今日は、ローマ人への手紙6章1節−11節を元にして、信仰への道、すなわち計算することについて、みんなで一緒に考えてみたいと思います。 詩篇32篇1節-2節
ヨハネの手紙第I、1:7
このふたつのみことばを読みます時、主イエス様の血潮がどんなに尊いかしみじみとわかります。わたしたちは、主イエス様の血潮の尊さをもっと、よく知り、もっと感謝したいものです。 前に学んだ主イエス様の血潮の価値を、もう一度言ってみます。 【1】主なる神と人の間を隔てている罪と言う壁は、主イエス様の血潮によって、もうすでに取り除かれた。神との交わりが、できるようになった。 【2】主イエス様の血潮の価値をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなる。 【3】私たちが、主イエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは、効き目がなくなる。 どんなクリスチャンも、、遅かれ早かれ霊的にもっと成長しなければならないが、それができない。どうしたら良いのだろうかという所にぶつかります。 勝利の生活を送りたい。けれども、どうしてもできない。罪の性質を、自らの内に嫌というほど知らされるが、どうしても解放されない。そのような所にはまりこみます。 私たちは今日まで、主イエス様の血潮によって罪赦され、義とされることより、さらに進んで聖められることのほうがどんなに難しいかわからないということを学んで来ました。 救われ、義とされるために、私たちは自らの努力をしませんでした。同じように聖められるためにも、自分の努力は無駄であるということも、今日まで学んで来ました。 ですから、私たちは自ら努力して罪を乗り越えていくのではダメであって、私たちの罪の源が何であるかを知らなければなりません。 しかし、主なる神はすでに私たちの解放を整えて下さいました。ローマ人への手紙6章6節にあるように、罪の体が滅びて罪の奴隷でなくなるためであること。もうすでに罪の解放の備えは整っています。 もし、私たちが内面的に霊的に前進したいと思うなら、この事実を知らなければなりません。ですからこの前の集会で3つの疑問を設けてそれに答えるようにしました。 (1)何を知らなければならないか? → わたしたちが、主イエス様とともに十字架に付けられたことは、歴史的な事実である。 (2)わたしたちは、いかにしてこの歴史的事実を知るべきか → 啓示によって (3)なぜこの事実を知らなければならないか → 十字架は、問題の根本まで解決してくれるから。 この3つの点を考えたわけです。私たちが憧れている勝利の生活に入るには、どうしたら良いのでしょう。この前は「知ること」について学びましたが、それは、第一段階にすぎません。 第二段階に研究を進めましょう。それはローマ人への手紙6章11節にあるように。 ローマ人への手紙6:11
思いなさい。あるいは認めるべきである。と書いてありますが、うまく言い表すには、「計算すべきである」と言ったほうが良いと思います。 思いなさい。計算すべきであるという言葉は命令です。あなたに対する神様のご命令です。これはいったい何を意味しているのでありましょうか。 本当はローマ人への手紙6章6節と、11節はあわせて読むべき性質のものです。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:11
知ってそれから認めなさい。認め、計算するというのが正しい順序です。 私たちの古き人がキリストとともにすでに十字架にかかって死んでしまったことを知ったならば、その次に、それを認め計算するのです。 この計算することも、啓示によって示された神の事実の上に立っていなければ、何の役にも立ちません。もしそうでないなら、私たちの信仰は、根拠のない、むなしいものになってしまいます。 もし、啓示によってそれを知るなら、計算するということは、私たちにとって当たり前のことになります。 たった今から、ローマ人への手紙6章の11節の「計算すること」について学びますが、学びますと、一生懸命計算を始めるかもしれません。しかしやがて、何かの試みがやってくると ぐらついてしまいます。そして計算することが無駄だと考えるようになるかもしれません。 ローマ人への手紙11節は、6節の事実なしには何の役にも立ちません。私たちは、いつも悪魔が攻撃してくる私たちの弱い点をよく知っています。攻撃が始まると、私たちはどうするでしょう。自分は死んでいる、死んでいると、一生懸命計算し始めます。しかし努力して、計算すればするほど、古き人が元気ずいてくるのに気がつきます。 どうしてでしょうか? それは、第一段階に足を踏み入れていないからです。 主イエス様とともに、もうすでに十字架に付けられてしまっているということを啓示によって、心の目で見ていないからです。主イエス様が亡くなられた時私たちもともに死にました。それは、私たちがイエス様の内に置かれていたからです。 確かにイエス様は亡くなられました。それと同じように私たちの古き人も、イエス様とともに死んでしまったのです。あなたは、この事実を啓示によって見たでしょうか。それともただ頭の中で知っているに過ぎないでしょうか。 もし、主があなたの目をこの永遠の事実に開いて下さるなら、ただあなたは主とともに死んだことを喜び、心から賛美することができるようになります。 それでは、計算する秘訣はどこにあるのでしょうか?啓示です。 マタイの福音書16:16-17
啓示によってペテロは知るようになったのであります。 エペソ人への手紙1:17-19
ここでも啓示の御霊について、心の目がはっきり見えるようになるようにということについて書き記されているのであります。私たちが、主イエス様とともにひとつにされたことは、単なる教えではなくそれ以上のものです。 私たちは、この事実を啓示によって見なければいけません。これははっきりしない、曖昧な出来事ではありません。主イエス様が私たちのために死んで下さったことを知った時、心の目で見た時、非常に深い体験を致しましたが、私たちがイエス様とともに死んだということをも、心の目で見るならそれにも劣らない深い体験を持つことになりましょう。 このふたつの体験は、私たちの生活の土台となるべきものです。私たちは計算したからではなく、主とともに十字架に付けられたから死んでいるのです。神様が、私たちの上にキリストのゆえに成して下さったことを見ましたから計算したのです。 これが本当の計算です。死ぬために計算するのでなく、もうすでに死んでしまったから計算するのです。 「思いなさい=認めなさい=計算しなさい。」ということは、何を意味するのでしょうか? それは普通の算数、普通するように会計の帳簿を付けるようなものです。 人間はいろいろな仕事をすることができますが、正確な答えが出るのは、数学に関係のある仕事です。 絵描きは、絵を描くことができます。しかし完全な絵を描くことはできません。歴史家はその資料が100%完全なものであるかどうか知りません。ですから完全に正確な仕事をすることができないのです。地図を書く人も、正確に書くことは不可能です。 私たちが同じことを見聞きしても、それを表現するとなると、そこにおのおのの違いが出てきます。人間は不正確なものです。 しかし算数や会計の帳簿を付けることは別です。1+1=2です。これは東京でも、ニューヨークでも、モスクワでも同じです。 主はいったいなぜ、ローマ人への手紙6章6節で「自分は罪に対しては、死んだ者であることを思いなさい。(認めなさい)(計算しなさい)」とおっしゃったのでしょうか。 それは、もうすでに主とともに死んでしまっているから認めるべきだとおっしゃるのです。 もしあなたが、5万円を持っているなら、金銭出納帳に何と書くでしょうか?もちろん5万円と書き入れるでしょう。もちろん5万円を持っているからそう書き入れるのです。事実に基づいて、それから計算します。 買い物に行っても、自分は5万円持っているということをいつも考慮に入れておきます。同じように、主なる神はあなたは罪については、もうすでに死んだ者であると計算しなさいと言っておられます。それは事実ですから、そうしなさいとおっしゃるのです。 それは神の命令です。あなたは5万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、罪について死んでいますから、そのように計算しましょう。 主が亡くなられた時、私たちもともに死にました。ですからもうすでに、罪について死んでしまっていることを計算し、信じなければなりません。 罪に対して死に、神に対して生きていることを認めるのは、どうしたら良いでしょうか。 私たちの内にあってではなく、主にあってのみ可能です。主イエス様を見上げ、主イエス様の成したもうたみわざを思い見ましょう。それが計算の秘訣です。 もう少し、この信仰の計算について詳しく考えてみましょう。 ローマ人への手紙の前半は、多く信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、神との平和などは、みな信仰によって自分のものとすることができます。 これに対して、ローマ人への手紙の後半には、信じなさいということよりも、計算しなさいという言葉が多く書かれています。実際には、信仰も計算も同じことです。 信仰とは何でしょう。信仰とは、神の成したもうたみわざを受け取ることです。信仰は、いつも過去に行われた事実の上に立つものです。 信仰の目的を考えます時に、未来を思いますが、たいていの場合過去に行われた事実に基づいています。 ローマ人への手紙の後半に多く出てくる計算するということは、全部過去の事実に基づいています。ですから信じなさいということではなく、計算しなさいという言葉を使っています。 またマルコの福音書11章24節には、計算せよという言葉と同じことを、主イエス様が言っておられます。 マルコの福音書11:24
主イエス様にあって、もうすでに与えられたと信じましょう。信仰は、主はもうすでに与えられたと言います。あなたは心から喜びを持って、私はすでにイエス様と十字架に付けられたと賛美することができるでしょうか。 できれば、信仰の計算ができているのです。 ローマ人への手紙3章は、主イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの身代わりに亡くなり、私たちを義として赦して下さるために亡くなられたことを教えています。 ローマ人への手紙6章は、そのイエス様の死は、私たちの罪の性質からの解放であることを教えています。この最初のローマ人への手紙3章の事実を啓示によって知った時に、主を信じ罪の赦しを頂きました。 主は、この第一段階に留まっていないで、第二段階の罪の解放も信じ計算しないと言っておられるのです。 続いて第二番目、試みと失敗に対するただひとつの答え、すなわち信仰について、少しだけ一緒に考えてみたいと思います。 私たちが、先ほど述べたふたつのことを本当に信じ、啓示によって計算したとしても、試みがやってきて失敗したとします。 その時は、どうしたら良いかという新しい問題が起こって来ます。ローマ人への手紙6章11節は架空のものだった。実際のものでは、なかったのではないかと疑問に思うでしょう。 しかし、決してそうではありません。悪魔が一番ねらっていることは、私たちが神の動かすことのできない、永遠の事実を疑うことです。 そして、悪魔は私たちの心に、お前の内の古き人は死んでいないではないかとささやきかけることによって、疑いを起こさせることに成功します。 これに対する私たちの対策はどうでしょう? その時、私たちは目で見、手で触れ、感ずることができ、わかることができる肉的な物質的な事柄を信じますか?それとも、目で見、手で触れ、感じわかることのできない霊的なものを信じるのでしょうか? 聖書の中には、私たちが地上にいる限り、私たちの罪の性質は消し去られない。罪を犯す可能性は、いつでも持っているということを告げています。ですから、私たちは絶えず知る知らないにかかわらず犯してしまった罪を赦して頂くために、イエス様の血が必要である。そのことを知らなければならないのです。 罪の性質は、いつも私たちの内に潜んでいます。しかし私たちは信仰により、日々この力から解放され、罪の奴隷に甘んじていることなく、自らの肢体を義の武器として神に捧げなければならないと、思うのです。 ヨハネの手紙第I、3:9
そう書いてあります。これによると古い人、罪の性質からの解放は事実であります。もちろんヨハネはここで、信者は罪を犯すことはできないとは言っていません。キリスト者であるがゆえに、その内に宿っているイエス・キリストは罪を犯すことができないということをここで言っているのです。 ですから、私たち信者の生活の内には、二つの性質があります。ひとつは、罪を犯すことのできない主イエス様であり、ひとつは古き人、生まれながらの罪の性質です。 ですから、私たちはどの事実の上に立っているか。どんな事実に基づいて計算するか。どんな事実によって生きるかが問題となるわけです。 すなわち、私たちの内には古い罪の性質があるという事実に基づいて生活するか、または聖なるイエス様が私たちの内に住み宿りたもうという事実に基づいて信仰生活を送るかが問題です。 この末の世にあって、どんなに信仰が大切であるか。もっと深く心に刻み込みたいものです。 ですからもう一度考えてみましょう。信仰とは何でしょうか? ヘブル人への手紙11:1
この箇所だけが、信仰に対する説明として聖書に記されています。信仰とはもうすでになされた事実を実現し、自分のものとすることです。私たちは、日々の生活で目で見、耳で聞くことによって、事実を自分のものにすることができます。 野には赤、青、黄、紫色、などさまざまな花が咲いています。もし目をつむったままでいるなら、その花は、私たちのためには何の役にも立ちません。 しかし目を開けると、色とりどりの花を見て、その色は私たちを楽しませてくれます。目の見えない方は、色の区別はわかりません。耳の聞こえない方は、音楽を理解することはできません。 しかし私たちが、見たり、聞いたりしなくても、花に色があること、音楽に音があることは事実です。このように私たちは、目で見て、耳で聞いて、実際にあるものを認めて、自分たちのものとします。 しかし今まで学んで来た主イエス様が十字架に付けられ死んだこと、血潮によって赦されたことは、私たちの感覚でとらえることができません、信仰によってのみ、目に見えることができないが、永遠に変わらざる神の事実を自分のものとすることができるのです。 コリント人への手紙第II、4:18
事実は信仰によって私たちの体験となります、多くの人は、ローマ人への手紙6章6節を読みますが、それがその人々の体験となりません。信ずる人には、事実となりますが、イエス様がせっかく成して下さった事実も、疑う人や、頭で考える人には、事実となりません。 自分の古き人は、イエス様とともに十字架に付けられてしまったということが問題です。事実は信じても、信じなくても、同じく事実です。私たちの罪の性質は、イエス様とともに十字架に付けられてしまったということは、信じなくても事実としてあくまで残りますが、私たちのためには何の役にも立ちません。 信仰が、主とともに十字架に付けられた事実を体験にまでしてくれます。 主イエス様の用いられた兄弟がいましたが、この兄弟はある時病気になりました。5日間の間高熱に悩まされ眠れないほどでした。そうしていますうちに、自分が癒されたという確信をその兄弟は得たのです。 しかし外に現れている症状は違います。熱は高く、脈は速く、頭は痛いという状況です。その時、悪魔のささやきが聞こえました。神の約束は、どこに行ったのだ。お前の祈りはどこにあるのだとささやきます。あやうくその言葉にのりそうになります。もう一度、祈り続けようとしました。 その時、 ヨハネの福音書17:17
というみことばが与えられました。もし神のみことばが真理なら、見える所の病状は偽りであるはずです。その兄弟は、悪魔は熱も痛みも嘘だ。みことばだけが真実だと言い返しました。 5分ほどして寝込んでしまいました。目を覚ましてみると、病気は癒されていました。この兄弟が癒されたのは、癒されるのが主の御心であると確信したから癒されました。 癒しには、癒されない場合もあります。しかし、主イエス様とともに私たちも十字架に付けられたことは例外なく確かです。悪魔の訴えを退けるには、神のみことばを信ずることが必要です。私たちはどんなに失敗しても、悪魔がその失敗に付け込んで来ても、神のみことばを信じなければなりません。 サタンは言葉だけでなく、誤ったしるしや感情や、経験を起こさせ、私たちを神のみことばから離そうと努めます。悪魔は私たちの古き人は、決して死なないで生きているということを教えようとします。 私たちは悪魔のだましにのるか、神のみことばを取るか、決心しなければなりません。私たちは、外に現れた現れによって行動するのでしょうか。それとも神のみことばに生きているのでありましょうか。 私はベックと申します。これは私が認めている事実です。記憶が無くなって、私は自分の名前を忘れることがあるかもしれません。しかしその名前を感ずることができなくても、忘れてしまっても、私がベックであることは変わらない事実です。 しかし自分で自分の名前を変えて、「ケネディーです。」と誰にでもいうことにします、しかしこれは、なかなかむつかしいことです。誰にあっても、私はベックですと言わないように注意しなければなりません。うっかりしている時に、「ベックさん」と呼ばれたら、「はい」と答えてしまうことでしょう。 事実はなかなか隠せません。ひょっとした時に現れてしまいます。ベックがベックであることは事実ですから、それを認めることは決してむつかしくありません。この事実は、どんなことがあっても変わらない事実です。 同じように、主イエス様とともに十字架に付けられてしまったことは、それを感じても、感じなくても、信じても、信じなくても、またどんなことが起こっても、変わらない事実です。なぜ、それをそんなに正確に確かに知っているのでしょうか。 コリント人への手紙第II、5:14
聖書がこう言っていますから確かに事実です。私たちの体験が、その反対であっても、事実は事実として残ります。 私たちが、この事実の上に堅く立っていると、悪魔は指1本触れることはできません。悪魔はいつも私たちの確信を揺るがせようとしてやって来ます。もし、私たちが神のみことばに対して疑問を持つようになったら、悪魔の勝利です。神の事実を計算し、信じている人々は悪魔の手に負えない人々です。 コリント人への手紙第II、5:7
あなたは見るところによってではなく、信仰によって歩んでるのでしょうか。次の例話をまだ覚えておられるかもしれません。 事実と、信仰と、経験が高い幅の狭い塀の上を、一列になって歩いていました。 事実が先頭になって歩いていました。この事実は、右も左も見ません。後ろも振り返りません。まっすぐ、ひたすら前を向いて歩いています。 その次に信仰が歩いて来ます。信仰が、前を行く事実を見て歩いていた時は、何もおこりませんでした。後ろから、経験もうまい具合に歩いてきます。 けれどもある時、この信仰君は、後ろの経験君を、気にしました。経験のヤツはいったいどうしてるだろうと、くるりと後ろを振り向きました。その時に、信仰の目から事実さんの姿が消えました。 その途端に、信仰はバランスを失って塀から落ちてしまいました。その時、経験君も、一緒に落ちてしまいました。 悪魔が試みて来る目的は何でしょう。主イエス様から目を離し、自分の内を、いろいろな現象を、現れた現れを見つめさせるためです。信仰はしばしば神のみことばを反駁するようないろいろな出来事に出くわします。 それは私たちがする目に見える失敗です。この時に私たちのとる態度が問題です。 その時、私たちが自分の感覚を信じ悪魔のだましごとを受け取るか、または主なる神のみことばに反することを全てしりぞけて、神のみことばに堅く立つかが問題です。 私たちの態度ひとつで、神の言葉を否定しようとする材料がなくなるか、逆に私たちの信仰がなくなるかが決まるのです。目に見えないものは、永遠に留まるということを深く思い入れましょう。 もし私たちが、主の成したもうた事実に目を向け続けるなら一歩、一歩、その事実が私たちのものとなって来るはずです。主イエス様が、私たちの義であることが現実となり、また主イエス様が、私たちの聖きであることが私たちの内の実際となり、また甦りの命が私たちのものとなって来るのです。 ガラテヤ人への手紙4:19
信仰は神の事実を実現致します、永遠の客観的な神の事実が、私たちの主観的な体験になります。最後にちょっとだけ、第三番目の点、すなわち主イエス様の内に留まり続ける必要性について、考えて終わりましょう。 ヨハネの福音書15:4
私に留まりなさい。私もあなたがたの中に留まります。何度も言いましたが、聖書の中には私たちの罪の性質が取り去られたとは書いてありませんし、私たちは自分自身にあって死んだとも書いてありません。 私たちは、キリストにあって死んだのです。罪の性質の働きは殺されました。 もう一回言いましょう。わたしたちはキリストにあって死に、罪の性質の働きは殺された。もし私たちが、この事実について信じるなら、彼の内におり続けるなら、これが私たちの体験となってくるはずです。 聖書は、力を尽くして、キリストの内に入り込みなさいとは言っていません。もうすでにキリストの内に置かれているからです。 主イエス様のご命令は、わたしの内に入れということではなく、私に留まりなさいということです。私たちが主イエス様の内に入れられたのは、主なる神のみわざでした。私たちが必要なのは、ただその内に留まり続けることです。 主なる神は、救いと解放のみわざをキリストの内に行われたのであって、わたしたち個人のなかで行われたのではありません。これを知ることが必要です。 この救いと解放のみわざを、神は私たちのために行われましたが、わたしたちの内には行われませんでした。 主なる神は、このみわざを全て主イエス様を通し、主イエス様の内に行われたのです。だから、主の体験が、わたしたちの体験とならなければならないのです。 主イエス様から離れては霊的な体験はありえません。全てのみわざを、神は主イエス様にあって成し遂げられました。 私達は、キリストとともに十字架にかけられ、キリストとともに甦らされ、キリストとともに天の座に座しめられ、キリストによって満ち足りたものとなり、キリストにあって、霊のもろもろの祝福を持って、祝福されるようになったのです。 全てのことを、私たちの内にではなく、キリストの内に成し遂げられました。 もしあなたが、キリストがあなたのために行われたことを信じ計算するなら、主が成したもうたことが、そのままあなたの体験となってくるのです。 主イエス様の経験が、あなたの経験となります。もしあなたが、この神の成したもうたみわざを認め計算しないで、自分の内を見つめ、自分の経験を追い求めるなら、神のみことば、聖書に書かれていることと反対のことを経験するようになると思います。 すなわち古い人、罪の性質は全然死んでいないで、たいへん元気であることに気がつくに至るでしょう。 主イエス様の内に留まり続けるということは、何を意味しているのでありましょうか。どういうことでしょうか。それは、どんなことがあっても変わらない、永遠に変わらない神の事実の上に立つことを意味しています。 キリストとともに死に、ともに甦らされ、ともに天に座しめられ、霊の祝福にキリストにあってあずかる者とされたという事実の上に立つことを意味します。 この神の事実は、みわざは、目に見えません。ですから私たちは目に見えるものによらないで、すなわち外に現れた現れ、すなわち自分の失敗、生まれながらの罪の性質には目を向けないで、私たちのためにキリストにあって行われた事実に目を留めて、それを計算して歩みたいものです。 そうしたら、主イエス様の成したもうたことが私たちのものとなるのです。主なる神がキリストにあって行われたみわざは、私たちの信仰によって、私たちの生活に実現してきます。 私たちは、自らの古き人の罪の性質を殺そうと試み、またそれをよくし飾ろうと試みる必要はありません。甦りの命を持って生活し、段々に完全な者になろうと試みる必要は少しもありません。 もしそうするならば、それは掟によって自分を縛り、絶望に陥ることになるでしょう。私たちがどうしてもしなければならないことは、ゆだね、信頼することです。 試みることと、ゆだねることの間には天国と地獄ほどの違いがあります。 あなたは主イエス様が死んだ時に、キリストの内にありました。主が甦った時、あなたは主の内に置かれていました。主イエス様が父なる神の右に座ししめられた時に、あなたは主の内にあったのです。 この事実を計算するなら、イエス様の体験はあなたの体験となります。 神はあなたをキリストの内に置きたまいました。ですからイエス様の身に起こったことは、あなたにも起こったのです。その頭になされたことは、肢体にもなされたわけです。 多くの信者たちは、新しい祝福、新しい経験を求め、また自分の溢れ流れ出る御霊に満たされた生活を追い求めています。 これらを、心から願い求めていますが、これらはみな主イエス様のご人格から切り離すことのできないものであることを、忘れてはいけません。主イエス様に、私たちの心の目が開かれることによってのみ、まことの経験を自分のものとすることができるのです。 そのほかの祝福も経験も、全ては一時的なものであり、やがえて消え去ってしまうのです。まことの経験を得たいなら、イエス様にあってなされた事実を心の目で啓示によって見、信じ、計算しなければ、自分のものとなることはできません。 主なる神は全てのことを、御子主イエス様の内に成したまいました。そして私たちをイエス様の内に置いて下さいました。ですから私たちが、それを信じても、信じなくても、イエス様が体験されたことは、私たちも体験しているのです。 しかし不信仰によって、この尊い事実がわたしたちの何の役にも立たないものになります。しかし信仰によって、イエス様の体験は私たちの体験となり、私たちは栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられていくことになるのです。 最後にもう一度、ローマ人への手紙6章6節、11節を読んで終わります。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:11
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