正しい見方


ベック兄

(御代田喜びの集い、2005/07/24)

引用聖句:詩篇16篇1節-11節
1神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
2私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
3地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
4ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
5主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
6測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
7私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
8私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
10まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

ピリピ人への手紙2:5-11
5あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

今日のテーマは、「正しい見方」であります。なぜならば、見方によって人間は不幸になるか、幸せになるかのどちらかです。
われわれが仰ぎ見る主は次のように呼びかけ、約束しておられます。

ヘブル人への手紙13:5-6
5「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
6そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

初代教会の兄弟姉妹は確かに確信をもっていたのです。どういう確信をもっていたかと言いますと、主は決して捨てない。
ダメな者でさえも、邪魔虫でさえも主によって捨てられません。だから彼らは人間を恐れる恐れから完全に解放されたのです。

結局イエス様は何を約束しておられるかと言いますと、私の喜び、またわたしの楽しみはあなたを守ることです。あなたを導くことです。あなたをわたしの喜びと平安と希望に満たすことです。
この主とは何でもできるお方であり、この主とはすべてにまさって偉大なるお方です。このお方を仰ぎ見ると元気になる。

先週私たちは少しだけ神のみこころにかなうダビデについて、ダビデの祝福された生活について考えることができたのです。
ダビデとはどうしてみこころにかなう人になったかと言いますと、絶えず悔い改めたからです。
今の詩篇16篇もこのダビデの告白、証しです。

詩篇16:8-9
8私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

詩篇16:11
11あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

天国みたい。夢の世界なのではないでしょうか。けれどもこれこそがダビデの告白です。

人間は何を必要としているかと言いますと、宗教をもつことではない。宗教に頼ると必ず騙されるからです。
必要なのは主の愛を経験することです。結果として生き生きとした希望をもつようになるからです。

確かに考えられない多くの人々の考え方はおかしい。すなわち大部分の人間は、神様は宗教を肯定するのではないか。喜んでいるのではないか。決してそうではない。
まことの神は宗教と関係のない方です。なぜならば、宗教だって全部人間の作ったものです。そして生けるまことの神は人間の作ったものを受け入れられません。
イエス様は新しい宗教、すなわちキリスト教を確立するために来られたのではない。私たちひとりひとりの身代わりとして十字架の上で死ぬためにだけ来られたのです。なぜならば、罪滅ぼしのためにほかの道がなかったからです。

宗教においていつも人間が中心となり、ちっぽけな人間が何をなしうるか、何をなすべきであるかというようなことが中心的な問題となりますけれど、聖書の中心とは決して人間ではない。
今日も生きておられる、臨在し給う、すべてを支配しておられる主イエス様ご自身です。このイエス様を仰ぎ見ると、人間は元気になります。
これこそが3,000年前に生きていたダビデの告白です。

彼は本当に幸せでした。重荷から、不安から解放されたのです。ですから彼のこの詩篇16篇の8節、9節の証しとは本当にすばらしいのではないでしょうか。

詩篇16:8
8私はいつも、私の前に主を置いた。

だから彼はどういう辛いことがあっても喜ぶことができたのです。

詩篇16:9
9私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

結局ここで人間全体が含まれているのではないでしょうか。すなわち人間の心。
二番目。人間のたましい。人間のたましいの能力とは考えること、欲すること、感ずることです。それから人間の身、からだについて書いてあります。
結局主を仰ぎ見ると本当に心から喜ぶことができる。安心してすべてを主に任せることができるのです。

何十年か前にひとりのドイツの心理学者が医学全書を書いたのです。その中に書いた文章は非常にすばらしい証しです。
彼は何を書いたかと言いますと、祈りとは心配を取り除くためにもっとも効果的な手段である。
幼子のような素直な心をもって、あらゆる思い煩いを主に明け渡すこと。これこそまさにその奥義にほかならない。罪が赦されたという確信こそノイローゼから私たちを守る障壁なのです。

なぜ多くの人は恐れたり、おののいたり、不安と恐怖の中にいるのでしょう。その人々は霊的な糧を、すなわち神のみことばを日々食べていないからです。主を仰ぎ見ないからですと言ってもいいのではないでしょうか。
ですからあの心理学者は毎日規則正しく聖書を読むように、このことをすべての医者が患者に教えられるよう、書き記したのです。

聖書とは本当に人間に与えられているもっともすばらしい宝物です。
確かに救われるために別に聖書の知識をもたなくても結構でしょう。なぜならば救われるために必要なのは、ぺちゃんこになること、へりくだること、頭をさげることです。
「神様。こんな罪人の私をあわれんでください。」と心から思う人は必ず救われます。

どうして救われているか、もちろんわからない。聖書がなければ。けれども別に今わからなくてもいいのではないでしょうか。けれども救われた人々にとって本当に大切なのは、みことばに頼ることです。そうでなければ成長がない。
私たちはどうして聖書を読むか。もちろんわかるためではない。知識を得るためでもない。元気になるためです。
聖書こそが人間に与えられている最高の宝物です。元気のもとそのものです。

結局われわれの生活は祝福されるか、祝福され得ないか、失敗しているか、それとも成功しているのかとは結局われわれの見ているところによって決まるものではないでしょうか。
見方は本当に大切です。心の持ち方こそ大切です。
私たちはいったいどこを見ているのでしょうか。いったい何に目を留めているのでしょうか。

聖書の中で色々なみことばを通して信ずる者は注意されています。なぜならば間違った見方もあるからです。
例えば間違った見方のひとつは、ルカの福音書9章62節に書き記されています。うしろを振り返ることこそが間違った見方です。

ルカの福音書9:62
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

結局、過ぎ去ったことはもう終わった。問題は今からなのではないでしょうか。

イスラエルの民は40年間さまよい続けました。確かに彼らは主の救いを経験しました。代わりにほふられた小羊の血が守る力、解放する力、救う力を経験したのです。
けれども彼らはあとで、結局成長しなかったのです。彼らのいわゆる信仰生活とは実りのない生活でした。勝利、喜び、安らぎ、賛美と感謝のない信仰生活でした。いったいどうしてでしょうか。
答えは、彼らはうしろを振り向いたからです。うしろを振り向かず、前進すべきです。前向き生活をするべきです。

二番目の間違った見方は、結局不安そうにあたりを見回すことです。イザヤ書の41章10節を見るとその表現が出てきます。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

ひとりひとりに与えられている主のみことばであり、すごい約束です。
ここでの日本語の訳は、「恐れるな。」となっています。原語を見ると、「不安そうにあたりを見回すなかれ。」となっているのです。
結局、主を見なければおかしくなる。落ち込むようになります。

第三の間違った見方は、近視眼的に物を見ることです。コリント人への手紙第IIの10章7節を見ると、ひと文章ですけれども次のように書かれています。

コリント人への手紙第II、10:7
7あなたがたは、うわべのことだけを見ています。

これはパウロのコリントにいる兄弟姉妹に対する冷たい批判ではなかった。
パウロは彼らを見たとき、非常に悲しくなった。結局、成長がなかった。彼らは証しではなかった。いったいどうして?うわべだけのことを見たからです。
確かに私たちもときどき私たちの現在直面している悩みだけを見ているのではないでしょうか。近視眼的に見ることは限られた視野をもつことを意味します。

私たちは目の前のものを見て、すっかりこんがらがってしまいます。「もうダメだー。」と考えるようになります。
苦しみや問題は確かにあるけれど、それはおしまいではない。近視眼的な見方は危険です。悩み、妨げとなるものです。
今の悩みは大変かもしれないけれど、そんなに大切ではない。目に見えない霊的な現実が目に見えることよりもわれわれにとって現実的な問題とならなければならないのではないでしょうか。

四番目の間違った見方は、ピリピ人への手紙の2章4節に書かれています。

ピリピ人への手紙2:4
4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

いうまでもこのことばは、主の恵みによって救われた人々に書かれたことばです。未信者はどうせできないからです。
信ずる者の自分の知恵に頼って、自分の力に頼ってももちろんできるものではない。うちに住み給うイエス様しかできない。

おのれのことのみを顧みることは自分勝手なことです。他の人のことも顧みなさいとはいったい何なのでしょうか。
何かひとつの問題がある場合、それは私にどんな影響があるかと考える必要はない。人にはもしことが起こった場合、自分に害が及ばなければそれでよいとする考えが往々にしてあります。
けれどおのれのことにも顧み、おのれにだけ意を用いる考え方は誤ったものの見方です。おのれだけを顧みることはおのれを不幸にする一番の早道なのではないでしょうか。

こういうふうに聖書の中で、誤った見方の危険性がについて色々なことが書いています。
けれども私たちはこの誤った見方の危険性についてだけ考えると、「ちょっとどうしましょうか。」という気持ちになります。
もっと大切なのはイエス様を仰ぎ見ることです。そうすると間違いなく祝福されます。

ダビデ王はこの詩篇の16篇をだいたい3,000年前に書いたのです。3,000年前に彼は、「私はいつも、私の前に主を置いた。」と告白しています。
彼は「主」ということばを何回も使いました。結局イエス様とは、ダビデの助け手、守り手であっただけではなく、彼を支配し給う主でした。

イエス様とは、主なる神は人間の救い主であると聖書の中で何回も何回も書いているのではないかと多くの人々は思っています。これは間違っている。
主は人間の救い主であるという聖書の個所は26ヶ所しかない。驚くべきことです。
けれどもこの主とは、主、支配し給うお方である事実について聖書の中で670回も書いています。もう比べられない。

もちろん主が支配者であれば人間は大いに祝福されます。確かに多くの人々は、「主よ。ああしてくれ。こうしてくれ。」と祈ります。ちょっと問題なのではないでしょうか。
もし私たちは自分のために何がいいか、全くわからないから、「お任せいたします。みこころだけがなるように。」という態度を取ると主は大いに喜ぶのです。祝福してくださるのです。

主を仰ぎ見ることこそがもちろん救われるもとでもあります。ヨハネの福音書6章の40節を見るとイエス様は次のように言われました。

ヨハネの福音書6:40
40事実、わたしの父のみこころは、子を見て

わたしを見て

ヨハネの福音書6:40
40信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

父は何を考えているかと言いますと、イエス様を仰ぎ見ることです。
人間は確かにみなわがままなのです。生まれてから死ぬまで。そしてわがままな人間はだれでもみんなその報いとして死を服さなければならないと聖書は言っています。
けれどイエス様ご自身がわれわれの身代わりとなり、代わりにひとりひとりの受けるべき天罰をお受けになり、十字架の上であらゆる人間のあらゆるわがままに対するさばきをお受けになり、犠牲になり、殺されたのです。

イエス様の道を備えたバプテスマのヨハネは、イエス様を紹介したのです。どういうことばで紹介したかと言いますと、「見よ。世の罪を取り除かれる救い主。神の小羊である。」と言ったのです。
見よ。世の罪、すなわち私の罪、あなたの罪を取り除かれた救い主なる主イエス。これこそがすごいすばらしいニュースなのではないでしょうか。

今朝ここまで来たとき、ある兄弟は必死になって新聞を読んでいたのです。色々なこと、イギリスはああだ、こうだと悪いニュースばっかり。
新聞を読んで、あー、ありがたい。嬉しいという気持ちに絶対にならない。悪いニュースばっかりです。
イエス様のことを考えると、嬉しくなる。希望が湧いてくる。イエス様を仰ぎ見ると本当に喜ぶことができるのです。

もうすでに旧約聖書の中で、イザヤ書の45章になります。次のように書かれています45章の22節。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

わたしを見て救われよ。十字架に架けられたイエス様こそ私たちが仰ぎ見なければならないお方です。
イエス様を信ずるということは、ただ真理を認めるということだけではない。今も生きておられるイエス様と生き生きとした交わりをもつことにほかなりません。

私たちはいったいどこを見ているのでしょうか。何に目を留めているのでしょうか。
自分自身を見たり、他人を見たりすることは決してよくない。劣等感や卑屈な気持ちをもたらすものであるからです。あるいは優越感や傲慢な気持ちをもたらすものであるからです。そのような状態になる人々は悩むようになります。
少なくともイエス様はそういう人々を用いる、祝福することができないからです。知らないうちに悪魔に用いられるようになります。

自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただイエス様だけを見上げることが勝利の生活の秘訣です。
いうまでもなく今日そういうふうにしても、喜びと平安に満たされたとしても、次の朝また同じ問題が出てきます。
そのとき、目に見える現実だけを見るか、あるいは意識して自分のために犠牲になり、復活なさり、今日も支配し給うイエス様について考えるかのどちらかです。

結局ふた種類の人間がいます。
ひと種類は、もちろん大きな声で言わない。けれど次のような態度を取ります。結果として辛い経験をもつようになります。詩篇16篇の8節です。
逆に読めば、ときどき聖書を逆に読んで考えれば、ああ、そういうものかとわかります。ですからちょっと逆に読みます。

「私はただ自分だけを見る。自分の知恵や自分の力に頼りながら、私はゆるぎます。
だから私の心は喜びを知らない者であり、私のたましいも悩んでいて、私のからだも何の安らぎも知りません。」
信ずる者も知らないうちにこういうふうになってしまいます。

もうひと種類は、意識的に決断して、すなわち自分自身を否定して次のような態度を取る。すなわちダビデのごとく、

詩篇16:8-9
8私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

ヘブル人への手紙の著者は、信ずる者は、せっかく救いにあずかった人々は落ち込まないで、勝利を得る者となるために次のように書いたのです。
非常によく知られている大切な個所です。ヘブル人への手紙の12章の1節から。みな何回も何百回も読んだでしょう。

ヘブル人への手紙12:1
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

走ることとは何でしょうか。説明は2節です。

ヘブル人への手紙12:2-3
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

ひとことばで言いますと、主イエス様を見る者は、もちろん救われ永遠のいのちをもつようになり、イエス様を見る者は、喜んですべてを捨てる覚悟をもつ者となり、またイエス様を見る者はみことばにとどまり、イエス様とつながって実を結ぶ者となります。
前に読んでもらいましたピリピ人への手紙2章の5節に、結局イエス様の心構えをもちなさいと書かれています。イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。

イエス様とはいつも父を仰ぎ見たお方でした。父を仰ぎ見ないで、父に頼らないで、イエス様は動いたことがない。ひとことばも話したことがない。
このピリピ人への手紙の2章5節から11節まで、イエス様について4つのことが書いています。

第一番目。イエス様は自分自身を無にしてくださいました。
第二番目。自分自身を卑しくしてくださいました。
第三番目。死にまでも従うようになりました。
第四番目。仕える者となったのです。

まずイエス様は絶えず自分自身を無にしてくださったのです。もう一回6節から読みましょうか。

ピリピ人への手紙2:6-7
6キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

イエス様は永遠なる神であられたのに、天におられたならば何の不自由もなく、驚くべき祝福のうちに住むことができたのに、自分をむなしくしてくださいました。自分の持ち物、自分の知恵、また力を全部捨てたのです。
イエス様は人の誉れも名誉も得ようとは一秒も思ったことがない。自分のものを求めようとも思われたことがない。
まったく自分自身をむなしくしてくださったのです。われわれにとって考えられない、想像できない態度です。

確かにある人々は、これは自分の権利だよと言います。単なる思い込みに過ぎないのではないでしょうか。結局自分の権利であるから、必死になって戦うようになります。
信ずる者にとってもつ権利とは、自分の権利を捨てることではないでしょうか。すなわち自分をむなしくすることです。
イエス様が自分の喜びを求めることや自分の名誉を求めることや、富を求めることとは全く無関係でした。

イエス様の切なる願いは、いつも次のものでした。「父よ。あなたの御名があがめられますように。あなたのみこころだけがなるように。」
イエス様は、「わたしは自分の意思ではなく、わたしを遣わされた方の意思によって歩む者である。」と言えたのです。人間だって決して言えません。

イエス様の二番目の特徴は、自分を卑しくすること。

ピリピ人への手紙2:8
8キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

とあります。本当の意味でのへりくだった方、謙遜なるお方とはイエス様おひとりです。わたしはへりくだっているとイエス様しか言えなかったのです。
イエス様は自分のことを完全に忘れました。自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。

結局人間とはやっぱりだれでもが自分のことを考えます。だれでもがやっぱり楽な道を選ぶのではないでしょうか。自分の利益を追及するのではないでしょうか。
イエス様は自分自身を喜ばせなかったただひとりのお方です。

悪魔は傲慢のかたまりです。イエス様は自分を卑しくしてくださった。そして父のみこころは何であるかと言いますと、イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。
ペテロの手紙第Iの5章5節を見ると、ペテロは当時の信ずる者に次のように書き記したのであります。

ペテロの手紙第I、5:5
5みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

もっとも恐ろしいこととはいったい何なのでしょうか。もし神がわれわれの敵になればおしまい。
ここで、神は高ぶる者に敵対する。けれどへりくだる者に恵みを与えるのです。
コロサイ人への手紙の3章の12節を見ると次のようにパウロは、今度はコロサイにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

コロサイ人への手紙3:12
12それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

どうして実りが少ないのでしょうか。なぜ御霊はそんなにしばしば悲しまれるのでしょうか。なぜならば、結局私たちが自分自身を喜ばせているのではないでしょうか。
イエス様の第三番目の特徴とは、死にまでも従うことでした。従順は謙遜の結果です。
イエス様は自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることをよしとなさいました。そればかりではなくイエス様は人間の罪に対する父なる神の怒りのさばきをご自身の上に引き受けることをよしとされたのです。イエス様はのけ者とされ、捨てられた者となり、のろわれた者となったのです。

自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、また自分の利益を追求する者は本当にわざわいです。
イエス様は、わたしは心からへりくだった者です。だからわたしは自分の意思を追求せず、わたしを遣わしたお方のみこころだけを求めると証しされました。
自分の考えによって導かれる者は本当にわざわいです。イエス様は死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

最後に第四番目のイエス様の特徴とは、仕えることです。
へりくだる者だけが従順に従うことができ、従順に従う者だけが本当の意味で仕えることができるのです。
イエス様は次のように告白したことがあります。マルコの福音書の中の一番大切な個所でしょう。マルコの福音書の10章の45節なのです。

マルコの福音書10:45
45子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

結局イエス様は救いの代価として自分のいのちを与えることであり、またそういう意味で仕えると言われたのです。 イエス様はしもべの形を取って弟子の足を洗いました。それはまさに当時の奴隷の仕事にほかならなかったのです。 けれどもイエス様はそれを仕方がなくてやったのではない。喜んでしてくださいました。
われわれの生まれつきの性質の特徴は自分、自分だけのことを考えるのではないでしょうか。だからこそ人間は不幸になり、孤独になり、満たされていない。
だからこそパウロはローマの刑務所の中で自由の身となった兄弟姉妹に書いたのです。彼らの成長のために心配したから祈りながら書き記したのです。
主イエスのうちに見られる心構えでいなさい。イエス様は自分を無にしてくださり、自分を卑しくしてくださり、死にまでも従順に従うことによって、本当の意味で人に仕えたのです。

もう一回ピリピ人への手紙に戻りまして、

ピリピ人への手紙2:9-11
9それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
10それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
11すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

父なる神はイエス様に一番高い御位をお授けになりました。イエス様は今、天の御位に座しておられますが、けれどイエス様はただひとりでそこにおられることを願っていない。
イエス様が十字架に架かってくださったのは、信ずる者のひとりひとりがイエス様の心構えをもち、御座に着くことができるようになるためだったのです。
だからこそ私たちもどんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く十字架の道を選びましょう。

主のご目的を心の目で見た人は自分自身のことをそんなに大切にしなくなる。自我という足かせから解放されます。
イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。私たちはすべてを、すなわち自分のもっている考え、もっている意思、もっている感情をすべて主イエス様にささげ、自分の当然もってよいと思われる権利もイエス様にささげようではないでしょうか。
その結果はいったいどういうものでしょう。パウロの体験についてピリピ人への手紙の3章8節に書かれています。

ピリピ人への手紙3:8
8私の主である

私の救い主であると書いていないのです。私の主である

ピリピ人への手紙3:8
8キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

もちろんこのすべての中に自分の考えていること、思っていること全部含まれています。

すべての問題の原因は、われわれの生まれつきの性格にあるのではない。われわれのわがままな気持ちにあります。特に、いつも自分を正当化しようとする気持ちや傲慢な思い、自己追求などに問題の原因があるのです。
確かに、イエス様のために生きたいと思う人は犠牲をささげるようになるでしょうけれど、損するのではない。失うことはない。多くのものを得るようになります。
自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみを追求する者は、心からの満足を得ることができない。前進することができません。

イエス様をよりよく知りたい。そしてイエス様に用いられたいと願う人は、本当にしあわせになります。
自分自身の思い、感情、意欲などを大切にせず、ただ主イエス様だけがすべてのことにおいて最優先されるという備えができている人は豊かに祝福され、主の姿に似た者に変えられるようになります。
主を仰ぎ見ることこそが祝福される秘訣だけではなく、豊かに用いられる源でもあります。




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