引用聖句:マルコの福音書1章16節-20節
マルコの福音書2:13-17
マルコの福音書3:13
今日の集いも、いつもと同じように、勉強するための集いではなく、イエス様を紹介するための集いであります。 聖書の呼びかけとは、本物のイエスから目を離さないでいなさい。 人間は確かに簡単に惑わされます。人間によって作られた宗教に入っている人々とは、皆だまされています。本物のイエス様は、どういうお方でしょうか。もちろん要求するお方よりも、与えたいお方です。偽者ではなく本物です。またイエス様は、導きたい、教えたい、守りたいと望んでおられます。 本物のイエス様は、確かに人間の罪とわがままを明るみに出すお方です。けれど、明るみに出された罪は赦され、忘れられていると聖書は言っているのです。 本物のイエス様は、近づきたいお方であり、聞く耳を持つお方であり、応えてくださり、恵もうと望んでおられるお方です。 そして間違いなく本物のイエス様を仰ぎ見ると、結果として礼拝せざるを得なくなります。 今、読んでもらいました箇所の中心になるのは、もちろんイエス様です。そして当時、イエス様と一緒に歩いた、イエス様に従った弟子たちです。 イエス様は、「ただわたしについて来なさい。」 理由もはっきり言われました。「人間をとる漁師にしてあげよう。あなた方を用いたい。」と主は願っておられます。 そして今読んだ箇所を見てみると、「すぐに」という表現が何回も出てきます。「彼らはすぐ網を捨て置いて従った」、「すぐにイエスについて行った」、「立ち上がって従った」、「おおぜいいてイエスに従っていた」云々とあります。 どうしてついて行ったかと言いますと、絶対に後悔しないと思ったからです。 「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」、すなわち、イエス様に従うようになった人々とは、結局、自分のみじめさ罪深さを、はっきり解かったんです。 マルコの福音書3章13節ですね。イエス様は、どうして彼らを選んだか、呼びかけてくださったかと言いますと、2つの理由です。彼らを身近におき、また彼らを遣わして福音を述べさせるためです。「おいで、おいで」それから「出て行け」 イエス様のところに行った人々とは、結局、イエス様を紹介するためだったにちがいない。 福音書を見るとはっきり解かるのは、イエス様のいわゆる呼びかけとは、いつも2種類の呼びかけでした。救われるため、それから弟子になるためです。 救われることとは、生ける真の神の子となることであり、そしてイエス様の弟子の務めは、イエス様を紹介することです。 このマルコの福音書全体が言わんとしていることは、イエス様を大いなる僕として特徴づけることです。これに対して、マタイの福音書では、イエス様は王として紹介されています。ルカの福音書では、イエス様は人間として描き出されています。そしてヨハネの福音書では、イエス様は神の御子として約束された救い主として、特徴づけられています。 けれど、マルコの福音書においては、初めに述べたとおり神の僕としてのイエス様が、同労者たちを、結局弟子たちを探し求めておられることが描かれています。 イエス様の同労者でありまた弟子とは、イエス様と共に奉仕する備えのできている人のことを言います。そしてこのマルコの福音書では、イエス様が弟子たちに呼びかけて言われることが、はっきりと描き出されています。すべての中心人物は言うまでもなくイエス様です。 イエス様は呼びかけておられるお方です。中心人物とはもちろんイエス様であり、呼びかけておられる主イエス様です。 今の読んだ箇所を見てもは、いろいろな動詞が出てきます。イエス様は常にまず初めに行動なさり、率先して行動を起こされる方であることが解かります。 マルコの福音書3:13
とあります。また、前に読んだ箇所ですね。マルコの福音書1章16節、19節、24節、「イエスはご覧になった」「イエスはご覧になった」「イエスはお呼びになった」と何回も出てきます。 イエス様は、ザアカイまたサウロの名前をお呼びになったように、弟子たちに対しても、決まった名前をお呼びになられた。このことは、非常に大切な意味を持つのではないでしょうか。 なぜならば、イエス様と私、イエス様とあなたというふうに、イエス様との一対一の関係こそ非常に大切な関係であるからです。 また人間がイエス様を選んだのではなく、イエス様が人間をお選びになって、その中に入ってかかわりを持ってくださったからです。 今日でも、人間の力によっては、また人間の決定によっては、救われることはありません。主イエス様が我々の心の目を開いてくださり、自分の本当の姿を、イエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださるのです。 イエス様の呼びかけとは、いつもすごい呼びかけです。皆さん暗記している箇所でしょう。 マタイの福音書11:28
罪人のために、助けを求めている人のために、絶望している人のためにイエス様はおられます。悔い改めと信仰をとおして、イエス様の現実と救いが明らかになるのです。 けれども悔い改めと信仰は、決して人間からやって来るものではなく、まさに上から与えられた賜物です。ですから、信じる者とはこの贈り物を喜んで受け取った人であると言えます。受け入れたかどうかこそが問題です。 我々の人生にとっていったい何がどうしても必要なのでしょうか。一番大切なことは、もちろん真の救いにあずかることです。救われることです。そのためにいったい何が必要なのでしょうか。 まず第1に、自分の救われなければならないという必要を知ることです。第2に人間的な努力は空しいということを知ることです。すなわち、自分も他人も決して自分を救うことができないということです。 すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている救いとは、人間の思っている幸せではないでしょう。罪の問題の解決です。罪のゆえに主なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪が赦され、永遠のいのちを持つと聖書は言っているのです。 けれどこれは人間や宗教によってではなく、イエス様によってのみ与えられるのです。なぜならば、イエス様は罪に対する父なる神の裁きの的になられ、ご自身の聖い尊い血によって債務を支払い、罪を赦してくださったのです。この真理の事実を受け取る者は救われているのです。神との平和、罪の赦し、永遠のいのちを持つことができるのです。 すべての人間は、自分の力で罪の問題を解決することはできないため、どうしてもイエス様が必要であると告白する状態に至らなければなりません。 「主よ。私はどうしようもない者として、あなた様の御許にまいります。あなたが私の罪の問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝いたします。」 このようにイエス様に向かって言うことができる人は、本当に幸せです。 もう一回、まとめましょうか。創造主なる神の子供となるために、2つのことが必要です。 第1は、主なる神の言われることを認めることです。 第2に、イエス様を意識して受け入れることです。 主なる神は何と言っておられるのでしょうか。主は、絶対に癒されない罪の病、それは全く改善の望みがないと言っておられます。けれどイエス様は、我々の身代わりになってくださいました。そしてイエス様が成してくださったことは充分です。 人間の考えていること、思っていることとは、そんなに大切ではない。聖書は何と言っているか。ヨハネの黙示録の一番最後の22章17節を見ると次のように書かれています。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」 ここでいのちの水とは、イエス様による救いの贈り物に他ならない。ここでほしい者は受けるがよいと記されています。本当に欲しいかどうかが問題です。欲すれば受けるにちがいない。けれど、欲しいと思わなければ、ちょっと大変、将来は真っ暗闇です。 イエス様は永遠のいのちを与えるために、決して強制なさいません。欲しければ与えられます。欲しくなければ大変なことになる。欲しい者は受けると約束されています。受ける者は持つのです。 すなわち、その人は神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子供とされた喜びを持ち、永遠のいのちを持つことができるのです。 イエス様の呼びかけとは、いったいどういうものだったでしょう。すなわち弟子となるように。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」とこのイエス様の呼びかけとは、いったい何を意味しているのでしょうかね。 私たちは救われるために、救われているのではない。仕えるために、用いられるために救われていると、聖書ははっきり言っているのであります。 救われていることは、まだ救われていない人々をも救いたいという思いを持つことです。 まだ救われていない人々を救いたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰はちょっと疑わしいものではないでしょうか。 イエス様は、救いを受け入れるように重荷をおろしてあげようと、呼びかけられた後で、ご自分に仕えるようにとも呼びかけられているのです。 けれどもイエス様に仕えるとは、いったいどういうことでしょうか。それは、あれこれ行なうということではなく、イエス様に従って行くことを意味します。 それではいったい主イエス様に従って行くこととは、いったいどういうことでしょうか。イエス様について行くとは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることを意味します。 マタイの福音書16:24-25
いのちを救おうと思う者はそれを失うと記されています。日本語の訳には「いのち」という言葉が使われています。原語ではちょっと違う。「いのち」じゃなくて「魂」となっているのです。 自分の魂を救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味します。いわゆる魂の働きとは、まず第1に考えること、第2に感じること、そして第3に欲することです。したがって、自分自身を否定するということは、自分の考えや自分の感情や自分の意思を支配させないことです。 それに対して、魂を失うということは、自分自身の意思を心の座から下ろし、イエス様をそこに第一の座につけることです。これがなければ、決してイエス様に従って行くことはできません。イエス様について行くこととは、自分自身を否定すること、自分自身を捨てることだけではなく、自分自身を憎むことを意味しています。 ルカの福音書14:26-27
これはもちろん救われる条件じゃなくて、イエス様に用いられる条件であります。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」用いられる器になり得ない。 自分を憎むこととは、自分自身に対して、信用をおかないということがどうしても必要です。自信に満ちた態度がダメにならないと、主に従うこともできません。イエス様なしには、一歩も進むことができないというふうにならなければなりません。 イエス様はよく証ししました。 イエス様のことばは「わたしは、自分の力だけではどうすることもできない。」と言っておられました。イエス様の思いだけを大切にしないと、妨げになります。ところが自分自身を信用しないどころか、自分自身を憎まなければ、わたしに従うことができないとイエス様は言っておられます。 いったい、どうして聖書は憎むというような、非常に厳しい言葉を使っているのでしょうか。パウロの答えは明確でしょう。 もちろんパウロは、救われて主の恵みにあずかるようになった、何年間イエス様に仕えるようになったパウロの証しです。 ローマ人への手紙7:18
と言っています。イザヤ書の中で内容としてもちろん同じようなことが書いてあります。 イザヤ書55:8-9
これはもちろん信じる者、イスラエルのために言われたことばです。 ちょっとペテロのことを見てみましょうか。 マタイの福音書16:21-23
ペテロがイエス様を信じていたにもかかわらず、イエス様から十字架を取り除こうとした時に、イエス様は「サタンよ。引き下がれ。」と言われました。なぜそんなことになったのでしょうか。 その時ペテロは、本当の意味での弟子ではなかったのです。ペテロの目的と動機は決して悪くなかったよ。けれどペテロが人間的に考えて、人間的に行動したからイエス様は、「サタンよ。」と厳しいことばを発せられました。 すべてのことにおいて、「私の思いではなく、主の御旨が行なわれますように。」という思いをもって行動しなければならないのではないでしょうか。自分の思いを捨て、主の御心だけを大切にすることがどうしても必要です。マタイの福音書26章イエス様の耐えざる祈りとはそれなんです。 マタイの福音書26:39、42
イエス様に従うこととは、毎日自分の意思と思いとを主に明け渡すことを意味します。さらにここで、自分自身を憎むということだけでなく、自分の家族をも憎まなければならないと記されています。ここで自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、全く顧みないということを意味しているのでしょうか。 あたりまえのことですが、私たちは一つの問題について考えると、聖書から適当に一箇所だけを選んで、答えられたのじゃないかという態度をとることは危ない。非常に危ないことです。 何があってもこの箇所だけじゃなくて、聖書全体が何と言っているのかと思うべきなのではないでしょうか。 言うまでもなく、主は人間一人ひとりの救いよりも、全家族の救いを心から願っておられます。そうすると家族を憎むとは、いったいどういうことでしょうか。全く反対らしいものがテモテへの手紙第Iに書かれています。 テモテへの手紙第I、5:8
このことばと前のことばとは、一見したところ全く正反対のことを言っているように見えます。聖書は、はっきりと私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。 しかしながらそれと同時に、私たちは人間に対してよりも、主に対してより忠実に従うべきであると聖書は、はっきり言っているのです。 主、また主のみことばを第一の座につける者は、必ず家族を大切にします。けれど家族だけを大切にする者は、結局主を否定するようになります。イエス様は次のように言われました。 マタイの福音書10:34-38
家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであるとありますね。意味は、曖昧な態度と妥協によっては救いが成就しない。100%主の側に立たなければなりません。 すなわち、イエス様に従うということは、自分自身および家族を否定し、憎み、イエス様を第一にすることになります。 妥協のない態度をとると、主はまちがいなく、あふれるばかりの祝福を与えてくださり、家族も必ず約束どおりに導かれ、救われます。 |