引用聖句:詩篇16章1節-11節
初めに歌いました歌の中で、非常にすばらしい告白が含まれていたのです。「わが心は満ち足りぬ」、どうしてかと言いますと、その後で、「主の手にあるたましいを、揺り動かすものあらじ。」 結局、主によって守られてると確信できるとやっぱり、嬉しくなります。心配、重荷から解放されるなのではないでしょうか。もう安全だと言える人は、少ないなのではないでしょうか。 何ヶ月前に沖縄行く途中で、スチュワーデスがみな、小さなもの付けていたんです。日本語じゃなくて、英語で書いた文章なんです。 「Safety is my duty」と、書いてました。意味は、「あなたたちの安全こそが、私の任務です。」、私は、私たちはあなたがたの安全のために努力します。頑張ります。もちろん、保障できないなら、飛行機落ちたらスチュワーデスたちは、何にもできません。 けども、結局言いたかったのは、安全だよ。心配しなくてもいい。 もう人間だって、「安全だ。安全だ。」と言っても、大したもんじゃないけども、スチュワーデスたちの気持ちはどういうものであったか、もちろん分からないけども、「Safety is my duty」、私のすべきことは、あなたのことを心配すること、守ること。 そのときちょっと思ったのは、もしイエス様だったら、どういう態度取るなのでしょうか。 イエス様は、「あなたの安全とは、わたしの任務である。」と、絶対に言わない。「わたしの喜びです。わたしの切なる願いです。」、そしてイエス様は何でも知ってるでしょ。何でもできるお方でしょう。 だから、イエス様に頼るとやっぱり安全です。イエス様は、導くことができるし、守ることができるお方です。今読みました、詩篇の作者であるダビデは、 詩篇16:1
と祈ったんです。どうしてこういうふうに祈ったんでしょうかね。主によって守られなければおしまいだと、分かったからです。結局、助けを求める叫びそのものでした。 このダビデは、また別の詩篇で、 詩篇86:2
詩篇86:11
ダビデは自分の無力さを認めたから、自分でいくら努力しても、自分自身じゃ守ろうと思ってもできないこと分かったから、よく詩篇の中で、「主よ。守ってください。」と、祈ったのです。 主のひとつのすばらしい呼びかけとは、どういうものであるかといいますと、「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」 これは、嘘を知らない、自分の約束を守る力をもつお方の呼びかけです。「もういいよ。安全だよ。わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない。」、だから次のように言われてます。 ヘブル人への手紙13:6
結局、完全に人間を恐れる恐れから解放された者だけが、こういうふうに言えるなのではないでしょうか。ダビデは、「主よ。私をお守りください。」と、叫んだのです。 パウロは、殉教の死を遂げる前に、ちょっと考えられない辛い経験をしたのです。彼はもちろん何回も何回も捕まえられ、刑務所に入れられたりして、そしてあるとき、彼は次のように書いたのです。 テモテへの手紙第II、4:16
結局、彼を通して導かれ、救われた信者もみんな逃げたんです。イエス様が捕まえられたとき、弟子たちも逃げたように、やっぱり当時の人々も同じ態度を取ったんです。 結局、危ないと感じたから逃げたんです。パウロにとって面白くなかったと思う。けども彼は、次に言ってるんです。 テモテへの手紙第II、4:17-18
遺言らしいものです。捨てられたけど、主は私を捨てようとしない。主は、「わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。」、このみことばそのものは、私たちのためにももちろん書かれてます。パウロは最後に、結論として、 テモテへの手紙第II、4:18
と書いたのです。このパウロは、よく知られてるローマ人への手紙の中で、証ししたのです。 ローマ人への手紙8:35、37
パウロだけではなく、ここの弟子たちも同じように告白したのです。ヨハネは、 ヨハネの手紙第I、5:4
コリントにいる人々にパウロはまた同じように書いたのです。 コリント人への手紙第II、2:14
結局、主は主です。導き手です。支配者です。また、イザヤも書いたのです。 イザヤ書41:10
結局、主こそが、守ることができるお方です。 ダビデは、それを本当に確信したのです。主はできる、自分はできない、だから主を必要とします。この、前に読んでもらいました、詩篇の16章の8節、9節は、ちょっと考えられない告白です。 詩篇16:8
何があっても、岩のように立つ。もう安全です。心配する必要はない。 詩篇16:9
ここでダビデは、三つの言葉を使ってるんですね。心と、たましいと、身。結局、人間全体が含まれています。 人間の心。人間のたましい。人間の身、からだについて、ダビデはここで言ってるのです。前に、ある心理学の医学書の前書きに、次のように書いた文章を読んだことがあります。非常に、考えるべきことです。 『祈りとは、心配を取り除くために最も効果的な手段である。幼子のような素直な心をもって、あらゆる思い煩いを主イエスに明け渡すこと。これこそまさに、その奥義である。 罪が赦されたという確信こそ、ノイローゼから私たちを守る障壁なのである。 なぜ多くの人は恐れたり、おののいたり、不安と恐怖の中にいるなのか。その方々は霊的な糧を、すなわち、神のみことばを日々、食べていないから。』 そのため、あの心理学者は、毎日規則正しく聖書を読むように、このことをすべての医者、すべての患者さんに教えるように書いたんです。 私たちは失敗するか成功するか、どちらかでしょう。失敗か成功かは、われわれの見方によって決まるものなのではないでしょうか。受け方、心の持ち方にかかってるなのではないでしょうか。 聖書の中で、間違った見方について、色々なこと書いてます。一つの間違った見方とは、後ろを振り返ることです。もう、よく、「過ぎ去ったでしょ。終わっちゃったでしょ。」と、言わなくちゃいけない。 問題は過去じゃないんです。今からです。 過ぎ去ったことについて、いくら考えても何にもならない。昨日もある人は、「おばあちゃんが亡くなった。亡くなったけど、やっぱり、ああしたならば、こうしたならば。」、だれでも言わざるを得ないなのではないでしょうか。 「私は大丈夫。もうやるべき全部やった。」と言える人はいないなのではないでしょうか。よっぽど盲目にされていなければ。 けども大切なのは、結局今からです。ルカの福音書の9章62節を見ると、この間違った見方についてイエス様は言われたのです。よく知られてる箇所ですけど、 ルカの福音書9:62
救われないと書いてないんですよ。救いと関係のないことです。用いられない、主の祝福を受けられないことを意味してるだけですけども、やっぱり、主の祝福を受けられなければ、大変なのではないでしょうか。 旧約聖書とは、おもにユダヤ人のために書かれてるものです。私たちのためじゃない。けどもパウロも強調したのは、やっぱりイスラエルの経験したことは、われわれのためにも大切であるとあります。 例えば、出エジプト記の中で、イスラエルの荒野での旅について、色々なこと書いています。 イスラエルの民は、四十年間、荒野で生活したのです。四十年間さまよい続けたのです。もし彼らは、直接エジプトからカナン、イスラエルまで行ったならば、長くても、二、三週間で行くことができたんです。 海の側で行ったならば、できたんです。けども四十年間かかったんです。もちろん彼らは主の導きによって、こういうふうになったのです。結局彼らの信仰は本物か偽物か、ということが明らかにならなければならなかったんです。 自分を見ないで、主にだけ頼るか頼らないかが、問題だったのです。結局イスラエルの民は、目に見える現実によって、駄目になったんです。 いっつも後ろを振り向いただけなんです。だから、彼らのいわゆる信仰生活とは、実りのない、勝利のない、安らぎを知らない、賛美と感謝のない信仰生活でした。 どうしてであるかと言いますと、後ろ振り向いたからです。後ろ振り向くと、前進できません。 使徒たちはみな、「心一つにして、前向き生活すべきである。」と言い続けたのです。そのために必要なのは、後ろを見ることではなく、前向き生活することである。 第二番目の間違った見方とは、不安そうに辺りを見回すことである。日本語の聖書を見ると、ちょっと違う表現が使われてますけど、原語見るとそうなっています。 イザヤ書41:10
恐れるな。わたしがあなたを守る。わたしはあなたとともにいる。もう、そうすると、心配する必要はない! おそらく十年近くになると思うんですけど、天に召された兄弟がいまして、末期の癌になって、それを通して導かれ救われるようになり、そして生きる希望をもって、死ぬことができたのです。 もう、大きい方でしたよ。185センチくらいだったんじゃないですか。けども、あとで30何キロになったんです。もう骨と皮。けども彼は、「癌になったのは良かった。そうでなければ、私は助け手であるイエス様を必要なかった。今イエス様を知るようになったから、もう心配する必要ない。」 本当に当時のわれわれにとって、大きな模範になったんです。もし彼は、残さなければならない家族について考えたときも、ペッチャンコになったはずです。 けども彼は、病気になったのはやっぱり、一度主のせいです。主は許しちゃったから。そして主は何かを考えてるはずです。どうしてか?なぜか?今は分からないし、知る必要はないけど、分かるときが必ず来る。 よく当時の軽井沢まで行きましたし、大抵、お医者さんついて来て、もちろん酸素ボンベと一緒に行ったんですね。 あるときもう、やっぱり、子どものことを考えて、いい思い出を残したいからと言って、沖縄まで行きました。家庭集会のときもやっぱり、必ず、どういうふうにイエス様を知るようになったか、イエス様は自分にとって何を意味してるのかと、証ししたんですけど、あるときやっぱりもう、今日は100%ダメとみんな思ったんです。 集会所の一番後ろに布団引かれて、寝たんです。けどももしかすると、挨拶だけぐらいできるんじゃないかと聞いたんです。 「どう?ちょっとだけ挨拶?」、もう、ゆっくりゆっくり歩いて、座ってそれから証し始めました。一時間話したんです。もうあなたが病気か?、ちょっと分からなくなっちゃった。 もう、結局イエス様について話したとき、彼は嬉しくなっちゃった。そして彼の一番大好きな言葉はこれだったんです。結局この言葉は私のために書かれたと、彼は本気になって信じたんです。 イザヤ書41:10
そうすれば心配する必要がない。もしそれが本当だったら、もうOKです、安全です。兄弟はそれを経験したのです。 後ろ見ることとは間違ってる。そして不安そうに辺りを見ることもダメ。ここで、「たじろぐな。」と書いてます。原語見ると、「不安そうに辺りを見回すなかれ。」となってるんです。 第三番目の間違った見方とは、近視的にものを見ることです。パウロは、コリントにいる人々に、この間違った見方について、次のように書いたのです。 コリント人への手紙第II、10:7
だから彼らは前進しなかったんです。パウロは、このコリントにいる兄弟姉妹のために、一番心配したのではないかと思います。彼らはもちろん導かれ、救われたんです。 けどダメでした。もう、不一致があったし、分裂になりそうになっちゃったし、もう、ねたみもあったし、大変だったけど、例えば、コリント人への手紙第Iの13章は愛の書、15章はよみがえりの書、最もすばらしいみことばが、彼らに書かれたのです。 けども彼らはどうして前進しなかったかと言いますと、うわべのことだけを見てるからです。 私たちは時々、私たちが現在直面してる悩みだけを見てしまうのではないでしょうか。近視眼的に見ることは、限られた視野をもつことを意味します。 私たちは、目の前のものを見て、すっかりこんがらがってしまうのではないでしょうか。「もうダメ。どうせダメなのではないでしょうか。」と、思えば、もう悪魔の勝利になります。 近視眼的な見方とは危険です。悩み、妨げとなるでしょう。 もうひとつの間違った見方とは、自分勝手なものの見方です。ピリピ人への手紙の2章4節を見ると、パウロは次のように書いたのです。 ピリピ人への手紙2:4
おのれのことのみを顧みることは、自分勝手なことです。ここで、他の人のことも顧みなさいとあります。けどもわれわれの生まれつきの性質とは、どういうものなのでしょうか。 何かあれば、やっぱり私たちはまず、自分のこと考えるなのではないでしょうか。私にどんな影響があるなのでしょうか。自分に害が及ばなければ、それでいいと考えるなのではないでしょうか。 例えば、となりの家の子どもは、自動車事故で死んだとすれば、確かに大変だと思うでしょう。けどやっぱり、他人の子どもです。自分の子どもだったら、もう考えられないなのではないでしょうか。けども聖書の言ってることとは、やっぱり、私たちは悩む者といっしょに悩むべきです。 苦しむ者とともに苦しむべきである。福音を宣べ伝える方法として、最高なのではないでしょうか。悩んでる人々にただ、聖書はああだ、こうだ、イエス様ってこうだ、それだけ言うとやっぱり・・・。そういう人って、もう、われわれの説教聞きたくないよ。 (テープ A面 → B面) ある人々や、悪い肉もあるでしょうけど、良い肉もあるんじゃないかと言います。けど、肉は肉です。結局、自分から出るものは、全部主の受け入れられないものばっかりです。 こういうふうにみことばを見ると、誤った見方の危険性について色々なこと書いてますけど、問題の解決とは結局、この目に見える世界はそんなに大切じゃないことです。昨日も今日も、いつまでも変わらないイエス様を仰ぎ見ることなのではないでしょうか。 前に読みました詩篇の16篇の中で、ダビデは、 詩篇16:8
たまにじゃないのです。 詩篇16:8
と、彼は言ったのです。ダビデの思っていた主とは、いったいどういうお方なのでしょうか。 もちろん永遠に存在するお方、万物の造り主、万物の支配者であったのです。この方を目の前に置くと、すなわち、この方について考えると、この方にすべてゆだねれば、もう、安全です。 この主について、ヨハネは次のように書いたのです。 ヨハネの黙示録1:8
ヨハネの黙示録22:13
始めのない終わりのない方である。この主を、ダビデは目の前に置いたのです。 自分を見ると、他人を見ると、置かれてる環境見ると、間違いなく落ち込む。悩むようになる。主を仰ぎ見ることこそが大切です。もちろん救われるための唯一の道はそれなんです。 聖書の内容を研究しなさい、理解せよ、悟りなさいなのではなく、結局私たちのわがままのゆえに、犠牲になったイエス様を仰ぎ見ることこそが、救われる道です。 ヨハネの福音書6章40節を見ると、イエス様は、父の御心について言われたのです。 ヨハネの福音書6:40
結局、わたしを見て ヨハネの福音書6:40
イエス様、すなわち、十字架につけられたイエス様を仰ぎ見ると、必ず救われます。いったいどうしてでしょうか。結局、十字架につけられたイエス様は、われわれのわがままのゆえに、死に追いやられてしまったのです。 わがままな人間は、だれでもみなその報いとして、死に服さなければならない。けど、イエス様ご自身が、われわれの身代わりとなり、私たちの受けるべき罰をお受けになり、十字架の上で、あらゆる人間のあらゆるわがままに対するさばきをお受けになり、殺されたのです。 パブテスマのヨハネとは、次のように言ったのです。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」、約束された救い主である、イエス様。 十字架につけられた主イエス様を心の目で見て、イエス様のなされた救いのみわざのために感謝する者は、永遠のいのちを持つことができるのです。聖書ははっきり、信仰とは、イエス様を見上げることである。 十字架につけられたイエス様についての絵があるんです。だれが描いたか分からないけども、もう150〜60年前だったでしょうか。ドイツのある若者は、この絵を初めて見たとき、ずっと、絵だけ見たんです。 絵よりもその下に、一文章だけ書かれていました。「わたしがこういう姿になったのは、あなたの罪のゆえです。あなたはわたしのために何をするつもりなのでしょうか。」、そういう文章だったんです。 それによって彼はもう、イエス様の愛に圧倒されてしまって、やっぱりイエス様のためにだけ生きたい。彼は本当に祝福そのものになったんですね。 その当時、ドイツは何百人の宣教師、もう、全世界に行くようになったのです。彼らは、自分のことじゃなくて、ドイツのことじゃなくて、やっぱり全世界のことを考えるようになったのです。 イザヤも同じことを書いたのです。 イザヤ書45:22
わたしを仰ぎ見て救われよ。十字架に架けられたイエス様こそ、われわれが仰ぎ見なければならないお方です。 イエス様を信ずるということは、単に真理を認めるということだけじゃなくて、生きておられるイエス様との生き生きとした交わりを持つことです。 見方によって変わると、はっきり分かります。私たちはいったいどこを見てるのでしょうか。何に目を留めてるのでしょうか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、決して良くない。 ある人々は、劣等感を持つようになり、別の人々は、傲慢な気持ちを持つようになり、結局まったく、意味のないことです。自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただイエス様だけを仰ぎ見ると、勝利が与えられます。 ダビデははっきり、「私は主を見る。」、前に読みました詩篇の16篇の中で、はっきり書かれてますね。 詩篇16:8
毎週二回だけじゃないんです。 詩篇16:8
だからこそ、 詩篇16:9
ヘブル人への手紙の著者も、同じことを書いたのではないかと思います。 ヘブル人への手紙12:2-3
どうしてかな。 ヘブル人への手紙12:3
元気になりたい、喜びに満たされたいと思えば、主イエス様を仰ぎ見なさい。 |