引用聖句:使徒の働き3章の1節-11節。
使徒の働き4:1-4
使徒の働き4:13-14
使徒の働き4:22-31
救いとはなにか。もちろん簡単に言えます。救いとは救い主をもつことです。救い主をもつと、少なくとも二つのことを経験します。 すなわち、もう一人ぼっちではない。イエス様は近くにいる。 もう一つ、知らないうちに、同じようにイエス様を信じ、受け入れた人々と一つになります。一つ家族になるということなのではないでしょうか。 ちょっとたくさん読まなくちゃならなかったけど本当は、2章の1節から4章全部読むべきだと思います。 2章とは、使徒の働きの中で一番大切な章であります。いわゆる五旬節、教会の誕生についての箇所です。 神の霊が下って以来初めの数週間のうちに、エルサレムという一つの町では、一万人以上の人々は信じ、救われ、一つになったと書かれてます。 使徒の働き2:41
彼らとは百二十人だったんです。そして彼とはペテロで、彼は代表者としてイエス様を紹介したのです。ペテロのことばを 使徒の働き2:41
洗礼準備会、別になかったんです。聞いて、悔い改めて、信じて、与えられた信仰を告白したのは、全部何時間以内のことでした。 使徒の働き2:47
救われた人々は仲間に加えられるようになった。そして今の読んだ4章の4節。 使徒の働き4:4
何週間以内、考えられない多くの人々は、導かれました。2章には、多くの人々はみことばを受け入れ、すなわちイエス様を信じ受け入れたことについて、とあります。 けど、救われた人々がいかにして救われ、また救いによって何を経験したかということについて、3章に書かれています。 宮の「美しの門」に置かれていた、生まれながらの足なえが直されたという記事が書かれていますけど、これは私たち救われた者を、主の御霊がどのようにして導き、その信仰を全うさせたいかを教えてるひとつの実例であります。 最近、主イエス様を信じ受け入れ、救われた兄弟姉妹は、これから先いかにして進むべきかという疑問をもつかもしれない。 この疑問に答えるために、この使徒の働き3章、4章の病をいやされた人を見るべきなのではないでしょうか。 この男はまったく新しくされました。新しいいのち、新しい喜び、新しい目的を持つようになりました。けどこの男に起こったもうひとつの大切なことは、この男が信ずる者の群れに加わったということです。 この足なえは、主のみもとに来たそのときに、信ずる者の群れに加わったのです。 これは理屈では分かりませんが、この男が主のみもとに来たときに、自分の生活を、主にあるほかの兄弟姉妹とともに分かち合う生活に自然と入れられたのであります。 前に話したように、2章では、イエス様は救われる者を毎日毎日、信者の群れに加えてくださったことが書かれてます。 そして3章には、救われて信ずる者の群れに加えられたということは、いったい何を意味してるかが書かれています。 イエス様によって捕えられた人は、イエス様と一つになるだけではない。いわゆるからだなる教会、同じ信仰を持つ兄弟姉妹と一つになります。 イエス様を信じ、イエス様を受け入れ、イエス様に自分をおゆだねした人は、その瞬間に確かに救われています。とともに、この救いを経験した人は、救われた瞬間に、信者の群れに加えられたのです。 3章、4章を見ると、いやされた足なえは、いつもペテロとヨハネといっしょに歩んだことが分かります。 使徒の働き3:8
ふたりといっしょ。 使徒の働き3:11
彼らのところに。 使徒の働き4:14
イエス様がこのいやされた足なえを信ずる者の群れに加えられたので、彼はペテロとヨハネといっしょに行ったのです。 けど、信者の群れに加えられたということは、いったい何を意味してるのでしょうか。 第一番目。ほかの兄弟姉妹により頼み合うことが、お互いに助け合うことであります。 新しく主のいのちにあずかった人が、これから成長していくには、どうしても信ずる者の群れに加わってはいけないとまずいのです。 病をいやされたこの足なえは、信ずる者といっしょに同じ道を歩いて行きました。この足なえは、自分にとってこの交わりはどうしても必要であることを感じ取りました。 この交わりに加わるということを、足なえは自分で自発的にそうしたのです。 足なえは、私はイエス様と一つになっただけではなく、イエス様のからだなる教会、信ずる者の群れと一つであると知るようになったのです。 この3章の8節を見ると、いやされたこの足なえは、ペテロとヨハネの前を、喜びのあまりに跳んで先に行ったとは書いてないんです。 彼らとともに、彼らといっしょに宮にはいったとあります。 ペテロとヨハネも間違いなくいっしょに喜びました。しかしおどり上がって、歩きはしなかったのです。普通に歩いて行ったらしい。 いやされた足なえはどうしてペテロとヨハネを待って、いっしょに宮にはいらなければならなかったなのでしょうか。 足なえは、もう四十年間も動かないままで、宮の門の前に座らされ、なんとかして一度だけでも宮にはいりたいものと願い続けていたでしょう。 そんなに長い間動かないでいたこの男が、いっぺんにその病を直されたのですから、大喜びで、一人で宮の中に駆け込み、主を賛美し、感謝したとしても決して不自然ではなかったでしょう。 けども彼は一人で宮の中に駆け込むことをしなかったんです。二人といっしょに宮にはいったのです。 また彼が、いち早く家族のもとに帰り、また友だちのところに行き、自分の身に起こった不思議な救いを語ったということも書いてないんです。 なぜこの足なえは、ペテロとヨハネといっしょに行ったのでしょうか。彼は、6節に、足なえに向かって、足なえをいやすとき、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と。 ペテロは結局イエス様を指し示し、イエス様の力によって足なえをいやしました。 今足なえがいやされたのは、ペテロやヨハネのおかげではありません。イエス様がおいやしになったのです。足なえは別に、ペテロやヨハネについて行く必要はなかったなのではないでしょうか。 自分の道を行くことができたはずです。自分で、自分が経験したイエス様の救いを一人で人々に語り伝えることができたはずです。 しかし、彼はそうしなかったのです。いやされた足なえは、心の内で、すぐにでもこの喜びを家族に伝えたいという心ももちろんあったんです。 しかし、心の奥底で、このペテロとヨハネに従って、いっしょに行かなければならない。ということは悟りました。 ペテロとヨハネは、「あなたはわれわれによって病がいやされたのだから、われわれに従わなくちゃならない。われわれの愛弟子にならなくちゃいけない。あなたはわれわれの群れの一つにならなくちゃいけない。」とはもちろん言いませんでした。 足なえが群れに加わったということは、人間が定めた規則ではありませんでした。足なえの心の内から、わいて出る心からの深い願いだったのです。 彼がペテロとヨハネに従っていたのは、彼らに対する感謝の気持ちからではなく、また規則を守りたかったためでもなく、またペテロとヨハネの人柄を見て、「良い人たちである。私の友にしよう。」と思ったためでもなかったんです。 彼らとどうしてもいのちの交わりを持たなければならないという心の奥底での気持ちからそうしたのです。 いやされた足なえは、使徒たちと信者たちにより頼みました。そうしなければ自分の信仰生活が成長しないことを知っていたのです。 しかし彼のより頼み方は、ペテロとヨハネはおぶって歩かなければいけないといったより頼み方ではなかったのです。 こんにちの教会では、霊的な足なえを教会が抱いて歩かなければならないといった状態がしばしば見受けられます。 もしそんな状態なら、ただ足なえである自分を毎日毎日、運んでくれる人々を変えたにすぎないことになるでしょう。 足なえは毎日毎日、近所の人々に連れられて、「美しの門」の前に置かれました。 今度はキリストを信ずる者たちは自分の友であり、ペテロとヨハネに動けない身を運んでもらおうということになります。 これでは何の役にも立ちません。信ずる者の群れの使命は、片端の人を担いで歩く責任をもってるのではありません。 足なえの人がいやされて、一人で歩くようになったように、片端の人が主の恵みによりひとり立ちするようになってもらおう。これが信ずる者の群れの使命です。 救われた方は、主の力によって歩み、自分で主を経験して前へ進むことにしましょう。人からそうさせられることはできないのです。 ここで、信ずる者の間の誤った交わりに対する考えに、注意しなければいけないなのではないかと思います。 信ずる者同士の交わりは、内面的な力となります。外面的な支え合いなら、あまり役に立たない。 足なえは四十年、足を使えませんでした。ですからいやされたとき、ペテロとヨハネにしがみつき、そのうちに段々くるぶしが強くなり、身体の平均を取ることができ、しばらく経ってから、一人歩きするようになったかと言いますと、そうではありませんでした。 いやされたときペテロとヨハネに頼らないで、一人で歩いたのです。 聖書は、足なえは一人で歩くことができたばかりでなく、おどり立ち、歩みだしたとあります。 彼は支えを必要としませんでした。イエス様の力によっていやされたのですから、一人で歩くことができたのです。 ですけど、一人で歩けたのにどうしてペテロとヨハネといっしょに行ったのでしょうか。 それは、いやされた足なえは、もっともっと知らなければならないことが自分にはたくさんあり、それは信ずる者も交わりで知ることができるということを知っていたからです。 そのときのペテロとヨハネでさえ、まだまだ知らないことがらをたくさん持っておりました。私たちもまた、古い信者も新しい信者も同じく、もっともっと多くのことを、主のことを知らなければいけませんし、また、知りたいと願ってるなのではないでしょうか。 信ずる者の間で交わりをもつことによって、心の成長が期待できるのです。 お互いに支え合い、保ち合わなければ、本当の成長を期待できません。一人で行こうとするとその先は袋小路です。 信ずる者の集いは、結局信仰の成長の場です。心の成長を願う人は信ずる者の間の交わりを保ち、信者のうちに溶け込み、信者と一つになるのです。 第二番目の点は、ほかの信ずる者といっしょに証しすることです。 すなわちイエス様を人に伝えることです。イエス様を紹介することです。 ペテロとヨハネまでいやされた足なえが、三人でイエス様の救いを証明したわけですが、三人が三人とも救われたと言いましたので、ほかの人々は納得しないわけにはいきませんでした。4章の14節、もう一回読みましょうか。 使徒の働き4:14
とあります。 目に見えません、感ずることもできませんけど、主の霊は、イエス様が救い主であることを人々に証明するために、証しするために、信ずる者をまったく一つにしたのでした。 ペテロ、ヨハネ、救われた足なえは、マタイの福音書18章の20節のことばを経験したでしょう。 マタイの福音書18:20
と。この三人は心が一つになっており、主イエス様はその人々の中に住み、イエス様がその人たちにとどまっておられるということが、三人を取り巻く人々に自然と分かったのでした。 三人の交わりには、三人に反対する人々は取り巻いていましたけど、イエス様が三人のうちにおられるということが明らかにされました。 これこそ信ずる者の集いの努めです。一人一人がバラバラになっていたのではなく、ペテロ、ヨハネ、足なえが表わしたイエス様まのご臨在を現わすことはできません。 しかし、一つになると、私たちのうちからイエス様が光り輝く。現わされることができます。このイエス様の証は三つに分けられると思います。 第一番目。ペテロは群衆に向かって語りました。そして主の霊はペテロのことばを用い、イエス様を人々に証したのです。 第二番目。いっしょにいたヨハネは話さなかったようです。けど、ペテロの傍らに静かに立っているヨハネは、イエス様をうちに宿し、ご臨在を待ち望み、ペテロの証を祈りによってささげたのです。 第三番目。いやされた足なえは、信じていたイエス様を、結局そのままで証したのです。イエス様は生きておられ、イエス様は奇蹟をなすお方であると、彼は何も話さなくても明らかにすることができたのです。 確かにこのいやされた足なえの名前は書いてないんです。けどイエス様が生きておられる、何でもできるお方であることを、彼は証明するために多くの役割を果たしたのです。 これと同じように、信ずる者の名前は、外に出ないかもしれないし、けども、ともなる証しをすると祝福があります。 いやされた者がいなければ、イエス様を証明する証しは不完全だったと言わなければいけないでしょう。 この使徒の働き3章を見てはっきり分かることは、一人で証しないで、三人いっしょになってイエス様の救い主であることを証したことです。 もし私たち信ずる者が、本当に一つになると、イエス様が救い主であることを証しすることができます。 いやされた足なえがそこにいたことは、本当に大切でした。 ですけど、・・・ (テープ A面 → B面) ・・・紹介したのです。御霊はいつもイエス様を中心に持ってこようとします。 国民の長老たちは、三人から出てくる超自然の力を、もちろん説明することができなかったんです。 国民の長老たちはその力の原因は、ペテロ、ヨハネがかつてイエス・キリストの教えを聞いたからだと考えたんですけど、その理由はもちろん間違っていたんです。 決して十分ではなかったんです。なぜならば、いやされた足なえはまだイエス様を見たこともないのに、本当にペテロとヨハネとまったくおなじように深い喜び、平安と静けさをもっていたからです。 使徒の働き3:11-12
ペテロはここで、なぜ私たちを見つめるのですかと叫び、自分たち三人ではなく、イエス様をイスラエルの人たちに指し示しました。 人々は三人の中におられるイエス様を、結局見ることができたのです。 信ずる者が一つになっていればいるほど、動かすことのできない人々が疑うことのできない証しとなります。 その証しは、信ずる者のうちに住んでおられるイエス様がおられるという、すばらしい証しです。 もしあなたが、一人で証しするなら、人々はあなたをすばらしい人として認めるかもしれない。しかし、それもそうでしょうが、自分が認められるのではなく、自分のうちにおられるイエス様が崇められないなら、なんにもなりません。 もしあなたが信者のひとりとして一つになって、みなで証しするなら、あなたは隠れるかもしれないけど、主が光り輝くでしょう。 生まれながらの能力は問題ではない。 主のご臨在は、みなさんのうちにあることが一番の問題です。 ペテロ、ヨハネ、足なえが三人で立っていましたとき、イエス様は生きておられ、近くにいる、何でもできるお方であることが証しされたのです。 この主を証しすることは、信ずる者の群れの義務であり、また特権です。 ほかの信者により頼み合うこと。お互いに助け合うこと。それから、ほかの信ずる者とともに証しすることです。 第三番目。ほかの兄弟姉妹とともに戦うことです。イエス様が、 マタイの福音書18:20
と言われたとき、その信者の群れに悪魔の攻撃が加えられることも、予告してくださったのです。 ペテロとヨハネ、またいやされた足なえも、このことがらを間もなく経験しました。 もし、三人がバラバラに宮にはいり、一人で祈りをしたならば、攻撃はなかったでしょう。 けど彼ら三人はいっしょに行き、いっしょに証ししましたので、反対が起こりました。 いっしょに証しするなら、その人数の多少に関わらず、地獄の攻撃があります。いやされた足なえは、ふたりといっしょに行くなら、必ず攻撃が来ることを知っていました。 この使徒の働き3章、4章を読むと、いやされた足なえは、夜、ペテロとヨハネといっしょに牢屋の中に入れられたことが分かります。 4章の14節を見ますと、「いやされた足なえは、ペテロとヨハネといっしょにいた。」とありますから、夜も牢屋で、三人いっしょに過ごしたに違いない。いやされた足なえもいっしょに訴えられました。 足なえはいやされて、救われ、その最初の夜を牢屋の中で過ごさなければいけなかったとは、面白い信仰の生活の始めだと言わなければいけないなのではないでしょうか。戦いが始まった。 翌日エルサレムに行ったとき、そして、ほかの信者たちに会ったとき、なぜそんなに迫害が大きくなっているかが分かりました。 この使徒の働き4章に出てくることばとは、詩篇の2篇からの引用であります。この詩篇の2篇とは、結局答えになります。 信者たちはエルサレムで集まり、その三人とともに、祈りのうちにともに働いていたのでした。 詩篇2篇を開き、主に向かって声を上げて祈っていました。この一致があったから、大きな迫害がともなったのです。 信ずる者がまったく一つになり、ともに証しするなら、迫害も必ずやって来ます。 いやされた足なえも、エルサレムにおけるこの祈り会を通して、信者たちの戦いは、血肉に対する、すなわち、この目に対して見える、人間に対する戦いではなく、悪霊に対する戦いであるということを、信仰生活の始めにおいて知ったのでした。 悪魔の、この世の支配しようとする目的はいったい何でしょう。悪魔の憎しみは、油注がれた神の御子、われわれの主イエス様に向けられています。 イエス様は十字架上で、悪魔の働きに打ち勝ちましたが、その戦いは、なんと大きな戦いだったことでしょう。 主の御霊が下った記念すべき日、五旬節以来、イエス様のご臨在を現わすものはみな、悪魔の攻撃の目的となっています。 イエス様を信ずる信者の群れに加わったということは、この悪魔との恐ろしい、霊的な戦いに加わったことを意味しています。 ペテロ、ヨハネ、足なえが迫害に遭っていたとき、この三人に属する同じキリスト者の群れが、エルサレムの一ところで集まり、心を合わせ祈っていたことは、この3章に書かれています。4章にも書かれています。 そしてそのとき、祈ったとき、詩篇の2篇を彼らは開いて祈りました。この2篇は、「神の御子がこの世を支配してくださるように。主のご支配が明らかになるように。」という願いを込めた詩であります。 初代教会のこの信者たちとおなじように、おなじ願いをもつものは、地獄の攻撃を身に覚えるようになります。 信者たちは、あくまで暴力的ではなく、攻撃的でなければいけない。 初代教会の人々は、あらゆる面から攻撃を受けましたが、決してがっかりしなかったのです。 逆に攻撃しました。祈りによって攻撃しました。 いやされた足なえはいやされたとき、大喜びで飛び、歩きましたが、この喜びだけもっていたのでは足りず、また主のうちに救いがあるということを人に宣べ伝えるだけではダメで、どうしてもほかの信ずる者とともに、祈りを合わせて戦わなければいけないということを、あのエルサレムの最初の祈り会で、よく分かったでしょう。 信ずる者は平和のために祈らなかったのです。また、霊的な戦いが休戦状態になるようにとは祈らなかったのです。 あの初代教会の人々は、祈りのうちに戦いました。主のご臨在を証し続けるために、大胆さを与えなさいと彼らは祈ったのです。 そしてその祈りはすぐに、直ちにこたえられました。 使徒の働き4:31
私たちも祈りにより、初代教会の信者とおなじようになりたいなのではないでしょうか。 疑いもなくいやされた足なえは、ペテロとヨハネといっしょに大ぜいの信者の群れのところへ行ったに違いない。 もし足なえがいやされたとき、自分の道を歩んでいたならば、かかる大いなる祝福にはあずからなかったでしょう。 足なえは信者の群れにはいったとき、この兄弟姉妹は、ペテロ、ヨハネの兄弟姉妹であり、主は同じである。また自分とペテロ、ヨハネは、兄弟姉妹で、主はひとつであるから、この信者たちは自分の兄弟姉妹でもあることをよく悟ったのです。 いやされた足なえがペテロ、ヨハネとともに行き、ということは、何を意味していたなのでしょうか。 それは憎しみであり、迫害であり、牢屋であり、霊的な戦いであり、祈りの戦いでした。 これはすべて私的な、また救われた結果として起こった、自動的な結果ではありませんでした。もし足なえがいやされたとき、そのまま自分のうちへ帰っていたならば、このようなことは起きなかったはずです。 すべてのこれらの苦しみは、困難は、ともに生活するところから起こったものでした。また、ともに証しするところから起こってきたものです。 信ずる者の群れは、地獄の力を滅ぼす神の道具、器であります。 私たちが一つになって、ともに生き抜いていくことは、何よりもまして大切です。主が、これに対して、私たちの心の目を開いてくだされば、非常に幸いだと思います。 |