マタイの福音書から2ケ所お読みします。 マタイの福音書25:22-23
マタイの福音書7:22-23
今日は、奉仕のための備えについてともに学んでみたいと思います。 神に仕えると言いながら目的を自らにおき、この世的な方法をもって神に仕えるという奉仕者がいるということは重大な事実です。 聖書を見ますと、主イエス様の御名によって病を癒し、悪霊を追い出した人々に対して、イエス様は「よい忠実なしもべだ、よくやった。」とおっしゃらないで、「不法をなす者ども私から離れていけ。私はあなたがたを全然知らない。」と、みことばを書いている記事があります。 主イエス様にとって大切なのは、私達がどれだけ多く何と何をするということではなく、どんな動機で、どんな力でご奉仕をするかと言うことです。 ゼロという数をご存じでしょうか。寒暖計を見ますと、ゼロはプラスとマイナスを分けています。 聖書の中でいうゼロは十字架です。十字架は神に仕える者のご奉仕が一時的であるか、または永遠に続くかを決めます。 神の僕が、十字架を自分ものとして体験していればしているほど、そのご奉仕は永遠に実を結ぶものとなるはずです。ですから奉仕者にとって大切なのは、どれだけ十字架を体験しているか、また十字架に対するその人の心の態度が問題なのであります。 主イエス様の十字架の死は私達にとって何を意味しているのでありましょうか。十字架は私の罪、咎の赦し、私達の当然受けなければならない刑罰を身代わりに受けてくださった、裁きの赦しを意味しています。 ローマ人への手紙6章は罪の力が打ち砕かれ、私達の古き人はイエス様とともに十字架につけられたことを教えています。この事実を見た時、私たちは主に全てをゆだね、明け渡し、仕えていこうと決心しました。 しかしそのように決心して主に仕えていくうちに、それらは全て自らのもの、自らの力ではできないというローマ人への手紙7章の体験にぶつかりました。 ローマ人への手紙7章を通して教えられるのは、自らの力で主に仕えることはできない。主なる神自ら、すなわち聖霊様が私たちの内に、また私たちを通してお働きになるのでなければ、そのご奉仕はむなしいということです。 しかしここまでの全部を体験したとしても、主に仕えるご奉仕の準備が全く成ったとはいえません。 今から3つのことについて一緒に考えたいと思います。 第一番目は魂の中の戦い。 第二番目は理想的な学校。 第三番目は奉仕の秘密。 この3つの点ついてだけ、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。 まず第一に、さらに必要なのは魂の中に戦いを感じなければならないことです。 主イエス様でさえ魂の戦いを感じました。主イエス様はいつも父の御心をなそうとなされました。またそうなさっておられました。 主イエス様自身、ご自分の意志を持っておられましたが、その上にご自分を立てることなく、いつもわが心ではなくあなたの御心を成さしめて下さいとの心を、態度をもって、地上の生涯を全うされました。 主イエス様は荒野でサタンに試みられましたが、サタンはいわゆる殺人とか、姦淫とか大きな罪にイエス様をいざないませんでした。父の御心なしに自分勝手に何かをやらせようとイエス様を試みたのでした。 ヨハネの福音書5:19
と、イエス様ご自身が言っておられます。これこそイエス様の実り多いご奉仕の秘訣だったのです。私は自分から何こともすることができない。これはイエス様の決意だったのであります。これを頭で知り、行なうだけでは十分ではありません。 主が私達の弱い点について 一つ一つ御手を触れて下さり、これはあなた自身から出たものであり、私から出たものではない。これは改めなければならないと教えて下さらなければなりません。 本当に、愛する兄弟姉妹、私達は自らの真相を知ることが必要です。何が肉的であり、何が霊的であるかを見分けることが必要です。これを見分けるのは、上からくる光による以外にありません。2〜3の例を挙げましょうか。 たとえば、預言者イザヤはこの光にあった時「災いなるかな私は滅びるであろう。私は汚れた者です。」と叫びました。 預言者エゼキエルは、 エゼキエル書1:28
と、書かれています。ダニエルについては、 ダニエル書10:8
と、記されています。ペテロについては、 ルカの福音書22:61-62
パウロが主にお会いした時、彼は地に倒れたと使徒の働きに書かれています。ヨハネも主にお会いした時は、その足もとに倒れて死んだようになったとヨハネの黙示録に書いてあります。 もし主が私達の心の目を開いて下さらなければ、私達は自らがどんなにみじめな者であり、あわれな者であり、憎むべき者であるか知ることができません。 主はかって、私達に真剣な真面目なみことばをもって、いにしえの聖徒達に語りたもうたように語ったことがあるのでありましょうか。 主の言葉は光であって全てを明るみに出し、全ての民にさからう者を焼き尽くして下さい。十字架の働きにより、私達は主に全くより頼む者となりたいものです。 ヨハネの福音書5:30
と、イエス様はおっしゃっておられますが、主と同じ者になりたいものです。 ただそうなることによってのみ、主イエス様は私たちを真の弟子と呼んで下さるでしょう。しかしそうなるまでに魂の戦いが続きます。 ペテロはそのいい例です。 主イエス様はペテロに向かって、「バルナバ・シモンあなたは幸いである。あなたにこのことを現したのは血肉でなく、天にいます私の父であると。」、御声をかけられましたが、それからあんまりたたないうちに、主イエス様はこの同じペテロに「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。」と激しいお叱りの言葉をかけておられます。 サタンはどのようにしてペテロの心を動かしたのでしょうか。サタンはどのようにして私達にその力をふるうのでありましょうか。 私達が自ら自分を支配しているか、または御霊様によって支配していただいているかによって、サタンの力が及ぶか、及ばないかが決まります。 もし私達が自らを魂の支配にゆだねているならば、全てのことが自らの興味のために、自らの利害のために、自らの満足のためになされていることになり、このようなものを土台にして動いていることになります。 このような歩みをする時は、私達はペテロと同じように十字架に行くイエス様を止めて、イエス様からお叱りを受けるようなことをし続けなければならないでしょう。 もし御霊が私達を支配しておられるなら、私達の全ては主の興味、主のよりたもうことだけを思うようになるはずです。神の喜びたもうこと、神が心にとめられておられることは十字架です。 この十字架を通してのみ、神はご自身の目的を達成することがおできになるのです。十字架から離れ、妥協するのはサタンのいざないです。 ペテロは自分の興味、自分の思いを通そうとしました。ペテロはサタンと結びつく者となっていました。これは何を教えるかといいますと、ペテロは自らに頼り、主に全くより頼んでいなかったことを教えてくれます。 ペテロは死ぬようなことがあっても、私はあなたを否ないとイエス様に言いました。自らに頼るということはサタンに結びつくことを意味してます。私達も死んでもいいから主に仕えると決心してご奉仕しますが、後で主の光に照らされると自らの力でのご奉仕であったことにきづきます。 続いて二番目の点、理想的な学校に入ることの必要性についてちょっとだけ、一緒に考えて見たいと思います。 奉仕者のための理想的な学校とはどういう学校でしょう。自分のため自分の興味のため、自分の意志からご奉仕することを止め、全てを主にゆだねてことをなすような人々をつくるところでなければなりません。 パウロはピリピ人への手紙3章を見ますと、生まれながらのすばらしい学問や能力をもっていましたが、イエス様の学校に入って、コリント人への手紙第I、2章2節から3節のような真の奉仕者として、備えなければならないものを備えるものに造りかえられました。 コリント人への手紙第I、2:2-3
イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方の他は何も知らないと決心したとパウロは言うようになったのです。 今ここで4つのみことばを学んで見たいと思います。これを見ますと私達の魂の働きがわかります。そして、主イエス様は自分勝手な生活からまぬがれる方法は、ただ私達は日々自分の十字架を負って歩むことによる以外にないと教えておられます。 前に、私達の古き人はイエス様とともに十字架につけられてしまったことを述べましたが、私達はこれを信仰によってわがものとして受け取り、これに感謝しなければならないことを述べたのでありす。しかし今、ここで問題にしてるのは私達の古き人ではなく、生まれながらの人、生まれながらの能力を言ってるのであり、私達はこれから救われなければなりません。 次のみことばがそれをよく表しています。 ヘブル人への手紙10:39
そして ペテロの手紙第I、1:9
また、 ルカの福音書21:19
原語ではこの3ヶ所で、いつも「魂」と使われています。ですからもう一回ちょっとお読みします。 ヘブル人への手紙10:39
ペテロの手紙第I、1:9
ルカの福音書21:19
と、書いてあります。ここで言っているのは、私達の魂は古き人と同じように死ななければならないのではなく、救われなければならない。すなわち絶えず御霊の支配の下になければならないといってるのであります。 ご存じのように、人間の魂の能力は考えること、感じること、欲することです。すなわち、人間の理解力、理性です。人間の感情と意志であります。 この魂は、絶えず御霊様の支配のもとになければならないとイエス様は言っているのです。 これは魂の救いであり、イエス様の勝利のあらわれであると書いてあります。 前に述べましたように、4つの個所についてすなわち、4福音書からひとつひとつのみことばを取って一緒に考えてみたいと思います。 この4つの福音書に書かれているみことばを通して、私達は人間の魂の働きがわかり、そして主イエス様は、自分勝手な生活からまぬがれる方法はただ私達は日々自分の十字架を負い歩むこと以外にない。日々自分自身を否定すること以外にないと教えておられるのです。 『マタイの福音書』 マタイの福音書10:34-39
このみことばで、主イエス様はご自分の後に従う者は十字架の道を歩むのだと教えておられます。自らの興味、自らの思い、自らの満足そこには少しの場も占めておられません。 39節をもう一回お読みします。 マタイの福音書10:39
このみことばの中に、自分のいのちを失った者はそれを自分のものとしますとありますが、いのちを失っている者とは自らの願い、自ら思いを十字架によって切り捨てられている者と言う意味です。 もし私たちが真にいのちを失っている者であるなら、御霊様は私達を十字架の道に導きつれて行ってくれます。もちろんここでも前に言いましたように、日本語の聖書はいのちとなっていますが、原語で見ると魂になっています。 ですからもう一回39節読みましょうか。 マタイの福音書10:39
自分の魂を殺すことは結局、イエス様と同じような態度をとることがあります。私の思いではない、私の心ではない、あなたの御心になりますように。 私の考えていること、私の欲していること、私の感じてることは決して大切ではない。あなたの御心だけがなるように、どうか主よ導いて恵んで下さい。 これは自分の魂を殺していることを示しています。これは自分の考えていること、感じていること、欲していることを捨てることであります。いわゆる平和、また妥協の間に生まれた一致は何の役にも立ちません。 私達が主イエス様にふさわしい者であるかどうかが問題です。本当に厳しいみことばです。 『マルコの福音書』 それから次の福音書、マルコの福音書からまた一ヶ所をお読みしたいと思います。 マルコの福音書8:32-35
ここでももちろん、いのちが魂になります。魂を救おうと思うものは、結局自分勝手な道を行こうと思う者は成功しないということを意味しています。 魂を救おうと思うものはそれをしなければ、私の福音と私と福音とのために魂を殺す者は、意識して自分を否定する者はそれを救うのですと書かれています。 主イエス様がこれから多くの苦しみを受け、十字架にかかるために出かけられようとした時に、ペテロはイエス様を自分の考えでいさめました。ペテロはイエス様がいのちをお捨てになるのを欲しなかったのです。 私たちは自分のいのち、自分の意志をイエス様に明け渡そうとせず、ちょうどこのペテロに似ている者ではないでしょうか。ペテロはイエス様にどうか、自分のいのちを大切にして下さいといさめました。 しかしイエス様の心は、自分の興味、自分の思い、自分の満足に傾いておられませんでした。イエス様はただ父の御心のみを思っておられました。ですからイエス様は34節と35節のみことばを述べられたのでした。 マルコの福音書8:34-35
私たちはどうでしょうか。神の御心を愛しているでしょうか。私達は主の御心を行なうだけでしょうか。または主の御心を愛しているでしょうか。 私たちは主の御心を行ないたいとしばしば考えますが、主の御旨を行なう愛がともないません。主イエス様の喜びたもうこと以外の何ものも欲しない者となりたいものです。 ペテロはイエス様のためと思いましたが、神の目から見るとそれは不純なものに見えたのであります。なぜならペテロは神のことを半分、自分のことを半分思っていたからです。ですからイエス様は、ペテロがご自分を愛してそのように言ったのを知りながら「サタンよ、引きさがれ。」と厳しくお叱りになったのでした。 『ルカの福音書』 それから三番目の福音書、ルカの福音書からの一ヶ所をお読みいたします。 ルカの福音書17:29-35
と、書いてあります。 ここで主イエス様はご自分の再臨の時を語っておられますが、イエス様が再臨される時代はロトの時代のようだと言っておられます。 ロトと家族は、罪深い町ソドムとゴモラが滅ぼされた時そこから助けだされました。再臨の時も同じであるとイエス様は語っておられます。 ある者は残され、ある者は取り去られるであろうと語っておられます。しかしここで、主イエス様は注意しなければならないみことばを述べておられます。 ルカの福音書17:32
なぜイエス様はこのようにおっしゃったのでしょうか。 ルカの福音書17:33
もちろん、ここでも魂のことを言われています。 自分の魂を救おうと努めた者はそれを失い、それを否定する者、殺す者はいのちを保ちます。ロトの妻は信者であったにもかかわらず、この世のことを思い後を振り返ったために塩の柱になりました。 私達は主イエス様にたずさえ挙げられるのを楽しみにしているでしょうか。主の喜びたもうこと、主の御心、主の思いが、私達の生活の中で第一の場所を占めているでしょうか。 そこにあるものは残され、あるものは取り去られると書いてありますが、これは真に真剣に考えなければならないみことばです。主イエス様はこれがために私達がどのようにして備えをしなければならないかを教えておられます。 マタイの福音書24:42
目を覚ましていなさい。意識して主に従わず、主の御心に反して未信者と結婚し、私のことを思い、自らのために自らの力で奉仕している信者は主の再臨に備えができているかどうかは問題です。 もし私達にとって主が全てであるならば、主の再臨に備えができていると言えます。もし私のことだけ思い、自分のことだけ思っているなら、ロトの妻と同じ運命におちいるでしょう。私達の主にいただいた賜物が、主より高い位置を占めるでしょうか。また私達のご奉仕は主より高い位置を占めてるのでしょうか。 これは大切な質問です。これは私達が自らの力で生きているか、または御霊様だけによって生きているかをはっきりさせる質問です。 私達はあらゆる人間関係、あらゆることがらから十字架によって解き放たれ、ただ主に関することだけに結ばれているのでしょうか。もしそうなっていなければ主の再臨は私達にとって喜ばしいものではなく、恐ろしいものに感ずるに違いません。 パウロは教会のために戦い、教会を愛して、コリント人への手紙第II、11章2節のように、 コリント人への手紙第II、11:2
と、言っています。結婚の前に、花嫁が他の男を愛しているならそこへ来る花婿は決して快く思わないでしょう。私たち全てが十字架を荷い、イエス様がおいでになる時ともに喜び合うことのできる者となりたいものです。 『ヨハネの福音書』 それから四番目の福音書、すなわちヨハネの福音書から1節だけお読み致します。 ヨハネの福音書12:24-25
ここでもいのちではなく魂のことを言われています。 自分の魂を愛する者はそれを失い、この世でその魂を憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのですと書いてあります。魂は他のところを見てもわかりますが、自らの興味、自らの意志、自らの思いを意味しているのです。 一粒の麦は主イエス様の御姿をあらわしています。麦の粒はいのちを宿していますが、もし地に落ちて死ななければ、いのちが現れて実を結ぶことができません。 同じように主イエス様は永遠のいのちを持っておられましたが、もし死ななければ麦の粒のようにそのままだったはずです。 主イエス様は、私達の罪のためだけではなく、多くの実を結ぶためご自分のいのちを分け与え、広めるためにお亡くなりになりになられました。 パウロはこのためにイエス様の死に様と等しくなり、魂を死に渡し、自らの内にイエス様のいのちが現れるように努めました。コリント人への手紙第II、4章11節から12節に、 コリント人への手紙第II、4:11-12
愛する兄弟姉妹よ、これこそ実り多いご奉仕、真のご奉仕の秘訣です。もちろん新しく生まれ変わった者は永遠のいのちを内に宿しています。しかしどうして今日、打ち負かされた勝利のない、喜びのないクリスチャンが多いのでありましょうか。 それは私たちの内に宿しているイエス様のいのちが、自らの魂の働きにより自らの興味、思い、意志によってあたかも麦の殻が麦の実を包んでいるように、押し包み殺してしまってるからです。 主イエス様の弟子達を思いましょう。ヤコブとヨハネは、神に従わない町を見て天より火をもてその町を焼き尽くすように主に願いました。これももちろん、人間的な考えだったのです。 ペテロはかつて、死んでも私はイエス様を拒まないと自らに頼り豪語しました。他の弟子たちはお互いに言い争い、誰が一番偉いと論争しました。しかし、彼等は十字架を知り、よみがえったイエス様を愛し、聖霊を受け、この聖霊によって全く違った人に形造られて行ったのでした。 彼等は自己に死に、愛に満ち、忍耐深く、謙遜で恐れをもっていませんでした。彼等にとって知恵や名誉や自らの影響、成功、人気などは問題でありませんでした。彼等は岩のように堅い、自我から解き放たれ、御霊に導かれる生活に入っていたのでした。 最後に第三番目になりますが、ご奉仕の秘密について考えてみたいと思います。 一体なぜ、クリスチャンの間ではこんなに大きな開きがあるのでありましょうか。ある人々は自分のことだけを考え、またある人々はイエス様に喜ばれるのにどうしたらよいのかと心を用いてます。 ある人々は何の喜びもなく無理に聖書を読みます。これに対してある人々は、みことばから喜びと力と導きを得るために聖書を喜びをもって読みます。自分のことばかり考えていた弟子たちは、後になってどうしてあんなに変わったんでしょうか。それは十字架を荷って、自らをそこにつけたからです。 マルコの福音書8章34節は弟子の生活を変えた秘訣でした。 マルコの福音書8:34
自分の考えていること、自分の感じていること、自分の欲していることを捨てイエス様に従うことこそ、彼等の変えられた生活の秘訣だったのであります。 自分の十字架を負わず、立場や名誉や人気を考えている人々はイエス様の御心にかなわず、イエス様はそのような人々に、「お前は私にふさわしくない。」とおっしゃるのです。 まだわからぬ。これらの人々にイエス様は「私の弟子になることはできない。」とおっしゃるのです。 思いのままの生活は、日々十字架につけられ、イエス様のいのちが私達の生活を通して現されていかなければなりません。 これを知るために、最後に3つの例話を挙げて考えてみたいと思います。 民数記17:1-11
と、書いてあります。 アロンは真に神から召し出され、アロンの成した奉仕は真の奉仕かどうかが疑われていました。主は誰が召しにかなう真の奉仕者であるかを示すために、12本の杖を取り各支族に配りました。 するとアロンの杖から芽が出、つぼみを出し、花が咲き、実が実りアロンこそ真の召し出された僕であることが明らかになりました。 一晩中杖は真っ暗なところにあり、人目につかないところにありましたが、翌日見てみると見事に芽が出、実が実っていました。真っ暗な死の経験を通って、初めて主に認められる真の奉仕者となることができるのです。 甦りは死を通してきたり、いのちは死ぬことによってもたらされ、実は暗く内を通されてはじめて結びます。 二番目の例は、たびたび見てきましたペテロです。はじめペテロは自らにより頼み、私が死ぬようなことがあってもあなたを拒みませんと言いました。 ペテロはまた自らの力をふるって兵隊の耳を切り落としました。しかし主はこのような僕を用いることはできませんでした。ペテロは暗いところを通らせれなければなりませんでした。 自分が選んだ主は十字架につけられて死んでしまいました。それからの三日間、ペテロは深い絶望と暗闇の中に落とし込まれました。この忘れることのできない三日間の体験が、後程のペテロのご奉仕に重大な影響を与えたのです。 最後にヤコブの例を考えてみましょう。イサクの子供であるヤコブは主に仕えようと願っていましたが、まだ自分の好みを持っていました。彼は神の御心をなそうとしましたが、まだ自らの力を用いていました。 この自らの力は砕かれなければなりません。この状態にヤコブは満足を覚えていませんでした。彼は主に叫んだ。私を祝福して下さらなければ、ここを去らせませんと言いました。彼は実に激しい戦いであり、これによって彼は自らの力で歩むことができない身とさせられました。 その時以来、あざむく者という意味のヤコブの名は変えられ、民が戦うという意味のイスラエルと変えられました。 戦いの後ヤコブは歩きましたが、腰の骨が外れ変った様になっていました。すなわち自らの力が砕かれたのです。私たちもそのところまで進んで行かなければなりません。 そのときには自らに頼る一切のものがなくなります。そうなってはじめて、私達は何をなすにも主により頼んでするようになるでしょう。 証しするにも、人を導こうとするにも、自らの力により頼まず、ただ主が私たちを通してお働きになるご奉仕だけが、永遠の実を結ぶことを知るものとなるでしょう。 私たちはすでに自らをいとい、自らに頼ることがいかに恐ろしいことであるかを知ったでしょうか。私たちの思い、主の思い、私達の興味、主の目的、これらの心の戦いは、生涯私たちに付きまとうでしょう。 私達は生れながら、自分にばかり心を配る性質をもっていますから、主イエス様は私たちが自分の力がどんなにむなしいかを悟るために、訓練の場に私たちを導いて下さったのです。私達もパウロと同じように言うことができれば、本当にすばらしいことだと思いますが、 ピリピ人への手紙3:3
そして同じくパウロは、ローマ人への手紙15章17節から19節までに次のように書きしるしています。これもすばらしい真の神の僕の証しであります。 ローマ人への手紙15:17-19
このように言うことできたら、真に幸いです。私たちは、この霊的なご奉仕の備えを主からいただく、キリストのしもべになることができたら、幸いです。 |