引用聖句:ローマ人への手紙6章6節
ローマ人への手紙6章11節-23節
今日は、ローマ人への手紙6章6節と11節から23節までを、いっしょに考えてみたいと思います。主題は進歩への道、すなわち捧げることです。 どうしたら、実際に主イエス様の御姿が私たちのうちに形造られてくのでしょうか。どうしたら、実際にあこがれの勝利の生活に達することができるのでしょうか。また、どうしたら信仰生活が前進するのでしょうか。 これらの疑問を今日まで考えてきましたが、その答えは、一番目に霊的に知ること、二番目に信仰の計算をすること、この二つでした。 私たちは主イエス様が、今より2000年前に私たちの身代わりとなり、私たちの古き人、古き性質とともに十字架で亡くなられ、墓に行き、新しき全人類とともによみがえられた、というすばらしい歴史的事実を、心の目で見て、真の知識として知らなければいけないということが、一番目の答えでした。 しかし二番目に、この第一段階でとどまっていてはいけない、信仰の計算により2000年前になされた歴史的事実を自分個人のものとして受け取らなければいけないということも、この前お話しました。 主イエス様が亡くなられた時、私たちはイエス様のうちにありました。 主イエス様がよみがえられた時、私たちはイエス様のうちにありました。 主イエス様が天の座を占められた時、私たちはイエス様のうちにありました。 これらの驚くべき事実が、信仰の計算によって自分のものとなる時初めて、私たちは主と同じ御姿に変えられていき、勝利の生活を送ることができ、また信仰生活が段々前進するようになるのです。 いわゆる水の洗礼は、体験したことを証しする式であります。イエス様とともに死に、ともによみがえらされたという事実を心の目で見た人だけが、幸いな洗礼の式典にあずかることができるのであります。 歴史的救いの事実を啓示によって知り、信仰の計算により自分のものとした人はこのように洗礼を受けて証しをするようになるわけです。第一段階は知ること、第二段階は計算すること、それに続いて、第三段階は捧げることです。すなわち、自分自身を奴隷として主なる神に捧げることが大切です。 もし私たちが、主の定めたもうたご目的を達しようと思うなら、この第三段階も通りすぎなければいけません。 ローマ人への手紙6:12-13
と書いてあります。ローマ人への手紙6章12節から23節までの間に、一番たくさん出てくる言葉は「捧げる」という言葉です。 13節、16節と19節に合わせて5回、この言葉がでてきます。もう一回13節からお読み致します。 ローマ人への手紙6:13
ローマ人への手紙6:16
ローマ人への手紙6:19
と書いてあります。5回、捧げるという言葉がでてきます。 多くの人々は、クリスチャンが聖められていくことについて話す時、自分自身を神に捧げなさいと言いますが、一体何を捧げるのかはっきり言いません。私たちは何を捧げるのかはっきりさせたいと思います。 逆に、何を捧げることができないのかと言いますと、それは古き人、自分の知恵と力、生まれながらの能力と賜物を神に捧げることはできません。 主なる神は古き人をのろい、十字架の上で判決を下され、裁かれました。古き人に着けるものを神は何一つ受け入れようとはなさいません。 ローマ人への手紙6:13
ここにその神があります。何を主に捧げなければいけないのでしょう。古き人ではなく、主とともに死に、ともによみがえらされた新しき者です。 神に自らを捧げるということは、古き人は主とともに十字架に死に裁かれ済みである、という信仰の計算をした結果なされることです。そして、信仰の計算はイエス様の救いの事実を知ることを、土台としていることは言うまでもないと思います。 はじめに知り、次に信仰計算をすると、神は私たちに自分自身を神に捧げなさいと言われます。もし私たちが、自分の古き人は主とともに十字架で死んでいることを、心の目で見て知りうるならば、計算することは当たり前なことであります。 ですから、すでにローマ人への手紙6章6節と11節をいっしょに読むべきものであります。 ローマ人への手紙6:6
ローマ人への手紙6:11
もし私たちが、新しき者として主とともによみがえらされてしまってることを心の目で見るならば、私たちはキリストにあって、神に生きてる者であることも、当然のこととして知ることができるはずです。 この二つの段階を自分のものとした人は、自然に第三の段階に導かれます。すなわち自分自身を奴隷として、神に捧げるように導かれます。 死によみがえることなくして、神に捧げることはあり得ません。なぜなら神は、決して汚れた古き人を受け入れたまわないからです。私たちが自らを主なる神に捧げる準備の土台は死んでよみがえることです。 今日は三つの問いを設けて学んで行きたいと思いますが、第一番目は何を捧げなければいけないのでしょうか?その答えは私たち自身です。 第二番目は誰に捧げなければいけないのでしょうか?その答えは主に。 そして第三番目はどういうものとして捧げるのでしょうか?その答えは奴隷としてです。 一番目から順に学んで行きましょう。何を捧げなければいけないのでありまでしょうか。 ローマ人への手紙6章13節と19節には、「自分の肢体を義の武器として、義のしもべとして神にささげるがよい。」と書いてあります。 主は私たちが肢体の全部を捧げることを望んでおられます。自分はもう自分のものではなく、主のものであるということを知るのは実に深い体験です。 5千円がポケットにあるとします。それがあなたのものならば自由に使うことができますが、そうでないなら使えません。自分のものでないお金は自由に使えません。 自分はもう自分のものではなく、主のものです。このことをわきまえているなら、信仰生活は急速に前進するでしょう。 私たちは死んでよみがえることにより、自らが主のものとなってしまったことを、本当に知ってるのでしょうか。私たちの持てる全てのものは、私たちのものではなく主のものです。 私たちの持ってるお金は自分のものではなく、主イエス様のものです。私たちが毎日を過ごす時間は、自分で計画して使うでしょうか、それとも主の導きのままに用いるでしょうか。時間も主のものです。 あなたはいろいろな賜物や能力を持っていますが、誰がそれを使うでしょうか。あなたですか、それとも主でしょうか。持てるお金を自分で分け与えたり、持てる時間を自分で使ったり、持てる賜物を自分で使うことか、それとも主がそれらを指図して下さるでしょうか。 金や時や賜物は全て主のものであることを深くわきまえてるいでしょうか。 ある日、一人のクリスチャンが未信者の人と汽車で向かい合って座りました。未信者の人は三人でした。 しばらく行くうちに、未信者の三人は退屈してきましたから、遊ぼうと言いはじめたのです。ところが遊びは四人でやる遊びです。三人は信者の兄弟に、いっしょに遊ぼうと言いました。 ところが兄弟は私には手がないと言います。三人は驚いたような顔をして不思議がりますと兄弟は三人に説明しました。私が持っているこの手は、また私の持っている全てのものは私のものではありません。私を救って下さったイエス様ものですと説明しました。愛するみなさん、これが主の聖きにあずかっている人の特徴です。 19節に、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」と書きしるされているのであります。 続いて第二番目の点、すなわち誰に捧げるのでしょうか。すなわち、主に捧げるのだということについて考えたいと思います。 13節に、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」と書きしるされています。 多くの人々は、キリスト者の聖きはその人のうちから悪いことを取り除くことだと考えていますが、それは誤りです。聖めは自分を全く主にゆだねることです。もう一回言いましょうか。聖めは自分を全く主にゆだねることです。 旧約聖書をみますと、神がある人をご自分のものとして用いたい時、その人に油を注がれました。人々はその人が油注がれた時、聖くされたと認めたのであります。 なぜなら、油注がれた人はその時より、主の指図に従がう者となり、主のものとなったからです。人間の場合だけではなく、小羊やまた金、銀は油注がれた時に聖きものとされました。 小羊や金から悪いものを取り除くなどということは考えられないことです。油注ぐことにより、主のものとなることにより、聖きものとされたのです。 私たちは自分の全てを主に捧げます。私は全く主の指図に従がいますと心から、言い表すことが真の聖めです。 ところで、私たちが自らを主に捧げるためには、私たちはもうすでに主のものとなっていること知らなければなりません。主のものであるから、当然、持ち主である主に捧げたのです。 主に捧げるということは、何かぼんやりとしたことではありません。はっきりとした体験です。私たちは自分のものではない、主のものである。だから、今日より、今より、主に捧げますとはっきりした一つの線が引かれる日があったはずですし、またあるはずです。 多くのクリスチャンは捧げるということを誤って考えてます。捧げるということは神学校へ行ったり、宣教師、伝道師になることだと思っています。そして神学校を卒業して、羽をのばし、ご奉仕を始めるのはよいのですが、生まれつきのままの古い人のままで、ご奉仕をしようとします。 これは決して主に捧げることではありません。本当の献身ではないのであります。 捧げるということは、いわゆるご奉仕をすることでしょうか、決してそうではありません。真の決心は、真の献身は主の御心に自らをゆだね主の欲したもうままにことを成すことです。 ダビデ王は立派な家来たちを持っていました。しかしこの家来の中には門番もいたでしょうし、将軍もいたことでしょう。 ダビデは自分の思いのままに、家来をそれぞれの務めに任命しました。もし主がそうしなさい言われ、それが主のみ旨ならば、私たちは門番にもならなければいけませんし、将軍にもなりましょう。 お分かりになったでしょう、大切なのは主の御心です。私たちがあれやこれやと選ぶことはいけないことです。もし私たちが主のものなら、私たちにはひとりひとりに主の定めたもうた道が備わってるはずです。 また一番大切なことは、主は私たちをどの道に導きたいのかということを知り、主の求めたもう道を歩むことです。 「主よ。私は自分をあなたに捧げます。あなたが求めておられる道を知り、その上を歩みたい。それが私の唯一の願いです。」心から、主に言い表せたらそれこそまことの献身です。 もし私たちが生涯の終りに、私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通したと言えるようにしたいものです。 これと違い生涯の終りに、私は主の道を歩まなかった。小羊の行くところに従がわなかった。私は自らの道を選んでしまったと言わなければならないようなら、それこそ悲劇です。 私たちのいのちは一つしかありません。私たちが、この地上で生活できるのはただの一度だけです。もしこの生涯において、自分の道を自らを選びとるなら、主は決してご栄光をお受けになることができません。 私は自分のために何にも欲しくない、ただ主だけがみ栄を取って下さるようにと願う立場を、願いを、あこがれを絶えず持ち続けたいものです。 私たちは自らの願い、計画、目的を持っているでしょうか。それとも主の御心を成すことが、自分の全てとなっているのでありましょうか、神のみ旨はあなたにとって善であり、喜ばしきことであり、また、全きことであるのでありましょうか。 問題は私たちの意志です。自らの意志を十字架に付けてしまい、そしてあますところなく、主に全てを捧げるかが問題です。 洋服屋さんに洋服を作ってもらう時、生地をやらなければ洋服屋さんはどうすることもできません。 家を建てる時請負業者にお金を渡さなければ、請負業者は材料を買えませんから、どうすることもできないでしょう。 それと同じように、もし主がご自分のいのちを私たちのうちに豊かに与え、ご自身の形を私たちのうちに形造ろうとされても、もし私たちが自分自身を主に捧げなければ、どうすることもできないのであります。あますところなく、全く主にお捧げしましょう。 最後に、第三番目の問いになりますが、どういうものとして捧げるのでしょうか。奴隷としてです。 もし私があますところなく、全く主に捧げ、ゆだねるなら、いろんな点で改めることが起こってきます。家族の中で、職場の中で、また自分の私生活で変化が起こるはずです。考えも変るはずです。 主は、私たち自らのうちから出るものを喜びたまいません。お嫌いになります。 主は私たちの痛いところに手を置き、これはいけない、直さなければいけないとおっしゃいます。あなたは、いままで自分にかけがえのないものであったものを主にお捧げしているのでしょうか。自分の好みを捨てて主にお捧げしているのでしょうか。 あの関係、この関係と主に喜ばれない関係をすっきりと絶ち切ってるのでしょうか。またこれから絶ち切ろうとしてるのでしょうか。 主に逆らおうということは、もっともおろかしいことです。あなたは、また主にお捧げしていないものを持っていながら、もしそうするなら、平安がなくなるからと言って、そのために心を用い祈ろうともしないでいるのではないでしょうか。 もちろん、そのままそうし続けることはできるでしょう。しかしそれは主の御心ではありません。もし自分の心に主をお迎えする場所を空け、主に全てをおゆだねするなら、すばらしい限りなく豊かな祝福があなたに訪れるでしょう。 私は自分のものではなく、主のものであるということを知ることはすばらしいことです。地上で、これ以上偉大な喜びに満ちたすばらしいことはありません。 この真の知識を得てはじめて、主が絶えず臨在したもうことを知ることができるのであります。 もし、自分が全く主に属する者であること知らないなら、主が常にかたわらにいますことも分からないでしょう。もし私たちが、主に全てを捧げ、主の指図の元に、全く自らをゆだね主のご支配の元に入るなら、自らの興味を満足させようなどという考えはなくなります。 ローマ人への手紙6章16節に、次のように書きしるされています。 ローマ人への手紙6:16
ここに、しもべではなく奴隷という言葉が使われていますが、しもべと奴隷の間にはどんな違いがあるのでしょうか。 しもべは一人の主人に仕えますが、自分自身も自分の主人です。自主性があります。しもべは主人が愛してくれなければ、こんなところはもうたくさんと言って、ほかの主人を選びそこへ行って働きます。 これに対し、奴隷は主人に仕えるばかりでなく、奴隷そのものが主人のものなのです。奴隷は自分で決め、選ぶことができません。自らは自分のものではなく主人のものだからです。 聖書は、造られたクリスチャンは、例外なく主イエス様の奴隷であると言っています。主イエス様は、その尊い血潮で私たちを贖いとって下さいました。 主に買われた、この事実を知るなら、私たちは全てを主に捧げなければいけません。私たちは、自分で決定して主の奴隷とならなければいけません。主は私たちに強制しません。強制して奴隷になった奴隷を主は喜びたまいません。 今日のクリスチャン生活における多くの悩みは何でしょうか。 多くの信者は、私は主のためにご奉仕します、私は主に自らを捧げますと言いますが、回心前の生まれながらのものをもって、そのように言ってます。これは真の献身とは言えません。 私たちは簡単に、いたずらに主にお捧げします、献身しますと言わないようにしましょう。主はその言葉をいたずらに受け取りません、真面目に受け取ります。 ヨハネの福音書に書きしるされていますけれども、ガリラヤの湖畔で、主イエス様に持っているパンを捧げた一人の少年がいました。捧げられたパンを主はどうされたでしょうか。いくつもに裂いてしまいました。主はそのように捧げたものを裂かれます。 主は捧げられたものを、御手の内に納め砕き、全く粉々に砕かれます。しかし主は、パンを裂かれた後それを祝福し、五千人の空腹を満たされました。 同じように、主に捧げたものを主は砕きますが、その後に祝福し、ほかの人の悩みを癒すために用いたまいます。 もし今日あなたが、主よ、全てを捧げますと言って捧げるなら、主はみ手の内であなたを砕きます。そのときあなたは砕かれ自らのありさまを知り、失敗と弱さを悟り、失望し、主の導きを疑うようになるかも知れません。 もしそのまま疑い続けたら、その最後はどのようになことになるのでしょうか。砕かれた器、役に立たない器がそこに残るだけです。ほかの人の悩みもあなたを通して癒されない、主もあなたを祝福することができない。どういうわけでしょうか? それは、あなたは主の御手の内で、全く砕かれ切ることを望まないからです。これは多くのクリスチャンの悲劇です。 奴隷として、私たちは自らを主にゆだねましょう。奴隷として、私たちは自らを主にゆだねなければいけません。奴隷は自分の全てが主人のものであり、自分はどうなろうと、どうされようと主人の権利だということを認めています。 この態度をとることを主は待ち望んでおられます。もし、この態度をとるならば、それこそ真の献身です。 真の献身とは伝道師や宣教師になることではありません。自分の意志を主の意志にゆだねることです。どこに行っても、時と所を限らず、会社でも、家庭でも、また海の上にいても、野原にいても、全てを主に捧げることです。 どこに主があなたを導かれようと、主の導きたもうところはあなたにとって最上のところであるはずです。全く主にゆだね、小羊のゆくところに従う人は誤解と、悩みと、迫害の道を歩むようになるでしょう。 しかし小羊に従がう者は、やがて小羊のいたもう栄光に満ちた天に導き入れられるのです。 コリント人への手紙第I、6:13
コリント人への手紙第I、6:15
と書いてあります。 愛する兄弟姉妹よ、私たちは全く主のものです。あますところなく主イエス様のものです。私たちの体、私たちの肢体全部が主のものです。 しかし私たちが自分でことを成し、自分でことを決するなら、霊的な放蕩をすることになります。主の目の前では、いわゆる姦淫が悪いでしょうか、霊的な姦淫の方が悪いのでしょうか。 最後に、同じくコリント人への手紙第Iの6章15節と19節、また20節を読んで終わりたいと思います。 コリント人への手紙第I、6:15、19-20
主イエス様は、その尊い血潮で私たちを贖いとって下さいました。主に買われたこの事実を知るなら、私たちは全てを主に捧げなければいけません。私たちは自分で決定して、主の奴隷とならなければいけません。 主は私たちに強制しません。強制して奴隷になった奴隷を主は喜びたまいません。 |