引用聖句:ヤコブの手紙1章6節-7節
この箇所にあるみことばは、信ずる大切さについて述べています。 一つの教えを信ずることではなく、祈りの聞き手に信頼することこそが大切です。 日本にある多くの宗教も同じことを言います。同じことばばをよく使います。例えば文部省には、16,000の宗教が登録されているそうです。それらの多くは、「神様、神様。」と言っています。 またそれらは皆、信仰の大切さを述べています。しかし一つ一つの宗教の神の概念は違うので、分からなくなります。 多くの宗教の強調しているのは、一つの特定の教えです。この教えを勉強して納得し信じ込まなければならないと主張します。 一方で、聖書だけは違う態度をとるのです。神とは創造主、万物の造り主なるお方であり、宗教とは全く関係の無いお方です。 また、人間は一つの教えを信じ込むことによっては決して救われず、一人の方、すなわち何でも出来る方に頼ることこそが全てであると、聖書ははっきり言っています。 先日、ある方の所へ二回目の訪問に伺いました。初めて会った時もよい交わりが出来ました。彼女の尊敬している南ドイツの人と、僕は同じ出身でした。そのドイツの人は60余年間日本に住んでいて、天皇陛下より勲章をもらったこともあり、非常に立派な方で、10数年前天に召されました。 彼女は、私の国籍は天にありますが、主人にもどうしても同じ気持ちになって欲しいので、お話を聞かせて下さいということでした。 このような彼女の必死な姿を見て、とても嬉しく思いました、家族の永遠の幸せのために心配するのは御心です。 必ず皆、まだ救われていない家族や親戚を持っているし、それが重荷になっていなければおかしいのです。現代人は皆が自分のことしか考えないけれども、イエス様の救いに与かった人たちでさえも、自分自分のことだけ考えていたら、何か根本的に間違っています。 信ずる者は家族の救いのために祈るべきで、ではどのように祈ればよいのでしょう。その答えは今読まれた箇所にあります。 ヤコブの手紙1:6-7
いくら願っても、信じて主の約束を自分のものにしないなら、全く空しい努力です。家族の救いのために祈ることが、救われた者にとって最も重要な仕事でなければなりません。 その訪問した姉妹は、何年もの間病気で、いつまでもつか分からない状態で、ご主人のことを考えると心の平安を失っています。 彼女は何にも出来ず、周囲の人のお世話になっているのですが、ご主人は気持ちはあっても、何一つ手助けすることもできず、ただベッドのそばに座っているだけです。 唯一の解放の道は、祈ることです。「主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というすばらしい約束があります。 これは誰に言われた言葉かといいますと、ピリピの刑務所の獄吏に言われた言葉です。 決して疑わずに主の導きを受け取ったパウロとシラスは、無実の罪で刑務所に入れられても、「どうして?なぜ?」などと不平不満を言わないで、賛美し祈りながら感謝の歌をうたったと記されています。 獄吏がその歌を聴いたかどうかわかりませんが、彼は「先生がた、私は救われるためにどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねるようになったのです。 悪人として刑務所に入れられていた人が、急に「先生がた」になってしまったのです。数時間前には、そのような気持ちを全く持っていなかったその獄吏が、困難な状況の下でも、本当の喜びをもって、祈りながら感謝の歌を歌っている二人の姿を見て、「そのような喜びを得るためには、救われるためにはどうしたらよいのでしょうか。」と尋ねたのです。 より良い人間になるためにはどうすべきか、と尋ねたのではなく、自分は本当の喜びを知らない救われていない、どうしたらよいかと尋ねたのです。 答えは、「イエス様を信じること、信頼することです。そうすればあなただけではなく家族も皆救われます。」 吉祥寺で開拓伝道を始めた頃、知ってる人は一人もいなかったし、信ずる人も一人もいなかったし、ボロ家で18年間位、3、4人の宣教師が住んでいて、集会を開いていたんです。 でも一人も導かれませんでした。ですから私たちがあの家に入った時、吉祥寺は買い物も便利で住みやすい所だけど、集会だけは持たないほうがいいよ、と注意されたのです。 他の二つの集会で手伝ってもらいたいと言われ、言われた通りに毎週2、3回ひばりが丘や、世田谷へ行って手伝いました。そうしているうちに、近所の奥さんたちが導かれ救われちゃったんです。 日曜の午後コーヒーを飲みに誘って、イエス様のことを紹介しているうちに導かれたのです。それで仕方なく、そのような計画は全然無かったのに、始めなければならなくなった。 それから、主に法政と早稲田の学生たち、大学院生たちが、導かれ救われるようになり、他の教会のようなことをしなければいけないと思ったのです。 普通の教会は、年に2、3回特別伝道集会を開いているけど、吉祥寺は人口が多いのでそれでは物足りないから、毎月やりました。 毎月二万枚のトラクトを印刷してもらい、一軒一軒歩いて、大きな看板をつくり、今はもう無いから残念なんですけど、それに次のようにみことばを書いたんです。 「イエス・キリスト以外に救いはない。 聖書、わたしはいのちなり道なり。」 その看板を持って、駅の前に立ち、皆でトラクトを配ったりして、身体の運動にはなったんですけど、いくらやっても何にもならなかった。 毎回特別なメッセンジャーを招いて、話をしてもらうと、みんなよろこんで聞いているように見えたけれども、誰も導かれなかった。 結局、現代人は聞く耳を持っていない、という間違った結論を出したんです。けれども、ある会社が作った製品が全然売れなかったとしたら、やっぱり考えなきゃ。そのまま続けていたらお終いになるだけということに、ある時気がついたんです。 考えてみると、私たちは自分の知らない人たちにだけ頑張るつもりだった。でも知らない人によりも、まず自分の家族に、親戚、知り合いに伝えるだけで充分ではないか、と示された時から変わりました。 特別な話し手を招く必要はない、誰一人自分は出来るという自信はなかったけど、とにかく自分たちでやろうじゃないかということになりました。 大体姉妹たちが先に救われることが多く、兄弟たちが救われても充分な知識がまだ無いし、祈りも上手くないし、あれもこれも全然だめ。 でもそのような人達が話すようになったのです。姉妹たちは必死になって祈り、兄弟たちはどうしようもなくて、ただ聖書に頼るしかなかった。結局自分では出来ないと確信したから祝福があったのです。それから次々と、人々は導かれるようになりました。 知らない人によりも、まず家族親、戚知り合いの人たちのために祈って戦かうのが精一杯、それでさえも充分には出来ないからです。家族の救いこそが主の御心です。 確かに知らない未信者に、イエス様のことを紹介するのは比較的に楽です。家族や親戚に紹介するのは、本当に大変です。 でも約束があるのです、知らない人は、導かれるかどうかわからないけど、家族の救いは約束されているから、だから確信を持って安心して、イエス様のことを紹介することが出来るのです。 聖書の中で、導かれた家族についてたくさん書き記されています。 使徒の働き1章14節、この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。 マリヤは勿論、イエス様が生まれる前に主を信じ、イエス様のことについて、「わが救い主なる神。」と言ったのですが、イエス様の弟妹たちは、全く聞く耳を持っていなかったようです。 イエス様は十字架につけられた時、残して行かなければならない自分の母親を、弟妹たちに委ねられなかった。彼女は一人ぼっちになってしまったので、仕方なくヨハネを見て、「あなたの母親です。」、「お母さんこれはあなたの息子です。」 血のつながりはないけど、ヨハネに面倒見なさいよと言ったのです。イエス様の弟妹たちは、そのようなひとたちだったのです。 しかし彼らは後に見事に救われました。おそらく、ヤコブが最初に導かれたのではないかと思います。コリント人への手紙第Iの15章に、イースターの朝キリストはヤコブに現れたとあります。 それで2、3日以内に、皆悔い改め信ずるようになったのだと思います。そして五旬節の日に、皆そろって心を合わせ、祈りに専念していたとあります。 言えることは、妥協しているところに救いはない。イエス様は妥協しませんでした。家族は皆、導かれるようになったのです。 どのような態度で、家族の救いのために祈るべきなのでしょうか。 使徒の働き20:24
とパウロは証ししています。知ってる人々が導かれ救われれば、いのちも惜しいとは思わないほど嬉しいと言ってるのです。 パウロと一緒に働いていたエパフロデトについて、聖書は次のように言っています。 「彼はキリストの仕事のために、命の危険をおかして死ぬばかりになった。」 自分はどうでもいい、周りの人が救われればという心がまえが大切なのではないでしょうか。 マタイの福音書17章14節から20節には、「どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」と記されています。 聖書の中でも、考えられないような最もすばらしい約束です、信仰、信頼があれば、イエス様とつながっていれば。 この父親はどうしてイエス様のところに来たのでしょうか、祈るようになったのでしょうか。それは悪霊につ憑かれた息子を持っているという、自分ではどうすることも出来ない重荷を背負っていたからです。 夜も昼も息子のことが頭から離れず、悩みの種そのものでした。しかもこの息子のことは、単なる重荷ではなく絶望をも意味していたのです。 けれどこの父親は、とても賢い者とされていたので、悩みを全部イエス様のみもとに持ってきて、ひざまずいて祈り、ありのまま話しました。 本当の祈りとはそうであり、多くの人は義務的に祈っているのです。祈るのは良い行いだから、報いとしてなんとかなるのではないか、と思っているのですが、聖書の中で言われている祈りとは、そのようなものではないのです。ただ心からの叫びです、それしか出来ないからです。 その父親は叫びました、イエス様に自分の悩みをありのまま話した結果、助けられたのです。イエス様は答えました、 「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」 当時の人々は、そういう者だったのです。風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようなものだったのです。信じ信頼すれば、主は必ず答えて下さいます。 ルカの福音書8:38-39
彼は命令どおりにし、イエス様を紹介するようになったのです。人間に出来るのはそれしかありません。結果はどうであれ主の責任です。 信ずる者は聖書の中でいつも、イエス様の証人と呼ばれています。イエス様の弟子たちは、五旬節の日につぎのように告白しました。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみなそのことの証人です。どうして証人になったかといいますと、この目で復活なさったイエス様に出会ったからです。」 彼らは俗に言うキリスト教のために宣伝したのではありません、イエス様を紹介しただけです。初代教会の場合は、いわゆる特伝というのはなかったので、どのようにして人々は導かれたかといいますと、全く個人的に知り合いの人々に案内され、導かれたのです。 一つの実例としては、 ヨハネの福音書1:35-42
アンデレはイエス様に出会って、このイエス様とは、救い主であり罪を赦すことができ、希望を与えるお方である。イエス様は、旧約聖書に約束されている救い主であると確信するようになったのです。 その時からただ一人で喜んでいたのではなく、彼は肉親に対して、無関心ではいられなくなり、兄弟であるペテロを見つけた時、「今我々は、約束された救い主に出会ったよ。」、と言ったのです。 42節に、イエス様について語ったばかりではなく、アンデレはペテロをイエス様のみもとに導いた、とあります。私たちもアンデレと同じ喜びを味わいたいものです。 ペテロはその後、初代教会の中心になる者となり、多くの人々に慰めを与えました。 ペテロの手紙第I、5:10-11
アンデレがペテロを主のみもとに導いたことが、豊かに報いられました。 確かに聖書を見ると、悲しいことも記されています。人間は自動的には救われないので、家族が滅びるということもあります。クリスチャンホームで育てられた子どもが、必ず導かれるとは限らない。神は孫を持っていない、子どもしかいないから。 これは、初めての親であるアダムとエバが経験しなければならなかった事実です。 長男カインは弟であるアベルを殺してしまい、そのカインが後々に悔い改めたと聖書は言っていません。逃げてしまったと書いてあります。 「そうするつもりではなかった、とんでもないことになってしまった。ごめんなさい。」と、親の前に行ったのなら、主は恵んでくださり、主の前にも言えるようにされたでしょう。 彼の回復について、聖書は何もいっていない。彼は罪の自覚をもっていなかった。従って救い主も必要ないでしょう。弟を殺したあとで、彼は「私は弟の番人でしょうか。」と言うような、ひどい考えでした。 エゼキエル書3:17-19
家族が救われても、用いられない可能性もあると、聖書ははっきりいっています。その例はヤコブのお兄さんのエサウで、彼は主の資産を受け継ぐことができなかった。 人間として彼は、弟よりも正直な男だった。弟はずるくて大うそつきで、平気で父親をだましたりしたが、最終的に神はヤコブの神と呼ばれるようになったのです。 エサウは回復されたと、聖書は言っていません。彼は長男として、家族の救い幸せのために祈るべき使命を持っていたのに、祈らず全く無関心でした。 この無関心から妥協が生まれ、彼は異邦の女性と親しくなって結婚したのです。生涯の終わりに彼は後悔したが、反省ぐらいで悔い改めまではいかなかった。その結末は、 ヘブル人への手紙12:16-17
しかし、聖書の中でこのような例は少なく、家族が救われる例の方がずっと多いのです。例えば、 使徒の働き16:14-15
彼女は、パウロの述べ伝えた福音は本物だと信じ、悔い改めるようになり、救いに与かる者となったのです。 しかし主のみ心は決してそれだけではない、家族も導かれなければならないと確信し、見事に家族皆導かれたのです。 始めに話したピリピの刑務所の獄吏も、同じような経験をしました。 使徒の働き16:30-34
この獄吏は自分が救われただけではなく、全家族が救われ、ともに心から喜ぶようになったのです。 家族の救い、これこそが御心です。 家族を救いなさいとは、聖書に書かれていません。出来るものではないからです。けれども証ししなさい、イエス様を紹介しなさい、彼らの救いのために祈り感謝しなさい、とあります。 創世記37:15-16
兄たちは11人で、ヨセフは兄たちを捜している間、憎まれ、ねたまれ、売られ、あなどられ、大変な道のりでした。それでも最後にヨセフは、兄たちを救いに導くことが出来たのです。 私たちも、どこにいるときでも、私は家族初め、失われゆく魂を捜しているのですという、真剣な気持ちを外に表して行きたいものです。 「主イエスを信じなさい、そうすれば家族も必ず導かれます。」 |