときが来る。一瞬のうちにそうなるときが来る。それ
を携挙というんだよ。ついこの間も、聖書から引用してなにかその
ようなことを言っていた。』

 私はゾッとした。私の妻だけではない。昨晩中にいなくなった人
が大勢いるなんて・・・。私はどうしたらいいのだろう。やがて私
の降りる駅がきた。
 歩きながら考えたのだが、私は無神論者で、聖書など信じていな
い。私は五十歳になるまで、過去何十年間というもの、私なりのは
っきりとした人生観をもっていて、宗教のようなくだらないことに
ついて、人々が話しかけるのを、いつも断ってきた。
 しかし今日のは、様子がまったく違うようである。ただこれが夢
であってほしい。と祈るような気持ちであった。

 しかし街全体が異様な雰囲気に包まれているようで、私が夢をみ
ているのではないことは明らかであった。
勤務先の銀行に来たとき、かげがやっと見つかったところだという
人の声が聞こえてきた。道行く人は、みんな黙りこんだままで、何
か大きな不安が来るのを恐れているようであった。
 銀行に着くと、従業員たちはみな、ひそひそ声で話し合っていた。

 いつも教会に行っていた支店長代理は私が恐れていたとおり、姿
がなかった。ビジネスの機能が今や止まったかのように見えた。
 時間が過ぎても従業員たちは、仕事が手につかない様子で落ち着
かなかった。朝刊の一面に特大活字で、一晩のうちに大量の人たち
が失踪した事件が報じられていた。

 ラジオのニュースもその話でもちきりだった。いつもの番組が取
り止めになり、何度もそのニュースだけが報じられていた。
出納係が、「午後二時から政府発表の特別番組がテレビであるそう
です。」と言った。従業員たちは私の許可も聞かず、外に出て行っ
てしまった。

 ひとりの客も来ないまま閉店の時間になったので、自分で鍵を閉
めた。外に出てみると、昨夜から今朝にかけて幾つかの交通事故が
重なったために、首都圏の交通網は麻痺し、大混乱していた。
 駅の反対側で、火事が起こっていたが、誰もそれどころではない
ようであった。私はそのとき初めて、私も一緒に焼け死んでも構わ
ないという妙な気持ちになっていた。

 私はどのようにして家に帰ったか分からない。家の中は真っ暗で、
電気も来てないかのようであった。ニュースを聴くためにラジオを
つけた。
 昨夜の事件のために国中で混乱があり、外国での混乱はもっとひ
どかったらしい。誰かが聖書について話していた。

 今となって考える価値のある唯一の本は、聖書だけのように思え
る。今私の頭に残っているのは、だからよくよく注意しなさいとい
う聖書のことばだけです。牧師をしてるいとこが引用していたこと
ばです。
 私は腹が立った。たとえこのことが聖書と関係があったとしても、
今さら注意してもなにになるものか。私はふと、同じ町に住んでい
る妻の兄家族がキリスト者であったことを思い出した。その家に行
ってみると思ったとおり、だれもいなかった。

 電気の付かない暗やみの中で、手探りで彼の書斎まで行ってみる
と、やはり思ったとおり、彼の聖書があった。彼はいなくなる直前
まで読んでいたのかもしれない。箴言の箇所が開かれたままになっ
ていた。そのページのわきに線が引かれていた。

箴言1:24-26
24わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。
25あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。
26それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。

 私はそれまで、神が笑ったりあざけったりするとは考えたことも
なかった。そんなことをするのは人間だけと思っていた。しかし人
間が笑うときはもう終わった。それだけは確かであった。

 私はちょうど二ヶ月前、妻の兄が熱心に聖書から話してくれたと
きのことを思い起こした。彼はその晩、キリストの十字架による罪
の赦しと永遠のいのちについて話してくれた。
 私は彼の言うことを真面目に聞かなかった。途中で、「あなたの
ように素直に信じられる人は幸せだ。」となかば、からかって、話
をそらせたのを覚えてる。私が彼の部屋から出ようとしたとき、壁
に掛かってる額に目が留まった。

コリント人への手紙第II、6:2
2確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

 私はそのとき初めて、自分のありのままの姿を見た。私は馬鹿だっ
た。もしあのとき、もっと真面目に耳を傾けていたら、そうすれば私
は神の恵みから取り残されずにすんでいただろうに。」

これ、本の中の一文だけであります。80年前に出された本なんです。もちろん聖書の言われてるとおりです。
イエス様が再臨なされるとき、考えられない多くの人々は確かに、「馬鹿だった〜。なんという愚かな者だった。」と言うに違いない。

イエス様は、今度来ると、もちろん罪の問題を解決するためではない。罪の問題は解決された。イエス様は代わりに罰せられたからであります。
イエス様は今度、前に話したように、今度来るとき、いわゆる花婿として来られます。

もう一回、マタイの福音書25章に戻りますと、次のように書かれています。

マタイの福音書25:1
1そこで、天の御国は、

天国と言ってもいいです。

マタイの福音書25:1-3
1たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

問題はこれなんですね。油とは聖書の中で聖霊を、御霊を意味する表現です。結局御霊を持つとOK。持っていなければダメ。
したがって信ずる者は、聖霊の宮と呼ばれています。
主の目から見ると人間は、聖霊の宮であるか、聖霊でない悪霊の住まいであるかのどちらかなのではないでしょうか。
愚かな者は、油を用意していなかった。

マタイの福音書25:4
4賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。

ほかの人は入れ物を持っていたでしょうけど、空っぽの入れ物は意味のないことです。
形式があったんです。ランプがあったんです。外から見ると、十人はまったく同じように見えたんです。ですからみな、結局もう、寝ちゃったんです。途中で。

マタイの福音書25:5
5婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。

愚かな者だけじゃないよ。

マタイの福音書25:6-7
6ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
7娘たちは、みな

ここも、みな、と書いてますね。賢い人々だけじゃないんです愚かな者もみな、

マタイの福音書25:7-13
7起きて、自分のともしびを整えた。
8ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
13だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

ノアという男は、義を宣べ伝える説教家と呼ばれていたのです。彼は当時の世界の中で、もっとも主を恐れた者でした。
主はノアのことを見たとき、本当に喜ぶことができた。自分の思ってること、考えてること、全部言うことができたのです。
そして主は結局、

「今は恵みのときですけど、この恵みのときはいつか終わります。意識して拒む人々は結局さばかれる。洪水が来る。
ひとつの逃げ場を作りなさい。」
われわれの逃げ場とはイエス様なんですけど、当時の逃げ場とは大きな箱舟だったんです。もう、考えられない・・・ちょっと忘れました。
長さはたぶん、110メートルぐらいだったんです。考えられない大きなものでした。

海岸で作られれば、誰でも納得するかもしれない。けど、そんな大きなもの作るのはまったくおかしい。
けど、彼は山の上で作ったんです。舟を山の上で作る人は随分おかしいじゃないの。
けども彼は結局、ニ、三ヶ月だけじゃなくて、五、六十年間だけじゃなくて、百十年間、洪水が来る。

今、悔い改められます。けども心を頑なにすると、いつかおしまいです。
創世記の中で主は、外からこの箱舟の戸を閉めた。もう中から開けられなかったんです。結局八人しか残らなかったんです。

いつか戸が閉められるようになる。ですからパウロは前に引用した箇所の中で、「見よ。今は恵みのとき、今は救いの日です。」
今日救われようと思えば、もちろん今日救われます。もっと簡単なことはない。
なぜならば、人間からなんにも要求されていないからです。なにも知らなくてもいいし、なにもしなくても結構。
正直になれば、へりくだれば。「あわれんでください。私のわがままを赦してください。」という態度を取ると主は必ず赦してくださるのです。

それによって人間は、「いつか祝福された人たち、御国にはいれ。」と聞くか、あるいは、「のろわれた者ども、わたしから離れて永遠の火にはいれ。」ということになるかのどちらかです。

ずーっと、「すべて疲れた人、重荷を負ってる人はおいで、おいで。わたしのところに来なさい。」と呼ばれた人は、いつか「わたしから離れて。」というのになれば、もちろんおしまいです。
そういう人々にとっても希望がない。けども、このマタイの福音書25章の箇所を見ると、本当に、やっぱり考えるべきなのではないでしょうか。十人は同じように見えたんですね。

同じ洋服を着てたかどうか分からないけども、みんなやっぱり、集会なり、教会なり行ったし、聖書読みましたし、祈りましたし、悩んでる人を誘ったし、結局どなたが本物か偽者か分からなかったんです。
みんな寝ちゃったし、みんな起きたし、花婿を迎えに行こうと言ったんです。けどもやっぱり五人は偽者だった。本物を持っていなかった。

パウロは、「主の霊を持っていない人は、主のものではない。」、すなわち、救われていないことになります。
マタイの福音書7章の箇所を読むと、同じことが書かれてます。やっぱり同じように考えられないほど厳しいことばです。

マタイの福音書7:21-23
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

結局、「永遠の火にはいれ。」という意味です。
けども、この人々とは、外から見たとき立派だった。聖書のこと話しちゃったし、イエス様の名前を使って悪霊を追い出したし、イエス様の名前によって奇蹟をたくさん行なった人々なんです。
けどイエス様は、「わたしから離れて行け。わたしはあなたがたを全然知らない。」

もしどなたか生きてる間に一回だけ心から、「私のわがままを赦してください。」と叫ぶと、イエス様はその人々を知るようになり、すなわちその人は救われます。間違いなく。
ここで、「わたしはあなたがたを知らない。」という意味は、あなたがたは一回も心から、「あわれんでください。恵んで赦してください。」と祈ったことがないという意味です。

今日の集いも、喜びの集いと言えます。なぜならば、罪を赦したいお方であるイエス様を紹介することができるからです。
けども、この喜びの集いに参加する人々は、みんな悩んでる人々でしょ?現実見ると。
そうすれば、どうして喜びの集いと言えるかと言いますと、悔い改められるからです。主は本当に心から願っておられます。

「おいで。勉強しなさいじゃないよ。頑張って努力せよなのではないよ。金を出せなのでもないよ。ただ、わたしのところにいなさい。」
どういう人々がイエス様のところに行くかと言いますと、結局、自分の必要を感じる人々です。
「自分のわがまま、赦してもらいたい。変わらない喜びほしいから。心の平安、必要であるから。」そういう人々だけが祈るようになります。そして主は祈りの聞き手です。

けども主のものになることとは確かにすばらしいけど、それだけではない。少なくともイエス様はそれだけで満足しない。
イエス様は結局、実を結んでもらいたいと願っておられます。
ヨハネの福音書15章の16節を見ると、イエス様ははっきり、当時の弟子たちに次のように言ったのであります。

ヨハネの福音書15:16
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため...です。

実を結ぶことこそが、主の要求されてることです。
救われるためにただイエス様のもとに行けば、疲れた者として、重荷を負ってる者としてイエス様に近づけば、イエス様は必ず受け入れてくださり、休ませていてくださるのです。
けども、実を結ぶために、一体なにが必要なのでしょうか。

イエス様と結び付くことであります。
このヨハネの福音書15章の中でも、色々なこと書き記されていますけども、その実を結ぶ条件とは結局、死ぬことでもある。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

死ぬこととは、肉体的に死ぬことよりも、自己否定を意味します。
ですからイエス様はよく、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨てなさい。」
自分を捨てることとは、結局、正しいのは私の思ってること、考えてることではなく、イエス様の言ってることです。

毎日覚えるべきことじゃないでしょうか。イエス様を信ずることとは、自分を信じないことです。
宗教に入るのは簡単です。人間が中心だからです。人間から何か要求されてるからです。
宗教とは、人間は何を信ずるべきか、何をなすべきか、それだけなんです。けども聖書の中で、人間のために余地がないんです。

結局人間の考えてることとは、正しいかどうか分からない。
私たちは間違いなくそうじゃないかと思っても、五年あとで、いや間違っていたと思うようになるかもしれない。
ですから自分の考えてること、思ってることは大切ではなく、「主よ。導いてください。」、パウロはイエス様に出会った瞬間、それを分かったんです。

彼はもう、最高の教育受けた者で、頭が良くて、そして間違った自信をもっていたのです。
結局、「私の考えてることは正しい。イエス・キリストは殺されたので良かった。犯罪人だったから。神を冒涜した者だからです。モーセの戒めを守られなかったからです。平気で安息日に悩んでる人、いやしたじゃないか。どうして安息日にするか。別の日であってもいいだろうか。」云々と。

結局、ノンキリストは、めっちゃっくっちゃな男だった。「殺されたのは良かった。ですから私に与えられてる使命とは、このキリストに対する思いを消すことだ。」
必死になって、命懸けでイエス様を信ずる者を迫害したのです。けど彼はいっぺんに変えられたのです。
「主よ。あなたはどなたですか?」と聞かれたとき、「あなたが迫害しているイエスです。」

殺されたイエスは生きてれば、私は間違っていた。もう自信がない。終わり。ですから、「主よ。私はどうしたらいいの?教えてください。あなたが教えてくださらなければ、また同じ失敗をする可能性、十分ある。」
彼はずっとこの態度取ったから、大いに用いられるようになったのです。
結局主は、当時の、もちろん信ずる者たちに言ったのです。

イザヤ書55:8-9
8「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
9天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

結局全然違う。ですからやっぱり、主に頼らなければ。「イエス様。私はどうしたらいいの?分からない。あなたを喜ばせたいけど、あなたが導いてくださらなければ反対のことになるに違いない。あわれんでください。」
この砕かれた態度があれば、主は大いに喜んでまた、祝福してくださるのです。




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