主の足元に座らせてください


ベック兄

(御代田喜びの集い、2003/08/10)

引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

ヨハネの福音書11:21
21マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。

ヨハネの福音書11:32
32マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

ヨハネの福音書11:35-36
35イエスは涙を流された。
36そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」

ヨハネの福音書11:43-44
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

ヨハネの福音書12:1-3
1イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
3マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

ヨハネの福音書12:9-11
9大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。
10祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

ルカの福音書24:50-53
50それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた。
52彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、
53いつも宮にいて神をほめたたえていた。

イザヤ書30:15
15神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。

何年前だったんですけども、岡山の一人の兄弟は重病人になって、医者ももうお手上げなんです。もう何も出来ないとはっきり認めましたし、その時危篤状態にいた兄弟はお医者さんに頼んだんです。「先生ありがとう。けども、もう何もしなくていいよ。イエス様のところに行かせて下さい。」と頼んだんす。
結局イエス様のところに行かせて下さい、という願いこそがすごいなのではないでしょうか。

今読みました、ベタニヤのマリヤもそういう気持ちで一杯だったんです。イエス様のところに行きたい。主よ話してください。聞かせて下さい。聞いております。このような態度を取ることこそが最も大切なのではないでしょうか。
ベタニヤのマリアはそういう聞く耳をもっていたから、好んでベタニヤまで行ったのです。

マタイの福音書21:17
17イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

宗教家たちはみなエルサレムに住んでいたものでした。イエス様はエルサレムを見て涙を流されたと聖書は言っています。彼らの頑なな心を見た時、どうしようもなくて泣いたのです。
確かにベタニヤでイエス様は涙を流されたのです。けどもベタニヤにいる人々とエルサレムにいる人々とは根本的に違う人々でした。ベタニヤの人々とは、「主よ話してください、しもべは聞いております。」、そういう態度を取ったのであります。

今日のテーマは、「主イエス様、足元に座りましょうよ。」

イエス様の足元に座り、みことばに聞き入っていたマリアは必ず元気になり、喜びに満たされたにちがいない。主の言葉は彼女の心の糧となり、心の喜びとなったのです。
主の足元に座ること、主の前で静まることこそが最も大切なのではないでしょうか。

間違いなく現代人が一番必要としているものは、自分の心なのではないでしょうか。なぜならば多くの人の特徴なるものは疲れであり、無力さであり、旅のことであるからです。
もしも私たちが本当に正直に偽ることなく主の前に出るならば、私たちも自分が疲れて、無能力で弛む者であることを告白せざるを得ないなのではないでしょうか。

今読んだ箇所のルカの福音書24章51節に、それから彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福されたとあります。イエス様は弟子たちをベタニヤの近くまで導かれたことは、復活なさったイエス様が一番最後になされたことでした。
弟子たちがイエス様と共にベタニヤに行った時、ここでイエス様は弟子たちを祝福され、その後に天に上げられたのです。はっきり言えることはイエス様が弟子たちとベタニヤに導かれたのは、よく祈りながらお考えになった次の事柄でした。
イエス様はベタニヤに弟子たちを導くことによって、弟子たちに大切なことを教えようと望んでおられたからです。イエス様は弟子たちをベタニヤに導き、「さあベタニヤに来た。この地を末永く記憶に留めなさい。このベタニヤをいつまでも忘れないでいなさい。」と、言いながら弟子たちを祝福してくださったのです。
ベタニヤはどんな意味をもってる地なのでしょうか?ベタニヤはおのおのの違った特徴をもった三人の兄弟姉妹、すなわちマルタ、マリア、ラザロが住んでいたところでした。
そしてイエス様はいつも好んでこのベタニヤに来られて、三人の兄弟をお訪ねになりました。そこでお休みになり、また食事をとったりしました。いつも楽しみにしてベタニヤを訪れた主イエス様でした。

イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたなのでしょうか。イエス様はベタニヤを愛された理由は3つあります。

第1番目、イエス様に対する純粋な愛です。三人の兄弟の一人の姉妹、マリアは生涯を通してイエス様を愛し抜きました。
第2番目、イエス様に対するまことの奉仕です。もう一人の姉妹、すなわちマルタはイエス様に心から奉仕した人でした。
第3番目、イエス様のよみがえりの力です。一人の兄弟ラザロはベタニヤで死よりよみがえらせられたのです。

ベタニヤに住む三人の兄弟姉妹は、イエス様を通して初めて内容ある人生と、はっきりとした目的をもった、意味のある人生が確立されると体験的に知るようになりました。

私たちは、神なき人生の無意味さを認識するなのでしょうか?またいかなる努力も、まことの神と人間との間の隔ての壁を取り除くことが出来ないということを認識してるなのでしょうか?
そしてまた、自分が破産したことを宣告し、自分の債務や我儘をイエス様に告白したなのでしょうか?主イエス様の血潮によって自分が贖われ、神の子とされてることを知ってるなのでしょうか?
そしてもはや裁かれることがないことも確信するなのでしょうか?

今日本当に真剣に考えて頂きたいと思います。すなわち最も大切なことは一体なんなのでしょうか?ということです。一番大切なことをなさる、ということ。これこそ一番大切です。
もちろん私たちはみんな非常に忙しい毎日を送ってます。このことは、あのことは、という人も送らなければならないということを私たちは知っている。私たちはなるほど、あのことも、このこともやりたいと思いますけども、どんなに頑張っても時間と力には限りがある。全てのことをすることはできません。
ですから何が一番大切なことなのか、と問うことによって選択しなければなりません。最も大切なことの一つは、マリアのように主の足元に座ってみことばに耳をかすことです。

マリアは生涯を通してイエス様を愛し抜いたのです。したがってベタニヤの家の雰囲気は、ただ一言で言い表すことが出来ます。それは愛です。
マリアはまことの祈り人でした。彼女がしたようにイエス様の足元に座り続けることなしに祈りの生活は成り立ちません。マリアは集会ではなく、自分の家で主の足元にひざまずきました。
集会の時だけではなく、ただ一人でいるとき密室でみことばを独唱し、主と親しく交わることは本当に大切なことです。

ベタニヤに住む三人の兄弟の周りの人々も、この小さな家族をイエス様がどんなに愛してられたか、よく分かるほどイエス様が三人を愛しておられたのです。
マリアは主イエス様が自分たちを全く欠けたところなく愛しておらるることをよく知っていたので、マリアもイエス様を少しの裏切るところなく、真心から愛してます。
聖書を見ると書いてある通りに、このマリアは非常に値の高いナルドの匂い油をイエス様の頭に惜しげもなく降り注いだのです。
すなわちためらうことなく、あますところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことによる、イエス様に対する愛を明らかにしてくださったのです。
ナルドの匂い、油の匂いが家全体に満ちた。と聖書は言ってます。それと同じように愛の雰囲気が三人の兄弟の家を包んでいるのです。すなわちベタニヤは主イエス様に対する愛が満ち溢れていたところです。そしてイエス様がそれを満足させたところです。

イエス様に対するこのアリアの愛は、主が何にもまして求めておらるるところなのです。イエス様は私たちが心から全てを捧げて主を愛してるかどうか、見ておられます。
私たちはどうでしょうか。イエス様だけを見て、イエス様だけを愛してるなのでしょうか。またはこの世のものも目に入り、主にすべてを捧げることを怠っているなのでしょうか。

ヨハネの黙示録の2章に次のように書かれています。天におかえりなったイエス様の、エペソによる兄弟姉妹に対する呼びかけです。

ヨハネの黙示録2:4
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

初めの愛というのは、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何事も欲せず、何事も成しえないということです。
もし日々、主のみことばである聖書が我々の泉となっているならば、そして我々の考えと行いの中心にイエス様がおいでになるならば、それこそが我々の初めの愛が保たれていることの証拠です。
当時のエペソにいる兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。イエス様の足元に静まることを忘れてしまったのです。その結果イエス様はそういう風に言わなければならなかったのです。
すなわち私はあなた方とともにいる、ということが出来ない。私はあなた方に対して対立する、と言わざるを得なかったのです。生きるまことの神は人の行い、あるいは歩みを見らるるよりも人の心を見てくださるのです。

箴言23:26
26わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。

とあります。他の言葉で言いますと、「主の足元に静まれ。」、ということです。初めの愛はイエス様を私たちの中心に置かせます。そしてこのことは我々の過去における一時期な事柄であってはならない。我々の全生涯を貫く事柄でなければなりません。
イエス様が、「あなたは私を愛するか。」、とお尋ねになったとしたなら私たちは次にペテロのように「はい。あなたを愛しています。」と答えることが出来るなのでしょうか。

ベタニヤの三人はイエス様を、分別のない真実な愛をもって愛したのです。ですからこそ、イエス様は天にお帰りになる前に弟子たちをこのベタニヤに導かれたのです。イエス様は今日もベタニヤを求めておられます。私たちの心は主を愛するベタニヤとなってるなのでしょうか。
私たちの心の内には深い、全き、聖い、主に対する愛があるなのでしょうか?私たちの内には主に対する初めの愛があるなのでしょうか?あのベタニヤの家で満たしに満ちた愛が心の内に漂ってるなのでしょうか?

第2番目、イエス様に忠実に仕えたマルタをもうちょっと見てみましょうか。すなわちまことの奉仕とは一体なんなのでしょうか?イエス様はどうしてそんなにベタニヤを愛されたなのでしょうか?
イエス様がベタニヤを愛されてる理由は、前に話したように3つです。もう一回言いましょうか。

第1番目、イエス様に対する純粋な愛です。マリアは生涯を通してイエス様を愛し抜きました。
第2番目、イエス様に対するまことの奉仕です。マルタはイエス様に心から奉仕した人でした。私たちはこの主に対する愛に満ちた家の中で同時に主に対してなされた忠実な奉仕を見ることが出来るので、すなわちマルタはイエス様のために食事を準備しました。

私たちもマリアと同じようにイエス様に対して奉仕する者なのでしょうか。
出来るだけ多くの奉仕をするのが問題なのではない。主に対して奉仕してるかどうかが問題です。マルタが食事を用意した時、何を考えたなのでしょうか。イエス様はこれを作ったら、大喜びになるなのでしょうか?こうやったらイエス様は満足されるなのでしょうか?それだけを考えていたのに違いない。
私たちは主の御前に出る時、イエス様は我々の奉仕を心から喜び、満足しておらるるなのでしょうか?そうなったら私たちは初めて主の喜ぶベタニヤとなることが出来る。主の憩いの場所となることが出来るのです。

私たちはこの二人の姉妹を見ると、イエス様に対するまことの愛とまことの奉仕という主のみことばに適った、二つの大切な事柄を見ることが出来るのです。けどこの二つのこと、すなわち主に対する愛、そして主に対する奉仕が最後ではありません。主はもっと大いなることを望んでおらるるお方です。
これは、最後の3番目のテーマになります。イエス様はどうして、ベタニヤを愛されたのか。イエス様はベタニヤを愛されてる理由はイエス様に対する純粋な愛であり、イエス様に対するまことの奉仕であり、それからイエス様のよみがえりの力です。

ラザロはベタニヤで「死」よりよみがえらされたのです。そして私たちも、主イエス様のよみがえりの力を経験するべきです。
イエス様は何を願って、わかるるなのでしょうか。当時は死の暗闇を通り、その後みことばによってよみがえらせられたラザロと食を共にし、交わりをもちたく、みな来たのです。ラザロのことをもう少しみてみましょうか。

彼は確かにイエス様に愛された。大いに愛されたのです。けども愛されていても記憶になかったんです。
どしてイエス様はラザロが病気になることをお許しになったなのでしょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様も心からラザロを愛しておられましたのに、なぜラザロは病気に、危篤状態になったなのでしょうか。
彼は病の時に倒れました。だんだん衰弱してきます。けどイエス様は、頼まれたのに来られません。ああ、もしここにイエス様がおられたら、そうしたら何の問題もないのに。本当でしょうか?
もしイエス様がおらるるなら、問題はないなのでしょうか?もちろんラザロにとっては主がおられれば何の問題もないでしょう。病はすぐ治ったことでしょう。けどもそれは父なる神の御心ではなかったのです。ですからイエス様はすぐに来ようとしなかったのです。
心の中で三人の兄弟姉妹の代わりに泣いておられました。イエス様は一刻も早くラザロを助けたかったのですが、父の御心は違うところにありました。すなわち、ラザロはよみがえりの力を経験するには死を通らなければならなかったのです。

私たちの信仰生活におきましても、イエス様は同じような導き方をされます。恐ろしい。自分の愛する愛と、主の愛する愛は共にあることは出来ません。また自分の名前を人に知ってもらおう、というような気持ちと、主に対するまことの奉仕は両立しません。
己の考えと計画もこれらと一緒に主に渡されなければ、よみがえりの力を自分のものとすることは出来ません。
我々の信仰生活には色々思いがけないことが起こります。そうすると、「一体どうしてでしょうか?なぜでしょう?」、と考えます。けどそれも乗り越え、見えないところを信仰によって希望を抱き、前進しますが、その結果思いがけなく悲劇に終わることもあります。
全てを主に委ねて進んでも、何の変化も起きてこないことが大いに知られます。信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光をみつけ、それにとりつなぐ。何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。自分はもうダメだー。自分の前には死が待っているだけだとさえ、思うこともあるでしょう。

そこにまで主が我々を導いてくださった時、そうなって初めて、絶望して初めて主は我々をしっかりと握ってくださいます。
それは一体どういうわけなんでしょうか?それはイエス様は我々を通してよみがえりの力を表したいからです。我々の生活そのものは主のよみがえりの力の証でなければなりませんね。もちろん主の御心は最後的に死ではなく、

(テープ A面 → B面)

それと一緒に食卓についていた者のうちにラザロも加わっていたわけです。そしてそれを多くの人が見て、イエス様を信ずるようになったと書かれてます。ラザロは説教した、証した、と書いてありません。けどもラザロのよみがえらせられた命そのものは生きた証です。よみがえりの力で生活するとは一体なんなのでしょうか?
すなわち主よ、あなたが見せてくださったご奉仕に力がありません。主よあなたが望んでおらるることは分かるけど、いくら動揺してもなにもならない。私は何一つ出来ません。この奉仕をするにはあなたでなければダメです。どうか導いて力を与え、守ってください。
すなわち、生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主により頼む生活こそよみがえりの力による生活の位置です。

ラザロを見て、多くの人々はイエス様を信じた、と書いてあります。けどそれで終わりではありませんでした。悪魔は、聖書学者たちはどうしてラザロを殺せと葬ったのであります。悪魔にとってよみがえりの力より嫌なものはないでしょう。

私たちはラザロと同じように、主とともなる交わりをもちたく思ってるなのでしょうか?主とともなる交わりを生むには、苦しみを経験しなければなりません。
誤解もあり、迫害もあるでしょう。それでももっと楽な道を選びたいなのでしょうか?自分自身が中心となって、イエス様を主としてのけ者とするか、あるいは人の手によってイエス様が我々の中で私たちを通していつも自由にはたらくことができるか、二つの内のどちらかの状態にならざるを得ません。

パウロは常に一生を捧げる備えができていました。コリント人への手紙第II、よく知られている大切な箇所です。パウロ自身の証そのものであります。

コリント人への手紙第II、4:10-11
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

イエス様のいのちが明らかにならなければ、我々の信仰生活は全く的外れといえるかもしれないものであります。生きておらるる主イエス様の前に静まることこそが大切です。
イエス様は永遠の神であり、初めも終わりもないお方です。イエス様は変わることがなく、とこしえに変わらざるお方です。そして、またイエス様は万物の造り主で、過去において目に見えるもの、見えないものの全てを造られたお方だけではなく、今もなお新たなるものをお造りになっておらるるお方です。
そしてまた、ないものをあるもののようにお呼びになるお方でもあります。主が仰せられるとそのようになり、主が命じられるとそれは形どって現れます。イエス様が仰せられ命じられると、無から有が出現し、死んでいたものが生き返ることが実現されます。
そしてその主は力に満ちておらるる主イエス様です。

私たちの側はどうかといいますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちておりますけど、イエス様の側はどうかといいますと、そこには全知全能の力があることが分かります。
そしてその永遠なる主、造り主、また支配者なるイエス様は我々の深いところを勝利へと変えてくださるお方です。
詩篇の作者は、97篇になりますけども、次のように告白したのであります。

詩篇97:5
5山々は主の御前に、ろうのように溶けた。全地の主の御前に。

と書かれています。ここで「溶けた」となってますけど、原語(ヘブル語)を見ると、溶ける(現在形)という意味も含まれています。イエス様は昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。
イエス様は我々にとって必要なものを、すなわち力と、平安と、喜びを我々に与え、提供するお方です。主は与えてくださいます。そして私たちはそれを受けとり、自分のものにする必要があります。これこそ要求されています。

問題は、受け取るとは一体なんなのでしょうか?問題は受け取るとは何を意味し、どのようにしたら自分のものにすることが出来、どうすれば私たちのものとなるなのかということで、その答えは主の足元に静まることによってです。すなわち主の御臨在の前で静まることです。
主の足元に静まるということは一体なんなのでしょうか?全てを主に明け渡すことです。心から主により頼むことです。主の声を聞く備えをもつことです。そして御心に従うことです。主と主の導きに信頼することであります。だから主よ、聞かせてください。聞いております。この態度を取る者こそが大いに祝福されます。




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