すべての人の救い


ベック兄

(御代田喜びの集い、2001/01/14)

引用聖句:テモテへの手紙第I、2章4節
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身その手足を義の器として神にささげなさい。

ローマ人への手紙12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

今日のテーマは「すべての人の救い」です。けど今、司会の兄弟の話を聞くと、やっぱりすべての人よりも、大切なのはやっぱり自分の救いなのではないでしょうか。それから家族の救い。最後にすべての人の救いなのではないかと思います。一番大切なのはもちろん自分の救いです。

この間の火曜日でしたか、兄弟達と一緒に久喜のある病院までいきまして、一人のおじいちゃん、75歳のおじいちゃんと一緒に行きまして、奥様は入院されています。奥様年一つ上なんです。76歳と思いますけど。
あの夫婦はある教会へ行きましたし、もちろんいちど信ずるようになったんですけど、確信があるかどうかと疑問視してる兄弟姉妹もおりまして、今までいろいろな人々行ったんですけど、やっぱりあの奥さんは悲しそうな顔で、結局もう笑いませんし、顔の表情あまりないし、結局やっぱり死にたくない。いつ退院できるか。そういう気持ちだったらしいです。
けどこの間行って、あのご主人は自分の家に一緒に帰ったんです。彼はそのようなうれしそうな顔をみたことがない。もちろん何十年間結婚してる筈ですし、微笑んだし、笑ったんです。どうしてかもちろん判りませんけど、結局いつも大切なのは、へりくだること、第2番目、ぴんと来なくても、理解できなくてもイエス様の約束信ずること。へりくだればOKということ、ごめんなさいと祈った後で赦されたこと感謝できる。理解できません。説明することも出来ません。気持ちも付いてこない。けどイエス様嘘つきじゃないから。
そして3番目。よろしく。明日のことわからないし、いつ退院できるかわからないし、けどイエス様知ってるからよろしくおまかせいたします。

ねえ、おばあちゃん、この3つの言葉いいよ、「ごめん、ありがと、よろしく」、そして急に元気になっちゃたんです。少し話してから、「もう一回教えてください。あの3つの言葉!」、また言ったらまたうれしくなっちゃって、また3回も聞いたんです。「もう一回教えてください!」
結局そういうもんなんです。知識じゃなくて、経験じゃなくて、心のもち方です。へりくだれば、イエス様ありがとう、よろしくという態度をとればそれでいいだよと、こういうふうにイエス様を紹介できるのはすばらしいなのではないでしょうか。

今賛美しました曲の中に「完了した」という言葉が何回も何回も出てきたのです。イエス様は勝利者です。人間は救われる為に何もしなくてもいい。正直素直になればそれで十分です。
けども、主は人間一人一人の救いを考えているよりも、家族の救いを考えています。けどそれももう決まっているでしょう、「主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も救われる」と約束されているから、疑うなのは罪です。
ですから家族の救いのために祈るのはおかしい。感謝すべきです。決まっているから期待をもって待っています。司会の兄弟の二人の息子がいくら心かたくなにしても、風邪だ風邪だといっても、結局イエス様は家族の救いを約束したからほんとに感謝です。けどもやっぱり、戦いです。

勇敢に振る舞い主の戦いを戦ってくれと、サムエル記第Iの18章17節に書かれています。ただ戦いなさいじゃないんです。主の戦いを戦ってくれ。
結局もうすでに勝利を得られた方に頼れば、すがれば、全部その方にゆだねれば大丈夫よということです。はじめに司会の兄弟がお読みになられた個所は非常にすばらしい個所です。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、

ある人々じゃないんです。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

結局主の御心はすべての人が助けられることであり、悪魔の願いはまさにこれと正反対ですべての人が呪われることです。主の御心がすべての人が真理を知るにいたることであり、悪魔の願いはすべての人間が試みにあって誘惑され、間違った道に行くことです。
主の御心と悪魔のねらいがこの様に対立しているから、あらゆる主の恵みによって救われた者は、この戦いの中に投げ込まれています。主を信ずるものの生活とは、ひとつの競争であると聖書は言っています。昨日結婚したお二人の選んだ言葉は次のものでした。

ヘブル人への手紙12:1
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

私たちの前に置かれているものとはひとつの競争であります。自分のことばかりを考えたり、周り人々ばかりを見たりしないで、主イエス様を目指して走る者だけが、この競争勝つことができるのです。
また、イエス様の恵みによって救われた人々の生活とは、旅人の歩みであると聖書は言っています。ペテロは手紙に次のように書き記したのです。

ペテロの手紙第I、2:11
11愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

当時の信ずる者は旅人、寄留者と呼ばれていたものでした。主に従うものは寄留者、ほかの言葉で言いますと異分子のようなものです。
それから信ずる者の生活とは、ひとつの格闘戦いであると聖書ははっきり言っているのです。よく引用される個所は、エペソ人への手紙6章12節、みんな暗記している言葉です、けども本気になってこのみことばに頼る人は少ないのではないでしょうか。もしこの言葉を本気にとれば、たとえば人間に対して変な態度とらなくちゃ。

エペソ人への手紙6:12
12私たちの格闘は血肉

ここで、血肉となっているんですけども人間のことを意味してるのです。私たちの戦いは人間すなわちこの目に見える世界の、

エペソ人への手紙6:12
12主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

我々の戦い格闘とは目に見えない暗闇の支配者たち悪霊対するものであるとここで書かれています。このような歩みをする為には人間は自分自身の力によることは出来ずただ主の力により頼む以外に方法はないでしょう。
ただ主にお従いして歩む兄弟姉妹は、誰でもこの戦いの中に投げ込まれた者です。したがって、悪魔の憎しみを感ずることのない者はちょっとかわいそうなのではないでしょうか。もし悪魔の憎しみを感じなければ、私たちは主のためにまったく役に立たない者でしょう。
悪魔にとって危ない兄弟姉妹だけが攻撃されます。中途半端な者は別に攻撃されなくてもいいと悪魔はわかっています。敵は我々よりもはるかに強いものです。けどもイエス様は勝利者です。

ペテロの手紙第I、5:8
8身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

あなた方の敵とは結局人間ではない。悪魔です。けども私たちは勝利者の側に立つことを許されています。主は聖書の中で何百回も同じことを繰り返し繰り返し言われています。すなわち、恐れることはない。私はあなた方とともにいる。あなた方の変わりに戦っていると。主がともに居られれば私たちも主の勝利に与ることが出来るから。
パウロは、

ローマ人への手紙8:37
37私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

勝利者なるイエス様は器を求めておられ、その器を通してご自身の勝利を明らかにすることが出来るのです。そしてイエス様は結局私たちを同労者として用いようとしておられます。
主はご自分がお用いになることが出来る兄弟姉妹、すなわちすべてを主に委ねた兄弟姉妹をもとめておられます。もっとも必要なのは主の同労者です。
パウロはコリント人への手紙第IIに、私たちは神の同労者ですと書いたのです。同労者となりたい、なるべきなのではないです、私たちは神の同労者です。

コリント人への手紙第II、6:1
1私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。

頭なるイエス様は、主なる神の体なる教会である兄弟姉妹を通して働きになり、ご自身を明らかになさりたいと思っておられます。

コリント人への手紙第II、2:15-16
15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
16ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。

コリント人への手紙第II、3:5
5何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

コリント人への手紙第II、4:7
7私たちは、この宝を、

もちろん内に住みたもうイエス様、

コリント人への手紙第II、4:7
7土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

またパウロはこのコリントにいる人々に書いたのです。あなた方はもはや自分自身の者でないことを知らないのですか。あなた方は代価を払って買い取られたのです。
全部ささげ尽くすことこそ用いられるために要求されています。それは私たちの場合には、自分の自己本位の生活に死ぬことを意味します。あなた方はもはや、自分自身の者でない。
言葉を変えていえば、用いられるための資格は、バプテスマのヨハネのとった態度でしょう。主イエス様は栄え、私は衰えるべきであると。前に読んでもらいました個所をもう一回読みます。

ローマ人への手紙6:13
13また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

また12章もう一回読みます。

ローマ人への手紙12:1-2
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

とあります。
我々の体、手足すべては主の器となるべきです。家全体のすべての部屋は主のものであり、主にささげられるべきです。私たちのすべての肢体、すなわち私たちの心、私たちの意思、私たちの考え、耳、目、手、足これらのものすべては主に捧げられることによって主の器となるのです。
信ずる者の生活とは結局戦いの生活です。けども主はともに居られます。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

とイザヤは書き記したのです。家族の救い、すべての人々の救いについて考えると、やっぱり全き献身が要求されています。主の働き方、および方法について聖書は多くのこと
言っています。

先ず第一に、主が付け加えるよりも選び分かつことをなさるといつも覚えるべきなのではないでしょうか。ちょっと士師記の中から一箇所見てみたいと思います。

士師記7:2-3
2そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
3今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

二万二千人は恐れおののいた者だった。そういう人々は使い物にならない。

士師記7:4-7
4すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」
5そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」
6そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
7そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」

聖書によると主は三万二千人の中から、わずか三百人だけを選び分かちました。その他の残りの民はすべて家へ帰りました。なぜならば主は彼らをお用いになることはできなかったからです。
もちろん皆、一度主によって選ばれた民に属していましたし、救われた人々だったのです。けども用いられるものではなかったから帰されたのです。それを見るとわかります。主が付け加えるよりもむしろ選び分かつことをなされるということ。

第二番目。今のことからわかるように、主にとっては数よりも質の方がはるかに大切であるということです。
たとえば二〜三百人の兄弟姉妹が妥協の生活をする場合には、主がお用いになることがまったく出来ませんけれど、たとい二〜三人であっても主に忠実であれば、その価値は妥協した二〜三百人よりも比較にならないほどはるかに大きな価値と内容を持っていることになります。
主は「彼は栄え、我は衰える」という兄弟姉妹を捜しておられます。

第三は、主が強制することを好まず、自発的に主にお従いしたいという兄弟姉妹を求めておられるということです。主は、主の軍勢の勇者となることを誰にも強制なさいません。けどただ単に救われるだけではなく、主の器とされる事は大きな特権です。
パウロは次のように書いたのです。

テモテへの手紙第II、2:3
3キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

一緒に苦しんでもらいたい。

テモテへの手紙第II、2:4
4兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

コリント人への手紙第II、5:9
9肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しんでもらいたい。兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。
ここで係わりあうという言葉の意味はがんじがらめになってしまって、自分自身どうすることも出来ないような状態に陥ることを意味しています。救われた姉妹の多くのご主人たちも、いわばそのような状態に陥っているといっても言い過ぎではないでしょう。
つまり、そのようなご主人たちにとって、会社や仕事が一番大切なものであり、自分の本当の自由を持つことが出来ないことです。けども主の御心は罪贖われ、救われて真理を知るにいたることです。
けれどもそこに至るまでは、どうしても戦いを通らなければなりません。なぜならば、ご主人たちは暗闇の圧制から救い出されて、イエス様のご支配の中に移されることこそ重要なことだからです。

あなたの民はあなたの戦いの日に聖なる飾り物をつけて、夜明け前から喜んで仕えると、詩篇にかかれています。ここで大切なことは、強制されて犠牲を払うことではなく、自発的に喜んで主のために生きたい、主に仕えたいということです。
わたしたちは用いられる為に祈りの中で戦う為に、救われました。しかもそれは、敗北にいたる戦いではなく、勝利に至ることが決まった戦いです。地獄そのものはわたしたちに逆らい、人間は一緒になってわたしたちに逆らうかもしれません。
けど、必ず主はご自身の勝利を明らかにしてくださるのです。疑いもなく今年こそ刈り入れのとき、戦いのとき、戦いの連続となるときなのではないでしょうか。けど、私たちが、滅び行く、この世の失われた魂のために主にすべてを捧げることが出来るなら、主は導いてくださり、豊かな実を与えて下さるのです。

イエス様は人間一人ひとりをもう考えられないほど、価値のあるものとしてと考えたから、天の栄光を全部捨ててくださり、この地上の貧しさ、悩み、恥また死の苦しみを受けました。
もし人間がそれほど主にとって高価なものであるならば、その人間の永遠の救いの為には、どれほどの距離も遠すぎることはなく、どれほどの重荷も煩わしくなく、いかなる配慮も大きすぎるではないでしょう。
今年われわれの必要としているものは、先ず家族、親戚、知り合いになった人々の為の燃える心をもつことです。イエス様がわたしたちをあらゆる眠気や無関心さから引き出してくださいますように。

弟子たちは用いられる為に、もちろん今まで大切にしたものを全部一度捨てました。邪魔物だと分かったからです。信ずるものの与えられている使命とはいったい何なのでしょうか。集会全体の使命とは何であるかといいますと、暗闇を照らすことです。
まことの光とはもちろん決して人間ではない。イエス様ご自身です。わたしは世の光そのものです、とイエス様は言われました。

(テープ A面 → B面)

体なる教会を通して、イエス様を信じ受け入れた兄弟姉妹お一人一人を通して、この世に与えようと望んでおられます。また救われた一人一人を、ご自分の道具として用いようと願っています。
いうまでもなく人間の内は暗闇しかない。人間から出るものは暗闇だけです。けどイエス様の内からは光しか出てこないなのです。イエス様がわれわれを用いになることが出来る程度に従って、イエス様ご自身の光が我々のうちからでて来るのです。

イエス様が我々を救われたのは、わたしたちをお用いになる為であり、私たちの内からご自身の光を与えられる為です。これこそが我々の課題であり、使命です。
けどもイエス様に対するまったく個人的な、愛がなければ、いかなる熱心も、いかなる奉仕もまったく役に立たないものです。ですからイエス様は、当時のペテロのように我々をも聞いてくださるのです。「あなたはわたしを愛するか」

当時のペテロは『主よ私が、あなたを愛してる事、あなたがご存知です。』と心から言うことが出来たのです。もしイエス様は、「ペテロ、あなたは今まで聞く耳がなかったし、あなたはわたしを三回も裏切るといったのに、あなたは信じようとしなかった。けど今からあなたはわたしをも裏切るつもりですか。」と聞いたなら、おそらくペテロはそのとき、「とんでもない、牢であろうと死であろうと、わたしはそんな事絶対にしない」と言わなっかた。
ペテロは必ず、「もうイエス様、もう自信が無いんです。また失敗する可能性十分ある。わたしはもうぜんぜん駄目、あなたが守ってくださらなければおしまい。」ですからイエス様は、「またわたしを裏切るつもりですか。」と聞かないで、ただ「あなたはわたしを愛するか。」
そのときもちろんペテロは、主の愛に圧倒された者として、「主よ。あなたはご存知です。そうなんです。」と心から言うことが出来たのです。

イエス様に対する、いわゆる初めの愛を持たない兄弟姉妹は、火の消えたともし火のようなものです。このような人々とは、もちろん用いられ得ない。もっとも大切なことは、主の前に静まることです。イエス様との交わりのときを持つようにしましょう。
イエス様に語ってもらう時をもつようになると、主は祝福してくださるのです。イエス様に自分の恥を見るようにしてもらいましょう。イエス様は必ず憐れんでくださり、恵んでいてくださるのです。

パウロとは用いられました。どうして?「わたしは自分にとって、得であった物を皆、主イエス様を知る素晴らしさのゆえに、損と思うようになった。捨てた。」と彼は告白したのです。
このパウロはどうして、この態度をとったのでしょうか。彼はある意味で心配したからです。滅びるようになるなのではないか。そんなことないよ。わたしは永久的に主イエス様のものである、と彼は確信したのです。
けれども彼は、「もしかすると私は、熱心にいろんな事をやったとしても、主は祝福しないで、すべての努力はまったく無意味である。」と彼は心配したのです。この可能性はある。
彼は、コリントにいる中途半端な態度をとった兄弟姉妹に彼は書いたのです。

コリント人への手紙第I、9:24-27
24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

ありうることです。その可能性はある。パウロでさえも、私は失格者になる可能性を持つ者だと彼は言ったのです。
用いられる秘訣とは何でしょうか。イエス様は次のようにいわれました。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

死ねば、OK!

ヨハネの福音書15:16
16あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

死ねばOK。あるいは私の思いではなく、御心だけがなるようにと祈れば主は豊かに祝福してくださり、恵んでくださるのです。




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