聖書は、私たちに理論や教えを伝えようとしているのではありません。事実を伝えようとしています。聖書の中で最も大切な事実は、主イエス様が、成したもうた救いであります。 私たちは聖書の事実を、頭の中に蓄えている知識として知るだけではだめで、生活の中でどうしてもその知識が満たされていかなければ、日々を生活することができない、それほどに体験的に知らなければいけません。 このような生活の中に生きていく知識を、私たちは必要としています。この知識は、頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、人格から切り離して考えることができないほど、深くに染み込んでいる知識です。 私たちは今、末の世の暗黒の時代に来ていますが、私たちが日々を生活するには、岩のように堅いしっかりした土台が必要です。 この土台は、先程申しましたように、生活の中に染み込んだ知識、聖書に書かれている永遠に変わらざる事実でならなければならないと確信しているのであります。神のご計画はいったい何なのでしょう。 ヨハネの福音書6:40
「イエス・キリストを見て信じる者が永遠の命を持つ。」のであります。「良い行いをして、一生懸命努力する者が、」とは書いていないのです。 イエス・キリストの十字架における救いのみわざを見て受け入れる者が、みな例外なく永遠の命を持つと、イエス様ははっきり約束して下さったのであります。また神のご計画について考えると、もうひとつの面を考えなければならないと思うのです。 ガラテヤ人への手紙4:19
神の目的は、私たちが救われて、神の子とされた者が、神のひとり子つまり主イエス様の似姿に似せられていくことです。ひとりひとりは、自分の弱い点、強い点を知っています。みな自分の弱い面を、めいめい知っていると思います。 あなたは、主の御心にかなう勝利の生活を願い、それがために祈りました。しかし、結末は敗北に終わったことがあるかもしれません。いったいどうしてでありましょう。 真の土台を持っていないせいでしょうか?聖書の知識を持っていないせいでしょうか? 人間には多くの悩みや苦しみがありますが、それに対する神の備えは、ご自身のひとり子である主イエス様です。ま、英語でよく言いますが、 Christ is the answer. イエス、キリストが答えである。 それは、私も知っていると言われるかも知れません。しかし、もしそれを知っているなら、なぜ自分の力で勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。 主イエス様だけが、勝利の生活を送らせることができるのであります。パウロは、自分の信仰生活において、勝ち得てあまりあると証ししています。 ローマ人への手紙8:37
そして、パウロは勝利の秘密を握っていました。それはガラテヤ人への手紙にある通り、「我、もはや生きるにあらず、キリストわが内に生きるなり。」と、勝利の秘訣をパウロは知っていたのです。 私たちは、自分自身で勝利の生活を送ることはできません。私たちの内に住みたもうイエス様だけが、私たちをして勝利の生活を送らしめて下さるのであります。 ですから、私たちの内に主イエス様の御姿が形作られてくるということを、本当に大切なことであると言わなければなりません。 あなたは、主はどうして私をこのような取り扱いの中にお入れになるのだろう。私には、どうして、こんなに悩みがあり、苦しみがあるのだろう。と言われるかもしれません。 それは、あなた自身が死んでなくなり、あなたの内に主イエス様が生きたまう真の知識に達するように、神様が導いておられるのです。 私たちはいろいろな願いを持っていますが、主なる神がそれに答えます時に、主イエス様を私たちにお示しになります。その他のどのような方法もおとりなりません。 今から少しだけ、人間の罪と主イエス様の流された血潮について、一緒に考えてみたいと思います。 人間の罪の3つの働きとは。 【1】神に対して、 【2】自分に対して、 【3】そして悪魔に対して。 そして、第二番目にイエス様の血潮の3つの働きについて、考えてみたいと思うのです。 【1】隔ての壁の廃棄、 【2】罪の赦し、 【3】悪魔に対する勝利。 もちろんこのことについても、やはり理論や教えは大切ではありません。事実が問題となります。神の言葉は、私たちの罪とイエス様の血潮の価値を述べています。 ローマ人への手紙3:23-26
ローマ人への手紙5:8-9
人間の罪について考えると3つのことが言えると思います。すなわち神も人間も悪魔も、罪の事実を認めています。すなわち、最初の人アダムが不従順であったために、神と人との間に隔たりができてしまいました。 すなわち不義が、神と人との間を隔てたのです。 イザヤ書59:2
従って神は、「全人類はことごとく、罪の下にある」と言っています。 ローマ人への手紙3:9-12
「善を行う者は一人もいない。」これは、生きておられる、人間の心の奥底を完全に知りたもう神の判断であります。罪によって、神との隔ての壁ができてしまったのみならず、良心の呵責も生じてきたのであります。 罪を犯し、神との間に隔たりができたために、人間には良心の呵責が生じました。神の霊、聖霊なる神が人の心に働く時、全人類はことごとく罪の下にあることを悟り、自分が罪を犯したと認めるのです。 放蕩息子の告白、ルカの福音書15章18節に書き記されています。 ルカの福音書15:18-19
わたしは天に対して、またあなたに対して罪を犯しました。私たちは良心の呵責を持っていますが、悪魔はそれにつけこみ、お前は罪を犯した、だめな罪人だと言います。悪魔は、私たちを訴える者としてヨハネの黙示録に出て来ます。 ヨハネの黙示録12:10
神も、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。ですから、神に対する罪、良心の呵責、悪魔の訴えの3つを解決することが大切です。 ところが、いったいどうしたらこの3つの問題を解決することができましょう。 私は最初に、人間のあらゆる困難、苦しみに対する神の答えはいつもただ一つ、すなわちご自身の御子、主なる神・イエス・キリストにあるというお話しをしました。 今述べた3つの問題も、もうすでに主イエス様によって、主イエス様の十字架の犠牲によって解決済みなのであります。すなわち、神と人との間を隔ている罪という名の壁は、主イエス様の血潮によってすでに取り除かれました。 神との交わりができるようになりました。それから、主イエス様の十字架の血潮をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。また私たちは、主イエス様の血潮の価値をしっかりと知るなら、悪魔の訴えは効き目が、なくなります。 このように、主イエス様が十字架で流したもうた血潮の力は、無限に価値あるものなのです。神に対し、良心の呵責に対し、悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っているのです。 私たちが霊的に進歩し成長したいなら、どうしても主イエス様の十字架の血潮の限りない力を知る必要があります。主イエス様が十字架におかかりなり、その時流された血潮の絶大なる価値を知らなければなりません。この知識なしに、イエス様にお従いすることはできないのです。ですから、3つのことをもっと詳しく学んでみたいと思います。 【1】イエス様の流したもうた血潮は、主なる神のために流されたのであります。 主イエス様の血潮は、私たちの贖いのために流されました。私たちの罪が赦されて、主なる神に仕えることができるように流されたのであります。 私たちが、主なる神に裁かれないようになるためには、どうしても罪の赦しと贖いが大切です。罪の赦しは、他の宗教、教え、道徳的な行いによってもやって来ません。ただ、主イエス様の流したもうた血潮の事実によってのみ、罪の赦しがなされます。 しかし主イエス様の血潮は、まず主なる神のために流されたのであり、私たちのためではありません。もし私たちが、イエス様の血潮の価値を知ろうとするなら、私たちはまず主なる神が、イエス様の血潮をどのように考えておられるかを知らなければなりません。 もし私たちが、主なる神がイエス様の血潮をどのように考えておられるか理解していないなら、イエス様の血潮が私たちにどんな意味があるかもわからないはずです。 御霊様が、神は御子の血潮をどのように考えておられるのか教えて下さる時に、はじめて私たちは、イエス様の血潮の尊さを知ることができます。 旧約聖書には、贖いの血潮という言葉が100回以上出てきますが、いずれも贖いの血潮は、主なる神のためであると言っています。 旧約時代において、一番大切な日は贖罪の日であったと思われます。レビ記16章は、贖罪の日のことを私たちに詳しく伝えています。 レビ記16:15-17
ま、簡単に説明しますと、この日全ての民は幕屋に集まり、自分たちの罪のために身代わりの小羊を殺し、大祭司はその血を神の臨在したまう至聖所に携えて行き、その血潮を7度ふり注いだ、と書かれています。 犠牲の小羊は、幕屋の前庭で全ての民が見ている前で殺されます。その血を至聖所に携えて行くことのできるのは大祭司だけであることがわかります。大祭司は、民の罪を贖うために血を携えて主なる神の前に出ていきます。この大祭司は、主イエス様の雛形です。 ヘブル人への手紙9:11-12
大祭司が一人で、神の臨在したまう至聖所に行ったのと同じように、私たちの救い主なるイエス様も、十字架にかかり血潮を流され、三日目に甦り、天の父なる神の所へ、贖いの血潮を携えて行かれました。 大祭司は、血潮を携え民から離れ、まず神の前に出ていきました。神は、その血潮を見て満足されました。これを見ましても、血潮はまず神のためであることがわかると思います。 そしてもうひとつの雛形は、主エジプト記の12章の13節に見られます。 出エジプト記12:13
エジプトを出るにあたり、イスラエルの民はみな傷のない子羊を殺し、血を家の柱と鴨居に塗らなければなりませんでした。その血を見て、私はその家に災いを下さずその家を通り過ぎるであろうと、言われました。 イスラエルの民が入り口の見える所に血を塗ったということは、主なる神がその血を見れるようにしたかったからであります。人々は家の中で羊の肉を食べていました。人々にはその血は見えませんでした。この出エジプトに際して、イスラエルの民が殺した傷もしみもない子羊は、主イエス様の雛形であります。 主なる神は極みまで聖であり義であられますので、罪ある人間を贖うためには罪なきものを罪とする必要があったのであります。血を流すということは、命を与えることです。なぜなら命は血にありますから。 へブル人への手紙9:22
主イエス様が命を捨て血潮を流された時、神はその御心を満足されました。私は血を見るなら災いを下さずに通り過ぎるであろう。イエス・キリストの血潮を見るなら満足すると主なる神は言われます。 これこそ私たちが知らなければならない、主なる神の永遠に変わることのない事実なのであります。 私たちは主イエス様を信じて救われる前には、私たちの良心は曇って、死んだようなものでした。しかし、今キリスト者として神に不従順な時、それは罪として私たちの良心に敏感に響いてきます。 そのような時私たちは、自分ばかりを見つめ、血潮の価値を忘れてしまいがっかりしてしまいます。私たちの罪は、イエス様の血潮よりも大きいかのように考えてしまいます。 私たちは、どうしてそんなことになってしまうのでしょう。私たちは、何かこの身に感じたいのです。そしてその感じ方により、主イエス様の血潮の価値を判断したいのです。これはたいへんな誤りです。 まず、血潮は主なる神のために流されました。主イエス様の血潮は、神にとってどんなに全き価値を持っているかを知る必要があります。私たちの感ずることは、大切ではありません。神の言葉を信じ込むことが大切です。私たちは主イエス様の血潮の価値を信じなければなりません。神はつぎのように言っているからです。 ペテロの手紙第I、1:18-19
「あなたがたが、贖い出されたのは、キリストの尊い血によった」と書いてあったのです。主なる神が、御子イエス様の血潮は、人間の全ての罪を取り除くのに十分であると言っておられるのですから、私たちは神と人とを隔てていた罪の壁が取り除かれていることを信じることができるわけです。 神がそう言われますから、私たちは信じることができるわけです。 我々の信仰の土台は、神の言われること、神の言葉です。神のお約束です。主なる神は聖であり義でられます。その主なる神が、この血潮が、ずべての罪を覆うために十分であると言っておられます。 【2】血潮の3つの点について 血潮と信ずる者が、神のご臨在の内に入ることの関係について考えましょう。 主イエス様の血潮をよく知るなら、私たちの良心の呵責は消えてなくなるのであります。主なる神は、主イエス様の血潮を心から満足されました。このイエス様の血潮は私たちにも十分であるはずです。 ヘブル人への手紙10:22
このみことばはいったい何を意味しているのでありましょうか?今までは、主なる神と人を隔てていた罪という壁がありました。たえず良心に咎を覚えて苦しんでいたのですが、今や主イエス様の犠牲の血潮が流され、この罪の壁は取り除かれ贖われ、良心の呵責は消え去ったのであります。 もし、この私たちがこの永遠に変わらない事実の上に立つなら、私たちの良心の呵責は跡形もなく消え去ってしまうのであります。 信仰生活には、ふたつの事柄がいつも並行していなければなりません。それは、信仰に満ちた心と、とがめを去った良心です。 もし、とがめを去った良心を絶えず持ち続けなければ、私たちの信仰生活は前進しません。私たちは、日々、時々刻々イエス様の血潮の無限の尊さを味わい知らなければならないと思うのであります。 私たちは、祈る時何を土台にして祈るでしょうか?イエス様の血潮でしょうか?それとも他のものでしょうか? 私たちは聖さが必要であり、主イエス様の血潮をくぐってはじめて、主なる神の御前に近付くことができるということをいつも考えているのでしょうか? 今日は一日穏やかに過ごした。主のために何か行なった。満足だ。という所から祈り心が湧いてきて、そのような気分の土台に祈るのでしょうか? もし気分の土台で祈るなら、それは絶望への第一歩と言わなければなりません。なぜなら気分の良い日は、一週間にそんなにたくさんないからです。良心の平和は、気分の上になりたつものでは決してありません。 ただ、流された主イエス様の血潮を受ける時にのみ、良心の平安があるのであります。このことを知ることは本当に大切なことです。 ヘブル人への手紙10:19
血によって、大胆に主の御前に近付くことができます。 またある時は、今日は注意深く信仰生活を送った。いつもより多く祈り、聖書も読み、主の御前で黙想の時も長く持った。喜んで主の御前に近付くことができると思う人がいるかもしれません。 また、こんなこともあるでしょう。朝ご飯の時、家の者とごたごたしたり、朝目を覚ました時気分がすぐれなかったし、主イエス様との関係も思わしくないように思い、従って今日は祈ることができないということもあるでしょう。 愛する兄弟姉妹たちよ、わたしたちはいったい何を理由に、何を盾にとって神に近付くのでしょうか?定まりのない、動く私たちの感情を元にして、神に近付くのでしょうか?それとも、岩のように動かない土台、主イエス様は私たちの罪のために血潮を流したもうた、主なる神はそれを心から受け入れ満足したもうた、という永遠に変わらない事実に基づいて神に近付くのでありましょうか? 私たちがいくらムキになって真剣に祈っても、主は聞き入れたまいません。ただ、主イエス様の血潮をくぐって神に近付く時にのみ、主は聞きたまいます。 主イエス様の血潮は永遠にその力を失いません。だから私たちは、いつも憚らずに喜びを持って神の御前に近付くことができます。 私たちが何かやったからではなく、ただイエス様の流された血潮によって、主なる神の御前に出ることができるのであります。 たとえ私たちが、一昨日、昨日、今日、どんなにすばらしい経験をしても、それを基に神に近付くことはできません。ただ、流されたイエス様の血潮をくぐってのみ、主なる神の御前に出ることができるのであります。 今日は良い日だった。昨日は良い日だった。その気分によって神に近付くことはできません。ただ、主イエス様の贖いの血潮によってのみ近づき得るのであります。 私たちは、イエス様を受けれた時、主の血潮を信じた時、神との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。主イエス様の血潮によって、全く取り除かれました。 エペソ人への手紙2:13
「キリストの血によって」「近い者とされた」のです。しかし、キリスト者となった今も、ひとつの理由によって、すなわちイエス様の流された血潮によってのみ、神に近付くことができるのであります。 ヘブル人への手紙10:19
ヘブル人への手紙10:22
このエペソ人への手紙とヘブル人への手紙の言葉を見るとわかりますが、すなわち信仰生活の第一歩はイエス様の血潮によて踏み出されますが、信仰の一歩み、一歩みも、イエス様の血潮によって歩むことができるのだということを忘れてはいけないと思います。 本当にくどいように、イエス様の血潮のことをお話ししましたが、それは一番信仰生活の初歩のことだ、わかりきったことだ、ABCではないかと言われるかもしれません。しかし一番困ることには、人間はその初歩を忘れやすいということです。 兄弟姉妹よ、本当に覚えていただきたいことは、死に至るまでやがて天に召される日まで、このイエス様の血潮によって歩み続けなければいけないということです。 主イエス様の血潮は流されました。父なる神はこれを全く良しとされました。ですから血潮は、私たちにとても十分価値あるものです。 私たちは弱い存在です。弱い所をたくさん持っています。けれども、その弱い所を見ているだけでは、決して強くなれません。また私たちは、私たちのこの群れが、祈りに乏しい群れであると思うかもしれません。しかしそう考えているだけでは、何にもなりません。 憚らず恵みの御座に近付きましょう。そして、主に、 イエス様よ、私は流されたもうた血潮の価値を深く知りません。 あなたは、それを良しとされました。 ですから血潮は、私にとても十分であることを信じます。 血潮をくぐって御前に近付きます。 そう言いましょう。このようにして、主に近付きますと良心の咎も消え去ります。良心の咎が消え去ると、私たちの内には「大胆」がわき上がってきます。 ヘブル人への手紙10:2
もはや罪の自覚がなくなるとありますが、これは主イエス様の血潮の価値を深く体験した人にはじめて言えるのです。 これらの人々にとって、主イエス様の血潮に対する知識は、おのおのの命となっています。頭の中に蓄えた知識ではありません。このような人は、パウロと同じく「罪を主に認められない人は、幸いである。」と言い得る人であります。 主イエス様の血潮によって、罪と言う壁は取り除かれ、良心の呵責はなくなっただけではなく、私たちが主イエス様の血潮を価値を深く知るなら、 【3】悪魔の訴えは効き目がなくなります すなわち、悪魔に対する勝利について、最後に少し考えて終わりたいと思います。 主イエス様に属する者を訴えることは、今日悪魔のする最も大切な仕事のひとつです。 私たちは、いったいどうしたら悪魔に打ち勝つことができるのでしょうか。主イエス様の血潮によってのみ悪魔に打ち勝つことができるようになります。 主イエス様の血潮はもうすでに流され、もうすでに神と人との間を隔てていた罪の壁は取り除かれました。今や神は人間の側に味方となって立っておられます。 ですからどんなに悪魔が訴えてきても、その訴えはむなしいものです。もし私たちが、イエス様の血潮をしっかりと信ずるならば。 ヨハネの手紙第I、1:7
このみことばは、私たちの信仰生活の毎日にとってなんと尊いみことばでありましょうか。このみことばは、「全ての罪、おのおのの罪から私たちをきよめる。」と書いてあります。 主が光でいますごとく、主の光の内を歩むならば、私たちの罪は大小にかかわらず、意識するしないにかかわらず、全てきよめられているのです。ですから悪魔は訴えても無駄です。サタンがどんなに訴えても無駄です。主イエス様の血潮のゆえに、今や神が私たちの味方となっているからです。 ローマ人への手紙8:31-34
何と言う素晴らしい真理でありましょうか。愛する兄弟姉妹よ!血潮は全く満足させられたものである。 知識が必要です。悪魔がやって来て訴えています。「お前は、罪を犯した!」「もはや、主は、お前を用いたまわないであろう!」悪魔の訴えに、耳を貸すと敗北に終わります。 私たちは悪魔の言葉を信ずるのでしょうか?それはまだ、私たちの内に何か良いものが残っていると考えているからです。自ら行なってできることは、罪ばかりです。それ以外の何も成すことができません。これを深く知りたいものです。 サタンがやって来て「お前は、罪を犯した。!」と言う時、「それは、前から知ってる。自分の内には、何の良いところもない。しかし、私のためにはイエス様の血潮がある。神は、この血潮を満足されておられる。だから私は憚らずして神の御前に祈ることができます。」ということができるはずです。 もし私たちが、この主の血潮の価値を忘れますと、悪魔が勝利を得てしゃばって来ます。主だけが訴えるもの、悪魔に打ち勝つことができるのです。 主は、もうすでにイエス様の犠牲の死によって打ち勝ちたまいました。もし私たちが、主の血潮の価値を十分に知るなら、悪魔がつけ込む余地はぜんぜん無くなるはずです。主の血潮を目の前から決して追いやってはいけません。 主イエス様の血潮は、神の満足されたものであり、主イエス様の血潮は、私たちの平安の源であります。この事実は、悪魔の訴えを全くしりぞけます。 私たちの力と平安と喜びの源は、全部主イエス様の血潮の中に含まれています、主イエス様の血潮を深く喜び、主の血潮に心からの感謝を捧げ、さらに一歩前進したいと願っています。 |