先週私たちは、人間の罪と主イエス様の血潮の価値について学びました。すなわち次の3つの点を学びました。 【1】神と人との間を隔てている罪という壁は、主イエス様の血潮によってもうすで取り除かれました。神との交わりができるようになりました。 【2】主イエス様の十字架の血潮を良く知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。 【3】私たちが主イエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。 今日は、私たちの古き人に対するイエス様の十字架の価値について、学んでみたいと思います。 かつて私たち信者は、神なく望みなく滅んでいかなければならない自らの姿を見いだした時、主よ、私は滅びなければならない、罪深い者です。どうか救って下さいと叫びました。 その時私たちは、主イエス様の流したもうたイエス様の血潮は、私たちの全ての罪をきよめる力があるということを深く知りました。そして悔い改めて、信仰に立った私たちですが、大部分の兄弟姉妹はさらに進んだ経験をしたと思うのです。 私たちは罪を犯しただけでなく、私たち自身が罪の本質を根深く持った罪人であるということを、お認めになったことと思うのであります。私たちの内にはひとつの力があり、その力が働く時、罪を犯してしまう。欲しないのに犯してしまうということを経験されたと思うのです。 そのようにして罪を犯した時、主イエス様の十字架を仰ぎ罪の赦しを頂きます。 ですけれども、罪を赦された喜びもつかの間、またすぐに罪を犯してしまいます。繰り返し、繰り返し、同じ所を堂々巡りをしていないでしょうか。たとえて言いますならば、大人が信心深い顔をして子供の遊園地へ行き、回転木馬に乗って、ぐるぐる回っているようなものです。 罪を犯して悔い改めて、悔い改めては罪を犯し、なかなか進歩、成長がありません。いつまでも信仰の世界では子供であるという姿は、回転木馬に乗った私たちの姿と同じではないでしょうか? 私たちは、流されたもうた主イエス様の尊い血潮をくぐって、どんな所にあっても聖なる神のご臨在の前に出ることができます。 イエス様の血潮は、いかなる大罪をも覆って余りがあります。このイエス様の血潮は、私たちを神のみもとに贖い戻すために、言い換えるならば、私たちが犯した罪を赦すために流されました。しかし、血潮は私たちの罪の性質を消し去ることはできません。 ここに、私たちの古き人、すなわち生まれながらの性質を解決しなければならなくなってくるのです。 私たちがどんな悩みにある時にも、どんな難しい問題にある時にも、それに対する神の答えは、いつでも御子、主イエス様であります。 主イエス様は、私たちの身代わりになって、永遠の贖いの業を成し遂げられました。私たちのために亡くなられたイエス様は、今は私たちのために生き、私たちを自由にするために、私たちを解放するために生きたいのであります。 パウロは、「我。もはや生きるにあらず、キリストわが内にありて生きるなり」と言っていますが、これが私たちの内に事実となる時に、初めて主イエス様は私たちの代わりに生き、私たちの解放者となるわけです。 どうですか?私たちの生活の支配者は誰でしょうか?自分でしょうか。イエス様でしょうか? これに対する答えを聞くとその信仰生活が前進しているか、また敗北に終わっているかが、すぐにわかります。 私たちは信心深い顔をして、回転木馬に乗っている者になりたくないものです。 罪の重荷を背負ったまま主の御前に出て、その赦しを頂いた人は本当に幸いです。しかし、その状態に留まっていてはだめです。 私たちは、罪の力から解き放たれること、生まれながらの性質から解放されること、古き人から自由になることが大切です。これがためには、十字架が必要です。 主イエス様が十字架で流された血潮によって、私たちは罪を赦され贖われ、神との平和を回復しました。しかし、イエス様の血潮は、生まれながらの性質を消し去ることはできません。このためにはどうしても十字架が必要です。 ちょっと、3つの点について、簡単に考えてみたいと思います。 【1】アダムから受け継いだ罪の性質 【2】アダムによるか、キリストによるか 【3】解放のための神の方法 この3つの点について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。 【1】アダムから受け継いだ罪の性質について、 ローマ人への手紙5:19
この節の中で、御霊様は二つのことを私たちに教えて下さいます。 ひとつは、私たちはどういう者であるかということ。すなわち私たちは罪人であるということ。 もう一つは、この罪はどこからやって来たかということ。初めの人アダムからやって来たということを教えています。 私たちは、信仰生活の第一歩を踏み出してからの生活においても、やったこと、またやることに気をとられています。御霊様によって罪が教えられた時、そのあまりの恐ろしさに、恐れおののいたことですが、イエス様によって罪が赦されて後も、やったこと、やることに気をとられているのです。 たとえば、時々次のように考えるかもしれません。「わたしは、聖書を読みよく祈り、ご奉仕をよくやる。だから立派なキリスト者である。」そう思うかもしれません。 しかし、実際には、なかなか自分の思うような状態に自分がなっていきません。問題は外側に表れた祈りとかご奉仕ではなく、私たちが、私たちの魂がどうあるかが問題なのであります。 私たちは、心から主に喜ばれたいと願っています。真剣に願っています。しかし内を顧み、深く自らの魂を覗き見るなら、そこに何か主に喜ばれないものがあるのに気が付きます。 謙遜でありたい。しかし自らを謙遜にさせない何かがあります。愛したい。しかし、愛せない何かがあります。これに気が付きます時に、主よ、わたしのやることが罪であるばかりでなく、私自身が罪人です。そう言わざるを得ないのです。いったい人間は、どうして罪人になったのでしょうか? ローマ人への手紙の5章19節には、アダムの不従順によって人間に罪が入って来たと書いてあります。 私はベックと申します。私は生まれた時に、一生懸命名前の本を広げ、良い名前だと思って付けたわけではありません。このベックという名は、私の父の父、そのまた父、ずっと先祖が付けた名前です。私のせいではありません。 私がもし、この名前をどんなに嫌ったとしても変えることができません。私は乞食になっても、大統領になっても、ま、ならないでしょうが、やはりベックです。 私たちはなぜ罪人になったのでしょうか。私たちのせいではありません。アダムのためです。私たちが罪を犯したから、罪人なのではありません。アダムが罪を犯したから、アダムの内に私たちはいました。だから私たちは罪人なのです。 アダムは最初の人間です。全人類はアダムの子孫です。ですから、全人類はアダムにあって罪人なのであります。 ひとつの例をとってみると、私は結婚して子供が生まれました。私は婚約して日本で結婚しましたが、もし私が日本に来る途中、台風に遭って船が沈み死んでしまったなら、子供は生まれなかったはずです。すなわち子供は、私とともに海の中に死んだはずです。 私たちも皆、アダムとともに海の中ではなく、罪の中に死んだわけです。 聖書は、アダムが罪を犯した時、私たちもアダムの中にあり罪人となったと言っています。私たちはアダムの子孫です。アダムの罪の性質を持っています。ですから問題は、私たちが何をやるかではなく、私たちが何であるか?その本質が問題であります。 この性質から解放されなければなりません。もし解放されないでいると、信仰は成長することがありません。いつまでも信心深い顔をして、回転木馬に乗っていなければならないということになってしまいます。 私たちの生まれながらの性質は、罪の性質です。私たちは生まれた時に、もう罪人という運命に決定ずけられていたのであります。日本人がドイツで生まれたとします。日本語を話せません。ドイツ人のように生活します。でも、日本人は日本人です。 たくさん罪を犯す、たくさん罪を犯さない、それは問題とはなりません。罪の性質を持っているということです。 人間は罪の性質を持っていますから、罪を犯します。神の子となっても、相変わらず罪を犯すのは、いったいどういうことでしょうか。それは、罪の性質の問題を解決していないからです。 なぜ鳥は鳥なのでしょうか?鳥に生まれたから鳥なんです。鳥は飛ぶことができるから鳥なのではありません。病気になって飛べなくなった鳥も、鳥は鳥です。 なぜ人間は罪人なのでしょうか?罪人として、生まれたからです。 【2】アダムの内にあるか、キリストの内にあるか 2番目の問題について考えましょう。 アダムの内にあることは絶望を意味し、キリストの内にあるのは希望を意味しています。前に引用した、ローマ人への手紙5章の12節から21節までには、アダムのことばかりではなく、キリストのことについても書かれているのであります。 ローマ人への手紙5:19
アダムの内に、またキリストの内にと言いますが、これはいったい何を意味しているのでしょうか。 全人類は望みのない罪人となってしまいました。アダムによって罪がこの世に入り、罪によって死が入りました。しかしこの暗闇の中に、ひとすじの光が差し込んで来ました。それは、ひとりの従順によって多くの人が義人とされる。すなわち主イエス様の従順です。 アダムの内にあるということは、罪人であるということを意味しています。また罪の性質を持っているということを意味しています。 ちょっとだけダビデと、ペテロと、ヨブと、パウロの告白をお読みします。 ダビデ 詩篇51:5
ペテロ ルカの福音書5:8
「イエス様よ。私のような者から離れて下さい。」とペテロは叫んだのです。幸いにイエス様はペテロから離れなかったのです。主イエス様は、ペテロの罪を赦して下さり、彼を自分の弟子として下さったのです。 ヨブ ヨブ記42:6
パウロ ローマ人への手紙7:21
ローマ人への手紙7:18
アダムの内にあるということは罪人である、また罪の性質を持っているということを意味しています。ダビデ、ペテロ、ヨブ、パウロ。こう見るとお分りになったと思います。 これに対してキリストにあるということは、神の子であることを意味し、神の性質を持っているということを意味しています。 エゼキエル書16:14
雅歌4:1、7
マタイの福音書9:2
コロサイ人への手紙2:9-10
コリント人への手紙第I、6:11
このような箇所を見るとわかりますが、アダムの内にいることは絶望であり、キリストの内にいることは希望であります。生まれながらの性質から解放されることが必要です。 パウロは、ローマ人への手紙6章1節で、恵みが益し加わるために、私たちは罪の中に留まるべきでしょうか?と尋ねています。絶対にそんなことはありませんとパウロは続いて答えています。 極みまで聖なる神は、汚れた人間を良しとされるのでしょうか?ローマ人への手紙6章2節に、絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおその中に生きてられるでしょう。 主が、私たちの生まれながらの性質を解決されるための備えがあるでしょうか。性格的に弱い、その弱さの代わりに、強さと信仰が生き返られ、加えられているでしょうか?私たちの持っている最も弱い点が、強い点となり得るでしょうか? 最後に、解放のための神の方法について考えてみたいと思います。 【3】解放のための神の方法 それも二つに分けられると思いますが、すなわち第一番目は、最後のアダムであるイエス様の死。第二番目はイエス様の甦り。ふたつの点に分けることができます。 これまで、アダムの内にいることにより罪人となったという事実を学んで来ました。私たちは、いったいどうしたらアダムから逃れ出ることができるでしょうか? 主イエス様の十字架の血潮は、私たちをアダムの内から解放して下さいません。主イエス様は、その血潮により罪を赦し、贖いを成し、平和を与えて下さいます。しかしその知識があっても、アダムの性質すなわち罪の性質から逃れ出ることができないのであります。 どの方法によって自由になることができるのでしょうか。私たちは生まれながらにして、生まれることによって、アダムの性質に預かりました。 そして死ぬことによってアダムの性質から逃れます。死ぬことによってのみ、罪の性質から逃れることができるのであります。 ところで問題は、いったいどうしたら死ぬことができるかということです。私たちは、自分で死のう死のうと試みますが失敗に終わります。私たちは、自分で死のうとするかわりに、神がこのために何を成したもうたかを知ることが大事です。 ローマ人への手紙6:3
その死にあずかるバプテスマと書かれています。どうしたらイエス様の中に入いっていくことができましょう。 私たちは、もうすでにイエス様の内にいるのでありますから、その心配は必要ではないのであります。また、自分でどんなにもがいても、どうすることもできないのであります。 ですから神が成して下さいました。主なる神が憐れみより私たちをキリストの中に入れて下さいました。置いて下さいました。 コリント人への手紙第I、1:30
ここにあなたがたは、キリスト・イエスの内にあるのですと書いてありますが、私たちは間違いなく、確かにキリストの内にあるのです。 私たちは、どんなふうにキリストの内に入ったかを知りません。しかしもうすでにキリストの内にあることを、神のみことばによりよく知ることができるのであります。 私たちは、幸いなことにもうすでに主イエス様の内にあるのです。これは神の成したもうた業です。これは、私たちがそれを信じようが信じまいが、また、それを感じようが感じまいが、動かすべからざる神の事実であります。 ですから、主イエス様が十字架で死なれた時、私たちもイエス様とともに死んだのです。なぜなら私たちはイエス様の内にいたからです。 コリント人への手紙第II、5:14
主イエス様が十字架におかかりになった時、私たちも十字架にかかったのです。 たとえますならば、私は今歌の本を持っています。ここの一枚の紙をはさみ、仙台にその本を送るとします。紙を送るつもりではないかもしれませんが、とにかく本の間に挟んでありましたので、この一枚の紙も仙台へ行ってしまいました。本だけ仙台に行って、この一枚の紙だけ広島に行くというようなことはあり得ないのであります。 あなたがたは、キリスト・イエスの内にあるのです。主なる神は、私たちをイエス・キリストの内に入れて下さいました。ちょうど、本の間に紙が挟まっているように、私たちは主イエス様の内にありましたから、主イエス様が十字架にかかられた時に、私たちも十字架にかかり、主イエス様が死なれた時に、私たちもともに死んだのです。 主イエス様が十字架にかかられた時に、私たちも十字架にかかりました。ですから十字架に付けて下さいと、神様に願う必要はないのであります。 主イエス様が亡くなられた時に、私たちもともに死にました。ですから、私たちの死はもう終わったのであります。これから死ぬことはあり得ないのです。 新約聖書のどこを開いても、私たちはもうすでに主イエス様とともに死んでしまっていると言っています。これに関係しているいくつかの聖書の箇所をお 読み致します。 ローマ人への手紙6:6
過去形になっています。「付けられた。」 ガラテヤ人への手紙2:20
ここでも同じように過去形が使われています。「付けられました。」 ガラテヤ人への手紙5:24
ここも過去形ですね。 ガラテヤ人への手紙6:14
ここでも過去形が使われています。 ほんとうに、私たちはもうすでに主イエス様とともに死んでしまっていると、この箇所を通してはっきりとわかることができるのであります。誰でも、自分で十字架にかかって自殺することはできません。自分で自分の両手、両足に釘を打つことはできません。打つことができても、片手くらいです。 これと全く同じように、私たちは、自分で自分の罪の性質を取り除くことはできません。神様が私たちを主イエス様の内に置きたまいました、ですから主イエス様が十字架におかかりになった時に、私たちもともに十字架に付けられました。 ですから、私たちも主イエス様とともに十字架に付けられたということは、教えでもなく、理論でもなく、永遠に変わらない神の事実なのであります。 また、主イエス様の死と甦りは、私たちの身代わりでした。主イエス様は十字架の上に亡くなられた時、しみのないご自分の体を私たちにお与えになった時に、あの尊い血潮を流された時に、私たちの恐るべき罪を贖い、神の正と義を満足させるためだったのであります。 この救いの業、贖いの業は、主イエス様だけが成し遂げられたのです。いかなる人間と言えどもこの業に加わることができませんでした。聖書のどの部分を読んでも、私たちの血潮が主イエス様の血潮とともに流されたなどということは出ておりません。 神の御前におけるこの贖いのみわざを、主イエス様はおひとりで成し遂げられました。 しかし主イエス様は、ただご自身の血を流すためだけには亡くなられませんでした。私たちも、ともに死ぬために血を流し亡くなられたのであります。主イエス様は、私たちの身代わりに亡くなられました。主イエス様の死にあなたも、私も含まれているのであります。 そのわけは、神は私たちを主の内に入れ、私たちは主イエス様とともに十字架で死んだからです。 主イエス様の死の中には、あなたも、私も全人類が含まれています。全人類は、主イエス様とともに死にました。しかし、主イエス様の死ばかりではなく、主イエス様の甦りも、あなたと私を含んでいます。全人類は、主とともに甦らされたのであります。 コリント人への手紙第I、15:45、47
この聖書の言葉の中に、イエス様は「最後のアダム」と言われています。第二のアダムとは呼ばれていません。 それから「第二の人」と呼ばれています。最後の人とは呼ばれていません。どうしてでしょうか? 最後のアダムとして、主イエス様の中に全人類は含まれています。また最後のアダムとして、イエス様として、囚われの身となっている罪に堕落した全人類とともに、裁きと死に行かれたのであります。 そして第二の人として、新しい人類の頭となられました。また第二の人として、新しい全人類とともに甦られました。私たちもその中に含まれていたと聖書は言っています。 ローマ人への手紙6:5
愛する兄弟姉妹よ。私たちは最後のアダムとして、主とともに死に、第二の人として主とともに甦りました。ですから、私たちをアダムからキリストの内に移したその力は十字架の内にあったわけです。 今日は、生まれながらの古き人について考えて参りました。私たちは、この問題の生まれながらの古き人、性質は、イエス様の十字架によって、取り除かれていることを見て来ました。 私たち、主イエス様を受けた者の内に支配しているのは、古き人アダムの性質ではなく、主イエス様が私たちの内に生き、またご自分の栄光を私たちの内に現そうとなさるのであります。これこそ解放です。 十字架はなぜ、私たちに必要なのでありましょうか。イエス様がご自分の命をあなたの内に、私の内に住まわせるために必要なのであります。もう一回コリント人への手紙第Iの1章30節をお読みします。 コリント人への手紙第I、1:30
知恵とは何でしょう。それは主イエス様です。義とは、聖とは、贖いとは・・?それは主イエス様です。私たちが聖きに至るその聖きは、主イエス様です。 あなたは、自分の高ぶりに気が付き謙遜になりたいと思っているかもしれません。それは謙遜を求めても得られません。あなたが求めなければならないのは、主イエス様だけです。 神は、忍耐、愛、謙遜、柔和をひとつひとつ分けてあなたにあげることはできません。しかし神は、私たちにもうすでに主イエス様を与えて下さっています。私たちが、主イエス様により頼み、イエス様を心に豊かにお迎えするなら、イエス様が私たちの謙遜であり、忍耐であり、愛となって下さいます。 主なる神は、愛や忍耐や謙遜を売りさばく商人のようなものではありません。神は、私たちの命となるように、主イエス様を私たちに下さいました。 私たちは、無理にクリスチャンらしい生活をする必要はありません。ただ主イエス様が 私たちに内に住みたもうことを許しさえすれば良いのです。 ガラテヤ人への手紙2:20
私たちひとりひとりが、パウロと同じように、この堅い信仰の内に立ちたいものです。 |