引用聖句:使徒の働き3章1節-11節
使徒の働き4:1-6、13-14、22-31
今、司会の兄弟は、今朝の利用された箇所を読まれたんです。「あなたは主を知らない」・・・そうすると主に属する人々の交わりの大切さも知らないなのではないでしょうか。 今朝の題名は「救われた人々にくわえられたとはいったい何なのでしょうか」について少しだけ考えたいと思います。 今読みました箇所で、彼らは皆「心を一つにした」と書かれています。イエス様の一つの名前は「望みの神」です。「平和の君」です。「王の王」です。悪魔の名前はバラバラにするものです。人殺しです。メチャクチャにするものです。 今日最も大切なのは、信ずるものは一つになることなのではないでしょうか。 これこそが考えられない奇跡です。信ずるものとは確かにこの世の中では異分子のようなものです。寄留者です。旅人です。けども喜びをもって歓呼の声を上げることができる、すなわち私達の国籍は天国です。もう一寸イエス様が迎えに来られると考えると、本当に嬉しくなるのではないでしょうか。 今の読みました箇所の中の、使徒の働き3章8節に「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った」とあります。 この前の章ですが、使徒の働き2章では、五旬節、イエス様の体なる教会の誕生について書かれています。主なる神の御霊が下って以来、初めの数週間のうちに、エルサレムという町では2万人以上の人が主を信じ、救われたと伝えられています。 使徒の働き2:41
救われた人々は弟子に加えられた。 使徒の働き2:47
「救ってくださった」の代わりに、「仲間に加えてくださった」という表現が使われています。 使徒の働き2:44
奇跡が起こったのです。2章には、多くの人々がみことばを受け入れ、すなわちイエス様を信じ受け入れられたことについて書かれています。そして3章には、救われた人々がいかにして救われたのか、また救いについて何を経験したのかについて書かれています。 宮の美しの門におかれていた、生まれながらの足なえが治されたという記事が書かれていますけど、これは私達救われたものを、主の御霊がどのようにして導き、その信仰を全うさせたかを教えている一つの例なのではないでしょうか。 主を信じ受け入れ救われた兄弟姉妹は、これから先いかにして進むべきか、疑問をお持ちになるかもしれない。それでこの疑問に答えるために今読んでもらいました。3、4章の病を癒された男についてちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。 彼は全く新しくされました。新しい命、新しい喜び、新しい目的のうちに生まれ、変わらせられたのですけど、この男に起こったもう一つの事柄は、彼がイエス様の体なる教会、すなわち救われた人々の群れに加えられたということです。 この足なえは、イエス様のみもとにきたその時に、信ずる者の群れに加わったのです。これは理屈ではありませんが、この男がイエス様のみもとに来た時、自分の生活を主にある他の兄弟姉妹と共にし、分かち合う生活に自然と入れられたのです。 前に話したように2章では、イエス様は救われたものを毎日毎日、信者の群れに加えてくださったことが書いてあります。そして3章では、救われて、体なる教会に加えられたということは、いったい何を意味しているかが書かれています。 イエス様によって捉えられた人は、高く引き上げられ、天にいらっしゃるイエス様と一つであるばかりでなく、イエス様の体なる教会、すなわち地上の信者とも一つになったのです。 祈り、信じ、イエス様を受け入れ、イエス様に自分をお委ねした人は、その瞬間に救われていますと、共にこの救いを経験した人は、救われた瞬間に信ずるものの群れに加えられたのです。3、4章を見ると、癒された足なえは、いつもペテロとヨハネと一緒に歩むようになったのです。3章8節、前に読んだ箇所ですね。 使徒の働き3:8
とあります。それから、 使徒の働き3:11
使徒の働き4:14
とあります。 イエス様が、この癒された足なえを体なる教会に加えられたので、彼はペテロとヨハネと一緒にいたのです。けど信ずるものに加えられたとは、いったい何を意味しているなのでしょうか。まず、他の信者により頼み合うことです。お互い助け合うことであります。 主の命に預かった人が、これから成長していくにはどうしても信ずるものの群れに加わっていかないとまずい、うまくいかない。ですから、3章8節、また3章11節にはっきり強調されています。 この癒された者は、ペテロとヨハネとずっと一緒でした。病を癒されたこの足なえは、信者と一緒に同じ道を歩いて行くようになったのです。この足なえは、自分にとってこの交わりはどうしても必要であることを感じ取りました。この交わりに加わるということを、足なえは自分で自発的に知ったのです。 彼は、私は天にいらっしゃるイエス様と一つであるばかりでなく、イエス様の体であるこの地上に住んでいる信者の一人一人とも、一つであることを知りました。だから書かれていますね。「おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。」とあります。 この節を読むと、癒されたこの足なえは、ペテロとヨハネの前を喜びの余りに飛んで先に行ったとは書いてないし、彼らと共に二人と一緒に宮に入ってきたとあります。ペテロとヨハネと共に喜びましたけど、躍り上がって歩きはしなかったようです。ふつうに歩いていたらしい。 癒された足なえは、どうしてペテロとヨハネを待って一緒に宮へ入らなければならなかったのでしょうか。彼は40年間、動けない状態のままで宮の門のまえに座らせられ、そんなに長い間動かないでいたこの男は、いっぺんにその病を治されたのですから、大喜びで一人で宮の中に駆け込み、主を賛美し、感謝したとしても不自然ではない筈です。 けど、彼は一人で宮の中に駆け込むことをしませんでした。二人と一緒に宮に入ったとあります。 また、彼がいち早く家族のもとに帰り、また友達のところに行き、自分の身に起こった不思議な救いを語ったということも書いてありません。何故この足なえは、ペテロとヨハネと一緒にいたなのでしょうか。ペテロは、足なえに向かって足なえを癒すとき、3章6節ですけど、 使徒の働き3:6
ペテロは、イエス様を指し示し、イエス様の力によって足なえを癒しました。足なえが癒されたのは、ペテロやヨハネのおかげではありません。イエス様がお癒しになったからです。 足なえは、別にペテロやヨハネについて行く必要はなかったのではないでしょうか。自分の道を行くことが出来たはずです。しかし彼はそれをしなかったのです。彼は心のうちですぐにでも、この喜びを家族に伝えたいと思う心もあったでしょう。けども心の奥底で、このペテロとヨハネに従って一緒に行かなければならないと、心の奥底で悟ったのです。 「あなたは私達によって病が癒されたのだから、われわれに従って来なくちゃいけない」とペテロとヨハネは云いませんでした。足なえが信ずる者の群れに加えられたということは、人の定めた規則ではないとわかったのです。足なえの心の内から湧いてでる心からの願いでした。 足なえがペテロとヨハネに従って行くのは、彼らに対する感謝の気持ちからではなく、また規則を守りたかったからでもなく、またペテロとヨハネの人柄を見て、良い人たちである、自分の友達としようと思った為でもなかったのです。 彼らとどうしても命の交わりを持たなければならないと、心の奥底でのやむにやまれぬ気持ちからそうしたのです。 彼は、使徒達と信者達により頼みました。そうしなければ自分の信仰生活が成長しないことを知っていたからです。けども彼のより頼み方は、ペテロとヨハネがおぶって歩かなければいけないといったより頼み方ではなかったのです。 今日の信ずる者の群れには、足なえの兄弟姉妹方がいて、歩かなければいけないといった状態がしばしば見受けられます。もしそんな状態ならば、ただ足なえである自分を、毎日毎日運んでくれる人を変えたに過ぎないことなのではないでしょうか。 足なえは、毎日毎日近所の人々に連れられて美しの門の前におかれました。今度は、ペテロとヨハネに動かない身を運んでもらうということになります。これでは何の役にも立ちません。 信ずるものの群れの使命は、かたわの人を連れて歩く責任を持っておるものではありません。足なえの人が癒されて、一人で歩くようになったように、かたわの人が主の恵みによってひとり立ちするようになってもらう、これが信ずるものの群れの使命ではないでしょうか。救われた方は、主の力によって歩み、自分で主を経験して前へ進むことにしましょう。人がそうさせることは出来ないのです。 信ずる者の間の、誤った交わりに対する考えに注意しなければいけないなのではないでしょうか。信ずる者同士の交わりは内面的な力となります。外面的な支えあいなら、あまり役に立ちません。足なえは40年間足を使えませんでした。ですから癒されたとき、ペテロとヨハネにしがみつき、そのうちにだんだんと踝が強くなり、体の平均をとることが出来、しばらく経ってから一人歩きする様になったかといいますとそうではありません。癒された時、ペテロとヨハネに頼らないで一人で歩いたのです。 聖書は、足なえは一人で歩くことが出来たばかりでなく、踊りだし歩みだしたとあります。彼は支えを必要としなかったのです。イエス様の力によって癒されたのですから、一人で歩くことが出来たのです。 ですけど、一人で歩けたのにどうしてペテロとヨハネと一緒に行ったなのでしょうか。これは、癒された足なえはもっともっと知らなければならないことが自分にはたくさんあり、それは兄弟姉妹の交わりで知ることができるということを知ったからです。その時、ペテロとヨハネでさえまだまだ知らなければならないことがまだまだたくさんありました。 我々もまた、古い信者も新しい信者も同じく、全く同じくまだまだもっともっと多くのことを、主イエス様のことを知らなければいけないし、また知りたいと願っています。信ずるものの間で、交わりを持つことによって心の成長が期待できるのです。 お互いに支えあい、保ちあわなければ本当の成長を期待できません。一人で行こうとするとその先は袋小路です。信者の集いは、したがって信仰の成長の場所です。心の成長を願う人は、信ずる者の間の交わりを保ち、信ずるものの内にとけ込み、信ずるものと一つになることです。 信ずる者の集いに加えられることとは何なのでしょうか。それは今話したように、他の信ずる者と「より頼みあうこと」、「お互いに助け合うこと」であります。 次に、二番目として、他の信者と一緒に証すること、すなわちイエス様を人に伝えること、イエス様を紹介することです。ペテロとヨハネ、また癒された足なえが三人でイエス様の救いを証明したわけですが、三人が三人とも救われたと言いましたので、他の人々は納得しないわけにはいきませんでした。4章4節ですね。 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。目に見えません。感ずることも出来ませんけど、主の霊はイエス様が救い主であることを人々に証明するために、証しするために、信ずるものを一つにしたのです。 ペテロとヨハネ、また救われた足なえは、マタイの福音書18章20節の言葉を経験したに違いない。 マタイの福音書18:20
この三人は心が一つになっており、主イエス様はその人々の中におり、イエス様がその人々にとどまっておられるということが、三人をとりまく人々に自然にわかったのです。認めざるを得なかったのです。 三人のまわりには、三人に反対する人々がとりまいていましたけど、イエス様が三人のうちにおらるるということが明らかにされたのでした。 ペテロとヨハネ、足なえがあらわしたように、主イエス様のご臨在をあらわすことこそ大切です。一つになると、我々のうちからイエス様が光り輝き、あらわされることが出来ます。 一番目、ペテロは群集に向かって語りました。もちろん人々を納得させる、そういう気持ちは一切なかったのです。ただ紹介しただけです。主の霊はペテロの言葉を用いてイエス様を人々に証ししたのです。 二番目、一緒にいたヨハネは話さなかったようです。けどペテロのかたわらに立っているヨハネは、イエス様をうちに宿し、ご臨在を持ち運び、ペテロの証を祈りによって支えたのです。癒された足なえは、しばらくして高められ、今なお実際に天におられるイエス様の力を証明する救われた人でした。 この癒された足なえの名前は・・・ (テープ A面 → B面) これと同じように、信ずるものの多くの信者の名前はそこには出ないでしょうけど、またイエス様を信じていなければイエス様を証しする証明は不完全。この3章を見てはっきりわかることは、一人で証ししないで三人一緒になってイエス様が救い主であることを証ししたことです。 もし私達が信ずるものが、ほんとに一つになるならイエス様が救い主であることを証しすることができるのです。癒された足なえが、そこにいたことは本当に大切でした。けどペテロは、その癒された足なえについては多くのことを語ろうとしなかったのです。いやし主であるイエス様を人々に紹介し、語り伝えたのであります。 御霊はいつもイエス様を中心にしようと望んでおられるのです。民の司達や長老達は、三人から出てくる超自然の力を確かに説明することが出来なかったのです。この長老達、聖書学者たちは、その力の原因はペテロやヨハネがかつてイエス様の教えを聞いたからだと考えましたが、その理由は間違っており、充分ではありませんでした。 何故なら、癒された足なえはイエス様を見たこともないのに、ペテロやヨハネと同じように深い喜びと真の静けさと平安を持っていたからです。もう一度見てみましょうか。 使徒の働き3:11-12
ここでペテロは「なぜ私たちを見つめるのですか。」と叫び、自分達三人ではなく、イエス様をイスラエルの人々に指し示しました。人々は、三人の中にイエス様を見たのでした。信ずるものが一つになっていればいるほど、疑うことの出来ない証し人となるのです。 その証しは、信ずる者のうちに高められたイエス様がおられるという、すばらしい証しです。もしあなたが一人で証しするなら、人々はあなたをすばらしい人として認めるかもしれないけど、それはそうかもしれないけど、自分が認められるのではなく、自分のうちにおられるイエス様があがめられないなら、何にもなりません。 もし私達が一つになって皆で証しするなら、人々の一人一人は見えなくなるかもしれませんけども、イエス様は光り輝くでしょう。生まれながらの能力は問題ではない。主のご臨在が一人一人のうちにあることが一番の問題です。 ペテロ、ヨハネ、足なえが三人で立っていました時、イエス様は生きておられ、いと高く、主なる神の御座に座しておられることがあざやかに証しされたのです。この主を証しすることは、信者の小さな群れの義務であり、またすばらしい特権といえるのではないでしょうか。 信ずるものに加えられたとは何を意味しているなのでしょうか。今話しましたように、第一番目、他の信者により頼みあうこと、お互いに仕えあうことであり、二番目、他の信者と一緒に証しすることです。 三番目は、他の信者と一緒に戦うことです。 主イエス様が「二人でも三人でも私の名において集まるところには、私もその中にいるからです。」といわれた時、その信者の群れに悪魔が加えられることも予告されました。ペテロ、ヨハネ、癒された足なえも、この事柄をまもなく経験しました。 もし三人がバラバラに宮に入り、一人で祈りをしたならば、攻撃はなかったでしょう。けれども、彼らは三人で一緒に行き、一緒に証しをしましたので反対がおこりました。一緒に証しするなら、その人数の多少に関係なく地獄の攻撃があります。 癒された足なえは、二人と一緒に行くならば必ず攻撃がかかることを知っていたのです。4章を読むと、癒された足なえは、夜ペテロとヨハネと一緒に牢屋、刑務所の中に入れられたことがわかります。 使徒の働き4:14
とあります。癒された足なえは、ペテロとヨハネと一緒にいたと書いてありますから、夜も牢屋で三人一緒に過ごしたに違いない。癒された足なえも一緒に訴えられました。足なえは、癒されて主のものになったその最初の夜を牢屋の中で過ごさなければいけなかったとは、面白い信仰生活の初めである、といわなければいけないなのではないでしょうか。 戦いが始まった翌日、エルサレムにいた時、そして他の信者に会ったとき、何故そんなに迫害が多くあっているのかがわかりました。結局集まった人々はみことばを読んだのです。自分で考えても何もならない。彼らは詩篇を読みました。悩んでいる人、苦しんでいる人は、やはり、詩篇を読んでもらいたい。悩んでいる人の心からの叫び、解放された人々の心からの叫びであります。 彼らは詩篇の2編を読みました。 詩篇2:1-12
信ずるものたちはエルサレムに集まり、その三人と共に祈りのうちに共に働いたのでした。主に向かって声をあげて祈っていました。この一致がありましたから、大きな迫害が伴いました。信ずるものが全く一つになり、共に証しするなら迫害も必ずやってまいります。 癒された足なえも、この祈り会を通して、信ずる者の戦いは血肉に対する戦い、人間に対する戦いではなく天上にいる諸々の悪霊に対する戦いであるということを、信仰生活の初めにおいて知ったのでした。悪魔のこの世を支配しようとする目的とはいったい何なのでしょうか。 悪魔の憎しみは、油注がれた主なる神の御子イエス様に向けられています。イエス様は十字架上で、悪魔の働きに打ち勝ちましたが、その戦いはなんと大きな戦いだったことでしょう。 約束された助け主、慰め主である御霊は下って、そして五旬節以来、イエス様のご臨在を現すものは皆、悪魔の攻撃の目的となります。信ずる者たちの群れに加わったということは、悪魔との恐るべき霊的な戦いに加わったことを意味しています。 ペテロ、ヨハネ、足なえが迫害にあっていた時、この三人に属する同じ信ずる者たちは、エルサレムの一所に集まって心合わせ祈っていたことは、少し前に話したんですけども、その時、詩篇の2篇を開いていました。 この2篇は、神の御子であるイエス様がこの世を支配して下さるようにという願いを込めた詩篇です。初代教会は、この信者たちと同じように、同じ願いを持つものは地獄の攻撃を身に覚えるに至りました。 信ずるものはあくまで対応的でなく、攻撃的でなければいけない。初代教会の人々はあらゆる点で攻撃を受けましたが、がっかりしませんでした。逆に攻撃しました。祈りによって攻撃したのであります。 癒された足なえは、癒されたとき、大喜びでとび歩き、この喜びだけを見たのではない、主のうちに救いがあるということを人に述べ伝えるだけではない、他の信ずる者と共に祈りをあわせて戦わなければいけないということを、このエルサレムの最初の祈り会で彼はわかったのです。 信ずる者は、平和の為に祈りませんでした。また霊的戦いが休戦状態になるようにとは祈ろうとしなかったのです。祈りのうちに戦いました。主のご臨在を証しし続けるための大胆さを願い求めました。そして、こういうものは結局勝利します。 使徒の働き4:31
私達も、祈りにより初代教会の信者達と同じようになりたいものです。疑いもなく癒された足なえは、ペテロとヨハネと一緒に大勢の伝道者達の群れのところへ行ったに違いない。 もし足なえが癒されたとき、己の道をあゆんでいたなら、かかる大いなる祝福に預かれなかったでしょう。集まった人々は皆、ペテロとヨハネの兄弟姉妹であり、主は同じである。また自分とペテロ、ヨハネは兄弟姉妹で主は一つであるから、この信者たちは自分の兄弟姉妹でもあることを彼はよく悟ったのです。足なえが癒されて、ペテロとヨハネと共々に行くということは何を意味しているなのでしょうか。 それはみじめであり、迫害であり、牢屋であり、霊的な戦いであり、祈りの戦いでありました。これは全て、救われた結果として起こった結果ではありませんでした。もし足なえが癒されたとき、そのまま自分の家に帰っていたら、このようなことは起こらなかったでしょう。全てのこれらの苦しみ、困難は、共に生活するところから起こってきたのです。 信ずる者の群れは、地獄の力を滅ぼす勝利者なるイエス様の証しであるべきです。私達がひとつになって共に生き抜いてゆくことは何にも増して大切です。主がこれに対して我々の試みを聴いて下されば幸いであります。信ずるものに加えられたとは一体何を意味しているのでしょうか。 今話したように、他の信者が他の信者により頼みあうこと、お互いに助け合うことです。 二番目、他の信者と一緒に証しすることです。三番目、他の信者と共に戦うことです。もう一つ加えましょうか。四番目です。つまり他の信者と共に満たされることです。信ずる者の群れが満たされるところです。 主イエス様の満たしは、共に生活することにのみ経験することができるのです。癒された足なえは、聖霊が何であるかがわからなかったでしょうし、けども他の人々とおなじように御霊にみたされたのであります。 きっと足なえは、五旬節についてあまり経験なかったに違いない。けど足なえは五旬節の力を充分に経験しました。今読みました、 使徒の働き3:1
祈っていた信者達は、五旬節に満たされた経験を持つ人々でしたけど、今またここに満たされなければいけなかったんです。これと同じように私達も絶えず満たされ続けなければいけない。高く引き上げられ、天におられるイエス様は、ご自身に属する我々の満たしとなり、力となりたく思っておられるのです。 エペソ人への手紙1章の23節、よく知られている箇所ですけども、教会はどういうものかとはっきり書かれています。 エペソ人への手紙1:23
この教会は、一つの体であり、イエス様の恵みによって救われた人々です。信ずる者の群れは、イエス様の体であり、またイエス様が満ち満ちておられるところであると、ここで書かれています。 この意味を祈りながら考えると、本当に嬉しくなります。もし、癒された足なえが自分の道を歩んでいたなら、この満たしを経験しませんでした。足なえは、自分の生活は主にある兄姉と助け合わなければ成り立って行けないと思いましたので、一緒になりました。そこで彼は、コリント人への手紙第Iの12章13節に書かれているみことばを知り、また味わい知るようになりました。 コリント人への手紙第I、12:13
とあります。一つの御霊により、一つの体となる事実をこの足なえは経験したのです。回心によって彼は個人的な油注ぎ、聖霊の満たしを経験したのではありません。足なえは回心して信者の群れに加わりました。イエス様の体に加わり、頭なるイエス様より体なる信者たちに下される満たしに預かることが出来たのです。他の兄弟姉妹と共に満たされたのです。 聖書には書いてないけど、ここの信者たちは、この足なえによって大いに祝福されたということは確実です。なぜなら祈り会を始めたのも、足なえの癒しがきっかけだったからです。信ずる者の群れが満たされるところです。 この、満たしのうちにあって初めて、各々の信者は満足される状態にあるのであり、この時初めて各々の方々が、各々の奉仕に預かっているということが出来るのです。 もし私達が主に満たされて生活しているなら、この私達の群れに誰かが入ってくる時、その人が直ちに満たされるのです。私達はこのように主に満たされ、主があふれ出ずるまでに私達を満たすことができれば本当に幸せとおもいます。 |