今日はルカの福音書23章33節から43節まで、そしてローマ人への手紙6章1節から11節までを学んでみたいと思います。 進歩への道、知ることについて考えてみたいと思うのであります。 主なる神の目的は、私たちが主イエス様の似姿に変えられていくことであります。これが私たちの内になります時に、私たちはパウロと同じように、「我もはや生きるのにあらずキリストわが内に生きるなり」と、言えるようになります。 ところで、問題はいかにしてそのようになるかということです。 私たちは、今日までどうしても知らなければならない基本的な二つの問題を学んで来ました。すなわち、人間の罪と主イエス様の血潮の価値。そして、私たちの古き人に対する主イエス様の十字架の価値。 この事実なくして、私たちが揺るがないしっかりした土台の上に立つことができません。事実は私たちの信仰生活の土台なのであります。 新約聖書を見ますと、主イエス様の血潮と十字架の間には、明らかに違いのあることがわかります。 ローマ人への手紙の1章1節から5章の11節までには、私たちが何を成したか、罪を犯した。罪を消すためには、主イエス様の血潮がある。その結果は赦しであると書き記されています。 ローマ人への手紙3:25
ローマ人への手紙5:9
それからローマ人への手紙5章12節から8章の終わりまでには、何であるか、罪人である。その解決の手段は十字架である。その結果は解放である。ということが書かれています。 ローマ人への手紙6:6
いまここにローマ人への手紙は、血潮と十字架を分けていますが、主イエス様の救いのみわざはひとつでした。主イエス様の救いには、この両面があるということです。そして、私たちにはこの両面を各々体験して、自分のものとしなければいけないと思うのです。 主なる神のご目的は何でしょう?もう何回もこれは、繰り返し言っていることですが、人間は一番大切なことを忘れ、枝葉のことを第一にしがちですから、もう一度申し上げましょう。 私たちが御子主イエス様の似姿に変えられていくことが神の御心であり、ご目的なのであります。このために、主イエス様の血が流されました。 私たちの赦しのために、そして赦された私たちが似姿に変えられていくために、主イエス様の血潮は流されました。そして、主は私たちとともに十字架で亡くなられました。これは私たちが知らなければならない揺るがないところの事実であります。 ですから、私たちは今日までこれらのことを学んで参りました。 ところで実際面はどうでしょうか。私たちは実際に主イエス様の似姿に変えられて行くでしょうか?実際に約束の勝利の生活を営んでいけるでしょうか? この疑問に答える答えを、ローマ人への手紙6章から8章を学んで見つけてみましょう。 その答えは4つの面を持っています。 【1】知ること。 ローマ人への手紙6:6 【2】計算すること。ローマ人への手紙6:6 【3】捧げること。ローマ人への手紙6:12,ローマ人への手紙6:13 【4】御霊によって歩むこと ローマ人への手紙8:4 私たちは、この4つの点を実際に体験しないとまずいのです。この4つを体験しないと、罪を犯し、赦していただき、また罪を犯し、また・・・と言うふうに、信心深い顔をして、回転木馬に乗っている状態になってしまいます。 今日はこの4つの点の内の第一の点、すなわち知ることについて学んでみたいと思います。 どうしたら内面的、霊的に進歩、前進することができるでしょうか。また勝利の生活を送り続けることができるのでしょうか。 また、どうしたら私たちの内に、主イエス様の御形が形作られていくのでしょうか? まず第一に知ることによってです。この知ることを学ぶに際して、これを3つの質問に分けてみましょう。 (1)わたしたちは、いったいどうしても、何を知らなければならないのでしょう? → その答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられた。それは歴史的な事実であるということです。 (2)わたしたちは、いかにしてこの歴史的事実を知らなければならないのでしょうか? → それは、「啓示」によってです。 (3)なぜこの事実をどうしても知らなければならないのでしょうか? → それは、イエス様の十字架の持てる問題の根にまで、解決のメスを入れて下さるからです。 ま、この3つの点について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思うのですが、第一番目は、私たちは主イエス様とともに十字架の上で死んだということは歴史的な事実であることを、どうしても知らなければなりません。 ローマ人への手紙6章1節から11節までは、この歴史的事実をはっきりと述べています。主イエス様の死は、私たちがイエス様の内にあり、イエス様とともに死にましたから、私たちの身代わりの死でした。この事実を心の目で見たことのない人は、霊的に進歩しません。 主イエス様が、私たちの罪を一身に背負って、十字架の上で亡くなられたということを知らなければ、私たちは義とされることはできません。 それと同じように、もし私たちが主とともに十字架につけられて死んだことを心の目で見なければ、前進することができません。罪だけでなく、私たち自身とともにイエス様は十字架におかかりになったのであります。 あなたは、いかにして罪の赦しを自分のものにしましたでしょうか? あなたは、主イエス様があなたの罪を一身に背負い、身代わりに十字架で亡くなられたことを認めました。そして、イエス様の血潮があなたの全ての罪を、おのおのの罪を全く聖めることを知りました。 あなたは、主イエス様が、罪の負債を全部背負い、十字架の上で亡くなられたことを知った時に、どうなさいましたか? その時あなたは、「どうぞ、私の所に来て下さい。私の罪のために死んで下さい。」と祈ったでしょうか?そうではないと思います。 「主イエス様、あなたは、私のために、もう全てを成していて下さいましたことを感謝致します。」と、祈ったに違いありません。あなたは、「イエス様、わたしの所に来て死んで下さい。」とは祈りませんでした。 イエス様が、あなたのために十字架の上で全てのことを成して下さったことは、もうすでに過去に行われた事実だからです。 罪の赦しのためにはどうしたら良いでしょうか?解放のためには何をしたら良いでしょうか? 私たちは、そのために祈る必要はもうないのであります。もうすでに救いのみわざ、解放のみわざは救いの事実として終わっています。ですから、感謝すれば良いのであります。 主なる神は、私たちをキリストの内に置きたまいました。ですからイエス様が十字架で亡くなった時、私たちもともに亡くなったのであります。 ですから、私たちは今更「イエス様、私は悪人です。私を十字架につけて下さい。」と祈る必要はありません。 あなたは罪が赦された時、罪を赦すために来て下さいとは祈りませんでした。それと同じように、「イエス様、私の自我を十字架につけて下さい。」と祈る必要はありません。 罪の赦しは血潮によって、自我からの解放は十字架によって、もうすでになされています。これは過去に行われた事実であります。あなたのできることは、主イエス様があなたのために、十字架におかかりになったことを、あなたを死に導いてくさったことを感謝することだけです。 愛する兄弟姉妹よ。主に感謝し、この事実の光の内を歩みましょう。そうするとき、詩篇106篇12節のみことばが、私たちのものとなります。 詩篇106:12
主イエス様は、十字架の上ですでに亡くなられたということを信じますか?「もちろん、信じています。」ところで、なぜそれを信じているのでしょう。 なぜならば、神のみことばである聖書にそれがはっきりと記されているからです。 この神のみことばである聖書は、主は私たちの罪のために亡くなられただけではなく、私たちとともに亡くなられたことを告げています。 ローマ人への手紙5:8
私のため、あなたのためにキリストが死んで下さった。これは揺るがすことのできない事実であります。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:8
なぜ私たちは、キリストとともに十字架につけられたのでありましょうか?また、私たちが十字架につけられた日付はいつでしょうか?昨日だったでしょうか?今日でしょうか?明日でしょうか? 神のみことばは、私たちはキリストとともに、キリストとともに死んだと書いています。 私たちが十字架につけられ死んだのは、あの2000年前に十字架につけられて亡くなられた、イエス様と同時に十字架につけられたのは、歴史的な事実です。 なぜあなたは、イエス様が十字架でなくなられたということを信じているのでしょうか?感ずるからですか?いいえ。あなたは、今までにイエス様が十字架で亡くなられたことを感じたことはないと思います。 あなたが信じているのは、神の言葉である聖書にそう書いてあるからです。ルカの福音書23章33節から43節まで読めばわかります。 ルカの福音書23:33-43
主イエス様とともに二人の強盗が十字架につけられました。このことも、あなたは感ずることができません。でも信じています。神のみことばである聖書にそう書いてあるからです。 主イエス様が十字架におかかりになった。そして亡くなられたこと、またイエス様とともにふたりの強盗が十字架につけられて死んだことを信じています。しかし、あなたもともに十字架につけられてしまったということを信じているのでしょうか? 二人の強盗は違う十字架につけられました。またイエス様と時間を異にして死にました。しかしあなたは、イエス様と同じ十字架にかかり、同じ時間に死んだのです。どうしたらこの事実を知ることができるのでしょうか? 主イエス様ご自身が、そう言われたからわかるのです。この知識は、私たちの感情とは何のかかわりもありません。私たちが信じようが信じまいが、主イエス様が十字架にかかって亡くなられたのは、歴史的な事実です。 同じように、私たちが主とともに十字架につけられ亡くなったという事実は、感じようが感じまいが歴史的な事実なのです。主イエス様が、十字架で亡くなられ、強盗も十字架で死んだということも事実です。同じように、私たちも、主イエス様とともに十字架で死んだ。これも動かすことのできない事実です。 私たちは死んだのです。運命のサイコロは、もうですに振られてしまいました。そして、ローマ人への手紙6章7節には、すでに死んだ者は罪から解放されていると書いてありますが、これは信者にとって、実に喜ばしい訪れではありませんか。 ローマ人への手紙6:7
私たちが十字架にかかるということは、私たちがどんなに意志を働かせても、もがいて努力しても自分の体験となるものではありません。これは、すでにもう成された業を、信仰によって自分のものとする以外に方法がありません。 あなたは、どうやって救われたのでありましょうか?どういうふうに信者になりましたでしょうか?聖書を読むことによってでありましょうか?祈りによって、教会に来ることによって、また献金することによって救われたのでしょうか? そうではありません。あなたはある時、もうすでに主イエス様が、あなたのために成していて下さったみわざを見つけだし、それをその救いのみわざを心に受け入れ感謝したのです。その時、あなたの心の内に喜びと平安と望みが湧いてきたのです。 兄弟姉妹よ。次のことを覚えて頂きたいのです。すなわち、救いと主の聖きに至ること。赦しと、解放は、同じ土台の上にあります。 あなたは、罪を赦されたのと同じように、罪から解放されることができるのです。 人間は罪を下に押さえつけ、その上を乗り越えて行くことにより解放されようとしますが、神の方法はそれと異なります。神は、古き人を罪人を捨て去ってしまうという方法をとります。 多くの信者は自分の弱さを悲しんでいます。もっと強ければ良いのですがと考えます。私たちが失敗します。その失敗の体験は、しばしば私たちを誤った結論へ導きます。 それはどういう結果になるかというと、一生懸命努力して、自分の力で解放されなければ、と考える結果になってしまいます。罪の力を深く身に覚えます。また、罪の力に対する自分の力なさを味わいます。 その時に願い求めるのは力です。何とかして、罪に打ち勝つ力を得なければならないと思います。 もっと強くなりさえすれば、この性格的に弱い点がもっと強くなりさえすれば、と考えて悲しくなってしまいます。 しかし、そのように己を憐れむのは、神のとられる解放の道ではありません。主なる神の私たちを解放する方法は、私たちを段々強くすることではありません。日増しに私たちを弱くすることです。 主なる神は、私たちに罪の力からの解放を成して下さいます。それは、私たちの古き人を強めることによってではなく、私たちの古き人の働きを殺すことによって成しとげて下さいます。これを知っている人は、自分で努力することをしないでしょう。 第二番目の点、すなわち、私たちはいかにしてこの歴史的事実を知らなければならないのでしょうか?この答えは、啓示によってです。 キリスト者の第一歩は、啓示による知識で始まるはずのものです。この啓示による知識は、ほかのいろいろな真理についての教え、頭の知識もありますが、それとは、全く違った性質のものであります。 私たちの心の目が開かれ、キリストの内に私たちが何を持っているか、それがわかった時に、この啓示による知識を自分のものとしたことになります。 あなたは、なぜ自分の罪が赦されたことを知っているのでしょうか。その知識はどこから来たのでしょうか。教会で誰かが教えてくれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。 この知識は、主イエス様ご自身が啓示によって、上から与えて下さったのです。もちろん聖書の中には、罪の赦しの事柄が書かれています。しかし、これがあなた自身の知識として当てはまるには、栄光の父ご自身が、主なる神が、知恵と啓示との霊をあなたにたまわった時に、はじめてあなたのものとなるのです。 聖書に書かれている神の言葉は、あなたにとって生きた言葉となる必要があります。 罪の赦しは、啓示によって自分のものとなることができましたが、罪の力からの解放の場合も同じです。あなたが心の目をはっきりと開き、イエス・キリストの内に、自分ももうすでに死んでいることを見ますならば、罪の力の驚くべき解放を体験することができのであります。 このみことばを暗記することもできるでしょう。でも、その知識では十分ではありません。「我は、キリストとともに十字架につけられたり」という事実を啓示によって知らなければダメです。 私たちは、それを感ずることも、理解することも、いっぺんに飲み込むこともできないかもしれません。しかしそれを知っています。頭でははっきりと理解できなくても、救われたこと、主イエス様とともに十字架につけられたことは、知らず知らずのうちに自分のものとなっています。 啓示によって知ったからです。 もしあなたは、自分が主イエス様とともに、十字架につけられたという事実を啓示によって知るならば、その知識は、何ものによっても動かされない深い知識になります。 多くの勝利の生活を送っているキリスト者がいますが、その人々にいったいどうしたら、そうなることができるのでしょうかと尋ねますと、その答えはまちまちです。たいていの人は、自分の体験だけが正しいということを主張するために、自分の好きなみことばだけを言います。これは悲しむことと言わなければなりません。 その人が経験した特別な経験や、特別な教えは、そんなに大切ではありません。その人が経験によって、主イエス様を、また主イエス様がなされたみわざを心の目で見たかどうかが大切なのであります。 もしその人の体験が、証しが、主イエス様からあまり離れていて、主イエス様とあまり関係ないようなら、役に立たないということです。ですからパウロは、ローマ人への手紙6章6節で、私たちはキリストとともに十字架につけられたとこの点を強調しております。 ローマ人への手紙6:6
あの中国に福音を宣べ伝えた、信仰の偉人であるハドソン・テーラーの戦いをご存知でしょうか。彼は自分の内から、主イエス様の溢れる命が流れ出るような生活を心から求めていました。しかし、どうしたらイエス様の中に飛び込むことができるか、そのすべを知りませんでした。 懸命に努力しましたが、無駄でした。ですが突然、ハドソン・テーラーに解放の日がやって来ました。 ある時彼は、聖霊によって心の目が開かれ、自分はすでに主イエス様とともに死に、主とともに葬られ、もうすでにともに甦り天に座しめられたということを知ったのでした。 主なる神は、ハドソン・テーラーにこれらのことをみことばを持ってお語りになりました。ハドソン・テーラーは、神は私よりも全てのことをご存知のお方である。私は神のみことばを信頼し、しっかっりと信仰の計算をして、踏み出そうとしました。 この時から、彼は驚くべき信仰の生活に入ることができたのです。ハドソン・テーラーは、主がぶどうの木であり、自分はその枝である。自分はぶどうの木の一部分である。もう前からそうだったのであり、今そうなったのではないということを知ったのであります。 「わたしを、ぶどうの枝にして下さい。」と願うことは、愚かしいことであることを知ったのであります。部屋の中にいる人は、一生懸命その部屋の中に入りたいと思い努力することは、考えられないことです。馬鹿げたことです。 同じように、もし啓示により心の目が開かれ、私たちはもうすでに主イエス様の内にあるということを知るならば、イエス様の内に入ろうともがくことはなくなるはずです。 多くの啓示をもらえばもらうほど、私たちは願うことが少なくなり、主に感謝することが多くなるでしょう。なぜ、私たちはそんなに自分のことについて願うのでしょうか。もうすでに主が成してしまって下さることに、目が開かれていないからです。 今ひとりの信者が、自分の霊的な状態を顧みて非常に悩んでいます。この人は、ほかの信者の勝利に満ちた立派な生活を見て、自分はあんなんじゃない。自分は、信者ではないのではないかという所まで、考え込んでしまいます。 そこへ、二人の信者がやってきます。その人に同情して2時間以上も、「あなたはイエス様から離れては何事もなすことができない。また、イエス様から離れては、何も得ることができない。何も経験することができないのですよ」と、一生懸命に話しをしますがダメでした。 終わりに、悩んでるその信者が二人に言いました。「わたしは、もっと、もっと祈らなければならない。」すると、二人は、「イエス様はもうすでに、あなたに全てのものを備え与えて下さるのですから、祈り求めることは今更ないのじゃないですか?」と言いました。 すると悩めるクリスチャンは、「イエス様は、まだ私に全てを与えて下さっていません。もし、イエス様が、私に全てを与えていて下さったならば、私はこんなにすぐ怒ったり、あいかわらずこんなに弱い性格のはずはありませんから。ですから私は、もっともっと祈り求めなければならないのです。」と。 ふたりは、「それでは、あなたは祈り求めたら、あなたは祈り求めたことを全部もらえますか?」悩める信者はこれに対して、「残念ながら、今まで何ももらえませんでした。」と告白せざるを得ませんでした。 そこで二人は、「自分は救われるために何も努力しませんでした。また同じように、自分が聖きに至るために、努力を必要としません。」と、言いました。そこで、3番目の兄弟が入って来て、そばにあった魔法瓶を悩める兄弟に見せて言いました。 「君、もしこの魔法瓶が、どうか魔法瓶にして下さいと祈ったら、あなたはどう思いますか?」 「それはあなた、馬鹿げていますよ。もうすでに魔法瓶なのですから。魔法瓶にして下さいと祈るのは、馬鹿げたことです。」 「君、そうだろう。でもあなたも、今まで魔法瓶と同じように愚かしいことをやり続けて来たのですよ。主なる神は、あなたを永遠の昔からキリストの内に置きたまい、キリストの内に死なしめ、キリストとともに甦えらせしめ、新しい命、勝利の命に生きているのです。ですから、主とともに十字架につけて下さい。勝利の生活送らせて下さいと祈り求める必要は、もうないのです。 主はあなたに、あなたは死んでる。あなたは永遠の命を持っていると言っています。あなたがいくら祈り求めても、その祈りは魔法瓶が魔法瓶にして下さいと祈る祈りと、少しも違ったことのない愚かな祈りです。あなたはこのこと、あのことと、祈り求める必要はありません。もう、すでに主が成していて下さるのです。 心の目を留めることが必要なのです。あなたは、あなたの古き人が死ぬように、懸命に努力する必要はありません。また、死ぬまで辛抱して待つ必要はありません。あなたは、すでに死んでしまっているのですから。 あなたは、ただ主の成したもうたことを心の目で見て、それに対して心からなる感謝の祈りを捧げさえすれば良いのです。『神様感謝します。あなたは、私のような者をキリストの内に置いて下さいました。また、キリストとともに全てのものをお与え下さいましたことを、心から感謝致します。』と言えば良いのです。」 3番目の兄弟が、このように勝利の生活の秘訣について話した時、主は憐れんで下さり、悩める兄弟に上からの光を与えて下さり、また彼は、御心にかなった生活をするようになったということであります。 はじめに、私たちは何を知らなければならないかという疑問を設け、それに対する答えとして、私たちは主とともに十字架の上で死んだということは歴史的な事実であるということを学びました。 また、今は2番目にこの事実をいかに知るべきかを学びました。それは、啓示によって知らなければならないという答えでした。 今度は最後に、短くなぜこの事実を啓示によって知らなければならないか。私たちは、あらゆる問題をその根から解決して頂くためには、十字架が必要だからです。この点について、考えましょう。 今日本の政府が、酒の害はたいへんひどい、酒は飲んではいけないという法律を設けたとします。そして警察では、あらゆる場や、酒場に行って酒を撤去したとします。これで酒を取り締まることができたでしょうか? それだけではいけません。酒を造る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立ちません。 私たちは強情です。私たちの行いは酒という製品です。イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりをなさいました。 しかし主はそれだけではご満足されません。工場をつぶしてしまいたいのです。全てをどうにかしてしまわなければならないと思っておられます。 主イエス様の血潮は全く十分でしたから、私たちは努力なしに罪の赦しを得ました。同じように、私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。 主イエス様は、全く救いを成し遂げられた時、製品=罪ばかりでなく、工場=罪人、自体ごとお考えになっておられました。 主イエス様の血潮は、おのおののひとつひとつの罪から私たちを聖めて下さいます。それとともに、アダムから私たちが受け継いだ罪の性質をも十字架にかけて死んで下さいました。どうかこの事実を、この神の事実を、啓示によって見ることができますように。そうすれば、全ての問題が氷が溶けるように解決します。 ローマ人への手紙6:6
ここに私たちは「知っている」とありますが、私たちはこれを実際に知っているでしょうか。あなたはご存知ですか。それとも知っていないのでしょうか。 キリスト・イエスに付くバプテスマを受けて、みなその死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。 主イエス様が、私たちの心を開いて下さるように。 |