引用聖句:使徒の働き9章36節-42節
先週と先々週だけではなく、夕べもだれかが洗礼式のとき同じことばを読んでくださったのです。 歴代誌第II、16:9
意味は、主は信ずる者の中で、主だけを大切にしたいと望む人々を必死になって捜し求めておられるということです。主はわれわれの分かれていない単純な心、主に向かって単一な心を求めておられるのです。 救われることとは確かにもう考えられないほどすばらしいものであります。けれどもそれだけでは十分ではない。主は救われた人々を用いようと望んでおられます。 今日のテーマとは、今読んでもらいました個所について、「女弟子であるタビタ」について少しだけ考えたいと思います。 彼女のような心構えを持つようになれば、本当に幸せなのではないでしょうか。なぜならば、信じてもみなこういう態度を取っていないのではないでしょうか。 確かに残念ですけれど、ある兄弟姉妹はおもに自分、自分、自分のことを考えている。自分のために生活をして、自分自身の実現しようと望みます。 ほかの兄弟姉妹は、イエス様のために生きたいと心から望んでいます。イエス様に喜ばれたい。イエス様だけが盛んになり、自分はそんなに大切ではないと思う兄弟姉妹もいます。 結局主が中心になってもらいたいと望む人々とは、大切にされていないかもしれない。けれども主によって大いに祝福されます。 ある兄弟姉妹は本当にイエス様のみ、すべての栄光を帰していきたいと望んでいる。別の兄弟姉妹はつまずきを与え、分裂を起こす者です。 ある兄弟姉妹は命懸けで集会全体のことを考えて祈り続けます。祈りの中で戦います。ほかの兄弟姉妹は救われていても暗やみの中にいるのであり、結局自分のことしか考えていない。 大切なのはダビデのような祈りをささげることなのではないでしょうか。有名な139篇の中で祈ったのです。「主よ。私を調べて、私を試みてください。 私の思いと私の心を試してください。」 私たちが心からなる悩みをもって自らのうちを主の光によって照らし、試していただく必要があります。 主の光に照らされると、確かにだれでもが小さくなります。顔を上げられなくなります。どうしようとしか考えられないのではないでしょうか。 夏中だいたい何回も、いわゆる納骨式、あるいは記念会もたれるようになったのです。そのとき、「彼らの生活の結末をよく見なさい。」 タビタの場合もそうすべきなのではないでしょうか。彼女の生活の結末をよく見て、彼女の信仰にならいなさい。 今読みました42節の中で、多くの人々が主を信じた。彼女の生活の結末の結果なのではないでしょうか。 確かにこのタビタについて学ぼうと思ってもちょっとたくさんのこと言えない。わからないからです。この個所しか彼女について書き記されていない。 彼女はヨッパというところに住んでいましたが、このヨッパという町は地中海の近くにある町です。 彼女の生い立ちについて、歳について、家族について、色々な状況については結局何にもわからない。彼女の口から出たことばは、ひとことも記されていません。 タビタの話をどなたかテープに吹き込んだならばありがたいけれども、それでさえもない。彼女の証しとはどういうものであったかも、はっきりわかりません。 けれども大切なことが私たちはわかります。彼女は救われていて、生きるまことの神の子どもとなっただけではなく、彼女はイエス様の女弟子になったのです。このことはその当時、非常に大切だっただけではなく、今日でも非常に大切です。 すなわち、私たちひとりひとりイエス様を体験的に知り、従っていこうとしているのでしょうか。イエス様をもっている者はすべてをもっており、イエス様をもっていない者は何にももっていないのです。 数年前にドイツである大きな会社の社長の息子がいましたが、自分の欲しいものを全部もつようになったのです。何でも手に入れることができたのです。人間的に考えれば、恵まれた男でした。 けれど彼は、「人生は無意味である。」という意味の遺書を残して自殺してしまったのです。このようにイエス様がともにいなければ、人生は本当に意味のないものです。 何が人間に欠けているのでしょうか。何が人間を満たしてくれるのでしょうか。それは決して金でも健康でも立派な教養でも名誉でも力でもありません。 それらのものはせいぜい生きている僅かな期間だけ通用するかもしれない。けれど実際には永遠なるものが一番大切です。 ただイエス様だけが私たちの人生を意味有らしめ、価値有らしめるのです。これこそがタビタという女性の経験でした。 すべて目に見える外面的なこの世のものは、決して彼女の飢え渇きを満たさなかったのです。 どういうわけか彼女は重荷を感じていました。心の平安が彼女には欠けていたのです。 けれどあるときヨッパで、彼女は今まで聞いたこともないすばらしい福音を、いいニュースに接することができました。おそらく、ペテロが彼女に福音を宣べ伝え、イエス様を紹介したでしょう。 そのとき彼女は生まれて初めて、イエス様のことについて、すなわち処女生誕、数え切れないほどのいやしの奇蹟、罪なき者の苦しみと死。さらに復活と昇天のことについて聞いたのです。 このイエス様にタビタは完全な信頼を置いたのです。 彼女はイエス様こそ、この世の救い主であり、彼女の救い主であることを信じました。彼女はこのような霊的な体験をしたことのしるしとして、水のバプテスマを受けたでしょう。 彼女は水のバプテスマを受けたとき、次のように告白したのではないでしょうか。 今まで私の人生には目的も望みも、本当の喜びもなかった。 けれどイエス様は私の債務を支払ってくださり、罪を赦してくださったために、まったく新しいいのちが与えられました。 まったく新しい喜びと平安とが彼女の心を満たし、彼女はイエス様を心の底から敬愛したのです。イエス様を大好きになったのです。 彼女と同じように、イエス様に対して心の扉を開く者は本当に幸いです。 私たちの人生にとっていったい何が必要なのでしょうか。 一番大切なことは今話したように、タビタのように救われること。神の子どもとなることです。そのためには何が必要なのでしょうか。 まず第一に、自分が救われなければならないという必要を感ずることです。救われるためにどうしたらいいのでしょうかと問うことです。 二番目に、人間的な努力はむなしいということを知ることです。 すなわち自分も他人も、決して自分自身を救うことができないということを認めることです。すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。 聖書が言っている救いとはいうまでもなく、罪の問題の解決です。 罪のゆえに聖なる、父なる神の怒りのもとにある人間は主との平和をもち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちをもつと聖書は言っています。けれどこれは人間や人間によって作られた宗教によっては得られません。 イエス様は罪に対する聖なる神のさばきの的になられ、ご自身の聖い、尊い血潮によって債務を支払われ、罪を赦してくださるお方です。 この真理を心で受け入れ、信ずる者は神ご自身の平和を自分のものにすることができ、罪の赦しを得ることができ、永遠のいのちをもつ者となります。 「イエス様。あなたは私のために死んでくださり、尊い代価を払って私を買い取ってくださった。そのようにして救われた私はあなたのためにいったい何をしたらよろしいでしょうか。」とタビタは思ったでしょう。 祈りの結果として彼女の目はそのとき突然苦しんでいる周りの人々、やもめたちの姿が急に見えるようになったのです。 そして彼女たちにイエス様のことを宣べ伝えることこそ、イエス様を紹介することこそが自分の使命であることに気が付いたのです。 そこで彼女がやもめたちのために自分の財産を売って、色々なものを買い与え、布(きれ)で服を縫ったりしてイエス様に仕えたのです。マタイの福音書25章の40節を見ると次のように書かれています。 マタイの福音書25:40
つまり彼女の願いは、やもめたちから感謝されることではなく、イエス様に仕えることでした。 彼女は人間を喜ばせようと思わなかったのです。一生懸命働いて、頑張って、犠牲を払って、感謝されればまだいいのです。けれど逆のことになれば・・・。 ですから人間ではなく、主に仕えたい。そういう心構えをどうしてももつ必要があります。 このタビタという婦人は数々の良い働きや施しをしていたと書いてあります。いうまでもなく救われるためではない。救われてからイエス様に対する愛の表われとして、そうせざるを得なかったのです。 彼女は愛に満ち、他人のために、正しく言えばイエス様のために自分自身を無にした人でした。 けれどあるとき病気のために彼女は死にました。もちろん主が召してくださったからです。 集まった人々は彼女のために涙を流し、いつまでも泣いていました。当時の葬儀はやっぱり何日間かかかったのです。 結局、どうして?なぜ?だれも答えられなかったのです。どうして多くの人が悲しんだかと言いますと、それはタビタが物質的に色々と作ってくれたからではなく、自分たちを一番理解し、愛してくれたからです。 タビタのところへ行くと話すことができる。何も隠さなくてもいい。彼女はいっしょに悩む人。いっしょに祈る人ですと多くの人々がわかったのです。 結局みんな悩みや苦しみのある者は彼女のところに行って、すべてを打ち明けると彼女はそれをよく理解してくれたのです。彼女は心から人を愛し、人のために配慮したのです。 疑いもなく彼女は彼らにもちろんイエス様のことを話し、それによって多くの人々が結局導かれたのです。イエス様こそ彼女の賛美にほかならなかったのです。 けれども今や彼女は死んで、静かに横たわっています。そのため人々は気が転倒してしまい、どうしてよいかわからなくなってしまったのです。けれどもそのとき突然尊敬すべき人が現われた。それこそほかならぬペテロでした。 やもめたちはみなペテロの側にやって来て、タビタが生前作ったものを泣きながら見せるのでした。 なぜタビタが死んだのか。彼女たちにはその訳がわかりませんでした。ペテロはみんなのものに外に出てほしいと頼みました。彼の心は非常に感動したでしょう。 ペテロは、主は何を考えているのでしょうか。主のみこころは何であるか、はっきりと知りたかったのです。おそらく祈りながら、主の前に黙しながら、彼は過去で経験したことを思ったのではないでしょうか。 それはカペナウムという町で起こったことでした。そのとき十二歳の少女が死にました。すべての者が大声で泣き叫びました。 そのときイエス様は、「泣くことはない。彼女は眠っているだけだよ。」と言われました。 そしてイエス様はこの十二歳の少女の手を取って抱き起こし、「娘よ。起きなさい。」と言われました。すると少女は起き上がったのです。ペテロにとって忘れられない経験でした。 それからまたほかのこともペテロは思い出したのではないでしょうか。 それはイエス様といっしょにナインにいたときのことでした。葬式の行列が通るとき、イエス様は死んだやもめの息子をよみがえらせなさったのです。 もう弟子たちにとって考えられないことでした。 それから最後にベタニヤのことも思い出したでしょう。そのときラザロはすでに死んで葬られてから四日も経っていたのです。 イエス様は死んだラザロの屍に向かって、「ラザロよ。出て来なさい。」と言われました。 するとその通りラザロは健康人として出て来た。 このような事実を思い出してペテロは、イエス様はここでも奇蹟を行なうことを望んでおられることを確信したのです。 そこでペテロはひざまずいて祈り、それから死体のほうに向いて、「タビタよ。起きなさい。」と言いました。 すると彼女は目を開けて起き上がったのです。 それからペテロは聖徒たちを呼び入れました。驚きと崇拝と賛美と感謝が人々の心をとらえました。そしてこのことはすぐ町中に知れ渡りました。 多くの人々は、タビタのところに飛んで来たのです。ペテロが宣べ伝えたイエス。そしてタビタが信じたイエスが本当に死人をよみがえらせたお方であるならば、聖書に預言された救い主に違いないと考え、多くの人々はイエス様を信じたと報告されています。 ここで一つのことがはっきりしています。すなわち、タビタという女性が単に救われた者であり、神の子であることに満足して、主イエス様の忠実なしもべ、また弟子でなかったならば、彼女に愛された多くの人々が彼女のために泣き悲しんだり、ペテロを呼びに行ったりするようなことは決してなかったでしょう。 もし彼女が生きている間、自分のことばっかり考え、お化粧することに夢中になったり、隣近所に出掛けて、人の悪口ばっかり言ったりしていたならば彼女が死んだとき、多くの人が彼女のために泣き悲しむようなことはなく、簡単に葬り去られ、すぐに忘れられてしまったことでしょう。 今日多くの問題は、イエス様を信じる者は決して少なくないけれど、主の弟子は少ないのではないでしょうか。 多くの人はイエス様を確かに信じます。けれどその人たちの信仰生活は必ずしも、イエス様を証しすることではなく、恥となるようなことが少なくないのです。 イエス様の弟子とは何を意味するのでしょうか。結局、イエス様の望んでおられることを行なうことこそ、イエス様の弟子の特徴です。すなわち、徹頭徹尾主イエス様に従うことです。 いわゆる山上の垂訓の中でイエス様は次のように言われました。もう驚くべきことばです。ちょっと見てみましょうか。 マタイの福音書7:21-22
ここで、ある者と書いていれば安心ですけれど。ここで、大ぜい。おそらく、数えられない大ぜい マタイの福音書7:22
預言をすることとは、みことばを宣べ伝えることです。 マタイの福音書7:22-23
ちょっと考えられないイエス様の判断です。結局実際にイエス様に従う者こそ、イエス様の弟子です。 イエス様に従うということは、イエス様の徹底的な支配を受けることです。したがって、イエス様の弟子は絶えず、「イエス様。私は何をしたらいいのでしょうか。」と問うべきなのではないでしょうか。 新約聖書の中でイエス様が、「わたしに従って来なさい。」というふうに招かれたとき、それは結局救われるための招きではなかったのです。「わが弟子になりなさい。」という呼びかけでした。 この間私たちは色々な個所を読みましたけれども、 マタイの福音書4:19-20
「二日間考えさせてください。」と彼らは言わなかったのです。すぐ、今まで大事にしていた網を捨てた。イエス様に従った。 マルコの福音書2:14
レビのことなのです。お金、お金こそが彼にとってすべてでした。けれども彼もただちに立ち上がってイエスに従った。 ルカの福音書5:27-28
外面的にはイエス様に従って行くことは、今まで自分の生活の領域の中にあったものや人を捨てることを意味しました。 マタイの福音書19:21
アンデレとペテロは、 マルコの福音書1:18
(テープ A面 → B面) 彼は一切を捨てて立ち上がり、イエスに従って行ったと。 今日の主イエス様の弟子も当時と同じように、すべてを捨ててイエス様に従う決意を常にもっていなければならない。少なくても内面的にはそのような態度がどうしても必要です。 未信者の家族、親戚は私たちとは別の世界に住んでいます。したがってそこに越え難い断絶があります。 したがってみこころならば、全国を巡り歩いて、あるいは外国へまでも出掛けて、主イエス様を宣べ伝えるように示される場合もあります。そのようなことが実際にしめされるかどうかは別としても、少なくともそのような備えの心構えが必要です。 イエス様の当時は多くの人々がイエス様に従いました。福音書の中で何回も何回も同じ表現が出てきます。すなわち、おびただしい群衆が来て、イエスに従いました。おびただしい群衆がついて行きました。 大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながらついて行きましたと書いてあります。 イエス様はこれらの群衆に対して、多くのみわざと奇蹟とを行ないました。けれど彼らは本当にイエス様に従って行く心の備えがまた十分にはできていなかったのです。 ルカの福音書の9章を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書9:57-62
救われないではない。ただわたしの弟子となることができない、わたしの用いられる器になり得ない。 ヨハネの福音書の6章60節を見ると、また次のように書かれています。 ヨハネの福音書6:60
いわゆる弟子たち ヨハネの福音書6:60
それ以来多くの弟子たちは、偽者でしたけれど、去って行ってもはやイエスと行動をともにしなかった。これらの人々は聞くことだけで行なうことをしませんでした。従順ならざる弟子は要り得ません。 従順の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書の26章。われわれの毎日ささげるべき祈りが書かれています。 マタイの福音書26:39
マタイの福音書26:42
主イエス様がご自分に従うことの重大さを弟子たちに繰り返し言われたことは間違いない。 ルカの福音書の14章の25節を見ると、イエス様は次のように言われました。弟子になる条件についての個所でもあります。 ルカの福音書14:25-33
弟子として主イエス様に従うことは、徹底的な献身を意味し、あらゆる人間的な絆からの分離を意味するのです。 マルコの福音書の10章。よく知られている、よく読まれる個所なんですけれども、何が大切なのか。ここで、「全部捨てなさい。」とあります。 主はもちろん人間の金は欲しくない。必要ないからです。けれども人間は金の奴隷になれば、主に用いられ得ない。ここで、 マタイの福音書10:34-37
マルコの福音書8章を見ても非常に似ている個所があります。 マルコの福音書8:34
ついて来たくなければ結構。主は強制なさいません。 マルコの福音書8:34-38
イエス様に従うことは、毎日自分の意思、自分の思いとをイエス様に明け渡すことを意味します。 ヨハネの福音書10章の4節を見ると、イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書10:4
ヨハネの福音書10:27
主のものであれば、いくら愚かな羊であってもついて行くとあります。 イエス様の声に聞き従わない者は、イエス様の弟子ではない。イエス様の声に聞き従う者は、決して道に迷うことがない。 けれどイエス様の声に聞き従わない者は、やみの中をさまよう。そしていつも波のように揺り動いて、定まることがないのです。 今イエス様に従う者は生きている間だけではなく、死んでもからも豊かな報いを受けると約束されています。 マルコの福音書10章の28節を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書10:28-30
倍貰ってもすごいでしょ。損しません。ここで百倍と書いてあるのです。 マルコの福音書10:30
今まで述べたことを要約してみましょうか。 弟子とされることの必要不可欠な条件は、イエス様を信頼し、明け渡す献身です。 ここであるときひとりの兄弟は次のように言いました。「私の今年の切なる願いとは、もっともっとイエス様を信頼したい。何でも知っておられ、何でも出来るイエス様に心から信頼したい。」と証ししたのです。 自分の親しい家族や友人よりもだれよりも、イエス様を愛し、イエス様のためにすべてを捨て、すべてを失う備えの出来ている者だけが、イエス様の弟子となることができるのです。 「主よ。主よ。」と呼ぶ者がイエス様の弟子なのではなく、ただ主のみこころを行なう者だけが、本当の弟子であると新約聖書を通してはっきり知ることができるのです。 イエス様の弟子となるとその結果、必然的に憎しみや誤解、迫害をともなうのです。 弟子は死にまさることはないと聖書に書かれているように、イエス様は死の受難を受けられたわけですけれど、主の弟子とされた者も迫害を受けたり、憎まれたりするぐらいのことはいわば当然であると言えましょう。 けれどもイエス様は言われました。「しあわせだよ。さいわいだよ。」 マタイの福音書5:11
ペテロも当時の迫害された兄弟姉妹を励ますために書いたのです。 ペテロの手紙第I、4:14
主イエス様の弟子はあれこれと思い煩う必要はありません。イエス様ご自身がすべてよいように配慮してくださるからです。 同じく山上の垂訓の中で、マタイの福音書6章の中で次のように書かれています。だれでも理解できる個所です。だから何でも主にゆだねればいいのではないでしょうか。 マタイの福音書6:25-32
主を知らない人々 マタイの福音書6:32-34
主イエス様の弟子は祈りにおいて自由と権威をもっています。 ヨハネの福音書14:12
ヨハネの福音書14:14
イエス様の弟子は蛇のように賢く、鳩のように素直であるとイエス様は言われました。 マタイの福音書10:16
今日この世が必要としているものは、主に従って行く者、すなわちイエス様の弟子にほかならない。イエス様の弟子だけがこの世の光であり、地の塩です。 主イエスの弟子とはこの堕落した時代にあって、みことばをしっかりと受け止め、主の御声に聴き従う者です。 どうでしょうか。私たちはみな神の子となる特権にあずかったのでしょうか。もしそうでないならば、今この機会が与えられているから、どうか受け入れて信じ、主の救いのみわざのために感謝してください。 私たちはみなイエス様の弟子、主に従っている者なのでしょうか。 自分の罪が赦され、神の子とされたあとでイエス様は、ご自分に従うこと、すなわち弟子となることを望んでおられます。 「わたしについて来なさい。」とイエス様は私たちにも呼びかけておられます。 ですから私たちは今までと同じように、自己決定と自己支配とをこれからも続けていきたいのか、それとも献身と本当の自由との新しい人生を始めたいのでしょうか。 すべては私たちが新しい人生と証しとによってほかの人々が自由になり、本当にイエス様を信ずるようになることを望むか否かの決断にかかっています。 タビタによって多くの人々がイエス様を信ずるようになり、救われたのです。いったいどうしてなのでしょうか。彼女はイエスの弟子であったからです。 |