ただ信じよう


ベック兄

(吉祥寺学び会、2013/02/26)

引用聖句:マルコの福音書1章29節-31節
29イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。
30ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。
31イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。

マルコの福音書5:21-43
21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。
22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
25ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
26この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
27彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
28「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
29すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
30イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
31そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
32イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
33女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
34そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」
36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
37そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。
38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、
39中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。
41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)
42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。

イエス様の弟子たちだけではなく、婦人たちの多くもイエス様に従い、イエス様の大いなる力ある業を見ることができ、またイエス様に全く信頼したことを聖書を通して知ることができます。イエス様と出会った婦人が、決して拒むことなく、心開いて受け入れたことを聖書を通して知ることができます。
婦人たちは、イエス様を理解することができなくても、信頼したのです。イエス様に出会った婦人たちを見ると、彼女たちは非常に大きな苦しみと悩みを持っていたことが解かります。婦人の独特の問題は、病気、家庭内の問題、子供の教育、毎日の生活の問題、愛を求める気持ちなどです。
そしてこのような悩みと苦しみを持っている婦人に、イエス様が出会われると、彼女たちの問題はすべて解決されたのです。イエス様は、私を理解することができ、常に助けることができ、私の心をも満たすことができるお方であると、彼女たちは体験したのです。

そこで多くの婦人たちの中から、二人の代表的な女性を取り出し、彼女たちがいかにしてイエス様と出会い、すべてを満たされたのかについて、ちょっとだけ見てみたいと思います。
その二人とは、今読んだ箇所を見ると解かります。一人は、年取ったシモンのしゅうとめであり、もう一人はヤイロ、若い娘であります。
初めにシモンのしゅうとめについて見てみたいと思います。

マルコの福音書1章を見ると、彼女は病気であったことが解かります。その当時も今日と同じように、大勢の病人がいました。人間は病気によって、自分の力ではどうすることもできない無力さを体験することがしばしばあります。
彼女の病気のために、食欲もなく元気もなく、その上一人でベッドに横たわっていたため、他の人々と話す状態もあまりなかったのです。自ずから一人ぼっちになりました。
また病気が治るかどうかも解からなければ、やっぱり心配です。喜びがない。彼女の熱病は、非常に重かったので、人々はさっそくそのことを、イエス様に伝えたのです。そしてイエス様は、彼女が非常に苦しんでおり、弱っていることを聞きました。そしてイエス様のために、貴重な時間を裂きました。

イエス様は、いつも非常に忙しい方でしたが、その中からご自分の時間を作られたため、そのような時間を持つことができたのです。私たちも、しばしばいろいろな用事がなければ、集会に出るというふうに考えがちです。悪魔は、いつも何らかの仕事があって忙しいように、人間を惑わすのではないでしょうか。
時間がないとはあり得ない。作ればあるでしょ。作ろうと思えば、主に助けを求めれば、必ず主は働いていてくだるのです。私たちは、イエス様を主として仕えるか、あるいは反対に必要な時だけ、利用する僕として取り扱うかのどちらかなのではないでしょうか。
イエス様と出会って、本当の喜びを得た者は、イエス様との交わりの中にこそ、最高の喜びを見いだすことができます。イエス様は、シモン・ペテロのしゅうとめのために時間をお作りになりました。愛と理解を持って、彼女の手をとって起こされました。彼女は、イエス様が触れられるとすぐ病気が治り元気になりました。

力なさ、失望、落胆、孤独は一瞬にして消え去り、彼女はイエス様の手をつかんで、心から感謝したことは、容易に想像することができます。
彼女は、イエス様との出会いの前に、すでに息子がペテロから、イエス様のことについて、いろいろ聞いておりましたが、けれど大部分はピンと来なかった、理解することができなかった。息子であるシモン・ペテロは、本当に真面目な人間にもかかわらず、このイエス様と出会ってからは、とんでもないことをしてしまった。仕事をやめてある程度まで狂信的に、イエス様のことばっかり話すように変わってしまいました。
彼女は、どうして、何故ともちろん理解できなかったんです。彼は、いつもあのナザレの大工イエスは、約束された救い主、メサイヤであるということを、しきりに力説していたのです。そのようにして、イエス様のことが全然解からなかった彼女は、イエス様に来てもらいたいために人を頼むことを、もちろんしなかったのです。そして、イエス様が来られた時も、別にどうということはありませんでした。

全く予期せずして、彼女はイエス様の偉大なる力を体験しました。そして彼女は、イエス様との出会いによって、全く変わりました。
彼女は、力なく、失望、落胆し、孤独で、けどもイエス様との出会いによって、新しい力、勇気を与えられました。そしてイエス様との交わりの中に、本当の喜びを見いだすことができたのです。かつては、生きる望みも勇気もなかった彼女は、今や人生の目的を持つようになりました。
彼女は、マタイによると、イエス様に仕えるようになり、マルコの福音書によると、弟子たちをもてなしたと書いてあります。つまり、彼女の人生の目的は、イエス様と信じる者に仕えることに変わったんです。そして、このような飛躍的な変化は、予期せず、人間の努力によらずして起こったんです。

信じる者は、誰でも同じように言うことができるはずなのではないでしょうか。「私がイエス様を選んだんではない。イエス様が私を捕らえてくださったんです。」
いわゆるクリスチャンの多くは、教会でイエス様のことを聞き、ある程度、雰囲気によってイエス様を信じたように思い込んでしまいます。しかし、イエス様によって捕らえられていない限り、ダメになることは解かりきっています。
しかし、それと反対に、イエス様が我々の心の中に入り、私たちを捕らえてくださると、私たちは予期せずして、新しく造り変えられるようになります。

ひとたびイエス様によって捕らえられた者は、イエス様の御手の中にあるため、もやは離れることはできません。たとえ、ある時に自分がイエス様から離れてしまったのではないかと、考えるようなことがあっても決してそうではなく、捕らえられた者は、決して離れられない。イエス様は離さないからです。
ヤイロの娘も、同じことを体験しました。彼女もイエス様によって癒されようと願って癒されたのではなく、全く予期しない形で癒されました。彼女の病気の経過も、普通の病気と同じように、病気になった時から回復することなく、しだいに悪化して遂に死んでしまったんです。
彼女の両親が、イエス様を信じたため、彼女の屍は、死に対するイエス様の力を現すためのものとなりました。娘の病気が決して、薬やその人の強靭な体などのために回復したのではない。イエス様によって癒されたことを知る時に、誰でもイエス様の偉大さに驚嘆せざるを得ません。

イエス様は、私たちが気づくよりもはるかに多くのことをしてくださっておられます。彼女のために、両親は主の所へ行って、ひれ伏して祈り願ったんです。
もしも私たちのために、多くの祈りが捧げられなかったならば、私たちもイエス様を信じる者とはならなかったでしょう。今日でも同じように、一人ひとりがイエス様を求めたから、信じるようになったというよりも、むしろ主の御名と約束のため、また多くの信者の祈りのために、失われた魂は永遠のいのちを持つように変えられるのです。
今日もイエス様は、御自身のために、私たちが予期しない形で御業を成しておられます。イザヤ書の中で、すばらしいことばがあります。

イザヤ書43:24-25
24あなたは ... あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。
25わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

イエス様は、今日も我々の祈りと態度とに応えて、予期しない形であしらってくださいます。
そこで、ヤイロの娘が癒されたのも、ヤイロの祈りと真剣な態度に主が答えてくださった現れであることが解かるのではないでしょうか。
そのような意味で、最後に父親であるヤイロについて、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

彼は、会堂司、会堂の権利者の一人であり、その当時非常な権威と名声を持っておられました。しかしながら、彼の名声と評判と言えども、娘の病気を癒すためには、何の役にも立たなかったのです。
彼は、非常に娘を愛していたため、娘の病気は彼にとって、考えられない、想像できない大きな苦しみと悩みでした。もしも彼が、イエス様を100%信頼しなかったならば、死にかかっている娘から離れることはしなかったでしょう。
しかし彼は、そのような時にも、決して絶望することなく、イエス様の御許に来て、足元にひれ伏し、自分を投げ出して、ありのままをイエス様に願いました。

ヤイロは、他の人々が何と言おうとかまいませんでした。多くの人々は、周囲の人の噂を気にするものです。そのため、イエス様の力を体験するのに、妨げとなってしまうのです。
私たちも、ヤイロのように徹頭徹尾、主に信頼するか、あるいは人を恐れるかのどちらかです。前に読みました、22節、23節です。

マルコの福音書5:22-23
22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、
23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

ヤイロは、こういうふうに心から思ったよりも、叫んだのです。このみことばの中に、ヤイロがイエス様を全く信頼し、救いの確信を持っていることが、はっきりと現されたのであります。
イエス様にとって不可能なことはない。これはヤイロの確信でした。
「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

あなたは出来ると、彼は確信しました。ここで、手を置くということは、その人と一つになることを意味します。イエス様が、苦しみ悩んでいる人々の上に手を置かれると、その人から苦しみが去っていくのです。信仰は、イエス様の力に拠り頼み、期待することであり、ヤイロはそれを行なったんです。
確かにヤイロの信仰は、試されました。つまり、いろいろと妨げているものは出てきました。
ヤイロは、イエス様と共に出来るだけ早く、娘の所へ行こうとしましたが、大勢の群衆がそれを妨げたんです。すなわち、群衆がイエス様に押し迫りながらついて行ったのですと書いてあります。

2番目の妨げは、一人の病気の女でした。そしてイエス様は、彼女のために非常に多くの時間を費やしてしまったんです。ヤイロの心は、そわそわしていたでしょう。しかし、ヤイロにとってこのような経験は、どうしても必要でした。
なぜならば、絶望的な病気の女が、イエス様によって癒されるのを、つぶさに見ることが出来たのです。彼は、イエス様がその女に「しっかり直って達者でいなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われるのを聞きました。
多くの試練に遭遇している父親の前で、イエス様は、ご自分の力を明らかに示されました。

第3の妨げは、最も困難なものでした。すなわちヤイロは、娘はもうすでに死んだという情報を聞いたのです。
したがって、もはやイエス様を煩わすには及びますまい、諦めるに他ありません。ヤイロの信仰は、確かに空前のともしびでした。娘が死んだ以上、これ以上信仰を持ち続けても役に立たないのではないでしょうか。目に見える支えは、全部いっぺんにダメになりました。命がある限り望みがある。けれど命がなければ望みもないと普通の人は考えます。
ヤイロもそのように考える危険性の中にありました。しかし、彼は主の心強いみことばを聞きました。どういうことばかと言いますと「恐れることはない。ただ信じなさい。」

このようなことを言うのは、頭のおかしい空想家であるか、あるいは将来をも御手の中に収めておられる神の御子であるかの、どちらかです。
私たちは、このみことばは、ヤイロを慰めるための絶望的なイエス様のことばではないことをよく知っています。そのことはヤイロも知っていました。というのは、少し前イエス様が、絶望的な病気の女を癒されたのを目の前に見ることができたからです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」
イエス様は、一番必要な時に、一番必要なみことばをお与えになりました。イエス様のみことばがなければ、ヤイロはもうがっかりしてしまったことでしょう。

イエス様は、何という愛と理解を示されたことでしょうか。このみことばによって、ヤイロの揺れ動く信仰が、平静に戻ったんです。彼らが家に着くと、人々が大声で泣いたり叫んだりして騒いでいました。しかし、ヤイロはその事によって動揺したり、ぐらついたりすることはありませんでした。
彼は、ただイエス様だけを見ていたのです。イエス様は「ただ信じなさい。」と言われ、ヤイロは信じました。すなわち、ヤイロは意識して目に見える現実から目をそらしたのです。
彼は、主のみことばの上にしっかりと立っていました。その時、ヤイロはイエス様のすばらしさと偉大さを体験することができたのです。

イエス様が、死に対峙しておられました。普通の人は誰でも、瀕死の病人が死ぬまでは、希望を持って一生懸命やりますけど、死んでしまうとそれで一環の終わりと考えます。
しかしイエス様の場合はそうではありません。終わりと思われている場合、イエス様にとって不可能なことはありません。だからイエス様は「ただ信じなさい。」人々が終わりだと諦めてしまう、その時こそ、イエス様の偉大な力、また大いなる御業が明らかにされるのです。
イエス様は、「わたしは、いのちです。よみがえりです。」と言われました。イエス様のおられる所は、どこでも必ずいのちが啓示されるのです。いのちそのものであるイエス様と、死人であるヤイロの娘、何という対象を示していることでしょうか。

これら両者は、本来相容れないものであるにもかかわらず、お互いに一つにならなければならないのです。そうしなければ希望は生まれません。
イエス様が死人の手をとって起こされると、死の病は去りました。少女は、単に生き返っただけではなく、非常に元気になりました。私たちは、霊的な死が、肉体的な死よりもはるかに恐ろしいことを知っています。霊的な死とは、主なる神に対して死んでいることを意味します。主なる神との結びつき交わりを持っていない状態を意味します。
人間の生まれつきの状態は、罪と罪過とによって死んでいる状態です。聖書の中で、エペソ人への手紙2章1節だけちょっと読みます。

エペソ人への手紙2:1-2
1あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

また同じくパウロは、コロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ人への手紙2:13
13あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。

ルカの福音書15:24
24この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。

今日、教会に行ったり、洗礼を受けたり、自分でクリスチャンだと思い込んでいる人でも、新しく生まれ変わっていない人が少なくない。これらの人々は、ヨハネの黙示録3章1節にあるとおり、「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」
けどもイエス様の御手が触れた時、死んでいた者が生き返るのです。イエス様によって新しく生まれ変わった者は、死からいのちへ移っているのであるとあります。

ヨハネの手紙第I、3:14
14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

いのちそのものであるイエス様の力は、何と偉大なるものでしょうか。そのことをシモンのしゅうとめが体験し、同じくこの力によって、ヤイロの娘は死からいのちを呼び戻されたのです。
ところが、私たちもいのちの君であるイエス様のあいだの力、偉大なる力をもうすでに体験したのでしょうか。イエス様は、あなたの中に、あなたの家族の中に、そしてあなたの職場の中にご自身の力を現したく思っておられます。私たちは、目に見える支えがなくても、イエス様の導きが、たとえ解からなくても、イエス様にすべてを明け渡し、信頼しているのでしょうか。
「恐れることはない。ただ信じなさい。」、ここでは、あなただけではなく、あなたの家族、友人の救いも問題となっているのです。

ヨハネの福音書5:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

主の呼びかけ、主の招きのことばとは次のようなものでしょう。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ヨハネの福音書7:37
37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

もうすでに旧約聖書の中では、同じ呼びかけが書き記されています。

イザヤ書55:1
1ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

ローマ人への手紙10:12
12主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。

テモテへの手紙第I、2:4
4神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

ヨハネの黙示録22:17
17渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。




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