神の永遠からの予定


ベック兄

(テープ聞き取り、イエスの救いシリーズ)

今日は神の永遠からの予定について、一緒に考えてみたいと思います。

私たちは今まで何回も、どうしても知らなければならない、永遠に変わらない神の成したもうた事柄について学んできました。
乱れきったこの末の世にあって、私たちはしっかりとした岩の上に固く立たなければなりません。それは誰からも、また何ものによっても動かされることのない神の事実の上に立たなければなりません。

私たちはみな、尊い主イエス様の血潮を見たのであります。私たちはそれだけではなく、毎日の信仰生活において、この血潮が必要です。ですからもっともっと、主イエス様の血潮に対する感謝の気持ちを多くしたいものです。
主イエス様の流された血潮とともに、イエス様の十字架についても私たちは学んで来ました。私たちの古き人は、キリストとともに十字架につけられ、死に葬られてしまったことも学んで来ました。
同時に、新しく作られた者としてキリストとともに甦らされたことも見て来ました。

それから最も大切なことは、これらの事実が私たちの個人的な体験とならなければ、何の役にも立たないということを、繰り返しお話ししてきました。
3つの点に分けて学んで来ました。

第一番目は、主イエス様とともに死に、甦ったという事実を、上からの啓示により霊的な知識として得ること。
第二番目は、この知識が自分のものとなっていると、信仰の計算をすること。
第三番目は、死人から甦らせられ、神の御心に従って歩む者として、己を神に捧げ尽くすこと。

この3つに分けて考えてきました。
すなわち進歩への道は、知ること、計算すること、捧げることであります。次は第四の点に進むわけですが、その前に今までの3つの点をひとつひとつ進んでいったら、いったいどこに私たちは導かれていくのか、それを今日少し考えていきたいと思います。

どうしたら霊的に成長するか?どうしたら主イエス様と同じ御姿に変えられいくか?どうしたら憧れの生活に入ることができるかと問い続けて来ました。これらは、ひとりひとりの信者について問題です。
しかし主なる神のお考えは、もっともっと広い視野を持っておられます。そこで今日は、前に言いましたように、永遠の昔からのご予定というテーマで考えてみましょう。

主なる神は、どういう目的で人間をお作りになったのでしょうか?いったいどうして、神は滅び行く人間を救い出して下さったのでしょうか?
この疑問を今日、考えてみたいと思います。すなわち、

第一番目は、神の永遠からの創造における予定と、二番目は、神の永遠からの救いにおける予定に分けて、主なる神の予定を学んでみたいと思うのであります。

第一番目の問は、主なる神はなぜ人間をお創りになったのでしょうか?

3つのことが言えると思うのです。

第一番目に、神の性質にあずかるために。
第二番目に神のご愛に報い応えるために。
第三番目に永遠の命を得るために。

これは、人間を創りたもう前に主なる神の持っておられたご予定でした。

子供は何かを作る時、何を作るかはっきり決めないで始めてしまいますが、主なる神はそのようなことをなさいません。
神様は、成し遂げることができないようなことを始めたまいません。私たちの救い主なる主イエス様の場合には、先ほどの神のご予定を完全に満足されておられました。

第一番目に、主イエス様は神の形であられました。神と同じご性質を持っておられました。私たちも神の性質にあずかるべきです。
そして第二番目に、主イエス様は神のご愛に応えることのできたお方でした。ですから神は、イエス様に対して、これは私の愛する子、心にかなう者であると言われたのであります。我々も、心にかなった者となるべきであります。
第三番目に、主イエス様は、永遠の命を自らの内に持っておられたのであります。主なる神の人間に対する創造におけるのご予定は、何だったのでありましょうか?

ローマ人への手紙8:29
29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

御子が、すなわち主イエス様が、兄弟たちの中で長子となられるためと書いてあります。それから、

ヘブル人への手紙2:10
10神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

「神が多くの子たちを栄光に導くのに、・・・」と書いてあります。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

父のひとり子とあります。父なる神は、御子イエス様だけでなく、子らを自分のものとしたいのであります。それから、ひとり子イエス様が長子となることが神のご目的なのです。
ところで、主イエス様が長子となるためには、ほかに多くの子供がいなければ駄目なわけです。主なる神が創造の時に予定しておられたことは、多くの子らを持ち、その中で主イエス様が長子となることでした。

ところで、主なる神は多くの子を得たいと思っていましたが、それはあの子この子と個々別々の子供を欲しておられたのでありません。ひとり子なる主イエス様のために、ひとりの花嫁を望んでおられたのです。多くの子らのひとかたまりが花嫁です。
主イエス様の花嫁は、すなわち教会です。まことの教会です。全てのまことの信者の一群です。
これが耳から入った表面的な知識によらず、上からの示しによって心の目でこの事実を見ることにより、私たちが変えられれば本当に幸いです。私たちひとりびとりが、創造におけるこの主なる神のご予定を心の目で見ることです。

まことの教会とは何でしょうか。まことの教会とは、いわゆる救われた罪人のひとかたまりだけではありません。主なる神は、人類が堕落する前にすでにこの教会をすでに予定しておられたのです。
ちょっと今から、第一の人、アダムを考えてみましょう。

アダムはエデンの園に住んでいました。エデンの園の中央には2本の木がはえていました。それは命の木と、善悪を知る木でした。すなわちそれは、命と死の木だったのです。創世記からちょっと見てみましょう。

創世記2:7-9
7その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
8神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
9神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。

創世記2:15-17
15神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
16神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
17しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

と、主なる神は言われたのです。
アダムは、何が悪いか何が良いか分別がつかないように創られていました。善悪を、わきまえを知らない、30歳くらいの男の人を想像してみて下さい。あなたは、成長の遅れた男だと思うに違いありません。
アダムはちょうどそんな男でした。神はアダムに、「どの木からも取って食べてよろしい、しかし、善悪の知識のからは取って食べてはならない。死んでしまうから。」と言われたのです。

同じ園の中央に命の木がありました。神はその木から食べて良いと言われたから、命の木から食べて良かったのです。アダムは罪に汚れてもいませんでしたし、聖くもありませんでした。善悪を知らなかったのです。
しかし命の木の実を食べるか、善悪を知る木の実を食べるか、選ぶ立場に立たされていました。と、言いましてもその時には、どちらを選んでいいかわからなかったはずです。善悪の判断ができない人間だったのですから。
アダムはただひとつ神の所に行って、どちらを食べたらよいか尋ねることだけできたわけです。
自らどうすることもせきませんでした。全く神に依り頼んで生活していました。

この2本の木は、人の二つの生き方を表しています。ひとつは神の生き方であり、ひとつは人間の生き方です。
命の木は主なる神を表しています。神は命の源であります。そしてこの命の実は主イエス様です。木を食べることはできませんが、木の実は食べられます。主イエス様は、食べることのできる実のようなものです。
すなわち、私たちが受け入れることのできる主なる神の形です。そしてこの木は、園の中央にありました。神はその実を食べなさいと、アダムに強いることをされませんでした。

命の木の隣には善悪を知る木もありました。この木は、主なる神に尋ねる必要がない、自分でできる、自分は利口だと言う姿を表しています。でも愛する兄弟姉妹よ、ぜひ覚えて頂きたいことは、主なる神に依り頼まないこと、それは罪です。主なる神に依り頼まないことは、それこそ罪です。
アダムはついに善悪を知る木の実を食べてしまいました。その時何が起こったのでしょうか。
3つのことが言えます。

1:神との交わりが断たれました。自分で善悪を知るようになりました。利口になりました。独立しました。
2:自由を得たのではなく、逆に悪魔の奴隷になってしまたのです。
3:アダムの霊は死に、神に対する感覚が無くなってしまいました。

アダムは罪を犯す前には、神と交わる能力を持っていましたが、永遠の命はまだ持っていませんでした。
もしアダムが、主なる神に尋ね神に依り頼み続けていたら、神はアダムを命の木に導き、その実を食べることによりアダムに永遠の命を、神の命をお与えになったことでしょう。
アダムは、神に創られた者だけではなく、神の子となることができたはずです。従順と依り頼むことにより、神の子となったはずです。
しかし不従順と不信頼により、アダムとその後に連なる子孫、全人類は、神ののろいの下に置かれてしまいました。

この世には3つの生き方があります。ひとつには神の生活。ふたつめは人間の生活。3番目は動物の生活があります。
ある時ある所に、人々はその人をクリスチャンだと認め、その人もまた社会運動をすることにより、伝道していた有名な哲学者がいました。しかしその人は、生まれ変わりの必要を認めていませんでした。
ある時ひとりの伝道者が、その哲学者の所に来て、神の永遠の命を受け取ることの必要性を説きました。そのいわゆるクリスチャンの哲学者は、ちょうど重い病気だったのですが、その枕元に犬が1匹おりました。

伝道者が哲学者に、「この犬の名前は何て言う名前ですか?」と尋ねました。「ストロッピー」と答えました。すると「それは、姓ですか、名前ですか?」と伝道者は、尋ねました。
哲学者は、「姓も名もない。ただ、この犬はストロッピーと言うのだ。」と答えます。哲学者の名前を、ま、ケネディーとしましょう。伝道者は、「それじゃケネディーさん。今度からこの犬は、ストロッピー・ケネディーと呼んだらどうでしょうか?」と言いました。哲学者はもちろん怒りました。
そこにはケネディーさんの娘が二人いましたが、伝道者はみんなに説明しました。

「このストロッピー犬は、どんなに利口だとしても、犬は犬だから、ストロッピー・ケネディーになりません。
同じように、私たち人間はどんなに背伸びしても人間ですから、主なる神の生活をすることはできないのであります。
私たちはどんなに愚かでも利口でも、良い人間でも悪い人間でも、生まれつきのままなら主なる神の命を自分のものとすることはできない。神の御子、主イエス様を受けれ、主イエス様を食べなければ、神の命にあずかることはできません。
神の命にあずかることなしに、神の子となることはできません。」

と、伝道者は哲学者に説き聞かせました。哲学者はその日生まれ変わり、神の子となることができたと言うことです。

全人類は、アダムの子孫として神の呪いの元にうめき苦しんでいます。しかし主なる神の永遠からのご計画は、人間がこの状態になることではありませんでした。
人間が神の性質に預かり、神の愛に応え、永遠の命を持つことが神のご予定でした。主イエス様は、多くの兄弟たちの中で長子となるために、神は多くの子らをお認めになっておられました。
神に対する不従順と、神に依り頼まない心から、全人類は神のご予定に反し神ののろいの元に、哀れにも落ちいってしまったのです。このようになってしまった人間に対して、主なる神はなおかつご自分のご予定を、最後まで成し遂げることができるのでしょうか?

前から言っています通り、神様のご予定は永遠からのご予定です。従ってどんなに罪が入ってきても、神の予定は狂うことができません。
私たちの神は、先の先まで全てのことを見通しておられるお方です。何ものによっても、驚かされることのない神であります。
私たちの神は、決して行き詰まってしまってしまうことのない、知恵に満ちたもう神であります。
私たちの神は、不可能を知らない全能なる力の神であります。

今まで、私たちは第一番目の点、すなわち創造における神の予定について考えたのでありますが、今度は第二番目の点、すなわち救いにおける神のご予定、永遠からの神の救いについてのご予定について、お話ししたいと思います。

神の永遠からのご予定のために救いが必要です。残念なことに、大部分のクリスチャンはこのことを知っていません。
主なる神は、人類に神の永遠の命を与えたいのです。主なる神は、人間の堕罪する前から、人間には永遠の命が必要であることを知り、永遠の命を与えようとしておられたのです。
命の木は、人間が罪を犯すその前にエデンの園の中央にありました。人間が罪に陥る前に、主なる神は御子イエス様で表される木の実を人間に差し出すことにより、ご自分を人間にお与えになっていたではありませんか。
ですから、神の永遠の命は罪の赦しを得させる薬のようなものではりありません。永遠から神様が予定されていたことなのであります。

救いにおける神のご予定は、いったい何なのでしょうか。何のために、主なる神は人を救う必要があったのでしょうか。
ふたつのことが言えると思うのです。それはもちろん、いわゆる消極的な面であり、そして積極的な面でありますが、第一番目はアダムが、失ったものを回復するために、元通りにするために。また悪魔の業を滅ぼすために、救いが必要でした。
しかしそれだけではなく、第二番目に、主なる神の永遠からのご予定が成し遂げられるためにも、救いが必要だったのであります。

私たちは今日まで、何回も救いが必要な理由、この一番目の理由について学んで来たのであります。すなわちアダムが失ったものを元通りにするために、すなわち、人類の罪が尊い主の血潮により洗われ、古い人が十字架につけられ、主とともに死にアダムの堕罪以前の状態に回復された。という事実を学んで来たわけです。
主イエス様の血潮と十字架は、アダムによって失われたものを回復する手だてでした。この罪を負う血の力、罪から解放する十字架の力を自ら体験した人は、本当に幸いです。
しかし、まだまだそれを越えて広い所があるのであります。主なる神の永遠のご予定が実現されていかなければなりません。そしてこの神のご予定は、罪と何の関わりのないものです。

あまりよい例でないかもしれませんが、ドイツに面白い童話があります。
ある所にひとりの洋服屋さんがパンを食べていました。パンの上に7匹の蠅がとまっていました。その洋服屋さんは、新聞紙をまるめてふるい落としますと、いっぺんに7匹とも死んでしまいました。その洋服屋さんは、それから背中に看板をぶらさげ、一撃でいっぺんに7匹を殺したと書いて世界中を練り歩き、恐れられた素晴らしい成功を納めたという面白い話がありますが、神は御子イエス様の死によって罪を赦し、罪の力から解放されただけではありません。
この一撃でもって、多くのより素晴らしいことを成し遂げられたのであります。主なる神の永遠からのご予定が成し遂げられたのであります。

しかし残念ながら多くの信者は、主イエス様の死により主なる神のご予定が成就されたという事実を知らないでいます。
父なる神の底知れぬ知恵と、御子主イエス様の御救いを思う時、上からの光によってそれを知る時、ただ御前にひざまずき礼拝せずにはおられなくなります。

私たちの罪が赦され、古き人の力が抹殺される、それよりももっともっと広く偉大な主なる神のご予定が続いています。
主なる神は御子を多くの兄弟の長子たらしめんとし、多くの神の子を求めておられたのです。ですから神は、自らの命を差し出されました。主イエス様が十字架にかかり、裁かれ、私たちの罪の負い目を自ら負われ、私たちの古き人の力を抹殺されました。
そればかりではありません。十字架にかかり、自らの命を死に渡されたのであります。ですから主イエス様の死は、アダムが失ったものを回復するため、すなわち罪の赦しと、罪の力からの解放だけではなく、自らの命を与えることにより、人類に永遠の命を得させるための死であったと言えるのであります。

エペソ人への手紙5:25
25・・・キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、・・・

と、書いてありますが、これはイエス様の死の積極的な面です。主イエス様は私たちの罪の赦しと、罪の力からの解放のために亡くなられたばかりではなく、私たちの永遠の命のためにも亡くなられたのであります。
この事実をしっかりとつかむために、最後に4つの例話を持って考えてみたいと思います。

第一番目は、アダムが眠らされてエバが創られたことであります。

創世記2:21-23
21そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
22こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」

エペソ人への手紙5:25-27
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
26キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

教会とは何であるかと考える時、救われた罪人の集まりであり、その裏には罪が大きな場をしめていると考えます。
神の目から見た教会は違います。教会は御子から取り出したものであり、これは神が永遠の昔から予定されていた所のものであり、罪の陰すら見えない、罪とはかかわりのないものです。
私たちは、今までの学びを通しておわかりになったと思うのですが、すなわち主イエス様の死は、罪に陥り、神なく、望み無く歩む者のために、また神に敵対する者のためであったことがわかるのです。

しかし、先ほどのエペソ人への手紙5章25節を見ますと、イエス様の死は罪のためだけではなく、違ったご目的のためでもあったということがわかります。
キリストは教会を愛して、そのためにご自身を捧げられたと書いてあります。この主なる神の愛を、御霊様は夫と妻の愛にたとえています。エペソ人への手紙5章には、イエス様が罪のために亡くなられたことについては書いていません。教会を建て上げられるためにご自身をお捧げになったことを書いています。
これを説明するために、パウロは創世記2章を取り上げたのであります。創世記3章以下を読みますと、神はアダムとエバの罪を覆うために動物を殺し、その皮を着せたことが書かれています。
引き続いて、アベルとカインの捧げ物の問題、また多くの動物がいけにえとして捧げられたことが書かれていますが、これらはみな主イエス様の死が罪人を赦し、聖めるためであったことを象徴しています。

すなわち主イエス様は、罪人のために亡くなられたという面を語っています。しかし主イエス様の死は、罪のためだけではなかったと教えてくれる箇所が、旧約聖書の中にあります。それは堕罪の前(人が罪に陥る前)、創世記2章です。そしてパウロは、御霊の導きによってこの創世記2章を例に取りました。
神はアダムを眠らせました。もし信者が死にますと、聖書はその死に死んだと言う言葉を使いません。眠ったと言う言葉を使います。

信者は罪を赦され、永遠の命を持っていますから、死んだと言わずに眠ったと言います。アダムの場合そうでした。
アダムが罪を犯す前でしたから、眠ったと言っているのです。神はアダムを眠らせました。罪を犯したからでしょうか、そうじゃないのです。その後で罪を犯した。
エバが罪を犯したためにアダムは眠らされたのでありましょうか。いいえその時エバは、まだ創られていませんでした。眠らされたのは、アダムから何かを取り出して、新しいものを創り出すためでした。

神は、アダムから妻のエバを創り出すためにアダムを眠らせました。アダムの死は、イエス様の死を象徴しています。主なる神は、御子イエス様に花嫁を与えるために、御子イエス様を十字架で眠らせたのです。
もちろん、主イエス様の死は救いのためでもありました。しかし救いは罪の薬にすぎません。救いは、アダムが罪を犯したから必要となったのです。しかし、主なる神の永遠のご予定は、罪から救い、元通りにするといったことではありませんでした。

多くのクリスチャンは、救いだけを考えて、人間は救われるために創られたかのように考えています。アダムは永遠の命を得させる命の木の実を食べませんでした。ですから永遠の命を持っていませんでした。創られた命しか持っていなかったのです。
たとえアダムが罪を犯さなかったとしても、イエス様はどう言う方法によってか知りませんけど、人類に永遠の命を与える必要があったはずです。
しかしアダムは罪を犯しました。ですからアダムが罪を犯す前に必要だったものに加えて、罪の赦しも必要になったわけです。

主イエス様は、自ら命を与えることにより人類の罪を赦し、それに加えてアダムが罪を犯す前に必要としていた永遠の命まで、同時にお与えになりました。
驚くべき神のみわざであります。
ですから信者は、堕罪の前にアダムが持っていたものより、もっと多くのものを持っているわけです。

キリスト者は、永遠の命、神の子、イエス・キリストの兄弟。これら全てのものを持っているわけであります。アダムは、エバが産み出されるために眠らされました。エバは別なものとして創られませんでした。アダムの体から取り出されました。
同じように、主イエス様は死に、教会とともに甦らされました。

教会は、イエス様から取り出されたものであります。主イエス様は十字架に行き、自らを死に渡されましたが、それは傷もしみもない教会を、花嫁を、着飾った花嫁を産み出すためにそうされたのであります。
今まで、アダムとエバについて考えました。

今度は、2番目の例になりますが、一粒の麦が死に多くの実を結ぶこと、このたとえを使って考えてみたいと思います。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

この一粒の麦は誰でありましょうか。言うまでもなく主イエス様のことであります。
神の永遠の命は、神のひとり子である主イエス様の中にだけあります。そしてこの一粒の麦は、土の中に埋められて死んでしまいました。どうしてでしょうか。

それは、他の多くの麦が罪を犯したからでしょうか。いいえ、まだほかの麦はそこにはありませんでしから、そうではありません。
ほかの麦を産み出すために一粒の麦は死んだのであります。ひとつの麦であり、主イエス様は、贖い、罪の赦しを得させるために、十字架で死なれただけではありません。多くの実を実らせるために、自らを死に渡されたのです。

一粒の麦の死は、ほかの麦を贖うためではなく、ほかの多くの実を産み出すためだったのであります。キリストは教会を愛して、そのためにご自身を捧げられたと書いてあります。
一粒の麦は、死ぬことにより多くの麦粒の中で、第一の麦粒となりました。ひとり子主イエス様は、死により多くの兄弟の長子となりました。この事実は、ヨハネの福音書1章、20章を見てみるとよくわかります、

ヨハネの福音書1章14節と、20章17節をお読みします。

ヨハネの福音書1:14
14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ここで、父のひとり子とイエス様は呼ばれていますが、その後20章までの間にイエス様は死んで甦られたのです。

ヨハネの福音書20:17
17イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

1章からずっと、父なる神をわたしの父と呼んでこられましたが、死と甦りの後では、あなたがたの父と呼んでいます。また、信者をわたしの兄弟とお呼びになりました。すなわちひとり子なる主イエス様は長子となられたのであります。
父なる神はいまや多くの子供をお持ちになり、御子イエス様は多くの兄弟をお持ちになったのであります。主イエス様は、わたしの兄弟たちの所に行って告げなさいと言われたのです

ヘブル人への手紙2:11
11聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。

3番目の例話は、主イエス様が洗礼を受けられ火が投じられたことです。

ルカの福音書12:49-50
49わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
50しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。

主イエス様が来られたご目的は、私たちの心の中にイエス様の霊が火となって投じられるためでした。しかし主イエス様が、肉体の形をとっておられた時、イエス様の代行者、御霊様はまだおりませんでした。
私には受けるバプテスマがあると言っていますが、これはイエス様の死を意味しているのであります。これをみますとイエス様の死は、人類の贖いだけではなく、心にご自身の霊を火と降り注ぐためであったことがよくわかります。

主イエス様は、死によって肉の形のイエス様から霊の形のイエス様となられたのであります。イエス様は、いまや私たちにとって私たちの内にいたもうイエス様になられたのであります。
私たちは、火のように燃えるキリストの霊により神の子となりました。

ローマ人への手紙8:15-16
15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

最後に第4番目の例になりますが、ひとの子の肉は命であることについて考えてみたいと思います。
時間の関係で、いま全部読めないのですが、ヨハネの福音書6章32節から58節を読むと、よくおわかりになると思います。

私は天から下ってきた生きたパンである。私を食べるものは、私によって生きるのですと言われたのです。ユダヤ人たちはそれを聞いた時、そんなことはできないと言いました。
もっともなことです。肉体の形を取っておられるイエス様を食し、受け入れることはもちろん不可能です。主イエス様は、自らの命を与えるために死ななければなりませんでした。
イエス様は死と甦りにより、誰もが食べ、受け入れることができる甦りの体、霊の体となりました。

ヨハネの福音書1:12-13
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

主イエス様は、私たちの生活を改善されようなどとは思いませんでした。ご自身の命を私たちに与えたかったのです。

ヨハネの福音書6:51
51わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

主なる神の永遠からのご予定は、人間の内に神の命が宿ることでした。そのために主イエス様は自らを死に明け渡されたのです。

ヨハネの福音書6:57
57生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

イエス様によって生きると言うことは、自分ひとりでは何にもできない、完全に主に依り頼まなければならないということを意味しているのであります。
多くのクリスチャンは、良い信徒は強い人々であると考えています。しかし良い信者は、主によって生きる人達です。
私たちは強くなるために力を受けません。イエス様が、私たちの内に住み宿りたもうのです。
こうなりますと、主よ忍耐を与えたまえ、兄弟を愛する愛を与えたまえ、願うより自らは忍耐も愛もない、内に住みたもう主イエス様よ、あなたが忍耐し、あなたが愛させたまえと言う祈りになります。
これが主による生活です。

すばらしい金持ちがお嫁さんをもらいました。お嫁さんは何にも持っていません。しかし夫によって、多くの財産を得ることができました。
結婚により二人は一体となりました。


創世記2:24
24それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

エペソ人への手紙5:31
31「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

そしてパウロは32節でこう書き記したのです。

エペソ人への手紙5:32
32この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

エバがアダムから取り出され、ふたりはひとつとなったように、教会はイエス様から取り出され、イエス様とひとつにされたのであります。
主イエス様は、聖霊によってマリヤの腹に身ごもられました。

マタイの福音書1:20
20その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

私たちも同じように聖霊によって神によって生まれ変わった者です。

ヨハネの福音書3:5
5イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

ヨハネの福音書1:13
13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

主イエス様と私たちの命の源が同じです。主イエス様が天国で持っておられる命を私たちにお与えになりました。
イエス様は、私たちとともにおられるイエス様だけではなく、私たちの内におられるイエス様になられたのであります。

私たちは今日、神の永遠からのご予定を考えてきました。主なる神の永遠からのご予定は、罪と何の関わりもないということがおわかりになったでしょうか?
主イエス様の死によって、私たちはアダムが堕罪する前に持っていたよりも、もっともっと多くのものを持つようになったことがおわかりになったことと思います。
罪が赦され、古き人が殺されたばかりではなく、神の持ちたもう永遠の命にあずかるものとされたのであります。永遠の命を持つことにより神の子とされ、主イエス様の兄弟とされたのであります。主イエス様を受け入れた者ひとりひとりが、神の家族の一員とされたのです。

私たちは、この世に求めるものを何ひとつ持ち合わせていません。この世に望みを置くものは何もないはずです。
悩みや苦しみを通し、主は私たちの心に天国を慕う思いを起こさせ、全き者として下さいます。

主なる神のご予定は何なのでしょうか。最後に、2、3箇所を答えとして読みたいのであります。

ヘブル人への手紙2:10
10神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。

エペソ人への手紙5:25、27
25夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
27ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

ヨハネの黙示録19:6-7
6また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
7私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

これこそ主なる神の永遠からのご予定です。主なる神が、これに対して私たちの心の目を開いて下さったら、本当に幸いです。




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