引用聖句:詩篇23篇1節-5節
ピリピ人への手紙4:19
コロサイ人への手紙2:9-10
今日もいつものように集会の前に、「どう言うテーマですか?」と聞かれます。どうしましょうか。簡単に言いましょうと思ったのです。「主と私たち」。 本当は言いたいのは「主は満ちて満ちておられるお方であり、われわれ人間はどうしようもない者です。主は、全部知っておられ、われわれは何も知らない。主は何でもできるお方であり、私たちはもう何もできない。」 けども、この主とは、どうしよもない人間を満たしたいのであると聖書は、何回も何回も言っています。 いろいろな絵を描く兄弟がいます。はじめて知るようになった時、よく牛を描いたのです。どうしてか、牛よりも羊が好きになったのです。 聞いたんです。「羊を描くのはどうですかね?苦労したのでしょう?」、2、3日、そのために北海道へ行ったのです。見ようと思ったのです。 彼は、かわいいかわいい小羊を描いたことがあるのですけど、その絵の下に、どう言う言葉が書かれているかと言いますと、ヨハネの黙示録の3章の17節です。 ヨハネの黙示録3:17
この葉書をある人から送ってもらったのです。そして、この言葉の下に何を書いたかと言いますと、この御言葉は、私にぴったりです。主の忍耐に感謝します。 今読んでもらいましたように、ダビデは3,000年前に主の豊かさとすばらしさを体験したのです。主はわたしの羊飼いであるから、乏しいことがありません。わたしは満たされています。わたしの杯はあふれています。ダビデは、そう言うことができたのです。 そしてパウロは、ローマの刑務所の中で書くことができたのです。 ピリピ人への手紙4:19
パウロは刑務所の中で満たされたのです。自分自身に同情しなかったのです。なぜなら、私はひとりぼっちじゃない。主は共におられるとわかったからです。 エゼキエルは当時、主の口として次のように言ったのです。 エゼキエル書36:11
主をあらたに知ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。 そして、エルサレムでイエス様は大声で叫んだことがあります。 ヨハネの福音書7:37-38
すばらしい約束です。満ちて、満ちておられる主は、われわれをも満たしたいと望んでおられます。なんと言う幸いでありましょうか。主の切なる願いは、ご自身の満たしでもってわれわれを満たすことです。 主の満たしは、イエス様のうちに形をとって現れてくるものであり、そしてイエス様と結びついている者は満たされています。 私たちはどんなに困ったことがあっても、その時こそ、イエス様の御許に行き、そのことを隠さなにで、包み隠さず主に打ち明けると、主は必ず満たしてくださいます。束縛から解放されます。用いられる器となります。 聖書の言われている満たしとは、言うまでもなく物ではない。イエス様です。 そしてこのイエス様は、人間一人一人を満たしたいと節に望んでおられます。 主は、詩篇の作者の口を通して言われました。 詩篇81:10
主は、われわれにほんの少しのものだけをあげたいとは思わないで、完全に満たしたいと願っておられます。 残念ながら多くの人は祈りのために、また祈りを通して口を大きく開けようとはしません。イエス様は言われました。 マタイの福音書25:34
われわれ人間を本当に満たしてくれるものは、目に見えるものではありません。世のはじめから備えられていた御国です。 父なる神は、われわれにイエス様を通して、もっと良いものを与えてくださったのです。 イエス様はわれわれのために苦しんでくださり、十字架の上で犠牲になられました。イエス様によって、われわれに必要なものはすべて与えられています。 ローマ人への手紙8:32
一言で言いますと、主なる神は、われわれに満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと切に望んでおられます。そのことを、聖書は何度も何度も繰り返し語っています。 それにしても、なぜ多くのせっっかく救われた人々が、みじめな状態に留まり、主ご自身の満たしに預かることができないのか、不思議です。 2,500年前に、一人の非常に困ったやもめは、一人の預言者エリシャのところに行き助けを求めました。するとエリシャは空っぽの器を借りてきなさいと言いました。ちょと見ましょうか。 列王記第II、4:1-7
これを読むと異常に困惑したやもめの状態がわかります。彼女の夫は死んでしまい、彼女には二人の子供がいました。そして債権者が来て、その子供たちを連れて行って奴隷にしようとしました。もう考えられない悩みです。 彼女のよりどころである夫はすでに死に、実である子供ふたりも今取り去られようとしていました。 このやもめは、一人の油しか持っていませんでした。ほかに、何も持っていなかったのです。ヘブライ語では、「一人の人に油注ぐにたる油が入っていた」と書いてあります。 ですから、ほんの少ししか入っていなかった。イランや、アラビヤやイスラエルなどの地方では、油が一番大切です。従って、いつも油をめぐって争いがあります。油を持っていることが金持ちであり富んでいることを意味していました。 いったい何のためにその油は使われたのでしょうか。まず、油を注ぐためにそれを使いました。病人が出るとその病人に油を注ぎ、病人と共に祈るのです。ここでは、油は癒しの力を意味します。 それから油は、栄養物として食べました。このやもめも、油を食品として用いたに違いありません。これは、ここでは命の力を意味します。3番目に、油は明かりを灯すために用いられました。ここでは油は、明かりの力です。 列王記第II、4:2
やもめの悩みは、この油の壺がほとんど空に近かったことです。油の壺には、油と書いたレッテルが貼ってあったことでしょうけど、中はほとんど空でした。 けれども、中に少しはありました。でも、これは十分な量ではありません。これが、やもめの悩みでした。 彼女は、自分の貧しい状態を隠さずに話しました。 2節の終わりを読むと彼女は、油の壺一つのほかには何も持ちませんでした。自分の貧しさと、自分の悩みを公に話す人にだけ、手助けしてやることができます。 このやもめは、当時の全イスラエルの民の霊的欠乏の状態を象徴しています。イスラエルの民は、主によって選ばれた民でした。イスラエルの民は、癒しから命の力を経験すべき、また、ほかの人々にそれを与えるために選び出されていました。 けれども、イスラエルの民は偶像礼拝をし、主なる神との交わりが少なくなってしまいました。 確かに、イスラエルの民は礼拝のために集っていましたけど、癒しの力、命の力を持っていなかったのです。形はあったけど、力がありませんでした。油の壺はそこにありましたが、中身はほとんど入っていませんでした。 形式的に集まることは、主の忌み嫌われることです。エリシャは、やもめに言いました。「隣の人から器を借りなさい。少しばかりではいけません。空いた器を借りてきなさい。」 いったい、どうして?おかしいんじゃないの。ばかげたことなのではないでしょうか?空の器で、金持ちになるはずがない。いったい、どこから、油を持って来ようとするの。 生まれながらの人は、このようなおかしいこと、ばかげたことを理解することはできないと言うでしょう。「空いた器を借りなさい。」、周りの人々はいったい何なのでしょうときっと、あざ笑うに違いない。 イエス様は、山上の垂訓の中で言われました。「うちに入って、戸の内に閉じこもりなさい。戸を閉じて、隠された所で願いあなたの父に願いなさい。」 悩みを持って、イエス様の所に行きなさい。イエス様だけが、助けることができ、イエス様だけが、助けようとしておられます。 列王記第II、4:4
つぎなさいと命令されています。これこそが信仰の従順ではないでしょうか。やもめは油をつぎました。ほとんど空に近かった油の壺が知らないうちに泉となりました。 もし私たちが、信仰の従順によって主に従うなら、われわれの空虚は満たされ、主のご栄光が現れ、周りの人々も満足するでしょう。 信仰の従順なくしては、われわれは主に喜ばれることは、できません。 やもめは預言者の言葉を聞いて、不可能なことを信じました。従って奇蹟を経験しました。私たちは、聖書により主のを御言葉を知ることができます。その御言葉をしっかりと掴み、信仰の従順によって前進しましょう。それが、われわれの取り得る唯一の道です。 やもめの悩みは、大きな富みに変わりました。子供のような信仰の従順により、やもめの心の傷は癒され、またけがもなくなり、やもめは、周りの人々を照らす力となることができたのです。 油により、癒しの力、命の力、照らす力、これはなんと言うすばらしい富でありましょうか。 イエス様は、あらゆる癒し、あらゆる命、あらゆる光の源です。もし、私たちが信じる者としてイエス様の堅い結びつきを持っていなければ、私たちは空っぽの油壺と同じような者です。 油と言うレッテルは貼ってありますが、中身はほとんどない。なるほど集会にはやって来ますけど、内に力がない。 壺は油で満たされました。私たちはどうでしょうけね。私たちは、イエス様の富を持っているのでしょうか。それとも、持っているのは憐れむべき貧困でしょうか。 言うまでもなく油は、いつも聖霊の象徴です。やもめは少し油を持っていましたが、それだけでは十分ではありませんでした。私たちは、霊的に信じる周りの人々の中で、イエス様の証し人として立とうとは思いませんでしょうか。 エリシャの言葉に従いましょう。「ほかに行って、隣の人々から器を借りなさい。空いた器を借りなさい。」 人間的に考えるなら空の器を借りても、何の役にも立たないように思われますけど、やもめは従うことによって満ちあふれるばかりの祝福を頂きました。 このような彼女の態度は、われわれの模範となり得ます。なぜなら彼女は、何一つ包み隠さずありのままの状態を、自分の困ったことを露わに示したからです。 われわれも、同じようにどんな困ったことがあっても、その時こそ、イエス様の御許に行き、そのことを包み隠さず主に打ち明けると罪とがを赦され束縛から解放され用いられる器となります。 かつての、空っぽであった器は、用いられる器となりました。イエス様こそ、われわれの天のエリシャです。私たちは、空の器であり、イエス様はその空の器を満たしたいと望んでおられます。イエス様の弟子たちこそが経験したのです。 ヨハネの福音書1:16
イエス様はわれわれを満たしたいと切に望んでおられます。預言者エリシャは、やもめが自分の持っている器だけを満たしてもらうだけではなく、ほかの人々の器をも借りてきて満たしてもらうように言いました。 同じように私たちの場合も、自分だけが満たされるだけではなく、いろいろな問題で苦しみ悩んでいる人々も、また満たして頂く、根本問題を解決して頂くことです。 私たちだけが満たされれば、それでいいと言うのではなくて、ほかの人々も満たされるように私たちは用いられるべき者です。詩篇の作者であるダビデは書いたのです。 詩篇81:10
イエス様は、われわれに、ほんの少しのものをあげようとは思っておられない。完全に満たしたいと望んでおられます。 残念ながら多くの人は、祈りを通して口を大きく開けようとはしませんし、また、主がわれわれを豊かに満たしてくださるまで、辛抱強く待とうとはしません。 ヨハネの福音書2章には、イエス様がはじめてなさった奇蹟について書いてあります。その時、7節を見るとわかります。 ヨハネの福音書2:7
召使いに、水がめに水を満たしなさいと言われたから、彼らは、水がめをふちまでいっぱいにしました。その時、彼らに必要なのは、みなわかります。水じゃないよ。ぶそう酒です、必要なのは。 水でいっぱいにしても何もならないよ。そう思ったなら、全く意味のないことになってしまったでしょう。 彼らは、人間的には、主のご命令を理解することはできなかったのです。けれども、命令ですから、ばからしいと思われることにも、「いいよ。従います。」と実行しました。 もちろん、イエス様を産んだマリヤはそう言ったのです。「彼の言ってることを聞きなさい。従いなさい。」、この従順を通して、彼らは奇蹟を経験しました。従順を通して、彼らは豊かな満たしを受けたのです。 要求されていることは、私たちが素直に信じ、主の要求に従順に従うことです。これこそ、自分が満たされ、さらに他の人のために用いられる秘訣です。 少しだけの満たしで満足せずに、壺の縁まで私たちが満たされることを、主は望んでおられます。 私たちも、「主よどうか豊かに満たしてください。」、こういう風に、口を大きく開けて叫ぼうではありませんか。 聖霊に満たされることは、結局、要求されています。すなわち聖霊なる主に支配されることです。私たちは、聖霊の働き対して、三つの異なった態度をとることができます。 まず第一に、聖霊を全く無視することができます。イエス様を信じるならば、誰にでも聖霊が宿っています。けれども問題は、その人が聖霊の宮であるか、あるいは聖霊の牢屋であるかということです。 多くの兄弟姉妹は、御言葉に正しく向かい、聖霊の働きと導きに正しく従うことをしていません。自分が決定権を持ち、御霊は全く無視されているわけです。 二番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れるということです。すなわち言葉を換えて言うならば、聖霊が信者の全支配権を持つということではなく、部分的な支配権を持つということです。 そのような場合には、聖霊は単なるお客様として、よそよそしく取り扱われるのです。おもに自分が支配し、自分が決定し、時々御心は何かと尋ねるにすぎないような信者が少なくないでしょう。 そのような生活の結果は、幸福な生活ではなくて、みじめな生活です。 聖霊を受ける第三の態度は、聖霊にすべてを明け渡し、御霊がすべての支配権を持つという態度です。この態度をとる人は次のように、証しすることができます。「生きるのは、もはや私ではなくキリストです。」 聖霊に満たされることは、感情の問題ではない。意志の問題です。 すべてを主に明け渡した時に、はじめて私たちは、聖霊に満たされます。 従って聖霊に満たされるための前提条件は、まず第一に献身、すなわち自己否定であり、第二に、主が支配権を持ってくださった事実を信じ確信することであり、感謝することです。 言うまでもなく、これは我々の決断にかかっています。私たちは、聖霊に満たされるまで待つ必要はない。私たちが心開いてすべてを主に明け渡した時、満たすことを望んでいる聖霊は、ただちに、私たちを満たしてくださるのです。 大切な質問とは次のようなものでしょう。聖霊に満たされているかどうかは、どういう風に知ることができるかということではないでしょうか。答えはガラテヤ人への手紙の5章22節です。 ガラテヤ人への手紙5:22
「愛」もっとも大切なのはそれなのです。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
聖霊が支配できるなら、御霊の実は啓示されるのです。これは決して敬虔ぶった宗教家、あるいは宗教的な人の努力の結果ではなく、まさに御霊の実です。御霊の働きの結果です。 もし、私たちが自分の弱さと空虚さを意識して歩むならば、主が信仰の従順により、満たしを与えるということを経験します。 あなたは、持っていないから証しすることができないと言うかもしれない。しかし自分の考えや、感情は大切ではありません。主、ご自身が、あなたの泉であるからです。 私たちが主にだけ頼れば、主は私たちの空虚を完全に満たしてくださいます。我々の空虚は、イエス様の力を必要とします。私たちの持っているものが大切なのではなくて、主がなんであるかが大切です。 また、私たちがすでに受けた祝福は、そんなに問題ではなくて、私たちがこれから受ける満たしが問題です。主は、私たちにご自身の力を与えようとしておられます。 この満たしは、いっぺんにやって来るものではなくて、だんだんに、やって来ます。すなわち私たちは、今満たされている。この状態はいつまでも続くことはできません。けれどもその満たしは、イエス様の力は、私たちが筆王とするときに、必ず信仰の従順により主から与えられることを経験します。 主の満たしとはいったいどう言うものなのでしょうか?簡単に4つの点について、考えましょう。 第一番目は命の満たし、すなわち我々は命よって満たされる必要があります。 第二番目は愛の満たしです。すなわち私たちは、愛によって満たされるべきである。 第三番目、喜びの満たし。すなわち私たちは、喜びに満たされることが大切です。 第四番目は平和の満たし。平和に満たされることも要求されています。 それでは、まず命の満たしから考えてみることにしましょうか。 ここで、ひとつのたとえを申し上げると、もし私たちが重病人を病院に訪ねたとします。そして私がその人の名前を呼んで、その人が一度は、かすかに目を開けても、またすぐに瞼を閉じてしまうといったいどうでしょうか。 確かに、その人には命があるけど、命に満たされているとは言えません。旧約聖書の中には、たとえばサムソンはライオンを裂き、ダビデは、ライオンと熊を殺したと記されています。確かに、この二人には命に満たされていたのであります。 多くの人は、新しく生まれ変わっていますが、証しする備えも意志も持っていません。パウロは使徒の働きの中で、9章と22章と26章の中で、三度も公に証ししました。 主は、ご自分の証し人を求めておられ、私たちがその証し人となること、そしてどのようにして主の命を頂いたかを、ほかの人々に宣べ伝えてもらいたいと願っておられます。イエス様は、言いました。 ヨハネの福音書10:10
これこそ、主がこの地上に来てくださったことの目的であり、その意味において、私たちは自分だけが満たしを受けるだけではなく、その命の満たしを一人でも多くの人に伝える使命を持っているのです。 この使命に邁進するために祈り、そのような器として用いられるように、祈ろうではありませんか。 イザヤは2,600年前に書いたのです。 イザヤ書60:22
命に満たされているイエス様だけが、私たちを命に満たしてくださることがおできになるのであり、それだけではなく、他の人たちにも命の満たしを持つようにすることがおできになるのですが、しかも主は、それを速やかにしてくださると約束されています。 二番目は愛の満たしです。すなわち愛に満たされることを要求されています。これは、あなたがどんな人をも、その人が敵であっても愛することができるということを意味します。 ステパノは、初代教会の初めての殉教者ですけど、彼は愛に満たされた男でした。彼は石を投げつけられて、息を引き取るときに叫んだのです。「主よ。イエス様、この罪を彼らに負わせないでください。」 これこそ、愛の満たしです。私たちもまた、隣人、兄弟姉妹、そして敵でさえも愛すべきです。 もちろんこのような愛は、私たちが生まれつき持っているものではありません。どんなに努力しても、持つことができないものです。 けれどもローマ人への手紙5章5節に、すごい言葉が書いてあります。 ローマ人への手紙5:5
神の愛、神ご自身の愛が、私たちの心に注がれています。ですから、そのことをさせて頂くことができるのです。 三番目は喜びの満たしです。すなわち喜びによって満たされることです。 ダビデは詩篇16篇の11節で、次のように告白したのです。 詩篇16:11
これはダビデの証しですけど、主の御前で光の中を歩む者は、誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを主は、我々にも与えたいと望んでおられます。 主の喜びは、波のように変わるものではなく、絶えざる喜び、変わらない喜びです。 よく引用される箇所ですけども、ハバククという預言者は、すごいことを告白しました。 ハバクク書3:17-18
この喜びの満たしは、この世の財産や、様々の事情にかかっているのではない。そして、この喜びは理解することも説明することもできない程のものです。 初代教会の信者たちは誤解され、迫害され、いじめられてきましたけれども、それにもかかわらず悩みながら喜んだのです。 言葉に尽くすことのできない栄えに満ちた喜びに踊っていると、ペテロの手紙第Iの1章8節に書いてあります。 ペテロの手紙第I、1:8
四番目は平和の満たしです。すなわち平和によって満たされることも要求されています。 主は、ご自分の全き平安を我々に与えたいと願っておられます。 イザヤ書26:3
イエス様は平和の君ですから、このイエス様なしには全き平安を持つことができません。 イエス様は、このように来られたのはご自身の平安を我々に与えるためでした。イエス様に信頼するならば、必ずイエス様はご自分の平安を与えてくださる。 ひとつの実例はイエス様でしょう。マタイの福音書26章31節に、一文書だけ次のように書かれています。 マタイの福音書26:31
イエス様は、ゲッセマネの園に行く前に、賛美の歌を歌ったとあります。結局、イエス様は間もなく捕らえられ、数時間後には十字架に釘づけられ、私たちのすべての罪の苦しみを受けてくださり、主なる神に見捨てられるということを知っておられたにもかかわらず賛美の歌を歌っておられたとあります。 イエス様は十字架の上で、考えられないほどの苦しみと悩みを経験なされ、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか?」と叫ばれました。このような苦しみを前もって知りながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。 それはイエス様が全き平安を持っておられたから。イエス様は、我々にも同じ平安を与えたいと思っておられます。そのためには、何が必要であるかと言いますと、一言で言えば主に満たされること、すなわち主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。 満たされるためには、何をしたらいいのでしょうか。主の満たしを受ける秘訣がいったいなんなのでしょうか。 まず第一に、自分が空っぽのものであるということを知る必要があります。もしも、私たちが本当に正直であるならば、自分のうちには、自分のうちには何にも良きものがないということを、認めざるを得ません。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちを清めてくださいますと書かれています。 主はすでに、ご自身の血潮によって、尊い代価を支払ってくださいました。私たちの罪を赦したいと切に願っておられます。 ある人は、自分の罪はあんまりにも大きすぎる。果たして主はこんな罪をも赦してくれるのだろうかと言う疑いを持っています。けれども、主は必ずその罪をも赦してくださるのであり、その時を待っておられます。 満たされる根拠は、すべての罪は赦されており、忘れられていると言う確信です。けれども大切なことは、ただ単に彼の器として、ありのままの状態で主の御許に行くだけではなくて、すなわちただ単に罪を認め言い表すだけではなくて、第二番目に幼子のような信仰を持つこと。主の約束を掴むことも要求されています。 悔い改めた後で、主が自分の罪を本当に赦して洗い清めてくださったと言う確信を持たなければならない。 この確信の土台となるものは人間の感情でも、理解力でもありません。主の約束の御言葉こそその答えです。 中途半端な信仰はなんにもならず、主が求めておられることは、徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。 マルコの福音書9:23
答えとして、イエス様が言われたのです。「不可能なことはない。」 信仰とは、主の贈り物を頂く空の手のようなものです。 けどもまことの信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分のものにすることです。 主の目から見て、もっとも恐ろしい罪は、間違いなく不信仰です。この不信仰の罪よって救われていない人は、滅びるようになります。そしてこの不信仰のゆえに、すでに救われている人々は成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。 信仰のある所には、悪魔は逃げざるを得ません。そして、信仰のあるところには、主が御栄光を現すことがおできになり、奇蹟を行うことができるのです。 そして信仰のある所には、主は礼拝され、誉れを受けるようになります。 私たちは信仰生活において、いつも分かれ道に立たされています。すなわち目に見える現実の世界を見て、それに動かされ、支配されているか、あるいは御言葉を自分のものとして、主に依り頼むかのどちらかです。 これこそが、主の望んでおられる信仰であり、この信仰により、私たちは主を喜ばせることができるのです。現代人は、みな自分のことだけを考えるので不幸になっています。 それでは、どうすれば幸せになるのか。それは、イエス様の結びつくことによってのみ実現されます。 そのための段階は、第一段階として、ありのままの状態でイエス様の御許に行き、すべての罪を隠さずイエス様に打ち明け、罪を言い表すことです。 それから、第二段階は、幼子のように素直に、信仰と信頼を持って主を見上げ、主の約束を掴み、赦しのために主に感謝することです。 そこで、第三段階は何かと言うと、御霊に満たされることによって幸せになることです。 信者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。けれども、多くの信者の場合、聖霊はイエス様の栄光を現すことができませんが、これはまことに悲しい事実と言わざるを得ません。 もちろん聖霊に満たされるとは、奇蹟を体験したり、意見を語ったりすることではなくて、従順に主に従うことであり、自分の支配権を主に明け渡すことです。そうすると、その結果として、二つのことが言えます。 その一つは、イエス様を信じる者が喜んで主を証しすること。すなわちイエス様の証人となり、他の人々をイエス様に導くことです。 使徒の働き1:8
「証人となるべきです。」、ではなくて「証人となります。」と書いてあります。 多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っています。けれども聖霊に満たされたことの特徴は、滅び行く人々のために最善を尽くすことであり、イエス様を証しすることです。それは自分を否定すること、また犠牲を払うことなしには、決してできないことです。 もうひとつ御霊の実が結ばれることでしょう。聖霊に満たされたことの特徴とは、前に読んだ箇所です。 ガラテヤ人への手紙5:22-23
このような御霊の実が実らないということは、その人が御霊に満たされていないことの現れです。言うまでもなくこの御霊の実は、人間の自分の努力の結果ではありません。聖霊の支配の結果です。 ありのままの状態でイエス様の御許に行き、すべてを包み隠さず打ち明け、幼子のような信仰を持ってイエス様を見上げ、自分の支配権をイエス様に明け渡すことによって、私たちは主の満たしを頂くことができるのです。 満たされることこそが、考えられないほど大切です。だからパウロは救われた信者のためにもう、夜、昼祈り、主に叫び続けたに違いない。パウロの祈りは、エペソ人への手紙3章になります。 エペソ人への手紙3:17-19
救われることとは素晴らしいけど、決してそれだけでは十分ではないと、パウロはこの祈りを通して明らかにしたのではないでしょうか。 主の命、愛、喜び、平安に満たされるために、第四の段階は、主を信じる者どおしの交わりの必要性を知ること。そして、実際に交わりを持つことです。 ですから、18節で、「すべての聖徒と共に・・」と言う表現が使われています。そして、私たちは特別の人たちだけではなく、主を信じるすべての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。 これもまた、自己否定を通してのみ実現されることです。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。 主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのために自分が犠牲になっても良いと言う人は、本当に幸いです。その人は、決して損をすることはなく、必ず、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。 これもまた、決して、私たちだけが独り占めするのではなく、悩み悲しみ苦しんでいる人々に対しては、私たちを通して、彼らもまた、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるためです。 私たちが、このように用いられるように、祈ろうではありませんか。もう一回イエス様の招きを読みます。 ヨハネの福音書7:37-38
コリント人への手紙第II、8:9
あなたがたが富む者となるべきですと語られました。 詩篇25:9
詩篇81:10-14
主は、充ち満ちておられるお方です。 この主に満たされることこそが、主の導きの目的であります。 |