引用聖句:ガラテヤ人への手紙1章12節、16節
詩篇119:144、152、160
今日は内容的に「救いの確信」について一緒に考えてみたいと思います。 救いの確信の土台なるものは、言うまでもなく聖書です。パウロは、今読んでもらいましたように「私はそれを人間からは受けなかったし、教えられもしなかった。神の啓示によって。」、心の目が開かれたから、確信するようになったと喜びをもって証しすることができたのです。 そしてダビデは、もうすでに3,000年前に、今読んだように「みことばのすべてはまことです。」真理そのものです。この告白でもって、ダビデは主のみことばが絶対的真理であると言っています。主のことばは神ご自身と同じように絶対的真理です。それですから私たちは、みことばに信頼できるのです。 主のみことばは、それが語られた時もちろん真理でした。主のことばは、歴史の流れにおいて真理であると判明しました。 私たちが信者となった時、私たちはみことばを真理として経験しました。そして永遠にわたって、みことばは真理として経験されるにちがいない。 ダビデは「あなたのさとしは、とこしえに義です。一時的ではなく、とこしえに義です。私に悟りを与えて、私を生かしてください。私は昔から、あなたのあかしで知っています。あなたはとこしえからこれを定めておられることを。」 イエス様によって救われた者は、誰でも次のように告白できます。「みことばのすべてはまことです。あなたの義のさばきはことごとく、とこしえに至ります。」 けれど、この言葉は聖書全体にもあてはまることです。というのは聖書は、主の言葉であり、主の言葉は真理であるからです。創世記からヨハネの黙示録にいたるまで、すべては主ご自身の啓示によって与えられたのです。 ですから間違いなく改正される必要もなく、とこしえに大切なものであり、大切にすべきものであります。 不確実なこの世界において、聖書は絶対的な権威をもって私たちがどうしても知らなければならない事柄について語っています。 聖書を永遠にあてはまる真理として受け入れなかったなら、決してもちろん救いの確信を持つことができなかったし、聖書を永遠に妥当する真理として受け取らなかったらば、もちろん私も決して日本まで来なかったし、聖書を永遠に妥当する真理として受け入れなかったならば、みことばについて喜んで話すことができないでしょう。 聖書は、主なる神の啓示そのものです。聖書は、主がいかなるお方であるか、何をなさったか、何をなさりたいと願っておられるかを私たちにはっきり告げています。 主の啓示がなければ、私たちは我々の信仰の土台を持つことができなかったでしょうし、私たちの生活の基準や死後のいのちについての確信も持つことができなかったでしょう。 神の啓示がなかったならば、私たちは試練や攻撃にあって混乱し、ダメになってしまったことでしょう。神の啓示がなければ、もう本当に大変です。私たちは何の希望もなく、悩みと孤独の中にいったことでしょう。 神の啓示がなければ、私たちは多くの問題に対して、助けもなく度を失ってしまったことでしょう。そして私たちは、我々の死に対していかに準備すべきか、もちろん聖書がなければ解からないでしょう。けれども神の啓示としての聖書は、私たちが確実な歩みをすることができるように、明確さと光とを私たちに与えてくれます。 パウロは、愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、3:16
部分的だけではなく、 テモテへの手紙第II、3:16
私たちは、聖書が神のことばとして永遠に妥当する真理として信じられ、受け入れられる時に私たちの世界がいかに違ったものに見えるかを考えたことがあるでしょう。 すべての政治家が神のことばとして聖書を信じ、それに従って行動したならば、多くの問題はすぐに解決したことでしょう。彼らは神のみことばを守り、あらゆる知恵の神に信頼し、全能者が彼らの助けとなり、我々の世界は別のものとなったことでしょう。 誰でも神のみことばの絶対的真理を確信すると、考えてみてください。その結果、主の戒めを成就し、唯一の神の御名を崇めるという願いが存在することになるでしょう。その結果、犯罪は減少し、確固として規範が再び存在するようになり、人間は何が真理で正しいかを知るようになるでしょう。したがって神のみことばによって、ご自身の啓示なさった主と神のみことばを、人間が退け否定するとは何という悲劇でしょう。 すべての人から非常に評価され尊敬され、立派な生活を送っていたご夫婦が、一人のイエス様を信じる者に出会って集会に招待されました。 彼らは初めて聖書の福音をはっきりと聞き、非常に驚きましたので、夫は家に帰ると妻に言いました。「私たちは、今まで一度も聖書に取り組まなかったということは間違いだったと思う。今から毎晩、聖書を読みましょう。」と。 老夫婦は、規則正しくお互いに聖書を読みました。2、3日してから夫は妻に言いました。「私は、聖書が真理であるとすれば、私たちは罪人である。」という確信に至りました。彼の妻はうなずいて、「私もそう思う。」と言いました。 彼らは聖書を互いに読み続け、2、3日あとで夫はまた言いました。「私は、聖書が真理を言っているならば、私たちはただ単に罪人であるだけじゃなくて、失われている者です。」と。妻は答えました。「私も、私たちは失われた者であると確信します。聖書がそう言っているからです。」と彼らは心に動揺を覚え、みじめな思いでいました。 けれど彼らは聖書を読み続け、2日あとで夫は大声で言いました。「聖書が真理であるならば、私たちがイエス様を、私たちの救い主として受け入れれば、救われる可能性があります。」妻は喜んで言いました。「あなたがそう言ってくれるのは何という感謝でしょう。というのは私もまた私が救っていただけると信じたからです。」 そうして二人はお互いにひざまずき、イエス様に自分たちの不信仰を告白し、主が心の中に入ってくださり、罪を赦してくださるようにと、主に頼みました。 すでに翌日彼らが再び聖書を読んだあとで、夫は顔を輝かせながら言いました。「聖書が真理であるなら、私たちは救われています。」妻は喜んで、夫に同意し次のように言いました。「その通りです。聖書が真理であるならば、私たちは救われている。」と。 この夫婦の経験は、誰でもどこでも救いの確信に至ることができることを、私たちに示しています。 そこで私たちは、これからこれらの4つの発見をもう少し詳しく見てみたいと思います。 第1番目、聖書が真理であるなら、私たち皆、罪人です。 夫婦のこの最初の発見は、大変なものでした。それ以来、彼らは立派な生活をしようとしました。しかし今や彼らは、私たちは罪人であるという発見をしたのです。 多くの人々は、まじめで何一つ悪口を言わず生活しています。彼らは、神が本来自分たちに満足していらっしゃるだろうと、確信して生活しています。けれど、神のことばの鏡によって、人間は誰でも神の聖なる目から見るならば、罪人であり、救い主をどうしても必要としていることが解かる。聖書は真理であるならば、人間は誰でも罪人なのです。 ローマ人への手紙3:10、12、23
問題になっているのが、大統領であろうがこじきであろうが、金持ちであろうが貧乏人であろうが、若者であろうが年寄りであろうが、教養のある人であろうが教養のない人であろうがかまわない。 神のことばは次のように言っています。 伝道者の書7:20
聖書は、我々が罪の中に生まれたと言っています。 ローマ人への手紙5:12
ダビデという王様は、もうすでに3,000年前に詩篇51篇5節を通して告白したのです。 詩篇51:5
エレミヤは、同じことを書いたのであります。17書9節 エレミヤ書17:9
私たちは、自分の心を知っているのでしょうか。それは主の目から見れば、陰険で、直らないものです。 私たちは皆、ペテロとともに次のように叫ばざるを得ないのではないでしょうか。 ルカの福音書5:8
あるいは私たちもまた、次のように告白すべき放蕩息子なのです。 ルカの福音書15:21
聖書が真理であるならば、私たちは罪人です。このことを私たちは今見てまいりましたが、次に第2番目の点に移ることにしましょうか。 第2番目、聖書が真理であるならば、私たちは失われています。 私たちは罪人であるだけではなく、助けも望みもなく失われています。というのは、罪は私たちを生ける神から隔ててしまうからです。 この隔ての壁についてイザヤは次のように書いたのです。 イザヤ書59:2
生ける主は聖なるお方です。同じくイザヤ書53章6節を見ると次のように書かれています。 イザヤ書53:6
罪とは何でしょうかと尋ねるならば、ここでは次のようにはっきりと表現されています。自分の道を行くこと、自分の意思を持ちたいと思うこと、神の道と神の御心を尋ね求めたくないと思うこと、これこそ罪です。これは聖なる神に対する反逆です。 主なる神の判断は、すべての人間が自分の道を行き、したがってすべての人間は罪人であり、しかも失われた罪人なのです。というのは罪と神とはお互いに並存できないからです。 これこそローマ人への手紙6章23節におけるみことばの意味でしょう。 ローマ人への手紙6:23
死とは、主からの分離を意味します。罪は人間を神から分離します。そして神から離れてしまった人間は、失われています。生ける神との交わりを持たない人、聖なる神と一つのなって生活しない人、喜んで主のご臨在の中に入っていくことができない人は、失われていると聖書は、はっきり言っているのです。 ある時、小さな子供が迷子になったんです。警官がその子を交番に連れていきました。その子は、あんまり疲れていたので、すぐに眠り込んでしまいました。他の警官がその眠っている子を見て聞いたんです。 「この子はどこで何をしてるの?」するともう一人の警官は、「静かに、起こしてはいかん。この子は迷子になってしまったけれど、それをまだ知らない。」と答えたそうです。 イザヤ書53章6節に「私たちはみなさまよった。」とあります。あなたは、自分がさまよい失われていることをご存知でしょうか。イエス様をまだ、ご自分の救い主として受けていないならば、間違った道を歩んでいるのであり、失われているのです。 真理である主のことばは、このことを誤解のないほどはっきりと言っています。失われているということは、さまよっていることであり、天国に入る可能性を持たないこと、生ける神にとって無価値であること、また人間の社会のためにも役に立たないことを意味しているのです。 失われている人とは、救われておらず、きわめて危険な状態に置かれています。もしもこの状態に留まるならば、永遠に失われていることになります。 神のことばがはっきりと言っていることは、人間は誰でも罪人であるだけではなく、霊的に見ると失われた状態に置かれているということです。 主なる神のみことばによって、私は失われているということを認識する人は、本当に幸せです。 というのは、このことを認識し、告白する人だけが救われ得るからです。 第3番目、聖書が真理であるならば、私は救われることができる。 これは、神の恵みの喜ばしい訪れです。これは神の愛の福音です。失われた者が救われ得るのです。 聖書全体は、失われた罪人が救われ得るという約束を、何度もしておられます。救われたいと思う人は救われ得るのです。聖書全体は、はっきり何回も何回もそう言っているのです。有名なイザヤ書45書22節を見ると次のように書かれています。 イザヤ書45:22
わたしを仰ぎ見て救われよ。 マタイの福音書9章13節にイエス様はまた次のように言われました。 マタイの福音書9:13
ルカの福音書19:10
聖書の中で一番知られているヨハネの福音書3章16節を見ても、結局同じことを書いています。 ヨハネの福音書3:16
ヨハネの福音書5:24
ヨハネの福音書10:9
またパウロは、ローマにいる兄弟姉妹に言いました。 ローマ人への手紙1:16
救いを得させる力とは、福音そのものです。ペテロも同じことを書いたのであります。 ペテロの手紙第II、3:9
すべての人が悔い改めに進むことこそが、主の導きの目的です。 ヨハネの黙示録22章17節「ただで受けなさいよ」とあります。 ヨハネの黙示録22:17
いのちの水とはもちろん救いの確信、罪の赦し、神との平和、永遠のいのちです。 この聖書の箇所がはっきりと言っていることは、誰でも、どこでも、いつでも、どんな状態でも救われ得るということです。 自分が失われた者であることを認識している者を誰でも、イエス様に信頼をおく瞬間に救われ得るのです。 これこそ、なぜ私たちが日本に来た理由です。というのは、誰でもが生ける神によって愛されているということを述べ伝えることほど、偉大なことはないからです。慰めようのない、絶望的な状態からも一つの逃れ道があるのです。誰でも救われ得るのです。 誰のためにも、もはや孤独に人生を歩むのではなく、日々全能なる神のご臨在を経験する可能性は存在しています。誰でも主イエス様と永遠の時を過ごすことが出来るようになります。 私たちも、もはや失われた罪人ではなく、救われた罪人であるということを知るために、誰でも今日、イエス様に信頼をおくことができるとは何というすばらしい福音でしょうか。まだこの確信を持っていらっしゃらないならば、今日それにあずかることができます。 最後に一つのことを申しあげたいと思います。どこにでも主を自分の個人的な救い主として受け入れたい者、イエス様が本当に自分を受け入れてくださった確信を持っていない人たちがいます。そのような状態は、主の栄光に貢献しません。ですから、最後の点はとても大切です。 第4番目、聖書は真理であるなら、私たちは救われています。 あなたは、前に読まれた聖書のみことばを、もう一度思いおこすならば、明確な確信が常にその響きとなっていることを、認識するでしょう。 生ける神は、失われた罪人を主の御許に導き、主のみことばを信じるように招いておられます。生ける神は、次のように約束しておられます。 「あなたはわたしに信頼をおくならば救われ、聖められ、赦され、いつも安全にわたしのものとなります。」したがって失われた罪人として、イエス様の御許に来て、イエス様を個人的な救い主として受け入れる者は、次のことを知ることができます。すなわち、聖書が真理であるならば、私は救われているのです。 そして聖書は真理そのものです。そのことを捕まえることも捕らえることもできませんし、決してそれに値しない者です。けれど聖書が真理であるならば、私たちは救われており、我々の罪は赦されており、私は天国への道を歩んでいるのです。 そこに至るまで主は、私たちに主のために生き働く力を与えてくださいます。私は救われていて、赦されているということは、決して不遜なことではありません。 私たちは単純にみことばによって、生ける神を受け入れるのです。私たちは、主が我々に約束なさったことを信じるのです。私たちは主が約束なさったことを守ってくださるということを知って喜んでいます。主が約束してくださったことを疑うことは不遜なことです。 聖書は、絶対の真理です。というのは聖書は神の偽りなきみことばであるからです。だからダビデは喜んでいたのです。「みことばのすべてはまことです。」私たちはそのために心から主に感謝しようではないでしょうか。 |