どうしたら私たちは真の神の僕となることができるでしょうか。今日は、このことをともに学んで生きたいと思います。 ドイツにあるひとつの神学校の入口を入りますと、額が掛かつていて、その額には「仕えるために救われた」と書かれています。 私はそこへ行くたびに深い感銘を覚えます。その額だけでなくそこに住むひとりひとりが、奉仕の精神に徹し、イエス様の形がひとりひとりの内に形造られているからです。 パウロはテサロニケの信者たちに、「あなたがたは偶像を捨てて神に立ち返り、生ける真の神に仕えるようになった」と、書き送っています。 御霊様は、また私たちに対しても彼が、すなわち、「主イエス様が、全てのひとのために死んだのは、生きてる者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで、よみがえった方のために生きるためである。」と、語っておられます。 コリント人への手紙第II、5章15節に、パウロはこういうふうに書きしるしたのであります。 どうしたら私たちは真の神の僕となることができるでしょうか。真の奉仕の源は一体どこにあるのでしょうか。 主イエス様に仕えるためには、従わなければならない法則があります。これから離れて真のご奉仕はあり得ません。主なる神はみことばをもって、この法則を私たちに教えておられます。 そしてこの法則は、救われるために知らなければならない法則と同じくらい、ご奉仕になくてはならないものです。 救いの条件はイエス様の死とよみがえりにあり、私たちはこれを幼子のような心をもって受け入れ、ともに感謝することです。 私たちはどのようにキリスト者になったのでしょうか。聖書を読むことによってでしょうか。祈りによってでしょうか。また集会に出席し、よい人になろうと努力することによってでしょうか。 いいえ主イエス様が私たちの罪・咎のために死に、よみがえりたもうたことを知り、それを心の目で見た時、主イエス様に感謝した時、救いの確信をいただいたのでした。 この救いの法則を少し違えても救いはありません。主イエス様の死とよみがえりが救いの法則ですが、それでは一体ご奉仕の法則は何でしょう。 私たちは主に3つの点について考えてみたいと思いますが、第一番目はご奉仕の法則について、第二番目、ご奉仕の力について、そして最後に、第三番目はご奉仕の目的について、いっしょに考えてみたいと思うのであります。 ご奉仕の法則は、主イエス様の死とよみがえりを己のものとして受けとめ、体験することです。 この法則を自分のものとしていない限り、あらゆるご奉仕は価値がなく、永遠に実が結ばないご奉仕となってしまうのです。 それでは死とよみがえりを通って行くとは、一体何を意味するのでありましょうか。 罪を犯した魂は必ず死ぬべしとみことばがありますが、滅び行くわれわれを救わんがために、主イエス様は死なれました。主イエス様は私たちの身代わりとなって、血潮を流して下さいました。 たとえ人々が何と言おうと、われわれの心に疑いが起こっても、サタンが訴えてきても、主イエス様の血潮は父なる神の御心をなだめ、満足させましたから、私たちは主にあって喜ぶことができるのです。 しかし主イエス様の死とよみがえりは、さらにまさった意味を持っています。 主イエス様は私たちの罪のためだけでなく、罪の性質のためにも亡くなって下さいました。私たちの古き人はイエス様とともに十字架につけられてしまいました。 私たちは自ら罪につきては死にたる者、神につきてはキリスト・イエスにありて生きたる者と思い、主なる神に喜ばれるために仕えてきました。 そのうちに戦いがやってきました。ローマ人への手紙7章の戦いがやってきました。 私は聖いものでありたい、主に仕えたい、主に捧げたいとひとりびとり心から願います。しかし努力もむなしく、「ああわれ悩める者なるかな。」と叫ばざるを得ない自らの様に気づきます。 私たちは神に仕えることができないばかりか、自ら聖い生活をおくることすらできません。私たちは自らの力で主に使えることはできません。ローマ人への手紙7章は私たちにそれを教えています。これを知るためには大きな悩み、苦しみが必要です。真の神の僕になるためにはそれがどうしても必要です。 ご奉仕をするために、一番大切な準備は何でありましょうか。聖霊を注がれ、聖霊に満たされることです。ところで、聖霊はいつおいでになったのでしょうか。 主イエス様が死んでよみがえり、父なる神の右に座したもうてから聖霊が下りました。聖霊はかつて一度、全教会に降り注がれました。 しかし私たちがこれを個人的に受けるには、主イエス様の死とよみがえりを個人的に体験しなければなりません。 旧約の時代に、もうすでに死とよみがえりを体験した神の僕たちがおりました。モーセについて聖書は次のように言っています。 出エジプト記4:10
モーセはこういうふうに告白したのであります。彼は本当に、自分の無力さを体験的に知るようになったのであります。 イザヤは次のように告白したので、イザヤ書6章5節と9節に次のように書きしるされているのであります。 イザヤ書6:5
イザヤ書6:9
そして、 士師記6:15
士師記6:34
と、書いてあります。 原語を見ると、聖霊が主の聖霊がギデオンを着たとなっていますが、これは私たちの着物を着たら、着物は外に見えます。それと同じように、ギデオンは着物のように外になり、聖霊がギデオンの中に宿ったのであります。 エレミヤ書1:6-7
そして、 アモス書7:14-15
これらの旧約時代の神の僕たちは、神のご奉仕は自らの力ではできるものではなく、主なる神ご自身の力なくしてできないことを悟らせられたのであります。 本当に愛する兄弟姉妹よ、覚えていただきたのは、ご奉仕は神自らやりたく願っておられます。私たちの生まれながらの才能・賜物は、死とよみがえりを通らなければ、決して神のために役にたちません。 生まれながらの賜物・教育・教養、これらのものをもってご奉仕しても、もし死とよみがえりを通っていなければ、永遠に実の残るご奉仕はできないのであります。 モーセはかつて、生まれながらの教育・能力を多く持っていました。モーセは熱心であり、また勇気があり、すばらしい知識を持っていたのであります。 イザヤもエレミヤも、よい教育を受け社会的な地位・名声も持っていたと思われます。新約時代にきて、パウロは最高の学問を身に付けた人でした。 アモスやギデオンは、これに対してあまり教育を受けてない平民でした。またイエス様の弟子たちは一般の教育を受けて貧しい人々でした。社会的地位もそんなに高くありませんでした。無学なただびとだったのです。 しかし主に仕えたこれらの人々は、ひとりあまさず同じ体験を持っていたのあります。すなわち死とよみがえりの体験をしたのであります。 主なる神は、人間やその人の生まれつきの力を用いようと思っておられません。神様は、まず働き手と霊的な破産に導き、その人を通して神様ご自身が働きたく願っておられるのであります。主イエス様がその模範を示して下さいました。 イエス様の公のご奉仕は、いつ始まったのでありましょうか? 洗礼の後でした。洗礼は死とよみがえりを教えています。イエス様が洗礼をお受けになると、天より聖霊が鳩のように下り、イエス様は聖霊の力に満たされ、それから真のご奉仕がはじまったのであります。 私たちはどのようにして主に仕えようとしているのでありましょうか。 イエス様は弟子達に上から力を授けられるまでは、よみがえりの力を自分のものになるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさいと言われたのです。 また、ただ聖霊があなたがたに下る時、あなたがたは力を受けてエルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、更に地の果てまで私の証人になるであろうとイエス様は言われました。 ただ聖霊によってのみ、真の神の助け人、仕え人、僕となることができるのであります。 聖霊はいつ私たちを用いるのでありましょうか? 死とよみがえりの体験の後に、御霊様は私たちを用いることができるのであります。 第一番目は、ご奉仕の法則はイエス様の死とよみがえりを己のものとして受けとめ、体験することなのであります。 この法則を自分のものとしていない限り、あらゆるご奉仕は価値がなく、永遠の実を結ばないご奉仕となってしまうのであります。 それから第二番目の点について、いっしょに考えてみたいと思いますが、ご奉仕の力について考えたいです。 自分の力で主イエス様に仕える、真のご奉仕ができるかどうかということについて、いっしょに考えてみたいと思います。 私たちは、自分で主のために何かすることができるか? 生まれながらのものをもって主に仕える時、主がこれを用いたもうかどうか、この問題を解決することが大切です。 もちろんわれわれの生まれながらの悪い性質は、神のご奉仕には役立ちませんけれども、われわれのよい意思はご奉仕に役立つでしょうか、役立たないでしょうか。よき理解、よき信任、これらは奉仕に役立つのでありましょうか。 キリスト者になる前に、非常に、例えば歴史や科学に堪能な人が回心し信者になります。するとその人のめざす目的がかわります。 しかしその人は歴史や科学を学んだと同じ力で、エペソ人への手紙やコリント人への手紙をを学ぼうとします。 では、ここに宣伝会社のアナウンサーが信者になったとします。すると人々はすぐにこの人を説教者にしようと願います。このアナウンサーにとって、めざす目的は変わりましたが、働く力はもとの古い力です。 全て主なる神に仕えるものはみな、モーセ、イザヤ、エレミヤ、以上のごとく、生まれながらの古き性質は神の働きのために何の役にも立たないこと知らなければならないのであります。 イザヤは主に向かつて、「ああ、私はもうだめだ。私は汚れた者です。」と叫びました。主よ私は汚れた者です。 汚れとは何でありましょうか? 汚れとは、自らの力と聖霊の力が混じりあっている状態です。 聖さとは何か? 聖さとは、完全に聖霊の支配の下に入ることです。 「私たちは、私は汚れた者です。主よ、私から離れて下さい。」と、言わないではおられない状態ではないでしょうか。 私たちはイザヤが「わざわいなるかな」と自らの状態をみて叫びましたことがあるのでありましょうか。そこまで進んでいるのでありましょうか。 主イエス様ご自身、「私は自分からは何事もすることができない。」「子は父のなさることを見てすること以外に自分からは何事もすることができない。」と、言われたのであります。 ご存知のように、主イエス様は罪のないお方であったのにもかかわらず、自ら語り、自ら成すことは致しませんでした。罪のない主イエス様でさえ、神の僕となるためには主なる神に全きより頼みをしなければならなかったのです。 私たちは、自らの力ではどんな小さいご奉仕もできないということを悟らなければなりません。御霊様だけが私たちの内に働くご奉仕をなさしめ、目標達成せしめるお方であることを知りましょう。 自らの力で成すご奉仕は一時的なものであり、決して神の目的を達成することができないのであります。また神の御心を喜ばせることができません。 士師記7:2
と書いてあります。また、 コリント人への手紙第I、1:31
と、書きしるされてあります。 全ての栄、全ての栄光が主に帰せられることが問題です。 救いの時に、主は私たちのために全てを成して下さいました。人のいさおし(手柄の意)は何にもそこにあずかって、力なかったはずです。 私たちは贈り物として永遠のいのちをいただきました。 もし救われるために自分で何かをやろうとするなら、それは全て妨げとなったことでしょう。しかしご奉仕の場合もこれと全く同じです。 主はご自分の働きに、人の力を求めておられません。主は御霊によって人の心に住み、その力によって自ら働こうと思っておらてるのであります。そうすることにより、全ての影響をご自分に帰そうとなさっておられます。 しかし御霊様が私たちの内に働くご奉仕は、私たちが死を通らなければできないのであります。もしあれほど頭のいい才能のある人がクリスチャンになったならば、どんなにすばらしい奉仕をするだろうと、人々は考えますが、それは当たりません。 どんなに人ざわりがよく、すばらしい判断力を持ち、頭がよくても、それが生まれながらのものであるなら、教会を益することができません。 主イエス様は、 ヨハネの福音書3:6
と、おおせになりました。全て御霊様のご支配の下にない生まれながらのものは肉であり、人に栄光を帰するものです。 主なる神のご奉仕で一番大切なのは、ご奉仕の力がどこからでてくるか、その源が大切です。 私たちが何と何とをするから、そんなに問題はありませんが、何の力でご奉仕を成すかが問題なのであります。 私たちは何をやるか、めざす目標を考えますと、目標を達成するための手段をあまり考えません。目的は手段を選ばずということば、ことわざがありますが、この通りにやってしまいます。 多くのクリスチャンが、主のためにご奉仕をしますが、自らの力でそれをするならば主に喜ばれません。よく知られているケ所なのですけれども、 ヨハネの福音書15:5
と。 ひとつの実例について考えてみましょうか。ここに甲、乙ふたりのクリスチャンがいます。 甲は非常によく話をすることのできる兄弟ですが、いざ実際的な仕事をさせると何もできません。 これに対し乙は口下手ですがですが、実際的なことになると何でもできる兄弟です。 ふたりがどこかの修養会に招かれ、話すようにと言われたとします。甲はうまく話せます。ですからもちろん祈りますが、乙ほど熱心には祈らないでしょう。 乙は口下手であり、話せないことをよく知っていますから、「主よ、もしあなたが助けて下さらなければ、私はだめです。」と、もっと熱心に祈るでしょう。 今度は逆に、ふたりとも実際的な働きを頼まれたとします。するとどうでしょう。こんどは乙が自分の得意とするところですから、さほど主の前に訴えません。しかし今度は甲は自分の無力を覚え、ひたすら祈るでしょう。 これを考える時に甲、乙ふたりとも主の御前に全くご奉仕を成していないことがよくわかります。あるときは自分の力でやり、あるときは主の力により頼んでいます。 生まれながらの能力・力は、死に渡されなければならないのであります。そしていかなる場合にも全く、主に全くより頼まねばなりません。ですから、前に引用した、 ヨハネの福音書15:5
と、言われたのであります。 私を離れては何もすることができない。どうでしょうか本当にそうでしょうか。 見たところ、このみことばは間違いのようです。私たちは自分で聖書を読み、自分で祈り集会をもつことができるのではないしょうか。 この言葉の意味するところは、主イエス様なしにことをすらなら、その結果は何の価値もなく、みな残らないということです。主が私たちの内に働いてなさったご奉仕でないご奉仕は、やがて木やワラのように焼けてなくなってしまうでしょう。 主ご自身がそうおっしゃっておられるのです。それを真面目に受け取らなければなりません。 私たちは自ら何もやらない、自ら何かできるけれども、もしそれは主を喜ばせることができないからやらない、そこまで私たちはより頼みたいものです。 私たちは、どんないろいろな賜物を持っているとしても、主に全く、主により頼みたいものです。主に役に立つ真の僕になりたいものです。 主の御心にかなうご奉仕の力は、私たちの内に住みたもう御霊様の力だけであります。これを学ぶために私たちは悩み、苦しみを通らなければなりません。 神の僕であるモーセは、40年の長い間荒野で羊を飼っておりました。働き盛りの力に満ちたモーセにとって、もの足りない仕事だったに違いありません。 モーセは荒野に逃げる前に、イスラエルの民を救おうとしましたが、その目的はよかったけれどもその方法が間違っていました。 モーセが荒野で学んだことは、自らの力は神のご奉仕ためには何の役にも立たないと言うことをだったのです。 イザヤも主にお会いした時、自らの無力さを深く悟りました。イザヤだけでなくエレミヤも、自分の弱さ、みじめさも、また無力さを悟った神の僕でありました。 パウロもダマスコの途上、主の光に目がくらんだ時、そして主のご支配に入った時、自らの学問や力・才能を全く無力なものと悟りました。主に対する全きより頼み、信仰、従順、へりくだり、忍耐、これらは本を読んだり、説教を聞いても自分のものにはなりません。 これらはただ、苦しみ、悩みによってのみ、自分のものとなることができるのであります。 第一番目は、ご奉仕の法則はイエス様の死とよみがえりを己のものとして受けとめ、体験することなのです。 第二番目に、ご奉仕の力は決して生まれながらの能力・力ではなくて、主の御心にかなうご奉仕の力は私たちの内に住みたもう御霊様の力だけであります。 そして最後に第三番目になりますが、ご奉仕の目的について考えてみましょう。 全てのご奉仕の目的は、主イエス様でなければなりません。 詩篇の作者であるアサフは、「地にはあなたのほかに慕う者はない。」と詩篇73篇に書きしるしたのですあります。「地には、あなたのほかに慕う者はない。」と真の神の僕は言っています。 私たちは魂を救うために、み国を建てるために働くだけではなく、第一の目的は主に喜ばれる生活をすることでなければならないのであります。 主イエス様のために働くということと、主イエス様のために生きることの間には大きな差があります。イエス様の他に何も必要としない、それが私たちの心の態度でなければならないのであります。 それに加えて、私たちは御霊様の力と私たち自らの力の間の区別をはっきりと知る必要があるのであります。 聖霊の力は神の力・天的な力・霊的な力であり、真の神の僕はこの力に導かれていなければならないのであります。これに対し自らの力は人間的・世的・肉的であり、多くのいわゆる神の僕はこの力に動かされてご奉仕しています。 多くの人々は、どうしたら聖霊に導かれているかいないのかの区別をすることができるか尋ねます。 これらの人々は自らの内を省み、自らを分析し、自らの虜になってしまいます。 自らの内を見つめる時、そこには、あざむき・絶望・それから不安定・疑いしかありません。自らをどんなに試しても、自らを知ることはできません。 しかし自らを試す方は必要です。多くの場合、主のためにご奉仕していると言いながら、実は主の妨げをしている場合が多いからです。 しかし、どうしたら私たちは自らを知ることができるのでありましょうか。これには3つの答えがあります。 第一番目は、神の言葉です。 第二番目は、他の信者の言葉により、光を与える場合もあるのであります。 第三番目は、光の内を歩むことが必要です。 第一番目の答えは神のみことばによってです。 詩篇36:9
と、書きしるしたのです。 私たちは主の光の中を歩む時、自らを知り、さらに自らを知るに従って、よりよく主を知っていくことができるのです。 私たちが暗い部屋を掃除する時、大切なのは光です。光のない時掃除しても、部屋の中を乱すだけです。 自らの心の内に何が善であり、何が悪であり、何が神の御心であり、何が自らの思いであるかを見分けようとするのは、丁度真っ暗な部屋で黒猫を探すようなものです。結果は失望と落胆に終わるでしょう。 顔がきたないかきれいかを知るためにどうするでしょうか。手で顔をなでてみるでしょうか。そうではないんです、鏡をみます。どんなに顔をなでて、きれいかきたないかわらないので失望し、疑い不安になってきます。しかし鏡を見る時、全てがはっきり見え、われわれの不安は解消します。 ダビデは自らを試すことをせず、主に自らを試していただきました。彼は何て言ったかといいますと「神よ。どうか私を探って、わが、心を知る私を試みて、わが、諸々の思いを知って下さい。」と、彼は祈ったのであります。 主に探っていただいて、初めて善意を知ることができ、また主ご自身をよりよく知ることができるのです。 しかし実際に、その光はどのようにしてくるでしょうか?主の光は多くの場合、みことばを通して、聖書を通して与えられます。 詩篇119:130
と、書いてあります。みことばの光によって、私たちはそれまでに知らなかった過ちを教えられます。そしてそれまで、盲であったことを知ります。 みことばは光をもたらします。そして光があるならば、私たちは見ることができます。ヘブル人の手紙4章12節のみことばが現実になります。 ヘブル人の手紙4:12
と、書いてあります。みことばは全てのことを明るみにだします。 どうしたら私たちは自らを知ることができるでしょうか?みことばによってです。 また、二番目に他の信者の言葉により、光を与える場合もあるります。 人によって接する時に、この人のそばにイエス様が近くおられると感じさせる人がいます。このような人々と交わる時新しい知識が与えられます。そのとき疑いと失望は去り、喜びと自由を持って主に仕えることができるようになるのです。 私たちは、全てが主イエス様のご臨在あらわすことのできるものであればよいのです。 どうしたら私たちは自らを知ることができるのでしょうか?みことばによって、また他の信者の言葉によっても、光を与える場合もあります。 そして三番目に、最後になりますが、光の内を歩むことが必要です。 ヨハネの手紙第I、1:5、7
ここでは、主が光であり、主の光の中を歩まなければならない。主のみそば近くに絶えずとどまり続けなさいと語っています。 光はその性質として、受け入れるところにはどこへでも入っていきます。どんなに雨戸を閉めても板の隙間から光は忍び込んできます。 私たちは心を開き、主の光を受け入れるなら疑いと恐れが消えてなくなります。 彼が光であられるごとく、光の内を歩むということは地上でもっとも価値ある歩みです。光の内、歩む人たちは自らの内に善悪を求めず、主の御心をわきまえ知っている人です。 詩篇43:3
と、書いてありますが、私たちの心態度は常に詩篇の作者のようでありたいものです。 主よ、私は自らを改める備えがあります。どうか私のあやまりを示して下さいと。「神が光あれ」と言われるなら、今にでもただちに光が射し込み、恐れとおののきなく主に仕えることができます。 光とは何でしょうか? エペソ人への手紙5:13-14
光とは何でしょう。明らかにされたものはみな光ですと書いてあります。 主イエス様が光であられるように、私たちも光の内を歩む時に初めて、主の御心を知り、主の御心にかなうご奉仕をすることができるのであります。 ところで私たちのご奉仕の目的は何でしょう。私たちは主イエス様だけを求めてる者でありましょうか。上のものだけを求めてるのでありましょうか。 有名な山上の垂訓の中に書き記されている言葉ですけども、 マタイの福音書6:20-21
と、書いてあります。私たちの心と宝は天にあるでしょうか。ダビデのように「地にては汝のほかに慕う者はなし。」ということができるのでありましょうか。 私たちの心の目は主イエス様だけに向けられているのでありましょうか。 雅歌1:15
と、書いてあります。鳩はただ一つのものしか見ることができないそうです。 ここで主は、自分の者たちに向かつて、教会に向かつて、主の花嫁に向かつて「あなたは、何と美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。」み声をかけておられます。 歴代誌第II、16:9
と、書いてあるのです。私たちの心の目が向けられてるところに、私たちの心も宝もあるのであります。 「主よ。私自身は自分のために何も求めません。私の願い、私の望み、全てあなたにあります。」と、言いたいものです。 同じく、 マタイの福音書6:24
私たちは主なる神に仕えてるでしょうか。それともこの世に仕えてるでしょうか。私たちは上のものを求めているでしょうか。それとも地のもの求めているでしょうか。 この両方に兼ね仕えることはできないのです。このふたつを混ぜ合わせることは、主に喜ばれないことです。 旧約聖書に出てくるアブラハムの甥だったんですけれども、ロトは主に喜ばれない道を選びました。ロトは信者でしたけど、この世のものを求め、具合のよい生活を求め、自らの道を選びました。善悪をわきまえずしてロトはソドムに行き、この世と妥協し、罪を犯し、不安の中におちいりました。 これに対しアブラハムは、ただ上だけを見上げ、主だけをめざして歩みました。その結果、アブラハムは贅沢はしませんでしたが、心では王者生活をし、主の豊かな祝福の内を歩みました。 創世記18:17
考えて下さい。全知全能なる主がこう考えたのです。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」すなわち主は、アブラハムに光を与え、ご自分の計画をお示しになったのです。 ロトとアブラハムを比較してみて下さい。われわれはどちらに似ているでしょうか。私たちは主の御心をわきまえて進んでいるのでしょうか。 ダビデのように言いたいものです。「私は自ら求めるものは何もありません。地上で、私の慕う者はただあなただけです。自らは何にも欲しません。ただ主よ。あなただけが外にあらわれでて下さるように。」 主が光であるごとく、われわれも光の内を歩む永遠に朽ちない実を結んでいくことができたら幸いです。 |