ガラテヤ人への手紙から、2ケ所お読みしたいと思います。 ガラテヤ人への手紙5:16-18
ガラテヤ人への手紙5:24-25
今日は、キリスト者としてどうしても知っておかなければならない、御霊による歩みについてともに学んでみたいと思います。 キリスト者の歩みについて考えると、二つの歩み方があります。一つは肉による歩み、もう一つは御霊による歩みなのです。 主イエス様を自分の救い主として受け入れれば十分だ、と考えている人はたくさんいますが、主イエス様はそれでは十分ではなく、御霊による歩みをしなければならないと教えています。 ローマ人への手紙8:8-9
と、書いてあります。 かつて主イエス様は地上におられた時、主イエス様といっしょに歩んだ弟子たちは、すばらしい主のみ力を目で見、耳で聞き経験しました。 主イエス様といっしょに歩いている弟子たちは、どんな困難がやってきても行き詰まったことはありません。欠乏を知りません。 病気の悩みはともにいる主イエス様が、御手によって全部癒されました。どんなにイエス様の敵が向かってきても、主イエス様の前では手も足もでませんでした。 今日の私たち、キリスト者にも、この主イエス様の力が現実のものとならなければなりません。また主と一つになるならば、現実のものとすることができるのであります。 私たちのあらゆる問題は、主によってまったく消え、主のみそば近くにはべることにより、神の臨在の平安が私たちの心を支配し、限りない主のみ力が私たちの内を満たして下さいます。 あるとき、主イエス様は弟子たちに、 「私はやがて天に帰る。しかし私の代わりに私はあなたがたに助け主をあたえる。それはあなたがたを導き、力づけるでしょう。私が天に行くことは、かえってあなたがたのために益である。」 と、言われました。 弟子たちはこれを聞いて驚きました。五旬節に、弟子たちはイエス様が約束された御霊の降臨を受け、御霊様に満たされました。弟子たちは神の宮となったのであります。聖霊を内に宿す者となったのであります。 同じように、御霊様は私たちの内にも宿っておられます。次のみことばは、私たちにもあてはまるみことばであるはずです。 コリント人への手紙第I、3:16
コリント人への手紙第I、6:19-20
と、書いてあります。 生けるまことの神が私たちの内に宿っておられるのですから、私たちはこの世における一番の財産家と言わなければならないのであります。 ところで今日の問題は、御霊様を宿してはいるがはたして私たちは肉によって歩んでるか、または霊によって歩んでるかということです。 聖書に書いてある御霊による歩みを、私たちはすでに自分のものとして実行してるのでありましょうか。 主なる神の一番喜ばれる私たちの叫びは、「主よ、私はあわれな存在です。どうか救って下さい。」という叫びであると、聖書は言ってます。 もしここまで主の御前に砕かれるなら、御霊様による歩みに入ることはそう難しくありません。人間の目から見ると、全く打ちのめされたあわれな状態が、主なる神の目から見ると解放のよいチャンスに見えるのであります。 今から3つの点に分けて、いっしょに学んでみたいと思います。すなわち、 第一番目は、霊肉の戦い。 第二番目は、いのちであるキリスト。 第三番目は、聖霊の法則。 まずはじめに、霊肉の戦いについて考えてみたいと思うのであります。 愛するみなさん、なぜ信者の間にこうも違いがあるのでしょうか。同じみ救いにあずかり、同じ御霊様を受けていながら、ある人々は霊的であり、ある人々は肉的であります。そのわけは、どのクリスチャンも二つの性質をもっているからです。 霊的なクリスチャンは肉に打ち勝ってるのであり、肉的なクリスチャンは肉に打ち負かされてるのであります。 これが私たちキリスト者の間にもみられる違いの原因なのであります。 この二つの性質をもっているということを、私たちは経験によって知ってると思うんです。 心の内に二つのおきてがあり、一つは罪に引き込もうとし、一つは主イエス様に私たちを引き上げ、高めようとします。 一つは古い罪のアダムの性質であり、もう一つは新しい霊的なキリストの性質です。 生まれながらの性質は罪しか犯すことができません。それは魚が水の中でしか生きることができないように古き性質は罪の中に溺れてるのであります。 そしてこの古き人は神を知らず、神に従がわず、神に喜ばれません。この性質は、私たちクリスチャンの中にも死ぬまで残ってるのであります。 しかし、私たち信者の内には主イエス様を受け入れることにより、罪を犯すことのできない、全く新しい性質も与えられてるのであります。 この新しい性質は神を認め、神に従い、神に喜ばれる性質であります。この新しい性質は、聖霊によって与えられるのであります。 キリスト者は生まれながらの性質をもっているのであり、そして聖霊によって全く新しい性質ももっているのですから、霊肉の戦いがはじまります。 多くのクリスチャンはこの戦いを戦って疲れ、勝利の生活は不可能であると言って絶望してしまいます。またある人々は戦いをやめて、この世を愛する者になってしまいます。 パウロのように、ローマ人への手紙8章1節と2節の勝利の声を上げる人はきわめて少ないようです。 ローマ人への手紙8:1-2
どうしてこのように勝利の声を上げる人は、そんなに少ないのでありましょうか。それはどういうわけでしょうか。 それは多くのクリスチャンは、肉の性質はよいところが一つもないということを深く知っていないからです。私たちは、たましいの中核から全体、隅から隅まで全く罪にまみれてる存在です。 ローマ人への手紙7:18
これは、立派な人格者であるパウロが告白です。 私の内に善が住んでいないのを知っています。肉による歩みとは、自らの力で何かすることであり、そのように続けると主イエス様の勝利を自分のものとすることができないんです。 主イエス様の勝利は、私たちが御霊によって歩んでる時にはじめて経験することができます。 御霊による歩みとは、内に住みたもう御霊様に、「自分は何もできません。あなたに全てをおゆだねします。」と言って、内住の主に全てをゆだねて歩む歩みを言います。 そのとき主を認め、主に従い、主に喜ばれる生涯を送ることができるのであります。 私たちはまだ自らの力に頼り、肉によって歩んでるのでありましょうか。もちろん主に仕えるには、よい肉をもって仕えるでしょう。パウロが生きていた時代の伝道者がそうだったようです。ピリピ人への手紙から2、3お読み致します。 ピリピ人への手紙1:17
ピリピ人への手紙3:2-3
ピリピ人への手紙3:18-19
この個所を読むとわかります。それがよい肉であっても、悪い肉であっても、生まれながらの肉であるかぎり主の御前には厭うべきもの、嫌わるべきもの、憎むべきものなのであります。 多くのクリスチャンは、自分で意識しないかもしれませんが、自分の力で、自分のために、自分によって、いろいろなことをやってます。 主イエス様は私たちの身代わりに死に甦り、そして高く御座に昇りたまい、そこから私たちに聖き神の霊をお注ぎ下さいました。 それは私たちを代えて、御霊様により主のために、御霊を通して全てのことを行なうようになるために、私たちが御霊様によって歩むようになるためだったのです。 何かことが起こると主の前に行き、「私は何もできません。あなたは私の内にある柔和であり、謙遜であり、愛であり、全てですから、どうかあなたがこのことに解決をあたえて下さい。」というのが、御霊によって歩む人の特徴であります。 私たちは時には、次のようなことを経験したかも知れません。自分の生まれながらの性質を恐れて、何とかしてそこから抜け出したいと考え、全く主におゆだねして、全くまかせ切ります。 後から気がついてみると、知らずのうちに古い性質が出ないですんでた、このような経験をなさった方がいるかも知れませんが、もしそれが一時的であるのなら、御霊による歩みとは言えません。 常に古き人に打ち勝って行ってはじめて、御霊様によって歩んでいると言えるのであります。 御霊様の歩みに入りますと、勝利のために戦うことが終り、勝利の内に休むことができます。内住の主に全てをおゆだねし、主に全てをしていただくという任せきった生活が御霊による歩みです。 出エジプト記14章13節と14節にも、そのような歩みがみられます。ちょっとお読み致します。 出エジプト記14:13-14
イスラエルの民は、自分で何かをなそうと努力しません。主が何をなしたもうかを、ただ主にゆだねて見てるだけでした。 前に日本と支那、中国のことですが、戦った時、日本兵は戦車を沢山使いました。支那の兵隊は何とかして戦車をだめにしようと考え、狙撃兵を組織し、面白い戦法を考えました。 日本の戦車がやってきますと、一発撃ちます。すると戦車は立止まって、どこから弾がくるか見極めるようとします。 そのうちにしばらくたって、また一発撃ちます。そのうちに戦車の中にいる兵隊が面倒くさくなって、戦車から首を出し、弾のくる方向を見定めようとして出てきます。そこを狙って人を撃ち殺し戦車を分捕るという戦法です。 これと同じようにサタンが用いる戦法は、いつもクリスチャンの己を外に出させようとすることです。サタンの手にのり、うっかり自分を高めると、また自分で何かをやろうとすると失敗して打ちのめされてしまいます。 もし私たちが無力になって、何もやらないと御霊様が代わりにやって下さいます。そのときはじめて勝利の生活を送ることができます。 ですからパウロは、前に読みましたガラテヤ人への手紙5章16節、24節、25節で、信者たちに御霊による歩みをするようにと、切に願って勧めているのです。 御霊による歩みとは、戦いが止み御霊様が私たちの内に、また私たちを通してなされるみわざを見て生活することを言います。 次に短く第二番目の点、すなわち我々のいのちであるキリストについて考えたいと思いますが、パウロは霊肉の戦いが終わった時、私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝しますと喜びの声を上げています。 ローマ人への手紙7:25
これと同じ意味をもっているみことばが、ガラテヤ人への手紙2章20節にあります。 ガラテヤ人への手紙2:20
パウロは、キリスト者のいのちは主イエス様のいのちであるべきだと言ってるのです。 キリスト者のいのちは、今まで持っていたいのちよりましないのちではなく、御霊様によって新しくあたえられた主イエス様のいのちでなければなりません。 私ではなくキリストが私の内に生きておられる、これは勝利生活の秘訣であります。 新しく生まれるということは、良くなったことではなく、主イエス様ご自身が御霊様によって私たちの内に入ったことを意味しているのであります。 しかし内に与えられた、この新しいいのちはそのままであって良いのではなく、いよいよ成長して外に現されていかなければならないのであります。 この点が、パウロはガラテヤの信者たちに欠けてるのを知り、彼らのために苦しんでしたのであります。 ガラテヤ人への手紙4:19
と、書いたのであります。 あるところにクリスチャンの夫婦がいて、子どもたちを持っていましたが、その教育に心を悩ませていました。 自分たちには、教育するには余りにも忍耐が足りな過ぎると考えていました。そこで伝道者を招き、子のために祈ってくれるように頼みました。 するとその伝道師は、ふたりに「祈っても多分聞き届けられないでしょう。」と言いますと、ふたりは驚いてそのわけを尋ねますと、伝道者の言うのは、「あなた方が必要なのは、忍耐ではなく主ご自身だ。忍耐、謙遜、柔和、愛、それらはバラバラに与えられるものではなく、主ご自身を内に宿す時、ともに与えられるものだから。」と、言いました。 私たちが主に宿っていただく時、私たちの必要な謙遜、柔和、愛、節制、その他あらゆる徳は主イエス様のいのちとともに、私たちの内に与えられるのであります。 永遠のいのちとは一体何でしょうか?すなわち主イエス様ご自身なのであります。 ヨハネの手紙第I、5章11節、12節に次のように書きしるされています。 ヨハネの手紙第I、5:11-12
一口で言いますならば、主イエス様はいのちであり、聖さであり、謙遜であり、愛であられます。 聖さとは何んでしょうか?私たちは段々聖くなっていくと考えます。しかしそれは聖さの実です。聖さは主ご自身です。 コリント人への手紙第I、1:30
と、書かれています。もう一回お読み致します。非常に大切なみことばです。 コリント人への手紙第I、1:30
私たちが忍耐を必要としているのでありましょうか。忍耐は主ご自身であり、私たちに愛や謙遜が欠けてるのでしょうか。主イエス様ご自身が愛や聖さなのであります。 主イエス様ご自身は、私たちの持てるありとあらゆる問題の答えとなって下さいます。 パウロは、キリストは私たちのいのちであると言ってます。私たちも、いよいよこの驚くべき現実に心の目を開いて行きたいものです。 「私たちは自分の力では、主よ、あなたの御心にかなう生活をおくることができません。どうか内に住みたもう御霊様が、私を導いて御心にかなう歩みをなさしめて下さい。」 このような砕けた、主におまかせする生涯に入ったら本当に幸いです。任せること、自分で試みることの間には天国と地獄ほどの差があるのです。 最後に第三番目の点、すなわち御霊の法則についていっしょに考えてみたいと思います。ローマ人への手紙8章1節、2節をお読み致します。 ローマ人への手紙8:1-2
パウロは、生まれ変わって信者になってからもう長い間、罪に定められているような重い空気の中に住んでいたようです。そしてどんなに自分で努めても、御心にかなった歩みをすることができないと悟っていました。その経験を彼はローマ人への手紙8章8節に言ってます。 ローマ人への手紙8:8
またパウロは、 ローマ人への手紙7:24
と、叫んでいます。が、しかしこの同じパウロが、 ピリピ人への手紙4:13
と、言ってます。このような大きな変化が、なぜパウロの内に起こったのでしょうか。その答えはローマ人への手紙8章2節にあります。 ローマ人への手紙8:2
御霊の法則、御霊の原理は、罪と死の原理よりさらに勝って強いのであります。ここで少しこの二つの法則、二つの原理を考えてみましょう。 法則・原理とは何でしょうか? 法則とは、私たちがいつもくり返すことです。たとえば人間の定めた法則はいつもくり返し同じように守らなければならないのであります。 自動車で街へ行く時、今日は左側を走り、明日には右側を走ってよいということはありません。いつも左側通行を守らなければ罰せられます。法則には例外がないからです。 自然法則も同じです。アメリカにいても、ロシアにいても、東京にいても、本を落とせば下へ落ちます。例外なく下へ落ちます。それは引力があるからです。 引力に似た法則が私たちの心の中にあります。生まれながらの古き性質は、いつもこの世のことを思います。 パウロは伝道者に向ってさえ、彼らの思いは地上のことだけですと攻撃しています。しかし、 コロサイ人への手紙3:2
というみことばを心に留め、天的なものの中に無限に成長していかなければいけません。 新しい性質のものは地のものを求めようとしません。しかし私たちキリスト者は、死ぬまで罪と死の法則を心のうちに宿しています。 これはパウロも深く経験したことであります。ローマ人への手紙7章18節から、このパウロの経験についてお読み致します。 ローマ人への手7:18-24
これはパウロの経験でした。しかし愛するになさん、問題は私たちキリスト者は、いかにしてこの罪と死の原理・法則から解放されるかということです。 法則が別なものに変えられるか、またその法則を支配するさらに強い法則が定められないなかぎり、前の法則から解放されることはできません。 人間の法則は簡単に変えられます。私がドイツへ帰って車で左側を走るなら、すぐ罰せられます。日本で右側を走ればこれもまた罰せられます。人間の手で作った法則は簡単に、時と場所が変われば変ってしまいます。 万有引力の法則があっても、本を手に支えていたら決して下へは落ちません。引力より手の力が強いからです。 同じように、キリスト者の内には罪と死の法則がひそんでいますが、それは違うより強い法則によって留められているのであります。 ローマ人への手紙8:2
と、書いてあります。 御霊様によって、神の霊によって、主イエス様は私たちの内に住みたまい、私たちは主の甦りの力にもあずかってるのであります。 この事実は心の目が開かれるなら本当に幸いです。 しかし、この御霊の原理・法則はいかにして私たちの外に現れるか、すなわち御霊の原理の現れについて、もう少し、考えてみたいと思います。 いろいろな人がドイツ語を習いに来ますと、ドイツ語を読むのに苦労しますが、私にとってはドイツ語は母国語ですから、読むのはきわめて簡単です。 反対も同じです。私が日本語を読むのはきわめて難しいことですが、日本人が日本語を読むのは母国語ですから、本当に簡単なことです。 同じように、もし主イエス様が私たちのいのちなら、御霊様は私たちの出来ないことを簡単にやって下さいます。 そのとき罪と死の法則は、力を少しも外に出すことができません。パウロはこのような勝利に到達するまでに長い時を要しました。 ローマ人への手紙7:18
と、告白したんです。 パウロは長い間、勝利を自分の良い意志で得ようと努力しましたが、パウロそのようにつとめている間、主を喜ばせることはできませんでした。ただ主を悲しませるばかりでした。 多くのクリスチャンは、良い意志をもって何とかクリスチャン生活を全うしようと考えます。それは丁度ガソリンのない自動車を押して歩くようなものであり、大変な骨折りです。 ちょっと二つのみことばを見てみましょうか。ローマ人への手紙6章23節と8章2節ですか、 ローマ人への手紙6:23
神の下さるプレゼント・贈物・賜物は私たちのキリスト・イエスにある永遠のいのちなのです。 ローマ人への手紙8:2
この二つのみことばは、同じ賜物について書かれているのであります。 私たちは勝利の生活を送るために、新しい賜物を受ける必要はありません。しかし勝利の生活を送るために、主がすでに与えて下さった賜物に、心の目を開くことが大切なのであります。 主イエス様は、私たちに全てを与えて下さったのであります。私たちは主が与えて下さったものに向って、目を開きさえすれはよいのであります。ローマ人への手紙8章2節は、「解放したからである」と過去形で書かれています。 これを見ると、自らの努力は全く空しくそればかりではない、妨げであることがわかります。もし私たちが自分の努力と、全ての意志を主に空け渡すならば、実際生活に御霊の原理のいかに力強いかを経験するはずです。 主イエス様は山上の垂訓で「空の鳥を見よ。」と言われました。 しかしあの鳥に「万有引力を知らないのか。よく落ちないで空を飛んでることができたもんだ。」と、声をかけることができるなら、鳥は、「引力もニュートンも知らない。このように飛んでるのは、私たちの鳥のもってる本来の性質だからだ。」と答えるでしょう。 しかし鳥にも引力の法則は働いてるんです。鳥が病気になり、飛ぶ力がなくなれば地に落ちてしまいます。 主イエス様が、本当に私たちのいのちになってるなら、御霊の法則は罪と死の法則より強いということがわかります。 御霊様が私たちの内に満ちておられるなら、主の御心にかなう生活をすることは実に簡単なことなのです。 私たちの意志で努力するのではなく、私たちの内に住みたもう御霊様が、御心にかなう生活をなさしめて下さるのであります。 忍耐のないクリスチャンが、忍耐を持つように努めるのは大変な戦いです。戦いの結果は絶望です。しかし聖書は、私たちの努力をもってしては、決して主の御心にかなう歩みはできないと教えています。 また主は、私たちが生れつきの性質でできないことをよく知っておられ、そのために御霊様を遣わして下さったのです。 私たちは、与えられたキリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理によって、善悪をわきまえることができるのであります。 御心にかなう生活をするには、教育や教養を積んでもできません。ただ私たちに住みたもう主ご自身によってのみ、御心にかなう生活ができるのであります。 そのとき、自分の話した声が大きすぎた、この笑い方はいけなかった、こうしたことは誤った動機だったなどと言えるよう、御霊様によって教えられます。どんなに自分が注意して努力しても、自分の歩みを正しく保つことはできません。 桃の木は桃の木です。よく話す人はよく話します。生れつきの性質だからです。御霊の新しい強い法則に目を開かれなければ、決して自ら古い性質を直すことができません。 私たちの内に宿りたもう主イエス様は、ご自分で私たちの生活を自由に導いて下さるのであります。 もし誰か愛することのできない人がいるなら、主に「どうか主イエス様よ、どうかあの人を愛させて下さい。」と祈るなら、御霊様の法則がどんなに強いかわかるようになるのであります。 ローマ人への手紙8:3-4
と、書いてあります。ここでは二つのことが書かれているのであります。 一つは、主が私たちのためにもうすでに何を成して下さったか。 二番目に、主は私たちの内に何をなそうと願っておられるか? について書かれているのであります。 主イエス様は、罪と死の法則を無力にするために罪を荷って亡くなられました。 そして内住の御霊様がおきてを全うなさることにより、御霊の原理は罪と死の原理より強いことがわかります。 もし私たちが霊によって歩むなら、内住の主が主の御心にかなった歩みを成すことができることを、はっきりと知るようになるのであります。 霊による歩みとは、何を意味しているのでありましょうか。これは一つの働きではなく歩みであります。 かつては、御心にかなおうと戦い努力していたが、今は内に住みたもう主が全てを成して下さるのです。 パウロは、肉による働きと御霊の実という二つの言葉を使っています。私たちは自分の力によって、肉によって努力することはできますが、そのとき実を結ぶことができません。 御霊の実は、内住の主に全てをゆだねて歩む時にだけ、豊かに結ばれてくるものであります。 二番目に、御霊による歩みは全く御霊様に従わなければだめです。肉による歩みは、肉に従ってることを意味します。 ローマ人への手紙8:5-8
と、書いてあります。 霊による歩みは、霊に従ってることを意味しているのであります。霊に従がって歩む時はじめて、御霊の法則の力を知ることができ、現すことができ、パウロのように「われはキリストとともに十字架に付けられたり、われ、もはや生きるにあらず、キリストわれ内に現れてくるなり。」と言うことができるのであります。 御霊様のご支配の内に、全く自分の身をゆだねてはじめて、御霊様による歩みができるのであります。 コリント人への手紙第II、13:13
と、書いてありますが、三つのことが述べられています。 神の愛について、また主イエス様の恵みについて、そして聖霊の交わりについて書いてありますが、神の愛はあらゆる霊的祝福の源なのであります。 主イエス様の恵みにより、全ての祝福は私たちのものとなるべき備えられているのであります。そして御霊様との交わりは、このはかり知れない富を、私たちのものとする道なのであります。 御霊様は、私たちにイエス様の持ってるあらゆる富を与えるためにおいでになられたのであります。 私たちが信者になった時、同時に聖霊の宿りたもう神の宮となったのであります。御霊様は神の御心を私たちに示し、私たちを導き、祈らしめるために、私たちの内に住んでおられるのであります。 私たちは、御霊様が私たちの支配者であることを感謝し、その支配に全てをゆだねたいものなのであります。 人気のないさびしい山の中に住んでるある夫婦が、旅人を通してキリスト者になりました。そのとき旅人は、キリスト者として大切なのは、もうあなたがたは自分のものではなく、内に宿っておられる聖霊の宮であることを知ることだと言って、そのところを立ち去りました。 旅人が帰ってから、主人は祈ろうと思うが祈れません。いろいろ原因を考えますと、今までたくさん飲んだぶどう酒が御心にかなわないのではないかと気づきました。 それで奥さんといっしょに聖書を調べ、ぶどう酒について書かれてるところを探しますが、まだ信仰を持ったばかりですからよくわかりません。 しかし内にささやく声はぶどう酒をやめろということです。主人は奥さんに頼んでそれを隠してもらいましたところ、自由を得て祈ることができたということです。 後で、前にきた旅人がもう一度自分のところに寄った時、夫婦はぶどう酒のことを話しました。 「あなたもいない、聖書もわからない、困ったけども、心の内に住みたもうお方に従ったので助かった。」と、言いました。「その心の内に住みたもうお方に従っていれば大丈夫だ。」と答えたそうです。 愛する皆さん、私たちは内に住みたもう御霊様を、個人的にはっきりと知ってるでしょうか。そして内に住みたもう声に単純に聞き従がっているのでありましょうか。 |