外なる人と内なる人


ベック兄

(テープ聞き取り、1993/04/24)

引用聖句:詩篇37篇5節
5あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

ゆだねられた結果として、主は働いてくださるということです。
主にすべてをゆだねることができるのは、本当にすばらしい特権です。

ある兄弟は、奥さまに次のように言われたことがあります。「医者は、『非常に危ない。いつ、死んでも不思議じゃない。』と話した。」と。
彼はショック受けないで、「私はイエス様を信じましたから、任せたから安心だよ。」と答えたそうです。
ちょっと理解できませんし、ピンと来ません。けど本当なんです。
その日から彼は心配から、不安から、恐れから解放され、平安そのものになったそうです。

ゆだねること、信頼することこそが要求されています。
宗教の要求されているのはだいたい違うことなんです。勉強すること。聖書の知識を得ることが要求されています。
もちろん、「そろそろ会員になったらどうですか。洗礼受けたら。」とも言われます。それから洗礼の前にだいたい、「実は聖書はこう言ってる。ああ言ってる。十分の一ぐらいやっぱり献金しないと祝福がないよ。」と。宗教の特徴とはだいたいそういうものなんです。

聖書はそういうことをもちろん言ってません。
義務的に教会行っても、結局意味のないことなんです。自発的に喜んで行くことができなければ意味のないことです。
「いやー、献金は要求されてるから、まぁ仕方がなくて・・・。」、すると喜びがないし、神ももちろん受け入れようとしない。

ですから、宗教とは本当にひどいもんだといつも思ってます。
イエス様だけで十分です。神のみことばだけに頼れば喜びが湧いてきます。
初代教会の人々とは、われわれとちょっとかわいそうだったなのではないかと思います。

なぜならば、自分の聖書を持っていた人はおそらくひとりもいなかったでしょう。自分で読むことの出来た人もあんまり多くなかったんです。
けどそれにしても彼らは生き生きとした希望を持っていたのです。
コリント人への手紙第IIの4章の16節に彼らの証しが書かれています。

コリント人への手紙第II、4:16
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

どういうことがあっても私たちは勇気を失いません。私たちは生きる希望を持つようになったのです。
私たちはひとりぼっちではなく、望みの神がともにおられるからです。
これこそが初代教会の人々の証しだったのです。

われわれの外なる人は衰えても、結局弱くなっても、病気になっても、死にそうになっても別に関係ない。
私たちの内なる人は日々、毎日新たにされる。イエス様を信ずると、間違いなく生きる希望を持つようになります。
聖書を通して提供されてる救いとは、もちろん罪の赦しであり、神との平和であり、生きる望みです。生きる望みがなければ、人生は虚しくなるし、結局心は満たされていないからです。

けどもイエス様を知るようになった人々は、必ず時間の問題だけなんですけど、また悩むようになります。心配するようになります。
将来について考えると不安をもつようになるでしょう。
けどもそのあとでまた振り返ってみると、結局心配しなくてもよかったと分かるようになり、結局悪いなのは例えば病気になったことでもないし、置かれてる環境でもないし、自分自身であるということです。

結局人間は自分勝手に動こうと思えば、主は祝福することができない。
イエス様を救い主として受け入れた人々はいっぱいいますけど、イエス様を信じながら、自分の生活の支配者とはイエス様じゃなくて、自分自身なんです。
その人にとって大切なのは自分の考えてること。自分の思ってることです。

「イエス様。私はどうしたらいいなのでしょうか。自分勝手に動きたくない。みこころを示してください。」と心から願い続ける人は、少ないなのではないでしょうか。
結局信ずる者の内には二つのいのちがあるのです。イエス様を信じ、受け入れることによって人間は永遠のいのちを持っています。
永遠のいのちとはもちろん、物ではない。イエス様です。

わたしこそが永遠のいのちそのもであるとイエス様はよく言われたのです。
もちろんそれは感じられませんし、理性でもってつかめませんし、けどもイエス様を受け入れた人は永遠のいのちの所有者です。
考えられないすばらしい事実です。

けれども相変わらず生まれながらのいのちもあります。
そしてこに生まれながらのいのちは、新しく与えられた主のいのちを、永遠のいのちを外に出さないように覆い隠そうとするのです。
このいわゆる生まれながらのいのちとは、聖書の中で今読みましたように、外なる人と呼ばれています。

そして主のいのちとは内なる人であります。外なる人をもってしては、どうしても主なる神に喜ばれる生活をすることができません。
失敗しますし、あとで反省してまた努力するでしょうけど、また失敗する。そういう繰り返しなんです。
だから多くの人々は諦めます。「いやー、仕方がないなのではないでしょうか。」

けどもこのような経験をもつこととは非常に大切なんです。
このようないわゆる霊的破産を通されなければ、主をよりよく知ることができないし、本当の意味で主に拠り頼む者となり得ないのです。
ローマ人への手紙の7章の中にも、同じ表現、すなわち内なる人ということばが使われています。

ローマ人への手紙7:22
22すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる

この内なる人とは結局イエス様なんです。イエス様は神の律法を喜んでる。
生まれながらの人間は神の律法を喜ばれ得ない。とんでもない重荷となるからです。

イエス様の救いにあずかったパウロは、何とかしてみこころにかなう生活をしようと努めたんですけど、ダメだったんです。出来なかったんです。
ですから24節に、「私はなんというみじめな人間なのだろう。」と告白せざるを得なかったのです。

エペソ人への手紙の3章16節にも、内なる人という表現が出てきます。ここでパウロは、エペソにいる主の救いにあずかった人のためにいかに悩んだのか、苦しんだのか、どういうふうに彼らのために祈ったのかと書かれています。

エペソ人への手紙3:16
16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

結局あなたがたは強くなってもらいたいのではない。あなたがたの内なる人を強くされるように。
結局主の、イエス様の支配が明らかになるようにということなんです。
バプテスマのヨハネは同じことについて次のように言ったのです。「彼は、すなわちイエス様は盛んになり私は衰えなければならない。」

パウロは結局エペソにいる愛する兄弟姉妹を、あなたがたはすでに救われてるけど、あなたがたの内なる人は、さらに強められなければならない。
確かにイエス様はあなたがたにとって救い主となったのですけど、今からはイエス様はあなたがたの支配者となりたい。あなた方を通して自分のよみがえりの力を明らかにしたいと望んでると。前に読みました、

コリント人への手紙第II、4:16
16私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

内なる人は日ごとに新しくされ、日ごとに上から新しい力を受けなければならないとパウロは書き送ったのです。

このように今挙げたことばを見ても分かりますように、聖書は救いにあずかった人々には、内なる人と外なる人のあることが書かれています。
聖書で言う外なる人は、結局時間のいのちであり、内なる人は、主なる神によって与えられた神のいのちであり、すなわち内に住み給もうイエス様です。

信ずる者はどういう心構えを持つべきなのでありましょうか。
イエス様は盛んになり私は衰えなければならない。
バプテスマのヨハネはこの態度取ったから、「私の喜びは満たされている。」と言うようになったのです。

私たちが主に仕え、主をよりよく知ろうと思うならば、内なる人、すなわち内に住み給もうイエス様が、われわれの内で自由も持たせられなければならない。
内なる人が外なる人によって縛られていては、実を結ぶ奉仕はできません。
内なる人、内に住み給もうイエス様は、私たちのうちに現実的に主となるべきであり、われわれを支配することができるようにならなければならない。

私たちの内に主が支配者となっておられることが、結局一番大切なのではないでしょうか。
イエス様が自由に支配なさるその度合いにしたがって、私たちは主のために役に立つ者となり、実を結ぶ者となるのです。
外なる人、時間のいのちを満足させようと努める人もいるでしょう。けども必ずがっかりしてしまうなのです。

この目に見える世界は、結局本当の喜びを与えられないからです。
ヨハネの福音書の中でイエス様は、実を結ぶ秘訣について次のように言われたのです。本当はイエス様についての証しです。

ヨハネの福音書12:24-25
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

一粒の麦の中にいのちがあります。けどそのいのちは殻によって、堅い殻によってしっかりと包まれています。
いのちが外に現われるために、この殻が破られなければならない。
殻の中にあるいのちが問題じゃないんです。殻を破っていのちが現われるか否かが問題なんです。

麦の殻は結局今話したように、いわゆる外なる人です。自分のいのちです。時間のいのちです。
そして一粒の麦の殻の中にあるいのちは、内なる人、主イエスのいのちであり、永遠のいのちであり、イエス様ご自身を意味してるのです。
内なる人、神のいのちが自由にされるには外なる人、自我のいのちが小さくされなければならない。

前に話したように、バプテスマのヨハネは、「イエス様は盛んになり私そのものは衰えなければならない。」と言ったのです。
彼にとって実際問題として何を意味していたかと言いますと、彼はそのときまで人気者であり、数えられない多くの人々は彼を通して福音を聞いたのです。

彼のような伝道者は滅多にいないでしょう。聖書は何と言ってるかと言いますと、全イスラエルはヨルダン川へ行って、彼によって洗礼を受けたと。
大部分と書いてないんです。みんな。悔い改めの印として彼らは洗礼を受けたんです。

弟子たちはもちろん数えられないほどいましたし、けどもイエス様が現われたとき、彼の弟子たちは次々と彼から離れたんです。
「ヨハネ先生。お世話になりました。もうさよなら。」
さよならと言った人もいたでしょうし、何も言わないで急に姿を消した人もいたんです。次々彼から離れて、みんなイエス様に従うようになっちゃったんです。

人間的に考えればちょっと面白くないよ。けど彼は、「イエス様は盛んになり私は衰えなければならない。」と言ったんです。
やっぱり私は無視されても別に・・。みんなイエス様に従うようになれば私は嬉しくて嬉しくてしょうがない。
だから彼は考えられないほどに祝福され、喜びに満たされた者となったのです。

イエス様を信ずる者の中に二つの種類があります。
すべての信ずる者は、もちろんイエス様を内に宿してるし、永遠のいのちをもってる。イエス様をもつ者は永遠のいのちをもってるとはっきり書かれてるからです。
けどある人は、内なる人が押し潰されてしまって、外に現われず、またある人はイエス様が心の内を自由に支配されて、外に現われています。

前に歌った聖歌の中で、「愛する主」という表現が何回も何回も出て来たんです。
私たちにとって、イエス様は本当にわれわれの愛の対象なのでしょうか。
あるいは単なる助け手で、単なる救い主だけなのでありましょうか。

信ずる者にとって問題なのは、いかにして永遠のいのちを受け取るかなのではない。もうすでにいただいてるからです。
問題はこのいのちが、われわれの内で自由をもつかということです。
救いにあずかった人々の内なる人が外に現われて初めて、ほかの人々に祝福をもたらしていくことができます。けど多くの実を結ぶには、まずイエス様が言われたように、死ななければならない。

一粒の麦が死ぬには、まず地に蒔かれなければならない。結局土の中に埋められます。ひとりぼっちになります。
光が見えない。そして外の殻が腐ってダメになる。
けどこのようにして死にきるなら、初代教会と同じように経験することができます。

コリント人への手紙第II、4:16
16私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

コリント人への手紙第IIの4章の11節に次のようにまた書かれています。

コリント人への手紙第II、4:11
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

と。
福音書の中でほかの実例、色々なこと書かれてますけども、マルコの福音書の14章3節と4節をお読みしたいと思います。

マルコの福音書14:3-4
3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

ほかの福音書を見ると、まずイエス様の弟子のひとり、すなわちユダは「もったいない。」と言い出したのです。
このユダとは、口で何回もイエス様に向かって「主よ。主よ。」と言ったんですけど、一回もそう思ったことがない。

結局彼は自分が主であり、イエス様の言われたことばを彼は本気にしようとしなかったのです。
けども彼だけじゃなくて、ほかの何人かと書いてますね。ほかのある人々も結局同じ態度を取ったのです。
確かにあの高価なナルド油はだれでも買うことができなかったのです。ひとりの人間は一年間働いた、儲けた金で買うことができたのです。

結局この女性にとってあのナルドとはすべてのすべてだったでしょう。全財産だったのです。
そして彼女はいっぺんに全部、結局捨てちゃったとある人々は思ってたのです。けども本人にとって決してそうではなかったのです。
ヨハネの福音書の12章3節に、また次のように書かれています。

ヨハネの福音書12:3
3マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

結局、もし彼女は倍持ってたとしても、十倍持っていたとしても、必ず何も壊さないでイエス様のために使ったに違いない。
すべてをささげるのはイエス様のためにちょうどいい。
けども彼女は強制されてそうしなかったのです。自由意思で、イエス様に対する愛の表われとしてそうしたのです。家は香油の香りでいっぱいになった。

コリント人への手紙第II、2:14
14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

いつでも、至る所で、キリストを知る知識のかおりを放ってくださるとここで書かれています。

マリヤは価の高いにおい油を持っていました。この香り高いナルドの香油のにおいが家中に満ちる前にまず、つぼ、器が壊されなければならなかったのです。
もし器が壊されなければ、香り高いナルドの油はにおわなかったでしょう。
多くの信ずる者は香油をしっかりとしまったまま、信仰生活を送ってる。イエス様を受け入れた。永遠のいのちが与えられてるけど、いのちを外に現わしていない。

テモテへの手紙第IIの中でパウロは、

テモテへの手紙第II、3:5
5見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

多くの人々の足りないところはいったい何なのでしょうか。中身よりも器を大切にする。香油よりも金を大切にする。
例えば多くの人は熱心であればそれでいいなのではないでしょうか。けどそれが自分の力であるかどうかを見分けないで、またこの世の教育を問題にします。
すなわち多くの人は器だけをみる。外なる人だけを見てる。けどわれわれは器の中に入ってるナルドのにおいを尊ぶべきなのではないでしょうか。器は隠れ、ただ内なる主のみが現わされていきたいものです。

私たちは、コリント人への手紙第IIの4章に書かれてますけど、土の器です。人間そのものは単なる器にすぎない。
内なる人はイエス様です。4章の7節ですね。生まれつきの賜物、生まれつきの能力は主の支配のもとになければ、結局役に立たない。
祝福になり得ないし、実を結ばない。

(テープ A面 → B面)

・・・ということが問題なのです。前に何回も言ったんですけど、砕かれることこそが大切です。

夕べもひとりの姉妹から聞いたんですね。彼女の子どもの先生はお坊さんなんです。そして、寺でも問題になってますよと言われたんです。当然だと思ってたんです。

彼は月曜日から金曜日まで高校の先生として働いていて、そして土、日曜日はお坊さんになるんです。
いつから疑問を感じたか分からないけど、結局学校でいつももう、喜びのない、平安のない顔をしたから、同じ学校で勤めてる先生、ちょっと気の毒だと思って、「光よあれ」という本をあげたんです。

彼は夢中になって読んで、読んでそして、「ほかの本も欲しい。」と言うんです。全部読んだんです。それで自分で出かけて聖書を買ったんです。
この間家庭集会に出られたとき、彼は紙切れを見せてもらったんですね。聖書の箇所しか書いてなかったんです。

「ホー、変わったお坊さんだ。」と思ったんですけど、「どうしてそんなこと書くの?」「いやー、毎日学校行く前に、このことばを読むと元気になる。力が湧いて来る。」と言うんです。
彼の一番上に書いたことばはどういうことばであったかと言いますと、

ヤコブの手紙4:6
6神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

結局あのお坊さんは聖書の言わんとしてることが分かったんです。多くの信者はそれでさえも全然分かってない。
多くの信者は、やっぱり大切なのはひとつの教えです。知識です。
あのお坊さんは決してひとつの教えでもないし、頭の知識でもない。気持ちです。心の持ち方が大切です。へりくだれば、神は恵んでくださる。

あのお坊さんはあの晩、本当に自分の罪、過ちを告白して、祈りの中でイエス様の救いのために感謝したんです。
問題になるのはもちろん分かったんです。当分の間ね、寺の中で聖書を読んでイエス様を紹介すればいいと思ったけど、おそらく首になるでしょう。
あのお父さんの建てた寺ですから、彼は長男として跡継ぎになるべきだったんですけど、おそらく首になるだろうと思います。

結局ね、大切なのはひとつの教えじゃない。へりくだること。砕かれた心をもつこと。
聖書を持っていない人々いっぱいいますよ。生まれてから死ぬまで一回も聖書見たことない人いっぱいいますよ。
あるいは、聖書があっても読まない人間もいっぱいいます。そういう人々を簡単に救われることができなければ神はおかしい。不公平です。

もちろん聖書はそういうこと言ってません。へりくだれば。頭を下げると。「あわれんでください。恵んでください。」という態度があれば主は赦してくださる。
救われることとは、したがって困った人にとって非常に簡単なんです。もっと簡単なことはないでしょう。
大切なのは気持ちだけだからです。

けどもあとで、用いられるためにやっぱりどうしても大切なのは、霊的に破産すること。
結局イエス様は、「死なくして実を結ぶことがない。霊的破産なくしていのちの祝福をもたらすことはあり得ない。」とはっきり言われたのです。

コリント人への手紙第II、4:6
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

結局初代教会の人々は、「私たちはよく聖書を勉強した。理解できた。」と言ったのではないんです。
結局光によって彼は照らされるようになり、そして確信を持つようになったのです。
どうして救われたのか結局分からなかったでしょうし、説明することもできなかったのです。説明することができる人は本物ではないでしょう。

多くの人々はやっぱり、「分かった、分かった。」と言いますけど、分かるもんじゃない。理性でもって絶対につかみ得ない。
本物は私は本当は分からないよ。ピンと来ませんし、考えられないけど、嬉しい。イエス様は私のような者を受け入れたから感謝します。
けど、どういうもんかさっぱり分からないとしか言えないなのではないでしょうか。

外なる人に死に、内なる人に生きることは、悩みを通してだけできるでしょう。
時間のいのちを捨てるのは大切なのではないでしょうか。祝福をもたらす秘訣とはそれです。
マタイの福音書の10章の38節に、イエス様は次のように言われたのです。

マタイの福音書10:38-39
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

多くの人は自分に対する主のみこころは何であるかを知っていないことは悲劇です。
私たちの心の目が主の目的に開かれるなら、今までの色々な問題や悩みや苦しみは私たちの内に、また私たちを通して内に住んでおられるイエス様が現われるためであったことが分かるようになります。結局、無駄はひとつもない。

主は人間一人一人の最善の道しか考えておられないお方です。どんなに苦しいときも、また先が見えなく、苦しかったときも主はそのようなときにも最善を成していてくださるのです。
これらのすべてのことはただひとつ。イエス様が栄え、私が衰えるために成されて来たと分かれば、本当に楽になります。

主はこの目的を目指して導いておられます。当然ですけど、その導きは一人一人によって違います。
ある人には早く、ある人には遅く主は働かれます。
たいていの場合、自分がゼロとなり、自分の内に主を主とするには長い時間がかかります。

心の内に主のご支配を妨げるものをもっていますから、主は前へ導くことができない。
また主にささげていないものを持っておられるなら、それを主にささげましょう。
「主よ。あなたのために、兄弟姉妹のために、まだあなたを知らない人々のために私は自分自身をささげます。あなたが私の内に私を通して外に現われることができるように、私自身をおささげいたします。」とすべてを主に明け渡すと、自由になり、重荷から、心配から解放され、そして知らないうちに用いられるようになります。

人間の最大の敵とは周りの人間ではない。自分自身でしょう。自分自身に恐れを抱いたことがあるなのでしょうか。
いくら救われたとしても、どんな悪いことでもできる可能性をもってるということに気が付いたことがあるなのでしょうか。
パウロはそれを経験したから、前に話したように次のように叫んだのです。「私は本当にみじめな人間です。」と。イエス様に出会った者として、何十年間イエス様に仕えた者としてパウロはこういうふうに叫んだのであります。

ヨハネの福音書12:25
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

とイエス様は言われたのです。結局、自己否定は自分の権利をささげることです。自分に拠り頼まないことです。

パウロはあるとき、面白くないことを経験したことがあるんです。彼は簡単に次のように言ったのです。
「私は耐えられないほどの圧迫を受けた。死を覚悟した。もうおしまいだと思った。」
本当に言い表わせないほどの経験だったでしょう。

どうしてこのような辛いことを経験しなければならなかったと言いますと、自分勝手な道へ行ったからじゃないんです。
いのちがけでイエス様を紹介したのであり、誤解されても、迫害されても構わない。
福音を宣べ伝えるという態度を取ったから、こういうことになってしまったのです。

パウロは初めて、「どうしてでしょうか。なぜ主はそれを赦すなのでしょうか。」と思ったことがあるでしょうけど、あとで彼は分かるようになったのです。
「わたしのしてることは、あなたは今は分からない。のちになって分かるようになる。」

パウロは何を分かったかと言いますと、私は今まで、主にゆだねてるゆだねてると言いながら、本当はまだゆだねていなかった。
半分以上自分の知恵、力に頼っちゃった。本当の意味で主に拠り頼む者となるために、主はこのような面白くないことを用意してくださったと知るようになったのです。

結局、「自分の心ではなく、みこころをなしてください。」、この態度を取ると、満ち溢れる祝福が与えられます。
人間の生まれつきの考え、感情、意思は決して霊的ではない。これを御霊の支配にゆだねるとき初めて、用いられるようになります。
自分の考え、感情、意思を自分から主にささげなければ、われわれの内から主のいのちは流れ出ないでしょう。

アブラハムはある日、非常に辛いことを経験したのです。主は、「あなたの息子イシュマエルを捨てなさい。」と言われたのです。
彼は、「よし、やりましょうよ。」、そういう気持ち、なかなか持っていなかったんです。
けども従ったとき、もちろんイシュマエルも祝福される者となり、彼も前よりも主を体験的に知るようになったんです。イサクが与えられるようになったんです。

主に従うと祝福がある。聞く耳をもつことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。
「主よ。語ってください。しもべは聞きます。」、従いたいから、結局、みこころを知りたい。
「ただ知りたいだけ。」の気持ちがあれば、主はもちろん光を与えてくださいません。「従いたいから、知りたい。」、そういう心構えがあれば、主は豊かに祝福してくださいます。

初めに言いましたように、初代教会の人々とは、心配から、ただやはり完成者であるイエス様から目を離さないとこういうふうに元気になり、生き生きとした希望をもって将来に向かうことができるのです。




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