私たち、すなわち主イエス様を受け入れた者は、今日まで過ごしてきた時をふり返りますと次のように言えるのではないかと思うんです。 長年の間、神なく望みなくさまよって、何のために生きているかわけが分からなかった。心情には満足がなかった。望みはただ地上の物に置かれ、自分の願いがかなえられたらそれを無上の幸福としていた。 このような時、御子主イエス様が全人類のために成し遂げたもうたみ救いを知った。驚くべき福音を聞いた。 そのうちに、段々自分は救われがたい罪人であり、罪の内に死んでいて、どうしても身代わりに死んで下さった神の御子、主イエス様の救いを受け入れなければならないことを知るようになってきました。 それから、「主イエスよ。私は滅びなければいけない罪人です、あなたは聖なるお方です。願わくは、御子イエス様の血潮によって私の罪を赦し、お救い下さい。」と祈り、イエス様を心の内にお迎えするまでの間、非常な心の戦いがあったことと思うんです。 しかし主イエス様を受け入れた後は、喜びと平安に満たされた幸いな生涯に入れられたことも信じています。 しかしそうしているうちに、あなたは自分の罪が赦されたが、自分の内に依然として罪が残っていて、いつもいつも同じ罪を犯してしまうことに気づかれたと思います。 主イエス様は、私たちの罪ために亡くなられたばかりでなく、私たち罪人のためにも亡くなられたのです。私たちの罪が消し去られたばかりではない、私たち自身も古き人はイエス様とともに十字架に付けられてしまったのです。 これが分かった時のことは終生忘れることのできない一つの大きな経験でした。これが分かった時、自分はキリストととに死に、ともに甦らされたという驚くべき知識が、続いて自分のものとなってきたのであります。 そのとき同時に、自分はもうすでに己のものではなく、尊い血潮に贖わられたがゆえに、主のものであるということが分かりました。その結果、全身全霊を主イエス様に捧げ、イエス様におゆだねするようになりました。 私たちの大部分の人々はこのように信仰の道を進んでこられたと信じております。 主イエス様はこんな私たちのために、驚くべき救いのみわざを成して下さった。自分はイエス様のために尽くしたいという願いが沸いてきました。 またさらに進んで、主に喜ばれることとは、主のためにあれやこれやを成すことではなく、主のみ心をたずね求めてそれに従がうことである、ということも分かってきました。 真の献身者は主のみ心を成す人です。主イエス様と同じように、私の思いではなくあなたのみ心がなりますようにと願う人、また主イエス様の母マリアのように、みことばの通りになりますようにと願う人が真の献身者です。 ところが、何をするにも主のみ心にかないたいと願ってるにもかかわらず、なお自分の心のどこかに、それをとどめようとする何者かがひそんでることに気づき始めました。 それを発見した時、今までの経験を疑い始めました。はたして自分は主イエス様とともに十字架に付けられた、あの示しは間違いだったのだろうか。いや確かにあれは教えられたことだ。それでは主イエス様に全てを空け渡さなかったのだろうかと疑います。 しかし、確かに自分の生涯を主に空け渡した、それでいてなお、自分の内に神に反する分子がひそんでいる。ただ主イエス様だけに仕え喜ばれたいと願えば願うほど、そのたびに失敗してしまいます。 そのような時、あれが罪だったんだろうか、これが不従順だったのだろうかと思いめぐらし、それを主に告白し、勝利の生活に入ろうとします。 しかし祈って立ち上がるや否や、また失敗して敗北の生活に入ってしまいます。この前、主にこの身をお捧げしたのは完全でなかった。今から改めて、再びこの身を主にお捧げしようと言います。 しかしそれも無駄で前と変りがありません。ローマ人への手紙7章18,19節に、パウロが叫んでるように、私たちも叫ぶようになるまでくり返すでしょう。 ローマ人への手紙7:18-19
ここまでの信者の霊的戦いが、ローマ人への手紙7章に全部含まれて書かれています。すなわち、おきてからの解放につて書かれています。 三つの点について考えたいと思いますが、 第一番目は、おきては私たちに何を教えてるか。 第二番目に、おきての終りであるキリスト。 そして第三番目に、自分をみかぎることの祝福。 この三つの点についていっしょに考えたいと思います。 第一番目は、おきては私たちに何を教えているのでありましょうか。 神のおきてはモーセの十戒にまとめられており、主イエス様はそれを山上の垂訓で説明しております。 さらに神のおきてを主イエス様がまとめてひと口で言われたみことばが、マタイの福音書22章36節から40節に書いてあります。 マタイの福音書22:36-40
おきては私たちに何を教えてるのでありましょうか。ご存知のように私たちは、あるものがどれだけの長さがあるか計るため、ものさしを使います。同じように、私たちは何が正しいか何が悪いか知るために神のおきてを用います。 今日の世界を見ますと、善悪を計る尺度が人間の頭になってしまっています。その結果国々の間では争いがあり、また人々の間にも不和と不一致があります。 茨城県の那珂湊に住んでいたころのできごとですが、ある時近所の八百屋さんに、新しく雇われてきた小僧さんが買い物した時、これは大体いくらですと言って品物をくれました。普通の値段より安く、大体見積もってくれるなら幸いですが、大体見積もられて払ったお金の半分くらいしか品物をもらえなかったら大変です。 しかし多くの人々は、この大体という言葉で物事をあいまいにしてしまいます。罪についても、大体これくらいならいいだろうと、ごまかしてしまいます。 人が善悪を判断する時、大体くらいの判断しかできません。神様の場合は全く違います。このゆえに、神様は人々にはっきりとした秤として、おきてを与えて下さったのです。 おきては、神が私たちの真の姿をみられるごとく、私たち自らの姿をみることのできる唯一の鏡です。すなわちおきてによって、罪が映し出されます。 ローマ人への手紙7:7
ローマ人への手紙3:20
と書きしるされています。 私たちは自ら進んでこの鏡の前に立つでしょうか。また鏡の前から身を隠すでしょうか。 ダビデは自らの姿を映し出していただくために、あえて神に鏡の前に立ちました。 「神よ。どうか私を探って、わがこころを知り、私を試みて、わが諸々の思いを知って下さい。私に悪しき道のあるかないかをみて、私をとこしえの道に導いて下さい。」と詩篇で祈っています。 ダビデのように鏡の前に立つには、何とかして真理を知りたいという飢え渇きがなければできない相談です。 多くの人々は、半分暗闇の中に入っていて、光に来ようとしません。裸のままの姿で主の前に立つことはしません。かって主イエス様は光に来ない人を嘆いて、ヨハネの福音書3章19節と20節のように言われましたが、今日多くの人々は同じです。 ヨハネの福音書3:19-20
と書いてあります。暗黒の中に住み続けたいと願うのは、本当に恐ろしいことです。 このような人々は、やがて神の御前に立たたされた時、目が覚め自らの滅び行く様を見て恐れるでしょうが、その時はすでに遅すぎます。 ガンの患者が、医者の忠告を聞かず生活を享楽したいために、好きなことをするなら恐ろしい結果になってしまいますが、神のおきてに耳をかさない者は、なおさら恐ろしい結果になってしまいます。 しかしおきては、いつも私たちの罪・咎をあばきたてます。おきての光に照らされると自分は罪人だ、自分は咎ある人間だと叫ばなければなりません。 ガラテア人への手紙3:10
と書いてあります。神のおきては神によって与えられたものですから、聖なるものであり、正しくかつ善なるものであります。 ローマ人への手紙7:21
と書いてあります。すなわちおきてそのものはよいのですが、おきてを守らなければならない人間は罪を犯し、守り得なくなってるんです。 東京の全都民に2,000円ずつの税金を課するということは正当な良いおきてでしょう。しかしただ20円しか持っていない人にとっては、このおきてを守ることができません。 多くの人々は一見したところおとなしい、良い人のようの見受けられますが、誰かに何かを言いつけられますと、すぐに不機嫌になってしまう人がいます。 小さい子供さんたちをみますと、人々は可愛い、可愛いと言いますが、ひとたび何か気に入らないことを言いつけますと、首を振って言うことを聞きません。私たちも、これと全く同じです。 私たちの生まれながらの性質は罪です。「おきてはこの罪の性質が現されるために、神によって私たちに与えられました。」もう、一回言いましょうか。「おきてはこの罪の性質が現されるために、神によって私たちに与えられたんです。」 すなわち、偶像を拝むなかれ、姦淫するなかれ、偽証するなかれ、心を尽くして汝の神を愛せよ。次に汝の隣人をおのれを愛するごとく愛せよ。 このように私たちの罪の性質があらわれるために、おきてが与えられているのであります。 何とかしてこのおきてを守ろうとする人は、やがて自分が罪人であり、どうしてもおきての全部を行なうことができないと知るに至ります。 主なる神は、私たちが足の先から頭のテッペンまで罪に染み、汚れはててることをよくご存知です。ところがこのみにくい真相を、人間が知らないでままでいるということが問題です。 おのれの真相を知るために、主なる神は私たちにおきてを与えて下さいました。主なる神は私たちがおきてを守ることができないことを知っておりながら、私たちにおきてをお与えになりました。 実は、神は私たちがおきてを破るために、おきてをお与えになって下さったのであります。おきては罪が増し加わるたびに与えられました。 ローマ人への手紙5:20
と書いてあります。パウロも、このことを体験しています。 ローマ人への手紙7:7
と書いてあります。 神のおきてによって、私たちの本当の性質があらわにされます。 そして自分は徹底的に罪にまみれ、汚れはて、このままではどうしても聖い神のみ心にかなうことができないということを教えてくれます。 私たちはすでに、この段階を到達したでしょうか。主なる神はおきてを人間にお与えになった時、多分人間はおきてを守ることができるかも知れないとはお考えになりませんでした。必ず与えるおきてを人間は破ると知りながら、私たちにおきてをお与えになったのであります。 もし私たちがおきてを守ることができない無力さを、徹底的に知らされた時、おきての役目はそれで果たされたことになるのであります。 すなわち、おきては私たちをキリストに導く養育係であるとパウロは言ってます。 ガラテア人への手紙3:24
もう一度、お読みします。 ガラテア人への手紙3:24
私たちはおきてによってキリストに導かれる時、今まで守ることのできなかったおきてを、主イエス様ご自身が守らしめて下さるのであります。 次に第二番目の点、すなわちおきての終りであるキリストについて、いっしょに考えてみたいと思うのであります。 ローマ人への手紙10章4節にによると、イエス・キリストは、おきての終りであると書いてあります。ローマ人への手紙7章は、6章14節の説明です。 ローマ人への手紙6:14
おきてからの解放が問題です。 解放とはより高いものに結び付けられることです。束縛とは低いものに結び付けられるものです。ヨハネの福音書8章36節に、イエス・キリストは次のように約束して下さったのです。 ヨハネの福音書8:36
ですから自由です。イエス様にしっかり結び付けられることは、真の自由を得たことになるのであります。 恵みとは一体何でありましょうか?おきてとは何なのでしょうか? 恵みは私たちに御子、イエス様を与えて下さり、イエス様が私たちの内に住みたまい、おきてを守って下さり、真の自由を与えて下さったことに表れています。 これに対し、おきては私が主のために何かをやることであり、おきてを自分の力で守ろうと試みる、そして主に喜ばれようと努める、この態度はおきてにある態度です。 しかしこの結果はどうでしょう。主のみ心を知りこれを行ないたいと願いますが、いつも失敗に終わってしまいます。 ローマ人への手紙6章では、罪からの解放について書いてあります。そして例えに、主人と奴隷が使われています。罪と罪人の関係は、主人と奴隷の関係であると聖書は言ってます。 ローマ人への手紙7章では、おきてからの解放について語られています。そして例に、夫と妻が挙げられています。おきてと罪人の関係は夫と妻の関係です。 これを少し考えてみましょう。 ローマ人への手紙7章に、一人の婦人と二人の男がでてきます。 婦人は今、あまり好きでもない男と結婚しています。もう一人の男の方をよほど愛してます。しかし残念ながら、一人の夫しか持つことができません。 結婚してる夫は別に悪い人ではありません。ただ相手が、間がうまく合わないだけです。夫はいつも曖昧なことが嫌いです。この妻は何でも曖昧にしておきたいんです。このように二人のやり方が違いますから、幸福にうまく暮らすことができません。 夫は非常にきびしいのです。いつも妻にこうしなさい、ああしなさいと要求します。しかし、夫は夫として当然のことを言っているだけであって、別に間違ったことを妻に要求するわけではありません。悪いのは妻が夫に聞き従がい得ないことです。 このようにして行くうちに、二人の間に食違いが出てきます。妻は自分の欠点をよく知ってます。何とか夫に従がいたいとするのですができません。妻の言うこととやることは、原則として間違いばかりだからです。 妻は絶望してしまい、ほかの夫を求めます。ほかの意中の男は、今の夫のように曖昧を嫌い厳しい人ですが、ただ大きな違いは妻に命令することを、自分自ら助けて、いっしょにやってくれるということです。 何とかしてこの新しい人と結婚したいのですが、残念ながら今の夫が生きているうちはできません。 パウロはこれをローマ人への手紙7章で、おきてと人の間をあらわす例話に用いてるのであります。 第一の夫は神の戒め、おきてであり、妻は何とかして神のみ心にかなおうと努めるが、できないでため息をついている私たちであり、第二の夫はおきてを私たちの内にあって行わせしめてくれる、主イエス様を表してるのであります。 おきては、私たちの内にいろいろなことを要求しますが、私たちを助けてくれません。しかし主イエス様はおきてより以上のことを要求されるお方ですが、私たちの内に住みたまい、ご自身で私たちを助け要求を行なって下さるお方です。 だから、妻は今の夫と離れて二番の男といっしょになりたいと願うのです。妻の願いは、一日も早く今の夫が死んでしまうことです。夫が死なない限り決して結婚は解かれません。妻が夫が元気でいっこうに病気にならず死にそうもないのを悲しく思います。 マタイの福音書5章18節に、イエス様は有名な説教の中で次のように言われたのであります。 マタイの福音書5:18
これをみますと、おきてである第一の夫は決して死なない、永遠に生きることがわかります。どうしても私たちはおきてを守らなければならないことがわかります。 しかし、私たちはどうしたら第二の夫である主イエス様と、一つになることができるのでありましょうか。ローマ人への手紙7章1節から3節までをみますと、 ローマ人への手紙7:1-3
はじめの夫が死んだら、第二の夫と結ばれてもよいと書かれていますが、 ローマ人への手紙7:4
夫の死ではなく妻の死、すなわち私たちが死ぬことが書かれています。 おきては永遠にとどまります。しかし私たちがおきてに対して死ぬなら、おきてから自由な身となることができるのです。 どんなおきても死んだら、その人の身におきてとしての力をおよぼすことができません。 第二次世界大戦の時ドイツの空軍大臣であったヘルマン・ゲーリングは、終戦後死刑を宣告されましたが、しかし執行される前に毒を飲んで彼は死んでしまったのです。ゲーリングの死刑という判決は自然に消えてしまったわけです。 同じように、神の戒めから解放されるには私たちが死に切らなければなりません。もし私たちが死ぬなら、第一の夫がどんなに命令しても、私たちは何の関わりもありません。 そこで問題なのは、それではどうして死ぬかということです。死に方がローマ人への手紙6章4節に書かれています。 ローマ人への手紙6:4
もう一回、お読み致します。 ローマ人への手紙6:4
コリント人への手紙第I、1:30
と書いてあります。すなわち、神は私たちをキリストの内に置きたまいました。 ですから主イエス様が亡くなった時、私たちもともに死んだのです。それとともに主イエス様が甦った時、私たちは主イエス様にあったがゆえに、ともに甦らされたのです。 ローマ人への手紙7:4
と、書いてあります。 すなわち死によって妻は第一の夫から解放され、第二の夫と結婚することができます。 ローマ人への手紙7章4節に「あなたがたが他の人のものとなるように。」と書いてありますが、この他のもの、すなわちイエス様は、自分が命令したことを自ら成し遂げる力を持っています。 第二の男と結婚した結果は、一体どうでしょうか。それまでため息をつき悩んでいた妻は、豊かに神のために実を結ぶようになります。 他の人と結ばれて、神のために実を結ぶようになる。妻の内に宿った主イエス様のよにがえりの力、甦りのいのちは神の実を結ぶ力です。 もう妻は努力しておきてを守り、神に仕え、神を喜ばせようとする必要はありません。内に宿りたもう主イエス様ご自身が、全てのことをなさしめて下さるからです。そして主がなさることはいつも神に喜ばれます。 コリント人への手紙第IIの11章2節にパウロは次のように書きしるしたしたのであります。もうすでに福音にあずかった人に向かって書いたのです。 コリント人への手紙第II、11:2
乙女が結婚すると何が起こるでしょう。普通夫の名前をなのります。それだけではなく、夫の持ちものも自分のものとなります。 もし私たちがキリストのものになると、同じことが起こります。私たちはキリストの名をなのり、主イエス様の持てる全てのものを自分のものとするようになるのです。 もし主の持ちたもう全てのものを持っているという確信に立つなら、神のご命令に従がうことが簡単なことです。ですからヨハネは次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、5:3
神の命令とは重荷とはなりませんと、ヨハネは告白しています。 最後に短く第三番の点、すなわち自分をみかぎることの祝福について考えたいと思います。すなわち霊的破産のもたらす祝福について考えたいと思います。 ある兄弟が勝利の生活を願い、非常に悩み、他の兄弟にどうして自分はこんなに弱いんだろう、私はどんなに努めても勝利の生活に達することができないともらしました。 すると相手の兄弟が言いました。 「君が主のみ心にかなう生活をしたいと願ってることは幸いだ。そして努力してもできないということを知ったことはいいことだ。 しかし君は弱い弱いと言うが、まだ弱り切っていない。もし本当にて徹底的に弱くなりきるなら、少しも試みられないはずだ。 もし弱くなり切ったら、君の成すことがはじめから終りまで主が成して下さるだろう。」と。 私たちもみな『自分は何もできない、全く弱い存在だ。主よ、どうか私たちのために全てを成して下さい。』という点までこなければなりません。 水に溺れる人を助ける時、溺れている人があばれる元気があるうちは助けることはできません。自分で動ける人を助けに行くと、助けに行った方もしがみつかれていっしょに溺れてしまいます。しかし弱り切った時、全くもがく力がなくなって簡単に助けることができます。 同じように、主は私たちが、あの夫に愛そうと尽くした妻のように、全く自ら努力をするのをやめ、霊的に破産するのを待っておられます。」 私たちはしばしば、自分には主に仕える力があると考えます。そのような時、全然十字架の意味を知っていないことになります。愛するみなさん、十字架は私たちに対する神の判決です。私たちは十字架の刑が一番適しているのです。主に喜ばれたいと願って自らする努力は、ローマ人への手紙7章14節に「自分は肉に付ける者である。」 ローマ人への手紙7:18
ローマ人への手紙8:8
のように、肉にある者は神を喜ばせることはできませんという自覚をもたらしましょう。 ローマ人への手紙7章1節から3節までの妻、ローマ人への手紙7章15節から19節までの、パウロは主を喜ばせたいと願った、やったんですけど反対のことしかできませんでした。 このようなことを、私たちはもうすでに経験済みでしょうか。私たちは神を喜ばせたいと願ってやりますが、実際には己、人を喜ばせるためにやってしまいます。祈ろうとすると眠くなり、聖書読もうとすれば気が進まないという状態です。 パウロがローマ人への手紙にいた、この時代の殺人の罪に対する刑罰は、死人の体を自分の身に背負って歩むと言う恐ろしい刑罰でした。 パウロは、自分自身ちょっとこの恐ろしい刑罰を受けた者だったとここで言ってます。死人が自分の体から離れず、自分がどのようにしても解放されそうもない、哀れな自らの姿を嘆いています。 パウロは、 ローマ人への手紙7:24
と叫んでいます。 この、主に向かっての叫びは神の喜びたもう叫びです。これが人が成しうる、もっとも霊的な叫びです。 これは、人が全く自らをみかぎった時、霊的に破産した時、はじめて魂の底から出てくる叫びです。 私たちは、すでに自分自身に絶望したでしょうか。それとも祈ることにより、みことばを学ぶことにより、よりよいクリスチャンになろうと努めてるのでしょうか。 パウロはいろいろなことが私たちを救うとは言っていません。ただイエス様だけが救いうるお方であると言ってます。 パウロは前に、自分でことを解決しようと努めましたが、最後にそれができないのを知り、自らの努力をやめたとたん主の祝福が注がれました。 パウロはその時ローマ人への手紙7章25節に、喜びの声を上げています。 ローマ人への手紙7:25
と言っています。 私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたでしょうか。祈りによってでしょうか、みことばを学ぶことによってでしょうか、また懺悔によってでしょうか。 そうではありません。十字架を仰ぎ、主がそこで私たちのために何をして下さったかを知ったからです。 それでは、私たちはどうしたらおきてから解放され、主に喜ばれる生活をすることができるでしょう。 あれをやり、これをやりし、あれをやめ、これをやめではなく、内住の主イエス様をこころから信じ、感謝し、主に全てを成していただくことによって、全き解放と主に喜ばれる歩みを成すことができるのです。 罪の赦しは、主イエス様がなさったことを単純に信じ、感謝することによりいただけますが、おきてからの解放は、主イエス様が、今私たちの内で成して下さることを単純に信じ、感謝することによっていただくことができるのであります。 ドイツの歌で、次のような歌があります。 かつて、私は聖き生活ができないと思った。 なぜなら、自分の力で聖くなろうと努めていた。 しかし、今は主が聖きをあたえて下さった。 主、ご自身、私の内に全てをなさって下さる。 かつて、私は自分で親切になり、愛にあふれ、 柔和であろうと努めた。 しかし、今は主イエス様が私の内に住みたまい、 私をご自分の御姿に変えられようとしておられることを知った。 かつては、時々刻々、勝利の生活が送れるとは、 夢にも思わなかった。 しかし、今は、主、自ら、わが家に住みたまい、 私の歩みを勝利にたもたれることを知った。 かつて、私は主の内にとどまり、 主に喜ばれるようと、必死に努めた。 しかし、今は、主、ご自身の内に、 みわざを成すままにしている。 このようにして、私は主にあり、主は私の内に入りたもう。 ローマ人への手紙8:37
そしてパウロは ピリピ人への手紙4:13
私たち、ひとりびとりも、同じように言うことができれば幸いです。 |