御霊とはどのようなお方?


ベック兄

(テープ聞き取り、イエスの救いシリーズ)

この間私たちは、主なる神の永遠のご予定について考えたのであります。
すなわち主なる神はなぜ人間を創られたのでしょうか。主の永遠の昔からの創造における予定は何だったのでしょうか。

第一番目は神の性質にあずかるために。
第二番目に神のご愛に報い応えるために。
第三番目に永遠の命を得るために。

これが、人間が生まれる前から主なる神が持っておられたご予定でした。
次に救いにおける神の永遠からの予定は、何だったのでしょう。

主はどうして尊い血潮を流されたのでしょうか。消極的な面はふたつあります。
すなわち私たちの罪の問題を解決するため。
私たちの古き人、すなわち罪の性質を解決するために、主イエス様は犠牲の死をとげたのであります。

今までに私たちは、この二つの面について詳しく学んで来たのであります。
簡単に申しますなら、私たちは何を成したか。罪を犯した。
罪を消すためには、主イエス様の血潮がある。
それを信じると、罪の赦しの確信が与えられます。

御子イエス様の血は、全ての罪から私たちを聖めます。

詩篇32:1-2
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人

と聖書は言っています。

2番目に私たちは何であるか。罪人である。罪の性質を持つ者である。その解決の手段は主イエス様の十字架であります。
十字架を信じる者は、まことの解放、罪の力からの解放を経験することができるのであります。しかし消極的な面だけでなく、積極的な面もあります。

主イエス様の死はどうして必要だったかと言いますと、アダムが失ったものを回復するため、元通りにするために必要だっただけではなく、主なる神の永遠からのご予定が成しとげられるためにも必要だったのであります。
アダムが失ったものを回復するため、罪の赦しと、罪の力からの解放だけではなく、自らの命を与えることによって、わたしたちに永遠の命を得させるために、主イエス様が死に行かれたのです。
キリストは教会を愛し、そのためにご自身をお捧げになったとエペソ人への手紙に書き記されているのであります。
主イエス様の死によって、アダムが堕罪する前に持っていたものより、もっともっと多くのを持ったのです。

罪が赦され古き人が殺されたばかりでなく、神の永遠の命にあずかる者にされたのであります。永遠の命を持つことにより、神の子供とされ、主イエス様の兄弟とされたのであります。
主イエス様を受け入れた者ひとりひとりは、神の家族の一員をされたのであります。何というずばらしい救いのみわざでありましょう。

どうしたら実際に、イエス様の御姿が私たちの内に形作られてくるのでしょうか。
どうしたら実際に、憧れの勝利の生活に達することができるのでしょう。
またどうしたら、信仰生活が前進するのでしょうか?

これらの疑問の答えは霊的に知ること。信仰の計算をすること。己を神に捧げること。そして4番目に御霊によって歩むことです。
今日は、御霊はどのようなお方であるかについて考えてみたいと思います。

今より数十年前の地図を見ますと、アジア、アフリカ、オーストラリアのある部分が白いままで、地図の説明にまだこの地方は調べ尽くされていないと書かれていました。また、地図によっては都市の所在地もまちまちでした。
クリスチャンの経験においても、白いままの未知の世界がたくさんあります。とりわけ御霊についての知識に乏しいようです。

エペソの信者たちがやはりそうでした。このエペソの信者たちについて、使徒の働き19章1節から7節に詳しく書かれていますが、パウロはが彼らにあなたは信じた時に御霊を受けたかと聞いた時、彼らは御霊なるものがあることさえ聞いたことがないと答えたのであります。
御霊様の世界は、エペソの信者達にとって未知の世界だったのです。
今日のクリスチャンに、「あなたはいつ聖霊を受けましたか?」「御霊様の体験を知っているか?」と聞くと、「御霊様はあなたにとって、現実のお方か?」と聞くと答えられないお方が多いようです。

神は全宇宙の創造主であり、全能で愛に満ちた方と云えます。主イエス様のことも、わたしの救い主と云えます。でも一端御霊様について聞かれると、不確かなぼんやりしたものにしか思えないようです。
御霊様と私たちの間の関係は、私たちの霊的生活、霊的信仰に欠くことのできない関係です。

新約聖書をみますと、初代教会の人々に御霊様は本当に現実的なお方だったことがわかります。初代教会の兄弟姉妹は、御霊様に教えられ、満たされ、導かれていました。ちょっとこの3つの点に関する数カ所を見てみましょう。
初代教会の兄弟姉妹は、第一番目に、御霊様によって教えられたのであります。彼らが御霊様に語りかけられたことは、使徒の働き8章29節、10章19節、13章2節に書いてあります。

使徒の働き8:29
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

使徒の働き10:19
19ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。

使徒の働き13:2
2彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

このような箇所を見ると、初代教会の兄弟姉妹は御霊によって教えられたのであります。

続いて、初代教会の人々が御霊様に満たされたということは、使徒の働きの2章4節、4章31節、13章52節に書いてあります。

使徒の働き2:4
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

使徒の働き4:31
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

使徒の働き13:52
52弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

ほんとに当時の初代教会のクリスチャンたちは、御霊様に満たされ教えられたのであります。

そして3番目に、初代教会の人々は聖霊によって導かれました。使徒の働き15章28節、16章6節から7節

使徒の働き15:28
28聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

使徒の働き16:6-7
6それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

各集会に親しく臨在なさる御霊様、神を信じない者には非常な恐れを抱かせ、すでに救いを預かっている人々には勝利と喜びを無限に与えたのでした。

旧約時代には、御霊様を内に宿していた人々は限られていました。すなわち神に特別に選び分かたれた祭司、王、士師、預言者たちだけでした。新約時代の今には、全ての救われた者が持つことのできる特権です。
神の友であるモーセ。神の御心にとまった人ダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだのと同じ御霊様が、今日の信ずるひとりひとりに内住したまうのです。現代の全ての本当のクリスチャンは、旧約時代に特別に分かたれた神の器と同じ水準に立場に置かされているのです。

ローマ人への手紙5:5
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

「わたしたちに与えられた聖霊」と書いてありますね。同じローマ人への手紙8章9節

ローマ人への手紙8:9
9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

私たちに与えられる全ての賜物は、キリストにあって私たちに与えられます。

エペソ人への手紙1:3
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

ここを読むと、御霊様の賜物は今ここにあるということがわかります。と、エペソ人への手紙1章3節に過去形で書いてあります。
私たちを祝福してくださいました。主の賜物が、キリストにある私たちには、もう私たちのものになっています。しかし、その賜物を個人的に自分で受け取る段階にならなければなりません。

多くの人々は、その賜物を個人的に受け取る前提条件は何かと言います。これに答えるために二つの点に分けて考えてみたいと思うのです。

第一番目は、注がれた御霊様。
第二番目は、内住の御霊様です。

第一番目に注がれた御霊様について考えてみたいと思います。

使徒の働き2:33
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

この聖霊をお注ぎになった、

使徒の働き2:36
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

このみことばの中には、3つのことが含まれているのであります。
第一番目は、イエス・キリストが救いを成し終えて、高く引き上げられたこと。
第二番目に、イエス様は約束の御霊様をお受けしたこと。
そして第三番目に、この約束の御霊を信じる者に降り注がれたこと。

この3つのことが含まれています。

なぜ御霊様の注ぎがあったのか、このみことばを見るとはっきりわかります。
弟子達が祈ったからではありません。主イエス様が高きに引き上げられ、御霊様をお受けになったからです。私たちの場合も、この事実が当てはまります。
もし、私たちが本当に救われているなら、すでに御霊様は私たちの上に注がれているのであり、あれをするから、これをするから、御霊様を受けるのではあ
りません。
主イエス様が高きに引き上げられたことにより、御霊様が注がれたのです。

あなたの罪がいったいどうして赦されたのでしょうか?あなたが熱心だったからですか?そのためですか?あなたが自分の罪を告白したからですか?
そうではありません。主イエス様があなたの罪を引き受けて、あなたのかわりに十字架で亡くなってくださったからです。

あなたはなぜ、新しい命を受けることができたのでしょうか?集会に集まったからでしょうか?聖書を読んだからですか?
違います。主イエス様が甦ってくださったからです。

なぜキリスト者全員が、キリストにあって御霊様を受けれたのでしょうか。あのこと、このことをやったからでしょうか?またはあのこと、このことをやめたからでしょうか。
いいえそうではありません。私たちの主イエス様が、高く引き上げられたからです。

御霊様が降り注がれたことは、主イエス様が高められた証拠です。五旬節は、主イエス様が主の主、王の王として、天に引き上げられた証拠です。
あのナザレのイエス様は、ただ単に自らの意志の十字架にかかったのか。それとも、全人類の救い主として十字架におかかりになったのか。どうしたら知ることができるでしょうか。
私たちの上に注がれた御霊様によってそれがわかるのです。

主イエス様は油注がれたものです。もう一回読みましょう。

使徒の働き2:36
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

主イエス様が高く引き上げられたことにより、あなたは聖霊を受けました。信者として御霊様を受けていないはずがありません。
私たちはどのようにして罪の赦しを頂いたのでしょうか。私たちが集会に集い、熱心に祈ったから、救われたのではありません。主イエス様が、十字架で血潮を流してくださったから救われたのです。
ヘブル人への手紙10章22節に、血を流すことなしには罪の赦しはないのですと書いてあります。救いに至るただひとつの道は、主イエス様の血潮です。
主イエス様の血潮は、あなたの罪のために流されたのだということを知り、認め、それを心から感謝した時に、救われたのです。御霊様も同じ方法で受け入れたのです。

あなたは、主イエス様が高く引き上げられたことを信じました。その時あなたは御霊をお受けしたのです。もしあなたがまことののクリスチャンであり、イエス様の血潮が流されていて、なお罪が赦されていないということはあり得ません。
同じように主イエス様が高められているにもかかわらず、あなたが救われた者として、聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

そう言っても、わたしは何も御霊さまについて経験していないので、立場としては全てが与えられたとしても、実際には御霊様を持ってるとはいえないと言うかもしれません。
もちろん私たちは、個人的にわがものとして、受け取らなければなりません。この素晴らしい賜物を、個人的に自分のものとして受け取るには、神の永遠の事実に私たちの心の目が開かれなければなりません。

私たちは、主イエス様がもうすでに全てを成し遂げられたことを感謝した時に、救いを頂きました。もしあなたが、主イエス様の高められたことを見、それを感謝するなら、御霊様の力を経験するはずです。
主イエス様は、私たちのためにご自分の命を捧げ尽くされたのであります。この事実を心の目で見る時に、救いのためにもがくことをやめるはずです。そして主の救いに自分の身をゆだね、豊かな赦しを頂くことができるのであります。
主イエス様は高められ、御霊様を教会の上に降り注がれました。もし私たちが、この事実を心の目で見るなら、御霊様を下さいと叫び求める努力をやめるでしょう。
もし私たちが、聖書に記されている神の永遠の事実を啓示によって知らされると、主は私たちに信仰を与えて下さいます。そしてこの信仰により、神の事実が私たちの事実となるのであります。

あるまだ若いクリスチャンが、「主よ御霊を私に下さい。」と祈り始めましたが、すぐそれは誤りであると気がつき、「主よもうすでに私の内に御霊様を与えて下さったことを感謝します。」と、祈ったところ、御霊様の力を内に経験しそのクリスチャンの生活が変わって来たということです。

もうおわかりになったのではないでしょうか。すなわち、天の宝を引き出すカギは信仰であるということです。天の宝を引き出すカギは信仰です。
罪の赦しを頂くにも、聖霊を受けるのにも、必要なのは信仰です。主イエス様が私たちの身代わりとなって亡くなってくださったことを知り、信じ、感謝した時に、私たちの罪が赦され、神の御前に義とされました。
主イエス様が昇天された日のことを考えてみてください。主イエス様は地上における33年の間、罪と汚れのこの世に住まれ、十字架の上で救いを成し遂げられ、甦り、昇天され、天に奪われた時、天では言い表せない程の喜びがあったのです。

主イエス様は全ての名にまさる名を与えられ、高く高く引き上げられました。主イエス様は今、天の父なる神の御座におられます。そこから、聖い御霊様を私たちに注いでくださったのです。
ですから、私たちは御霊様を注いでくださいともう祈る必要はありません。2000年前に、一部の人々ではなく全教会に注ぎ、今すでに私たちの内にいます御霊様を心からお受けし、感謝すれば良いのであります。

私たちの所に、まだ御救いに預かっていない方がいて、救いを求めた時、私たちはすでにその人のために救いを成し終えた主イエス様を示し、ともに祈ります。
その時、その求める人は「イエス様はわたしの罪を赦したいのでしょう。わたしの罪をどうぞ 赦してくださ−い。」と祈るなら、私たちはその人が、御救いに預かったとは信じられません。
しかしその人が、「主イエス様あなたは私の身代わりに死に、私の罪を赦してくださいました。感謝致します。」と祈ると、その方の救いの確かさを私たちは認めるでしょう。

けども御霊様についても同じです。あなたが「御霊様を下さい。」と何十年祈っても同じでしょう。しかし、「主イエス様、高くひきあげられて御霊様をお下し下さったことを感謝致します。」と、言って心にお迎えするなら、あなたはその力を自らのものとすることができるのです。

主イエス様は、後になってから主となられるでしょうか。そうではなくて主イエス様は今、主の主としていましたもうお方です。ですから御霊様を待ち望む必要はなく、あなたはすでに聖い神の霊を信者として頂いているのであります。
心の目で神の事実を見て、そこから湧き出る信仰が大切です。すでに主イエス様が高められ、私たちの上に御霊様をお注ぎ下ったことを、心の目で見るなら、私たちはこの素晴らしい賜物を感謝しないではいられません。

御霊を受けるのに必要な条件が、使徒の働き2章38節に書いてあります。

使徒の働き2:38
38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

ふたつの条件と、それに伴う二つの賜物について書かれています。ふたつの条件は悔い改めと洗礼であり、ふたつの賜物は赦しと聖霊であります。
悔い改めとはどういうことかと言いますと、一口で言うなら罪が全く変わるということです。以前には、罪を愛していたけど、今は嫌うようになった。
以前にはこの世は自分にとって魅力だった。しかし今は、この世の快楽は自分をひかない。
以前はクリスチャンになることが恐れであった。でも今は、クリスチャンであり、イエス様のものであることが無情に喜びである。
以前にはあれこれを努力して自分のものとしようとしたが、今は追い求めるのは主イエス様だけとなった。
以前には恥をし、また軽蔑していたものが、一番尊いものとなった。
このような変化を経験した者が、まことの悔い改めをした者ということができると思うのです。

2番目の条件は洗礼(信仰の告白)です。
洗礼は心の信仰の現れで告白です。主イエス様とともに十字架にかけられ、ともに甦られた事を信じる者は洗礼を受けることを求めます。この箇所によると、罪の赦しと聖霊の賜物を受ける条件が、ここまで述べた悔い改めと洗礼にあることを言っています。
あなたは悔い改めて、世人に信仰を告白したでしょうか。もしそうなら、罪の赦しと御霊の賜物を頂いているのであります。罪の赦しを受けているが、二番目の賜物である御霊様は受けていないと言うかもしれません。
しかし聖書は、悔い改めと信仰の告白というふたつの条件を満たすならば、罪の赦しは受けているが2番目の聖霊は受けていないとは云えないのです。
聖書は必ず2つの賜物が与えられるとはっきり言っているのです。

もしかすると、あなたは今日まで罪の赦しという賜物だけを感謝したかもしれません。
1000円で500円の本を2冊買い、1册を本屋に忘れて帰るなら、思い出してそれを取りに行くでしょう。その時もう一度、500円を払う必要はありません。ところが多くのクリスチャンは、せっかく受け取る権利のあるふたつの贈り物とひとつを受け取りません。エペソの信者がそうだったのです。

救いのみことばは受け取っていましたが、御霊様の賜物はまだ頂いていませんでした。もしあなたが、ふたつの条件を満たしていて、御霊様を知らないなら主イエス様の御前に静まり、

「主イエス様よ、私はふたつの条件を満たしながら、ひとつの賜物しか受けていませんでした。あなたは高く引き上げられ、御霊様をすでに注いでいてくださいました。感謝致します」

と言って、御霊様の力を体験的に知るようになります。
私たちは、主イエス様が御座に引き上げられ、全教会の上に御霊様が注いでくださったことを心から感謝し御名を誉め称えたいものです。
もし私たちが単純にこの事実を信じるなら、私たちは贖われたものだけでなく、御霊はわたしの内に生きておられると言うはっきりした確信が与えられるのです。

最語に短く、第二番目の点、内住の御霊様について考えたいのです。
愛する兄弟姉妹よ、私たちの内にある宝がどんなにすばらしいお方か知っているのでありましょうか。私たちの内に宿りたもう御霊様が、神であられることを知っているのでしょうか。
聖霊は単に神の影響、力、感情ではなく、人格そのものであります。聖霊は創造主の神、主イエス様と同じように神そのものです。

聖霊には、真理の御霊、恵みの御霊、命の御霊、約束の御霊、力の霊、愛の霊、節制の御霊、栄光の御霊、きよめの霊、知恵の御霊、啓示の御霊、信仰の御霊、主の霊...などの名前がつけられています。
私たちの内に与えられた、この素晴らしい贈り物をはっきりと認めておきたいものです。私たちは、驚くべき富みを心の内に持っているのであります。
私の内にある霊は、偉大なる人格、偉大なる神であられるのです。私たちの内に宿っておられるお方は、私たちの神です。私たちはもちろん土の器にしかすぎませんが、驚くべき宝、栄光の神を担っているのであります。

コリント人への手紙第I、3:16
16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

このコリントの信者たちは、御霊の現れを重んじて異言や奇跡を追い求めていましたが、キリスト者としての実際生活は実に乱れていました。
御霊の力が彼らの上に働いていましたが、彼らの内に全き働きを成すことができないままでした。これがコリントの信者の実状だったのです。
彼らはもちろん聖霊を受けたが、成熟していなかったのです。

愛する兄弟姉妹よ、キリスト者は神の宮であり、御霊が内に宿っているという知識が、今日のクリスチャンにもどうして必要なことです。御霊によって、神はご自身、わたしたちの内に住みたまいます。もし御霊が、確かに私たちの心に宿っているなら、父ならびに御子イエス様は私たちの内に宿っておられるのです。
これは理論などではなく確かな事実なのであります。

私たちの身に起こるあらゆる問題の解決は、私たちの内に宿りたもう栄光の主にあるのです。この大事実に目が開かれるなら、私たちにはひとつの思い煩いも起きて来ないでしょう。
パウロは、「何事も思い煩ってはならない、主は、近い。」とおっしゃっておられます。
主イエス様は私たちの呼吸する空気よりも身近におられます。主イエス様は私たちの内に住んでおられます。この内に住みたもう主は、私たちの内に住んでおられます。
この内に住みたもう主は、私たちだけではなく全地を揺り動かすことのできるお方です。御霊によって新しく生まれた人々は、誰でも栄光の主を担って歩いているのです。
この驚くべき事実をはっきりと知っておきましょう。

これを知る時、私たちは軽率な行動をとることができなくなります。もしポケットに20円しか持っていないなら、それを無くしてもたいして意に止めません。
しかし200万円を持っていたなら、いつも気にしてポケットに手を入れ確かめ歩きます。あなたの持っている宝はあなたの歩みを定めます。

イスラエルの民が荒野を艱難に向かって旅した時、民は天幕で生活をしていました。ただひとつの中央の神の幕屋で不敬虔なことをすると、死ななければなりませんでした。
幕屋は外から見ると何の変わりもありませんが、神の内に臨在する宮だったからです。

あなたが主イエス様を救い主として信じた時、何が起こったかご存知でしょうか。神が聖霊を通してあなたの心の内に入りたもうて、あなたを神の宮と成したもうたのであります。
主なる神は、昔は天幕や宮に住みましたが、今は生きているクリスチャンの心に住んでいます。神ご自身が聖霊を通して、私たちの心の内に住んでおられるのです。
御霊様が私たちの内に宿っておられ、私たちが神の宮であるという自覚に立つ時、軽率な行動や、自分の喜ぶ生活は、自然に消えて無くなるのです。
どこに行くにも御霊様が伴います。あなたは聖書の知識を運ぶのではなく、神ご自身を運んでいるのです。

ひとつの大きな問題があります。
いったいどうして、聖霊の力を体験している信者はそんなに少ないのでしょうか。それは内に住みたもう内住の主を恐れかしこんでいないからです。
いったいなぜ、信者の間にはそんなに差があるのでしょうか。ある信者は勝利の生活を送り、ある信者はいつも打ちのめされています。主イエス様のご臨在の多い少ないがこの結果をもたらすのでしょうか。
そうではありません。全てのキリスト者は内に御霊様を宿しています。内住の主を心の目で見ると生活が全く変わって来ます。
あるクリスチャンは、御霊様の支配に自分をゆだね、あるクリスチャンは自分が自分の主になっています。信者同士の大きな差が、ある人々は内住の御霊様を主としていない所から来るのです。もっとも大切なのは、主の絶対的なご支配です。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

もし私たちが内住の主を知るなら、自らを全く主に明け渡し、主の支配にこの身をまかせなければなりません。
自分が神の宮であることを知ったその瞬間、自分の体は自分のものでなく神のものであることを知るのです。
私たちは自分に何の権威も持ち合わせていません。私たちは意識して御霊様のご支配に身をゆだねたのでしょうか。もし私たちの心の内で、御霊様が主となっていなければ、御霊様は働くことができません。

私たちも、全てが主の御手の内にまかせられていなければ、御霊様は私たちを導くことができません。
私たちが全てを主に明け渡す時に、御霊様の支配が私たちの内に望み、聖霊がわたしたちの内に溢れ導くことができるのです。
私たちは我とわがものを欲しない。わたしはあなたのほかに慕うものはない。御心のままに動きたい。と、いう主に捧げたゆだねた態度になっているでしょうか。

ある若い伝道者がいました。この人は未信者の女性を愛して、何とかして結婚しようと思い、主よどうか妻として下さいと祈りますが、主の許しがありません。
最後はチベットへでもどごへでも宣教師として行きますから、この女性を妻として与えて下さいと祈りますが、もちろん主は許されません。
最後にこの伝道者は全てを主にゆだねて、その女性を断念した時に主の恵みはその伝道者に注がれ、祝福の伝道生活に入ったということです。
すでにイエス様によって罪を赦された罪人と、まだ罪を赦されていない罪人の間には、大きな差があります。

同じように、自分の身をゆだねたクリスチャンと、御霊様のご支配を拒んでいるクリスチャンには大きな差があります。
私たちは聖霊の力を経験したいと望んでいるのでしょうか。私たちを通して多くの人々が救われることを願っているでしょうか。

私たちは現れを待っている必要はありません。ただ自分が聖霊の宮であり、内に御霊様が宿ってくださっていることを感謝したら良いのです。
聖霊によって満たされる者は、つぎの12の実を結びます。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制

エペソ人への手紙5:9
9光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。

コリント人への手紙第II、3:12
12このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。

主の御霊のあるところには、自由があります
聖霊は真理の霊です。真理の霊として人を悔い改めに導き、へりくだりの心を与え、砕かれた魂を与えます。聖霊は命の霊です。命の霊として、神の霊は私たちを甦らせ、力づけ、解放してくださいます。
聖霊は祈りの霊です。祈りの霊としてそれは、私たちに賛美と礼拝ととりなしの祈りをするように導きます。

どうですか?
私たちは聖霊によって動かされているのでしょうか。聖霊は私たちの考えや行いに臨んで働いているのでしょうか。
聖霊よりも人間のほうが影響を及ぼしているのでしょうか。主イエス様の愛こそ、私たちにとって第一のものなのでしょうか。それともほかにもっと良い目的でもあるのでしょうか。
主イエス様を信じることによって、御霊の賜物を受ける人は割合に大勢いますが、御霊の満たしを受ける人は本当に少ないのです。主イエス様を受け入れた人は大勢いますが、主イエス様とともに歩む人は少ないのであります。
光に来ることだけが大切なのではなく、光の内を歩むことが信者にとって大切なのであります。

また、イエス様の御元にくるだけでなく、主イエス様に留まること、イエス様にあって歩むことが大切なのです。
新しい命を持つだけでなく、新しい命を持って新しい歩みをすることが必要です。
信仰を持って主イエス様に近付くだけでなく、毎日の信仰生活によって、見るところによらず信仰によって歩むことが大切なのであります。
御霊の賜物を持つだけでなく、御霊によって歩むことが大切です。
召しを受けるだけでなく、召しにふさわしく歩むことが必要です。

最後にコリント人への手紙第I、6章19節から20節を読んで終わります。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。




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