私たちは、前に神の永遠からの予定についていっしょに学んだことがあります。 すなわちローマ人への手紙8章29節に書いてあります様に、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられる、またヘブル人への手紙2章10節に書きしるされてあります様に、多くの子たちを栄光に導くことこそ神のご目的であります。 主なる神は御子なる神だけではなく、多くの子等、自分のものとしたいのであります。またイエス様が長子となることが神の永遠からのご目的であります。 ところで主なる神は、多くの子等を得たいと思っておられましたが、それはあの子、この子と個々別々の子どもを欲しておられたのではありません。ひとり子なる主イエス様のために、ひとりの花嫁を望んでおられたのであります。 主イエス様の花嫁は、すなわち教会です。多くの子等のひとかたまりが花嫁です。全ての真の信者の一群れです。真の教会は、いわゆる救われた罪人のひとかたまりだけではありません。主イエス様の花嫁です。 今日も、同じく神のご目的について考えたいと思いますが、ローマ人への手紙12章の中には花嫁という言葉が出てきませんが、しかし同じ神の目的について書きしるされているのであります。すなわち、主イエス様の体について述べられています。 イエス様の体の実際的な面について考えると、それはともなる生活の必要性のことであります。ともにする生活とは、信者お互いがその喜びと悲しみをともにする生活をいいます。また同じ目的をめざす生活をいいます。 信者の群れは、お互いの霊的成長の場所、証しの場所、ともに戦う場所、またともに満たされる場所です。主の目的は、このようなともなる生活です。 それによってのみ、私たちは頭なるイエス様の体として用いられるのであります。 みことばを通して示されている事実は、聖霊の宿によって主イエス様と一つにされたのであり、同じ聖霊を宿してる者はお互いの一致を持っているという事実であります。 主のご目的を達成する手段は十字架です。人生を通して示される現実は、私たちキリスト者とみんな戦いの中に投げ込まれた者であるという現実ではないでしょうか。 詩篇133:1
と、書かれています。 ローマ人への手紙12章1節から5節までいっしょに見てみたいと思います。 ローマ人への手紙12:1-5
と、書いてあります。 今日はこの1節から5節の中から、イエス・キリストの体について学んでみたいと思います。 12章を学ぶ前に、今まで学んできた前の章のことを、ここで少し考えてみなければなりません。 1章から8章まで、一つにまとめて考えることができます。それに続く9章と10章はたとえを語っており、ローマ人への手紙全体から見ると、過去にくぐって考えてよいところでしょう。 すなわち5章では罪の赦し、6章ではキリストとともに死に甦ったこと、7章ではキリスト者は自ら何もできない、イエス様が全てであること。8章では神の御霊に導かれること。これらのことが述べられています。 この8章までの結果が、今日取り上げた12章で述べられています。 12章に入ってその始めにパウロは、クリスチャンは全てを主に捧げてはじめて、主に喜ばれる者になると献身を勧めています。 ローマ人への手紙12:1
と、1節に書きしるされています。 そして続いて5節に至って、パウロはイエス様の体について述べています。 私たちはキリストにあって一つの体であり、ひとりひとり互いに器官なのですと書きしるされています。 ローマ人への手紙16章25節から26節をみますと、このイエス・キリストの体は、神の奥義であって長く世々に渡って隠されていたが、今の世になって明らかになったとしるされています。 主イエス様のこの奥義を私にあらわし示すために、この世においでになったお方です。 次に挙げる問題はキリスト者にとって非常に大切な問題です。 主が考えておられる救いと、私たちが考えている救いの間は違いがあるでしょうか。 私たちの十字架に対する考えと、主の十字架に対する考えの間に違いがないでしょうか。 私たちの御霊様に対する考えと、主のそれの間には違いがないでしょうか。 なるほど、私たちは十字架の大切さをよく知っていますし、いつも十字架のみわざに感謝を捧げています。 しかし私たちは、十字架そのものは主がある目的を達成させるために、設けられた一つの手段にすぎないということを知っているのでしょうか。 この主の目的は主イエス様の体です。これに至る道が十字架です。もし私たちが本当に十字架を自分のものとして体験するなら、イエス様の体が何であるかも知ることができます。 私たちは罪赦され、救われ、神の前に義とされ、罪の支配から解放されたことを喜んでいます。このような喜びに、失われゆく多くの未信者が救いにあずかって入る、ということは本当に大切なことです。 しかし救いだけでは十分ではありません。聖めの問題をのり越え、さらに前進しなければなりません。 主なる神が願っておられることは、滅びゆく魂の救いにあずかることばかりではありません。救われた人々が勝利の生活を送り、イエス様の体に加えられることを、主は心から願っておられます。 私たちが、主イエス様の体に加えられることがどんなに大切なことか、私たちは知ってるのでしょうか。 主イエス様の体について語ることは簡単ですが、実際にそれを見ることはまた別の問題です。 ドイツのベルリンの街の地図を見て研究することと、実際にベルリンの街を見ることは違います。料理の本の勉強するのと実際に料理をすることの間にはやはり違いがあります。イエス様の体に対する教理を研究して知るだけでは十分ではありません。実際にそれを見なければなりません。 今日私たちが信者と言います。主イエス様に救われたひとりひとりの人を考えます。また救いとは罪の赦しだけだと考えています。 聖めや主イエス様の体がそれに含まれることを考えません。そして私たちがもし、私たちの群れの信者が熱心に聖書を読み、祈り、燃えているなら、それで満足しています。 しかし、それは主イエス様の体のあり方ではありません。私たちの救い、聖め、御霊の力、日々の十字架はこれをみな、イエス様の体に至る道であることを知るならば幸いです。 主なる神のご目的はひとりのお方、すなわち主イエス様とこのイエス様と一つにされたクリスチャンです。 イエス様とその内にあるクリスチャンは、神のおかがいの真中に位しています。誰かが救われますと始めその人は救いを自分ひとりのものとして自分中心に考えますが、やがてはイエス様の体にまで考え及ぶ様になります。このイエス様の体に至る手段は十字架です。 私たちが主イエス様に一つの一部分であること知ったら幸いです。 主なる神は一つにされたキリスト者を考えておられます。頭なるキリストと融け合ったクリスチャンを見ておられます。 真の教会は主イエス様の体です。真の教会は体のようなものとは聖書には書かれていません。事実イエス様の体の一部であると書かれています。 私たちはイエス様と一つにされたことを知ってのるでしょうか。このイエス様と一つにされたということは、実際にそうされたのだと深く知ってるのでしょうか。 有名な中国の伝道師であるウォッチ・マニーは、あるとき信者たちにイエス様の体がどのようなものであるか、ある日曜日の朝、聖餐式の時パンを裂きました。 ひとつのパンをみんなの前で裂いて見せた後、彼はコリント人への手紙第I、10章17節を読みました。 コリント人への手紙第I、10:17
と。それから彼は信者たちに説明して言いました。 「先程ここに一つのパンがあった。あなたがたはこの一つのパンから食べた。裂かれたパンをもう一度元へ集めれば、元の一つのパンになる。決して二つのパンにはならない。 主イエス様の体もこれと全く同じです。生まれ変わったクリスチャンはイエス様の霊を内に宿し、イエス様の一部分となったのです。 生まれ変わった信者の中に、主イエス様は聖霊によって住んでおられます。主イエス様はパンの様に裂かれるお方ではありません。 ですから主イエス様と全てのクリスチャンは、全く一つです。御霊様を宿しているクリスチャンは一つであって、分けることができないということは動かすことのできない事実です。」 これを実際に信仰によって自分のものにする程度に従って、主の体の栄光を経験することができるのであります。この場合も私たちの信仰に従って、この奥義が広く示されてきます。 主イエス様はあなたの信じた様になると、今日もみ声かけておられます。主は、もし信ずるなら神の栄光を見ると約束しておられます。 主イエス様は、ひとりひとりのバラバラのクリスチャンに満足しておられません。 私たちが心から主イエス様を信ずるなら、そのとき御霊は私たちの心に宿りたまいます。そのとき私たちはキリストの体になることができます。そしてこの体に対して、神は御心の全部を傾けて下さいます。 次に主イエス様の体の実際的な面をちょっとみてみましょう。 まず第一に、私たちは心の目を開いて、主イエス様は何を願っておられるか、主の御心を知らなければなりません。 私たちは、ただ自分自身のために、霊的な経験を得ようと務めているのでありましょうか。また未信者をわれわれの群れに加えるために務めているのでありましょうか。 私たちはいろいろな伝道をしますが、そのとき滅びゆく魂が天国へ行く様にと、それだけを考えてるのでありましょうか。それとも主イエス様の体が満たされ、完全になることも願ってるのでありましょうか。 もしイエス様の体が満たされるという願いを持つなら、私たちのものを見る目がいろいろな面で変ってきます。イエス様の体の教えだけはそんなに大切ではありません。 ローマカソリック教会でさえこの教えを持ってます。体は一つだから教会も一つであると教えます。 ところがこのカソリック教会は聖書と違った頭を持っています。頭はロ−マにいます。 聖書で言っている私たちの真の頭は天にいます。主イエス様です。イエス様の体の教えを持ちまわって、その教えの様に教会を造ろうと思ってもできません。 それを実際に心の目で見なければなりません。 教会がご自分のためにどんなに価値があるかを、主イエス様が私たちに教えて下さる時、何が起きるでしょうか。 その結果は一つの新しい知識を加えたというだけに終わりません。必ず、この人の内に何かの革命が起こります。いろいろなことが変えられてきます。 人々はどの様にして、イエス様の体になることができるでありましょうか。あれをやり、これをやる結果ではありません。 ただ主イエス様を心の内にお受けすることによって、イエス様の体となることができます。私たちがどのような者であるか全く関係がありません。 主イエス様が私たちの内に住んでおられるか、おられないかがことを定めます。天から下って来られたいのちのパンである主イエス様をお受け入れして、あなたはイエス様の体となったのです。 イエス様の体はとりもなおさず主イエス様です。 パウロはコリント人への手紙第I、12章12節に次の様に書きしるしたのであります。 コリント人への手紙第I、12:12
と、書いてあります。 パウロはここで何を言いたかったのでしょうか。主イエス様とクリスチャンは分けられるものではなく、全く一つのことであることを言いたかったのです。 主イエス様は頭です。しかし体である信者の内には、同じ永遠のいのちが、御霊が宿っていますから、体もイエス様です。 主イエス様の体になるには、内住の御霊様によってだけなることができるのであって、それ以外のものは主に属しません。むしろ教会の妨げとなるばかりです。 もし主イエス様の体を見るなら、己につけるものは全て除かれなければなりません。このために十字架が必要なのであります。 十字架は自分の考え、自分に着けるもの、全てが除かれるため主から用いたもう手段です。 ある人々は賢く、神のことをよく理解し、主にうまくご奉仕します。しかし教育のない田舎のお婆さんの方が、教育を受けた人々よりもよほど主イエス様ご自身をよく知ってるということをよく見かけます。 これは生まれつきの知恵ではイエス様のことを知り得ず、神の知識は上からだけしか与えられない。主に対するご奉仕も、上からの力を着なければできないということを私たちに教えてくれます。 私たちの自らの力は砕かれ、自らの能力に絶望しなければ真のご奉仕はできません。 もしエペソ人の手紙を、「どうか主よこの時代におけるご自身の御心を教えて下さい。」と、へりくだって読むなら、主はキリストの体を私たちに示して下さいます。 教会は神のめざすところです。私たちの自ら出るものは全て抹殺されなければなりません。 十字架の目的は主イエス様の体です。十字架によって、自らに着ける神に反するものは全て聖められなければなりません。そして日々十字架に託殺され、聖められ続けなければなりません。 私たちが自分の力でキリストにあずかることは決してできません。私たちの内に十字架が負わされなければならないのであります。困難や苦しみを通されなければならないのであります。 私たちはクリスチャンになってから、決して悪い習慣ではないが、主から出たものでない習慣を持ち続けることがあります。やがてそれは、主の御心にかなわないことを上から教えられ、その習慣から離れなければならない時がやってきます。 それは苦痛を伴いますが、その様にしてキリストの体が建てあげられていくのです。 自分勝手な道を歩んでいくところに、キリストの体は建てあげられていきません。あなたはイエス様の体として、自らの欲することをすることはできません。 指を動かす時筋肉も一緒に動きます。筋肉だけそのままでいたいと思ってもできません。主イエス様の体も、頭であるイエス様に従わなければなりません。 私たち全部が、私は主の体であり、自らの力で思いの向くまま一歩たりとも歩むことのできない者であることを知ったら、幸いと思います。 あらゆる個人的なものは捨て去らなければなりません。 頭とほかの肢体から離れて自らの道を歩むことはできません。私たちは霊的に前へ進むためにはひとりではだめです。どうしても、ほかのクリスチャンと一緒に生活することが必要です。 私たちはほかのクリスチャンとともに主にゆだねていかなければなりません。ひとりでは主の欲したもうた様に、主に仕えることは決してできません。 このともにする生活を教えるために、主は私たちをいろいろな悩みや苦しみや困難の内に導き入れて下さいます。 私たちは主イエス様を必要とするほどに、主にある兄弟姉妹の交わりを必要としています。なぜならイエス様のいのちは、教会全体に、すなわち主イエス様の体全体にしみ込んでいるからであり、私たちに与えられた賜物は全てキリストの体を建てあげるために与えられるからです。 主イエス様の体は、生まれつきの性質と全く反対のものです。イエス様の体は聖くと他に対する、全き信頼の内に建てあげられていくものであり、生まれつきの性質は罪の内にあり、ほかの人々を心から信頼できないという性質を持っています。 罪の赦しと生まれつきの性質からの解放に心をとめるばかりでなく、さらに進んで主イエス様の体にも、心の目を開いていきたいものです。 多くの人々は、自分が自分のために多くの実を結ぶために聖められることを願ってますが、イエス様の体のために実を結ぶことを考えません。 十字架は自らの道を選びとることに死に、ひとり離れた信者になったのではなく、イエス様の体に加えられたのだということを私たちに教えています。 もしこれを知るなら、私たちはほかの信者との交わりが、どんなに尊いものであるかわかるでしょう。そのときねたみはなくなり、己を高める心は消え去り、自らのために働くものはなくなるでしょう。 自分の願い、自分の目的はどこえか行き、ただイエス様の体を建てあげることが唯一の問題となるのです。 私たちは多くあってもキリストの体であることを深く悟りたいものです。これは御霊様だけが教えて下さることです。御霊によりこれを教えられる時、私たちの生活はいろいろの面で変えられます。 これらのことを知り考えていきますと、教会の支配という問題も自然に解かれていきます。 あらゆる人間的な支配は、神の御座にいます主の御心に逆らって建ちます。人間的な支配が行なわれる時、イエス様は教会に頭ではなく、ひとりの人が教会の頭になっています。 そうすると教会は神の宮ではなくなります。一つの宗教に落ちてしまうでしょう。教会の中で誰が支配者であるか、人間か主のみか、この問題はいつもあります。 旧約聖書の中でその例を見ることができます。ダビデの場合がそうです。 イスラエルの民は、新約時代のクリスチャンの群れを教会と同じく、神に選ばれた人々でした。そして新約聖書ではイエス様が油注がれ、全く御霊に満たされたと同じ様に、ダビデは神の選民イスラエルの指導者、王として、神により御霊に満たされました。 しかしダビデが真の指導者となるまでは非常な戦いがありました。 初めにダビデは、外敵ゴリアテと戦わなければなりませんでした。ゴリアテはこの世の未信者を意味しています。 次にダビデは、内敵と戦わなければなりませんでした。すなわちサウルとの戦いです。サウルは、初めダビデとともに外敵ペリシテ人と力を合わせて戦いましたが、後にダビデをねたみ、信仰を同じくする者でありながら、ダビデと戦いました。ダビデを除こうとしたのであります。 サウルは神に選ばれ、神の子とせられた人々の間にある、あらゆる組織や制度を象徴しています。もちろんサウルはイスラエル人の中で一番背が高く、また学識にも秀でていましたが、神の御心に逆らっていました。 ゴリアテがダビデの手によって打ち倒されてからサウルの本当の支配力はなくなってしまいました。 主イエス様は今日、教会の全き支配者となることを願っておられます。 まずこの世をあらわすゴリアテを打ち殺さなければなりません。この世から全く分離されなければなりません。 私たちの戦いは血肉に対する戦いではなく、人間に対する戦いではなく、目に見えるものに対する戦いではなく、天上にいる諸々の悪霊に対する戦いです。 この目に見えない霊の力に打ち勝つ時、主のみ力が私たちの前に、さやかにあらわれてくるのであります。 主なる神は、主イエス様とその体がともに支配されることを願っています。もし私たちがローマ人への手紙5章から8章を確実に体験するなら、主は私たちを12章に導いて下さり、私たちはイエス様の体を知るに至ります。 十字架は右に曲がり、左に曲がることなく、私たちをまっすぐイエス様の体にまで導いてくれます。ここに至る時、今までかつて経験したことのないことが、私たちの内に起こるはずです。 多くのクリスチャンは、主のために私は全部捧げた、十字架の真の意味を知った、信者たちはイエス様と一つにされ、イエス様と一つ体であることをわかったと言いますが、その人の内に何も起こりません。どしてでしょうか? これは心の目で、本当にイエス様のからだが何であるかを見ていないからです。 主イエス様が私たちの心の目を開いて下さり、霊的に見える様にして下さったら幸いです。そのときに、今まで起ってきたあらゆる苦しみや誤解や悩み、それらのものはイエス様の体が何であるか知るために必要であった、ということがわかるでしょう。 あらゆる困難を通して、私たちは有能な用いられるイエス様の体の一部となることができます。自ら何もよいものがでない、何も価値のないものだということ知る時、主に用いられる肢体となるのです。 主イエス様の御心はエペソ人への手紙5章27節にはっきりとまとめて書かれてあります。 エペソ人への手紙5:27
と、書いてあります。 しみがないということは、全ての罪がかき消されその跡もとどめていないということです。 しわがないということは、しわは年寄りのしるしですから、過去のあらゆる失敗、思い煩いが、今はすっかりなくなっているということを意味しているのであります。 その類のものがないというのは、サタンや悪霊や人に足をさらわれるようなところが全く取り去られてしまっていることを意味しています。 私たちが、今生きている末の世は、まもなく終わってしまいます。サタンの力はいよいよ強くなりあらわになってきます。 私たちの戦いは、天上にいる諸々の悪霊に対する戦いです。私たちは悪霊に打ち勝つために、悪霊を打ち負かすために建てられています。これに勝利を治めるにはひとりの力ではどうすることもできません。何としても一緒に戦うことが必要です。 黄泉の力は教会に、主イエス様の体に打ち勝つことはできないと、イエス様は約束して下さったのであります。私たちは自分で、ひとり信仰生活を生きることをやめて、ともに交わりの内に戦っていくなら、パウロが言う様に、私たちはこれら全てのことにおいて勝ち得てあまりがあると、勝利の叫びをあげることができるのであります。 最後にこのイエス・キリストの体に関する2〜3ヶ所を読んで終わりたいと思います。 マタイの福音書16:18
コリント人への手紙第I、10:16-17
コリント人への手紙第I、12:12-14
コリント人への手紙第I、12:26-27
エペソ人への手紙1:22-23
エペソ人への手紙2:19-22
エペソ人への手紙4:12-16
本当に、私たちはみな主の体なる奥義を見ることができ、そして喜んでともなる生活に入る様になれば、すばらしいと思います。 自分でひとり信仰生活を送ることをやめ、ともに交わりの内に戦っているならば、本当に圧倒的な勝利者となることができるのであります。 |