引用聖句:ヨハネの黙示録3章14節-22節
今読んでくださった箇所は、ラオデキヤの教会です。このラオデキヤの教会は、終わりの時代におこる教会です。すなわちイエス様は、教会の外に立っておられます。けれども、イエス様はこの教会を諦められることはなく、この教会に呼びかけられておられるのです。 ラオデキヤの教会は曖昧な教会でした。すなわちこの世の人々から認められることを求めて、みことばと聖霊の行為には聞き従おうとしなかったのです。これは、キリストなし、中心のない形だけの教会でした。 末の世の教会の特徴は次のようなものでしょう。すなわち、聖書の真理に関しては人の好きなように解釈すればよい、聖書が何を言っているかではなく、自分また他の人々がどのように考え、どのように決定するかということが大切であるとなってしまいます。 ラオデキヤの教会は「効き目のない塩」となったのです。主イエス様は真実なる、そして忠実なる証人です。すべてを知る証人として、イエス様はラオデキヤの教会の状態を知っておられたのです。 もう一回、15節,16節を読みましょうか。 ヨハネの黙示録3:15-16
イエス様は、「私は知っている」と言っておられます。イエス様はすべてを知っておられます。けれども、敗北し、証しを失ったラオデキヤ教会は、これにたいして「何にも知らない」ものでした。 ヨハネの黙示録3:17
真の証人の証言は恐るべきことです。それは、イエス様がラオデキヤの教会について少しも良い所がないことです。生ぬるいということは、イエス様に最も憎まれることです。 主イエス様は生ぬるいことよりも、冷たいことの方を喜んでおられます。熱いお湯或いは冷たい水は良いものでしょうけど、生ぬるいものは力にもならず、元気を与えるものにはならない。 「冷たいか、熱いかどちらかであってもらいたい」とイエス様はいっておられます。 主イエス様の尺度とはどういうものなのでしょうか。一番上に「熱い」ということは、すなわちローマ人への手紙12章11節にこういうふうに書いてあります。 ローマ人への手紙12:11
このようなことを守っている兄弟姉妹が一番上にくるものです。その次に「生ぬるい」ではなくて「冷たい」ということがきます。そして、一番下に「生ぬるい」という人々がきます。 イエス様に対していずれとも態度をはっきりとさせない人々がここにくる人々です。 イエス様は、あなたがたが嫌いであると言っておられます。結局、用いられ得ない。わたしの道具となることが不可能です。結局、それはちょうど、冷たい水が欲しかった時に生ぬるい水を与えられ、それを吐き出してしまいたくなるようなものです。 生ぬるいということは、熱いお湯と冷たい水を混ぜ合わせられることから、起こってくるのです。 ラオデキヤの教会においては、すべての人に対して席が与えられていたのです。十字架に敵する人の対しても、また、生き生きとした信者に対しても、同じように席が与えられていたのです。 お互いに楽しく生きようというのがラオデキヤの教会です。もちろん、この教会は主の体ではなかったのです。単なる「仲良しクラブ」にすぎなかったのです。 その結果、イエス様とみことばに対する無関心な態度をとったのでした。 確かにそこには統一がありました。なぜなら、誰もがすべての人の行く所に行こうとしたからです。そこには平和がありました。なぜなら、すべてのことが成すがままにされていたからです。 そこには曖昧な態度がありました。そして、それを人は愛であるといっていたのです。人に関する無関心さは、最大の失礼なことではないでしょうか。無視されたら辛いことです。 けれども、イエス様に対する無関心さは更に悪いものなのではないでしょうか。イエス様はむしろ完全か否か、言われることを欲しておられるのです。 どうしてでしょうか。それは、イエス様の敵の方が主への無関心な友達よりも早く救われるからです。 何と多くの信者がラオデキヤの教会の信者と似ているのではないでしょうか。イエス様に対する燃える愛がなく、イエス様に対する時間がなく、この世的な事柄が主イエス様のことの先にされているのです。 これらの人々にとっては、イエス様にささげられた人生は大げさなことなのであり、また、主イエス様を大胆に証することは押しつけがましいことです。 彼らは、犠牲のいらない信仰を正しいものであると考え、それで充分であると考えています。 こういう態度に対して、イエス様ははっきりとした拒絶を与えておられます。生ぬるいことはイエス様にとって憎むべきことであり、イエス様はこれを耐えることができないのです。 このような教会は、主イエス様にとってただ障害であるだけです。生ぬるいことは悔い改めの逆です。生ぬるいことは自己満足です。 ラオデキヤの教会は自己に満足する教会であり、自ら、富み、自分のことしか考えられない教会です。今でもなお、多くの人々は自分自身のことだけを考えて、自分自身を中心にして生活しています。 それは、生活といえるものではなくて、まさに死にかけている生活にすぎないのです。その故にその自己満足している教会から、その覆いを取り除けてありのままの姿を明るみに出そうとされています。 ヨハネの黙示録3:17
これはまさに、この教会がそうであると思っていたことの逆なのです。あなたが富めるものではなくて、貧しいものであり、あなたが満ち足りたものでなくてみじめで、哀れなものであり、あなたが見えるものではなくて盲目であり、あなたが着物を着 それは、同時に今日の教会に対する主の判断なのではないでしょうか。あなたは盲目で足なえとつんぼのものの群れであると言っておられます。ラオデキヤは自ら誇り又、多くのものを得ていると思っています。けれど、これらのものは霊の実ではなかったのです。 霊の実りのないところにおいては裁きに向かっているということができます。 ヨハネの福音書15:6
残るのは実ではなく灰だけです。ラオデキヤの教会においては自分の知恵、また、自分の力に頼る人がその中心に置かれ、そしてそのような人々が良く言われたのです。 そのような教会は証しになりえないのです。用いられる教会は次のようなものでしょう。 コリント人への手紙第II、5:14-15
自分のためではなく、イエス様のために生きようというのは、人間は少しも大切なものではなく、イエス様だけが大切です。自分自身ではないということです。 ラオデキヤの教会は、イエス様を中心として生活していたのではなく、自分自身を中心として生活していたのであります。 イエス様は自分自身をむなしくして従う人でなければ、その人を用いることができません。中途半端な人はイエス様にとっては用いられえないのです。 従おうと思っても、妥協すれば悲劇に終わってしまいます。口から吐き出されることがその意味です。ラオデキヤの教会は、イエス様の名をもって呼ばれていましたけれど、イエス様にとっては、全く役に立たないものでした。 そして、この教会はイエス様から離れてしまい、イエス様が用いることができない状態であったのです。 かつてはこの教会も貧しく、許しを必要としていたのです。しかしこの教会はいまや豊かになり、自ら誇るようになってしまったのです。彼らは主の敵ではありませんでしたが、イエス様といのちの交わりを持たないものになってしまったのです。 日常生活において彼らは、イエス様の御心を尋ねることをしなくなり、自らの道を歩むものとなり、きづかずに妥協を行うようになってしまったのです。 人がそれをきづかずに自分自身に満足していることは悲劇的ではないでしょうか。イエス様は彼らの良心に向かって話すことができず、良心は死んだものの様になってしまったのです。 人は、自分がイエス様に従っていないことに気づかなくなっていたのです。私たちはイエス様の前に常に貧しく、常により頼んでいることを知るように心がけましょう。 我々の富は我々のうちにはなく、ただ、イエス様のなかにのみあるのです。自己満足をし、いいと思っている教会に対しては、悪魔も攻撃を加えないのです。そのような教会は悪魔にとって危険ではないからです。 ラオデキヤの教会は誘惑も受けず、迫害も起きませんでした。どうしてであるかといいますと、この世と異なる所がなかったからです。「私は乏しいものは何もないといっている。」このような態度は非常に危険な態度です。 コリント人への手紙第I、12:21
とあります。 ある兄弟について、「彼はわたしに対して何にも与えてくれない、彼の言うことは大切ではない。」という態度は危険な態度です。このような態度を私たちは、ラオデキヤの場合には彼らが主に対してとっているのを見るのです。 この教会のとった態度は、もちろん無意識のうちに、私たちは主を必要とはしない、私たちは一人ですべてのことをすることができるという態度でした。 けれどもイエス様は、前に読みましたヨハネの福音書15章5節の中にはっきり言われました。「あなたがたはわたしなしでは何もすることができない。」 意味は永遠の実にはなれない。ラオデキヤの教会の言っていることは、主イエス様の言葉とちょうど逆の言葉です。 私たちはあなたなしで何事でもできると無意識のうちに思ったのです。 このようなイエス様に対して、自己満足な態度をとること、恵みのみ座に近づくことをしないこと、これこそが悲劇の始まりです。これに対してイエス様は、ラオデキヤの教会に対して、あなたがたは何も知らない、霊的な状態に対しては、めくらであると言っておられます。 主イエス様は彼らの真の姿について、三つの言葉で表現しています。 貧しいということ。裸であるということ。めくらであるということをこれら三つの言葉で言っておられます。すべてを知り、忠実で真実な証人としての主イエス様が、私たちに目を開いてくださる時に、私たちは自分がいかに思い上がっていたかということを体験的に知るのです。 私たちが価値あると思いながらも、如何に無価値なものであり、主イエス様なしでは全く何にもできないものであり、私たちは何も持たないものであるということに気がつくのです。 更に、私たちは自分自身が破産を体験し、自分のもっているものがいかに実質のないものであるかということを体験するのです。 主イエス様なしには、私たちは裸のものです。イエス様だけが我々にとっての永遠の寄りどころであり、また確かな避けどころです。それだけではなく、今までめくらであったということに気がつくのです。 イエス様は「わたしは知り、あなたは知らない」と言っておられます。「あなたのところにあるものはすべてが見せかけであり、真実なものは一つもない」と言っておられます。 あなたの富は見せかけのものであり、あなたは実際は貧しいのです。「あなたが着物を着ても何の役にも立たない。あなたは私の前にまったく裸であり、あなたの裸は私の目に明らかであるからです。あなたが見えるというのは誤りです。実際は完全なめくらである」と主は言われます。 激しい厳しさをもって、イエス様はすべてを知るお方として、すべてのものを明らかにされています。イエス様は真実で忠実な証人です。そして、ご自身の血を流して、その愛と忠実さを証明されたお方です。 イエス様は診断を与えられただけではなく、救いの方法をも与えてくださっています。イエス様は私たちの貧しさと裸と盲目とをそのままにしてはおられません。 鋭い批判にもかかわらず、イエス様はラオデキヤの教会を決してお見捨てになられることはないのです。イエス様は愛のうちに呼びかけておられます。 「あなた方がもし、助けてもらいたいと願いさえすれば、わたしはあなた方を助けよう。また、わたしはあなたがたを助けることができる。」と約束しておられるのです。 我々にとって大切なのは、イエス様に私たちの内を試されることなのではないでしょうか。 前にも一緒に歌った歌の中で、「主よ語ってください。しもべは聞いております。」 ダビデはどうしてそんなに祝福され、用いられたのでしょうか。彼はこの態度をとりつづけたからです。彼の祈りは素晴らしい祈りです。我々の祈りにもなるべきなのではないでしょうか。 詩篇139:23-24
結局、教えて下さい、導いてください、主よ私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心を試してください。 私たちはどうしたら新しく生かされるのでしょうか。イエス様の光によって、心のうちを照らしていただく、試していただくことによってです。 |