引用聖句:ルカの福音書1章45節-47節
クリスマスのとき一番大切なのは、静まることなのではないでしょうか。主なる神の大いなる愛を見つめるため、主の愛を新しく経験するため、静まることは本当に大切です。 私たちは色々なことについて考えたり、心配したりしますけど、どうしてもしなければならないことがあまり多いので、どうしたらいいか分かりません。 けども大切なのは主の前に静まることです。どうしたらいいなのでしょうかと絶えず尋ね求めることです。 主によって愛されてると新たに知ること、主の愛を受けることこそがもっとも大切なのではないでしょうか。 主イエス様ご自身はもっともすばらしい贈りものであり、主なる神の愛の表われそのものです。 人は召されると、人々はある意味でちょっとやっぱり考えるようになり、静まるようになるなのではないでしょうか。 今朝、ある姉妹が天に召されました。彼女が最期に言った言葉はただ、「イエス様。ありがとう。イエス様。感謝します。」 また先週、もう一人の葬儀があったんですけども、奥さんは先々週に初めて会いまして、そして次の日召されたんです。 「光よあれ」という本を通して心の目が開かれるようになり、イエス様を信ずるようになりましたから、やっぱり長くないと分かって、「洗礼を受けたい。」と言い出したんです。 ちょっと面白い思想ですけど、われわれは洗礼、全然大切にするつもりじゃないし、救われてから信仰の証としてもちろんイエス様も望んでるけど、一般的な人はやっぱり「キリスト教にはいるためのもんだ。救いと関係のあるもんだ。」と考えてるから、あまり興味が無いけど。 聖書の言われてる「聖霊によるバプテスマ」とは救われることです。イエス様を受け入れると聖霊の宮になる。ですからあの奥さんは知らないうちにもうすでに洗礼を受けちゃった。 彼女の考えていた水のバプテスマとは、本当の洗礼を受けたことに対する証しにすぎない。 そういうこともちろん話し合って、説明して、ご主人は非常に真剣に聞いたんです。祈ったあとでみな、ベッドの周りに行ったんですね。 ケースワーカーの三人と、看護婦さん、婦長さんもいましたし、みんな立ってたんです。椅子が無かったんですけど。ですから祈ったあとで、ご主人に言ったんです。 「今あなたの番です。あなた祈ったら。」彼、どういう態度取るかもちろん分からないよ。けど、彼はひれ伏して。みんなの前に、ベッドの前にひれ伏して祈るんです。いやー。びっくりしました。そして次の日、奥さんは召されたんです。 そのときもちろん笑ったし、ベッドの中に座ったし、「写真を撮ってください。写真を撮ってください。」と頼むんです。 その日まで「絶対に写真を撮ってはいかん!」、もう骨と皮ばかりでしょ。子どもはかわいそうよ。そういうお母さんを見ると。けどその日、「やっぱり写真を撮ってください。撮ってください。子どものため。」 ご主人が祈ったあとで、ケースワーカーもみんな拍手して、洗礼式よりもずっとよかった。そして田舎でやっぱり葬儀をやって、もちろんたくさん集まったんです。 みんな庭でやったんです。テント張ったりして。あのご主人は結局、奥さんはそれ望んでるよりもやっぱり、イエス様のことを紹介したい。そういう気持ちだったんです。ちょっと考えられない奇蹟です。 あのご主人はどうしてこういうふうになったのか、もちろんぼく聞けなかったんですけども、あの奥さんはベッドの中で急に、ご主人は祈る前になんと言ったかと言いますと、「私は幸せです。」そういう文章を聞くと、イエス様は本物だとしか言えない。 そうすると、聖書はああだこうだ、別に言う必要はない。知識の問題じゃない。三十九歳で死ぬことだって。ね。 ちいちゃい子ども三人残すことだって、笑い話じゃないよ。考えられない悩みです。 結局、子どものために生きたい。だから東京の財産、全部売っちゃって、田舎行って、立派な土地を買って、うちを建てて・・・。けど、そういうふうになったのはちょっと、人間的に考えれば悲劇ですけど、あの奥さんはそう思わなかった。 「私は幸せです。」と言えたのです。この奥さんの信じてるイエス様とは本物だと、ご主人はもちろん認めざるを得なかったのです。 あの姉妹はどうして幸せであったかと言いますと、結局、イエス様は私の救い主であると確信したからです。 今読まれましたルカの福音書1章を見ても、マリヤも同じ態度を取ったのです。 ルカの福音書1:46-48
主は目を留めてくださったから、私は幸せ。主は私の救い主です。わが救い主なる神と言える人こそが、幸せなのではないでしょうか。 マリヤはどうしてこういうふうに言ったかと言いますと、結局、体験したからです。 教えられ、納得させられ、思い込んでしまったからではない。生きるまことの神は私のものです、私の救い主であると。 人間にとってもっとも大切なのは、やっぱりこういうふうに言えることなのではないでしょうか。神はわが救い主であると。 救いとは、イエス様を知ることです。 救いとは、過去の克服でもあります。イエス様は債務と罪の支払いと赦しを提供しておられます。 ルカの福音書2:11
とあります。同じく、 ルカの福音書19:10
イエス様は救い主であり、救い主は救うお方です。 ヨハネの福音書3:17
救われることこそが、人間にとってもっとも大切なのではないでしょうか。 非常に悲劇的なのは、人間の考えてる救いと、主なる神の提供しておられる救いとは全く違うということです。 人間はちょっとだけ、ある問題の解決を経験するとすぐ「救われたー!救われたー!」と言うんですけど、聖書の言ってる救いとはそういうものではない。 人間はにせものを持つようになれば大体満足する。病気が治れば嬉しい。金持ちになれば、人気者になれば、自分の思うとおりにいけば、救いだと考えてますけど、まことの救いとはそういうものではない。 今話した姉妹は、「私は幸せだ。結局私は救われた。」と言えたのですけども、癌は治らなかったよ。 けど、生きる希望が与えられたからです。そしてご主人も結局イエス様を信じ受け入れたし、自分の三人の子どもだって、自分のものよりも主のものです。主は必ず心配してくださる。 子どもは何を必要なのか主はご存知であるから、だからもう、心配すること止める。まことの救いの結果とはそういうものです。 パウロは、「キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた、ということばはまことであり、そのまま受け入れるに価するものです。」と告白したのです。 パウロはまことの救いを経験したのです。どうしてなのでしょうか。彼は、「私は罪人のかしらです。どうしようもない者です。主があわれんでくださらなければ、もうおしまい。」だと分かったからです。 イエス様はまことの救い主です。イエス様は人間の最大の問題である罪の問題を全部解決してくださったから、イエス様こそただひとりの救い主です。 当時の羊飼いたちは、お生まれになった、約束された救い主を捜しました。捜すと必ず見つけ出すようになり、彼らは救い主を拝みましたと聖書は言ってます。 また、遠い国から来られた博士たちはやっぱり、この世に来られたイエス様を拝み、イエス様を礼拝し、すべての支配権をイエス様に帰することができたのです。 われわれは、イエス様を救い主とするために何をすべきなのでしょうか。われわれはまず、イエス様のみもとに行き、すべてを幼子のように告白し、罪を悔い改めなければならない。 次のように祈ることが大切でしょう。「私は心から罪を悔い改めて、まったく新しい人間となることが赦されますように。」 それと同時にさらに、私たちは心からなる感謝をささげることができるはずです。 「私はあなたに心から感謝します。あなたが私の身代わりとなって尊い代価を支払ってくださり、私の罪を赦し贖うために死んでくださったことを心から感謝します。」 人間のできることはそれしかない。必要なのはそれだけです。 先週召された方々は結局、われわれの罪と債務は赦され、支払われております。今や、良心の呵責に責められることもなくなった。 この確信がわれわれの生活の土台となっていない場合には、われわれにとってすべてのすべて、一番大切なものが欠けてることになります。 イエス様を本当の意味で体験する人は、もう孤独ではない、ひとりぼっちではない。インマヌエルと呼ばれている主は、近くにおられるからです。 イエス様とともに歩むこととは、あらゆる問題の解決なのではないでしょうか。 なぜならば、イエス様は何でもできるお方であるからです。自然、風、波などに対してイエス様は、力をもっておられたのです。 弟子たちはこのイエス様の力を経験したとき、本当に驚いてしまいました。 ルカの福音書8:25
ずっと一緒に生活した弟子たちは、イエス様のことを全然分からなかったんです。理解できなかったのです。いったいどういう方なのでしょうと。 結局イエス様は命令すると命令どおりになるからです。イエス様は自然を従わせる力を示されただけではない、イエス様は罪を赦す力を持つお方です。 マタイの福音書9章2節に、イエス様はひとりの非常に困った男に次のように言われました。 マタイの福音書9:2
マタイの福音書9:6
云々と書かれています。 イエス様は罪を赦すお方です。イエス様だけしか罪を赦すことができる。なぜならば、罪に対する天罰をお受けになったからです。 イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか。罪を赦すお方です。罪の重荷から解放してくださるお方です。 使徒の働き10章の38節を見ると、イエス様は奇蹟を行なう力を持っておられたことについて、次のように書かれています。 使徒の働き10:38
すなわち、ナザレのイエス、 使徒の働き10:38
とあります。 この地上において、イエス様は無制限の力について語られました。昇天なさるとき、マタイの福音書28章の18節に書かれてますけど、イエス様は「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている。」 また確かに考えられない事実についてイエス様はまた宣べたのです。「わたしは永遠のいのちを与える権威を持つ者です。」 いわゆる、別れのことばの中で、ヨハネの福音書17章の2節に、イエス様はこの事実について次のように言ったのです。 ヨハネの福音書17:2
と書かれています。 イエス様は永遠のいのちを与えるお方です。永遠のいのちとはいつまでも生きることよりも、神ご自身のいのちです。イエス様ご自身であります。 わたしこそ永遠のいのちそのものであると、イエス様は言われたのです。 イエス様は人間の死んだ霊の中に住むことによって、人間そのものは永遠のいのちにあずかる者です。 捕まえられる前にイエス様は告白しました。 ヨハネの福音書10:18
イエス様はよみがえらされたよりも、自分の力でよみがえったと聖書をとおしてはっきり言えます。 われわれとイエス様の違いは、言葉に言い表わすことができないほど大きなものです。 イエス様の権威は無限であり、それに対して本当に真面目に考えれば、われわれの権威などはまったく無力なものです。 私たちは来る日も来る日も、自分の力をはるかに超えたものを要求され、それが続くと、まったく逃れ道のない状態に陥ってしまうのです。 そのとき私たちは、われわれの救い主なるイエス様に次のように祈り、願い求めることができる。 「主よ。あなたの恵み、あなたの権威をどうか、豊かに示し現わしてください。あなたなしにはもう、一歩も先へ進むことができないからです。」と。 するとイエス様は必ずこういう祈りをこたえてくださり、自分の大いなる権威を現わしてくださいます。 このように主にすべてをゆだねた者には、必ず主が大いなる力と権威を現わしてくださいます。 主は、われわれが日々新たに主を救い主として体験し、主が完全に救うことのできるお方であることを、体験的に知ることを望んでおられます。 主がわれわれに大いなる力を現わすことができるために、毎日主との交わりを持つことがどうしても必要です。 けど残念なことに、多くの信ずる者は自分のことだけを考え、いつも自分のことでいっぱいになってしまい、自己中心的な生活をすることによって、いつの間にか、主を忘れてしまってるのです。 この事実を確かに多くの人は認めたがらないけど、その実際生活を見るとそのことが分かります。 イスラエルの民も同じこと経験しました。詩篇の106篇を見ると、次のように書かれてます。 詩篇106:21
信じられなくなったよりも、ただ忘れちゃった。 彼らはすでに救われた者であったにも関わらず、いつの間にか自己決定と自己支配の生活に戻ってしまった。 私たちが自分の力で主に仕えようとしたり、主に完全により頼むことをしないならば、そのことが取りも直さず自分の救い主を忘れてることにほかならない。 私たちが救い主を忘れ、己が道を行くときに、主はいったいどのような振る舞いをなさるなのでしょうか。 詩篇106:44
彼らを無視しようとしなかった、捨てようとしなかったのです。 すなわち、いかなることがあってもイエス様は救い主であられ、ご自分に属する者を捨てないという方です。 パウロもそれを体験したからこそ書いたのです。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」 主は本当に比類なきお方ですとダビデも経験したから、次のように言ったのです。サムエル記第IIの22章。 旧約聖書の中でもっともすばらしいほめ歌のひとつなのではないかと思います。 サムエル記第II、22:2-3
3,000年前に書かれた証しです。「私を救う私の救い主。」、これは決して理論ではなく、体験した者だけが発する歓呼の声であります。 この言葉を発したダビデと同じように、われわれも毎日、私たちを助け、救うことがおできになる救い主を体験し、歓呼の声を上げることができればすばらしいと思います。 サムエル記第II、22:4
私たちがなすべきことは、ただ主を呼び求めることだけです。主を仰ぎ見ることだけです。 けど、本当に自分自身に絶望しない限り、心の底から主を呼び求めようとしないなのではないでしょうか。 私たちはどうすることもできない性質を持ってるということを、本当に分かったならば、自分の力で何かをしようとせずに、主を呼び求めることしかできないでしょ。 祈るようになる、主に頼るようになるでしょ。そのことによって別の者に変えられ、今まで知らなかった主の偉大さを知るようになります。 詩篇85:4
と作者は言ったのです。それは信者にとってもっとも、まったく恐ろしい状態でしょう。 信ずる者として、自分は救われていると信じて疑わない者であっても、主とわれわれとの直接な交わりではなく、その間に何者か妨げる・・・ (テープ A面 → B面) ・・・少なくないのです。 けども主は常にわれわれを待っていてくださり、われわれが心から悔い改めるならば、罪を赦す備えをしておられるお方です。 結局主は罰するお方よりも、「わたしのところに来なさい。休ませてあげます。受け入れます。永久的に赦します。」と呼びかけておられます。 詩篇85:6
と。主は新しい喜びを与え、新しい力を授けてくださるお方です。 主はできるお方です。完全に救うお方であられます。 私たちが罪人であるがゆえに、聖なる主の前に恐れかしこんだことがあったでしょうか。 「私はもうダメです。わざわいなる者。汚れた者。無関心な者。支配欲に満ちた者。臆病者。ねたみ深い者。愛のない者である。」 このように叫んだことがあるなのでしょうか。主の御前にすべてが明らかにされ、主は何から何まで、そしてすべてを見てくださるのです。 けど、この聖なるお方はさばき主ではない。救い主です。 主は贖って、罪を赦してくださり、そのためにご自分のいのちを与えてくださったのです。 イザヤ書の43章の中で、主こそがわれわれの救い主そのものであるとも約束されてます。 イザヤ書43:3
イザヤ書43:11
こんにち主は、あなたに目を留められ、このみことばのように呼びかけておられるのです。 イザヤ書43:1
主はさばかれたり、宣告をなさったり、罰したりするのではなく、われわれを助け、救うお方として、近くにおられるお方です。 この救い主に無条件に、絶対的に、残すところなく、自分を明け渡すと、主の考えられない愛を知るようになります。 イエス様は自分のご臨在、ご栄光を、私たちひとりひとりの生活の中に現わしたいと望んでおられます。 われわれの取るべき態度はどういうものであるかと言いますと、「みこころだけがなるように。あなたの導きにすべてをゆだねます。」 このような心構えがあれば、主は導いてくださり、祝福してくださいます。 「主よ。私はただあなただけにより頼みます。」、このように毎日新たに言うことのできる者は、本当に重荷から解放されます。 イエス様は救うことができるお方です。 ヘブル人への手紙7:24-25
イエス様は私たちのために死なれただけではない。復活なさり、永遠に変わらないお方として、私たちひとりひとりのことを考えて心配してとりなしてくださる。 考えられないすばらしい事実なのではないでしょうか。主は私たちの前に、隣に、後ろに立っておられ、私たちは決してひとりぼっちではない。 もうひとりぼっちではない。と確信できる人は幸いなのではないでしょうか。 ゼパニヤ書3:17
われわれもこの作者と同じような状態にあるなのでしょうか。それともそうでないため、主が悲しげに見ておられるなのでしょうか。 主を仰ぎ見ると、確信に満たされるようになり、「主はできる。」とあかしするようになります。 「主はできる。」、この表現は聖書の中でもう何回も何回も出てきます。例えば、 ダニエル書3:17
三人は、「死んでも変わらない。何があっても妥協しません。われわれのいのちは大切ではない。」、この断固たる態度を取った結果として、火の燃える炉の中に投げ込まれたのです。 けどもその前に彼らは、「主はできる。火の炉だって心配する必要はない。」、と確信しました。 彼らはただ自分の仕えてる主の誉れだけを見て、自分たちの身の上に何が起ころうと構いませんでした。 結果として彼らは、「主はできる。」と体験的に知るようになったのです。 一度三人は投げ込まれたんですけど、王さまは数えたとき、四人だったんです。もう一回確かめたでしょう。一人、二人、三人、四人じゃないか・・・。いったいどういうこと・・・。 当たり前のことです。信ずる者が悩むと主もともに悩む、信ずる者が火の炉に投げ込まれると一緒に入っちゃう。離れようとしません。 だから彼らは火の熱さを全然感じなかったようです。ピクニックではなかったかもしれないけど、もう嬉しかったんですね。 歌ったかもしれないね。 王さまの怒りだって関係ない。われわれは一人ぼっちではない。主は近くにおられると彼らは経験しました。 結果として、「俺だけが神だ。」と思い込んでしまった王は、ちいちゃくなって、まことの神を礼拝するようになり、宣べ伝える者となってしまったのです。 ローマ人への手紙4章の中でも、「神はできる。」という表現が出てきます。今度はむかしむかしの4,000年前に、主によって召されたアブラハムの証しです。 ローマ人への手紙4:20-21
神はできる。主にとって不可能はことはない。アブラハムは栄光を主に帰したから、主には成就する力があることを確信し、体験したのです。 もしアブラハムは、目に見える現実の虜になったならば、もうなんにもできなかったし、主も働くことができなかったでしょう。 約束を与えるお方ができると彼は確信したのです。パウロも同じことを経験しました。 コリント人への手紙第IIの9章8節を見ると、彼は次のように当時の兄弟姉妹に書き送ったのです。 コリント人への手紙第II、9:8
彼はできる。主はすべてにまさって偉大なるお方です。信頼する者は決して失望させられません。 同じくパウロは、エペソにいる兄弟姉妹にまた次のように書いたのです。 エペソ人への手紙3:20-21
ここでも、「神はできるお方です。」とあります。パウロの殉教の死を遂げる最後の手紙の中で、すなわちテモテへの手紙第IIの1章12節の後半に、彼はまた同じことを確信して言えたのです。 テモテへの手紙第II、1:12
「主はできる。」、自分の無力さ、みじめさを感ずる人にとって力の源なのではないでしょうか。「主はできる。」 最後にもう一ヶ所読んで終わりましょう。ユダの手紙の24節と25節です。これはユダのあかしです。 すなわちこのユダは私たちの守ることのできるお方として、またイエス様の姿に似た者として、私たちのようなものを造り替えることができるお方として、主をあかししてます。 ユダの手紙1:24-25
と書かれています。 バプテスマのヨハネの母親は、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人はなんと幸いなことでしょう。」と言ったのです。 「思い込んでしまった人」と書いてない。「勉強して理解した人」と書いてない。「信じきった人」 私たちはどうして信ずることができるかと言いますと、イエス様は自分の約束を守るお方であるからです。 |