主イエスと弟子達の対立


ベック兄

(御代田喜びの集い、2008/08/03)

今朝のメッセージの題名は、「主イエスと弟子達の対立」であります。
主イエスと弟子達は全く違うものでありました。それだけではなく、今日もそうなのではないでしょうか。
聖書の中でもっとも大切な命令は、ヘブル人への手紙12章2節でしょう。

ヘブル人への手紙12:2
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

目を離す瞬間、落ち込むようになります。どうしようもない者になります。
前にも紹介したことがあるんです。スイスの兄弟からEMailもらったことがあります。題名は「考えなさい。」

「昨日、私たちが、主に感謝するために時間を作らなかったら、
今日、主は、わたしたちを祝福するために時間を持てないとしたら、どういうことになるでしょう。

今日、私たちが、主に従順に従わなかったから、
明日、主が私たちを導こうとしないとすれば、いったいどういうことになるでしょう。

今日、私たちは、みことばを読まなかったから、
明日、主が、私たちの聖書を取ろうと思うとしたら、どうでしょう。

もし、わたしたちが、みことばを伝える人に耳を貸さなければ、
主が私たちに語ることをやめるとすれば、いったいどうでしょうか。

私たちが隣の人のために心配し、愛しているくらいと同じくらいしか、
主は、わたしたちを配慮し、また愛し、信頼してくださらなかったらどうでしょう。

昨日、私たちは、主の声に耳を貸さなかったから、
今日、主が、わたしたちの祈りを聞き届けようとしなければ、考えられないことになるに違いない。

私たちは、すべてを主に捧げようとしなかったなら、
主は、今から聞く耳を持とうとしなければ、これこそ、悲劇そのものでしょう。

私たちが、主を大事にしなかったから、
主はわれわれの必要に対して知らん顔をすれば、いったいどうでしょう。

主は、そんなお方ではありません。」

主が、私たちのようではないことは、ありがたいでしょうか。
もうひとつ、南ドイツのある古い古い家の外側の壁に、次のような文章を書いてあります。

「あなたがたは、私を主と呼んでいる。しかし、私に頼ろうとしない。
あなた方は、私を光と呼んでいる。しかし、私を仰ぎ見ようとしない。
あなた方は、私を道と呼んでいる。しかし、私に従おうとしない。

あなた方は、私を命と呼んでいる。しかし、私に近づこうとしない。
あなた方は、私の知恵を認めている。しかし、私に聴く耳を持とうとしない。
あなた方は、私の美しさを認めている。しかし、私を愛さない。

あなた方は、私の富を認めている。しかし、私に頼もうとしない。
あんた方は、私の永遠の存在を認めている。しかし、私を探そうとしない。
あなた方は、私の恵みを認めている。しかし、私に信頼しようとしない。

あなた方は、私の全能を認めている。しかし、私を誉め称えようとしない。
あなた方は、私の誠実さを認めている。しかし、私を恐れない。
もし、私が、あなた方を呪われ永遠の火に渡されれば、驚いてはいけない。」

あなた方は喜びの集いに参加する。しかし聴く耳がないし、悔い改めようとしないし、だから、私はあなた方を祝福することができない。私の力を現わせない。あなたがたを、用いられない。
そう主は言われるようになれば、本当に、たいへんなことなのではないでしょうか。
マルコの福音書10章32節からも、いかなる時にも動揺されないイエス様と、それに対照的に恐れおののく弟子達の気持ちを読み取ることができるのではないかと思うのです。

まず、固く立って動かされないイエス様の態度。すなわち先立たれるイエス様について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。
イエス様は、第一にすべてをご存知であり。第二に動揺せず恐れないお方であり、第三にへりくだって人に仕えるお方です。
このイエス様を今日も、もちろん近くにおられます。

マルコの福音書10:32
32さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。

イエス様はご自分に定められた十字架への道を前進されようとしました。けれども、その時、弟子達は恐れを覚えたと記されています。
弟子達の心は何にも理解しませんでしたし、恐れおののいていましたし、また一方、彼らの心の中には、高慢と自分が人よりも上に立ちたいという気持ちがありました。
それに対してイエス様は、すべてをご存知であられ、どのような場合にも固くたって、恐るることのないお方であり、へりくだって人々に仕えてくださるお方でした。

マルコの福音書10:33-34
33「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
34すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

イエス様はご自分の上になされようとしている事柄をひとつひとつ知っておられました。
イエス様は、将来を起る事柄を何か漠然とした形で知っておられただけではなく、ひとつひとつを明確にご存知でした。
ちょっとヨハネの福音書からニ、三箇所見てみまししょうか。

ヨハネの福音書6:64
64しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」――イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである。――

ヨハネの福音書13:11
11イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。

ヨハネの福音書13:1
1さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。

ヨハネの福音書18:4
4イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので、出て来て、「だれを捜すのか。」と彼らに言われた。

ヨハネの福音書19:28
28この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

イエス様はすべてをご存知でした。ご自分が苦しみを受け、十字架上で死ななければならないということをつぶさに知っていました。
けれどもイエス様がそのことを口にされる時には、不思議にも一度として悲しみの口調では語られなかったのです。
イエス様がこの世に来られた御目的は、多くの人々のための贖いの代価として、救いの代価として、ご自分の命を与えるためでした。イエス様はその御業をなかば終えられて、今は十字架におかかりになるためにエルサレムへの途中にありました。

エルサレムとはイエス様にとって、人々に退けられ、辱めを受け、苦しみを受け、十字架を担い、そこで死ななければならない土地であることを示しています。
けれどもイエス様は、この途上において、弟子達に対してご自分の決意を語られたのです。

ルカの福音書9:51
51さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、

十字架に行こうとして、イエス様は御顔をまっすぐに向けられたとあります。
イエス様はいかなる時にも、ヨブ記11章15節に書いてあるように、堅くたって恐れることがありませんでした。

ヨブ記11:15
15そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。

イエス様はご自分の命を多くの人々のための贖いの代価として捧げることをよくご存知であり、またそのことを心から望んでおられました。
前に読みましたがマルコの福音書10章45節。

マルコの福音書10:45
45人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様が弟子達の上に望んでおられたことは、弟子達を人々をとる漁師にすることでした。そのために徹底的に自分自身を知ることが要求されます。
イエス様は、弟子達とは全く違った御心をお持ちでした。またイエス様のご目的と、弟子達が心の中で願った目的とは、全く違ったものでした。
それ故、まず弟子達は自分自身の心の状態に目を開けなければならなかったのです。弟子達の心の奥底に潜んでいるものが、明るみに出されなければならなかったのです。

申命記8:2
2あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

イエス様は、まことの意味で偉大であるということは、どういうことであるかということをお示しになりました。
そして人々の下に立ち、人々に仕えて、自分の命を人々のために捧げなければならないということをお教えになりました。
そしてその模範をご自分がお示しになったのです。

イエス様は、僕の形をとって地上を歩まれ、そのなして下さった御業は、僕の業そのものでした。
「私が来たのは、仕えられるためではないよ。仕えるためだよ。また、多くの人々の贖いの代価として、自分の命を与える。」と、イエス様は何回も、何回も言われました。
有名なヨハネの福音書13章4節5節をみると次のように書かれています。

ヨハネの福音書13:4-5
4夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

ピリピ人への手紙2:7
7ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

少しの躊躇も動揺もなく、イエス様はエルサレムへの道をまっすぐに歩み始められました。
私たちもまた、このイエス様のように、私たちの人生の目的を十分にわきまえて歩みたいものです。

申命記5:32
32あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行ないなさい。右にも左にもそれてはならない。

ヨシュア記1:7
7ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

箴言4:25-27
25あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
26あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
27右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

エゼキエル書1:12
12彼らはおのおの前を向いてまっすぐに行き、霊が行かせる所に彼らは行き、行くときには向きを変えなかった。

イエス様は二度ほど言われました。

ルカの福音書9:62
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

またパウロはコリントの兄弟姉妹を励ますために次のように言ったのです。

コリント人への手紙第I、15:58
58ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

ガラテヤにいる人々に同じくパウロは書いたのです。

ガラテヤ人への手紙5:1
1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

ペテロも同じように、当時の信ずる者を励ますために書いたのです。

ペテロの手紙第I、5:9
9堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

ローマの牢獄の中でパウロは書いたのです。ピリピにいる兄弟姉妹に書きました。

ピリピ人への手紙3:13-14
13兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

イエス様だけではなく、本当の意味で主に従う者も同じ態度をとるべきです。
すなわち、少しの躊躇も動揺もなく、目的を目指して走るべきです。

それから、ちょっと弟子達の態度について考えましょうか。すなわち、恐れおののく弟子達の態度とはどういうものだったのでしょうか。
弟子達は一番目、何にも理解しない者であり、2番目、驚き恐れる者であり、3番目、高慢と支配欲に満ちた者でした。

前に話したように、イエス様の弟子達の思いとは、イエス様と全く違うものでした。
イエス様のとられた、イエス様の思いと、弟子達の態度とは全く対称的でした。
弟子達は驚き動揺し、主イエス様の後に着いて行くことを恐れました。

イエス様は弟子達に先立って歩まれ、彼らに模範を示されました。けれども弟子達は驚き、また恐れた。
弟子達はイエス様に出会い、イエス様が神のひとり子であることを確信したのです。そして、結局すべてを捨てて、イエス様に従うようになりました。
弟子達はイエス様と共にいて、実にたくさんのことを体験したのです。

何千とも知れない人々が、イエス様の御言葉を聴こうとして御許に集まって来た。そして何千とも知れない人々が、イエス様によって食事を与えられました。また、御許に運ばれた来た病人たちは誰でも、完全に癒されました。
当時の聖書学者たちは、何とかしてイエス様を陥れようとしましたが、いつでも敗北せざるを得ませんでした。悪霊でさえも、イエス様が神の子であると証しし、死人も甦らされました。
弟子達は、イエス様を信頼しておりましたし、彼ら自身多くの奇蹟をその場で見ました。

弟子達は3年間イエス様と行動を共にし、この方こそ約束されたメサイアであるともちろん確信したのであります。
けれども、イエス様は、全く唐突にご自分の十字架についてお語りになりました。
イエス様は、御顔をまっすぐにエルサレムに向けられました。それまでのイエス様は弟子達と親しい友達のように交わりました。

でもその時のイエス様は、今までと違って全く別人のように見えました。弟子達は、もはや、イエス様の御心を推し量ることができなかったのです。
それゆえ、彼らは驚き恐れたのです。けれども、イエス様は固く立って動かされることがなく、十字架への道を歩み出されたのです。
それ故、イエス様は、弟子達のとって、その時、見知らぬ他人のようになられました。

イエス様の御心は弟子達の考え方と全く異なっていました。弟子達は、彼らとイエス様の間には大きな隔たりがあるということに気付かざるを得ませんでした。私たちは、このことをすでに経験しているのでしょうか。
私たちが突然、イエス様について理解することができなくなり、導きの道がなんであるかわからなくなり、私たちの心が闇の中に閉ざされ、驚きと恐れに満たされるということが、往々にしてあります。
このような時私たちが、預言者ミカがとったような態度をとることができるならば、なんと幸いなことでしょう。

ミカ書7:7-8
7しかし、私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。
8私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。

すごい、素晴らしい証しなのではないでしょうか。
もし私たちがこの態度をとるならば、主に従うことは大きな喜びとなります。
イエス様は、本当の意味で偉大な者とはどのような者であるかということを語り、それは人々に仕える者であり、自分の命を捧げる者であると言われました。
弟子達が考えていた偉大さは、主の考えと違うものでした。

つまりそれは、人の上に立ち、権力を持ち、人々が自分に仕えるようになることでした。
イエス様が、ご自分の十字架についてご自分にお語りになるたびに、弟子達と、イエス様の決定的な違いが、明らかになったのです。そして弟子達はそのたびに、お互いの序列を巡って諍いを引き起こしたのです。
イエス様は、ご自分の益のためには何一つなさろうとはなさいませんでした。けれども、弟子達はいつも自分のエゴイズミから出た願いを持っていたのです。つまり、

マルコの福音書10:35、37-40
35さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」
37彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」
38しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」
39彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
40しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

私たちの頼みことをかなえて頂きたい。私たちを座らせて下さい。私たちはできます。彼らは自己中心の願いを語ったのです。
けどもこれらの言葉からわかることは、彼らが、自分自身に対して全く盲目でした。自分に対して目が開かれていない者は、ほかの人々に対してねたみをもち、競争心をもたらします。

マタイの福音書23:12
12だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

弟子達の持っていた最大の問題は、自分自身について何も知らなかったことです。
そのしるしは、第1にうぬぼれ。第2に自分の力に頼ることです。

マルコの福音書10:39-40
39彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
40しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

この2節を見れば、弟子達は自分たちが何かえらい者であると考えていたことがわかります。彼らは、自分たちがイエス様の右と左に座るのにふさわしい者であると考えていたのです。
彼らは、自分自身に信頼することが非常に強くありました。けれども、ほかの弟子達も同じ思いでした。

ヨハネの福音書13:37
37ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

マルコの福音書14:31
31ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。

ルカの福音書22:33
33シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

このような自分自身により頼む気持ちは、いつでも敗北に終わります。
主の約束は、うぬぼれの強い者に対しては与えられていません。謙遜な者に対してだけ与えられています。

詩篇138:6
6まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。

箴言22:4
4謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。

箴言29:23
23人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。

有名なイザヤ書57章15節をみてみましょう。

イザヤ書57:15
15いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

イザヤ書66:2
2これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

だからイエス様は言われました。

マタイの福音書18:4
4だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。

ルカの福音書9:48
48彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

ルカの福音書14:11
11なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

ヤコブも同じことを書いたのです。

ヤコブの手紙4:6
6しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

ペテロもまた同じことを当時の信ずる者に書いたのです。

ペテロの手紙第I、5:5
5同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

これらの御言葉には、主の御心と人間の思いとの隔たりがはっきりと出ています。
人間は、自分の思いで何かを得たいと思うときには、自分の力と自分の知恵を用いて努めます。また往々にして偽りやほかの人々を圧迫するという手段を辞さない者です。
けれども何かを得るために主が私たちに勧めていることは、私たちの持っている物を捨て人々に与えることです。捨てることは、与えることは、人間的には損であるかのように思います。けれども、このことによって主はさらにすぐれた恵みをお与えになることができるのです。

イエス様は、ある青年に次のように言いました。

マタイの福音書19:21
21イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

弟子達に対してもイエス様は、同じように何回も何回も言われました。

マタイの福音書19:29
29また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。

マルコの福音書8:34-35
34それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
35いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

ヨハネの福音書12:24
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

パウロも彼自身、このことを体験しましたから次のように書くことができたのです。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

最後に、私たちの態度はどうなのでしょうか?ちょっとだけ考えたいと思います。
イエス様の問いとは、何を欲しいのかと言うものでした。3つの実例について考えたいのです。
第一番目、バルテマイの答え。2番目は、ヤコブとヨハネの答え。3番目は、ソロモン王の答えについて考えましょう。

イエス様が発しておられる質問。

マルコの福音書10:36
36イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

この質問について、やっぱり考えるのは大切じゃないかな。やっぱりイエス様が私たちに対しても、「何をして欲しいのかと語ってくださるからです。これこそ素晴らしい恵みなのではないでしょうか。けど、この質問に対してなんと答えるかは大切です。

バルテマイと言う男は、この質問に対してなんと答えたのでしょうか。

マルコの福音書10:46-52
46彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
47ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
48そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
49すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
50すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
51そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

イエス様によって癒され、イエス様の弟子になった人はあんまりいなかった。癒されたからうれしい。さようなら...バルテマイはもう離れられなかったのです。イエス様の弟子になった。
バルテマイは盲目で乞食でした。でもそれよりも悲惨なことは、バルテマイが、主を知らなかったことです。イエス様を知らないということは、私たちにとって何よりも大きな損失です。イエス様を持たない者は、喜びも平安も希望もありません。
バルテマイは、イエス様のみが、自分を救ってくださることがおできになるということを確信したのです。それ故彼は、なんとしてもイエス様に出会いたかったのです。

彼は、このことをただ単に頭で理解しているだけではなくて、それを行動に移しました。
「ダビデの子よ〜。。イエス様〜〜。私を、あわれんでくださ〜い...」と叫び求めたのです。
わたしたちが憐れみを求めて叫ぶと、私たちは必ず主からの答えが与えられます。

イエス様はバルテマイに向かって、「私に何をして欲しいの?」と尋ねられました。
彼は自分が盲目であり、乞食であることがわかったのです。それ故彼は、目が見えるようになりたいと頼んだのです。
彼は自分自身がどのような者であるかをよくわきまえておりましたから、主の御心にかなった答えをお答えすることができたのです。

かつては盲目であり乞食であったバルテマイは、目が見えるようになり、イエス様に従う者になったのです。
彼は、イエス様のみが、自分に真の満足をお与えになるお方であるということを知っていました。
イエス様の後に従うことのみを喜びとしたのです。

2番目、イエス様のふたりの弟子、ヤコブとヨハネもイエス様から「何をして欲しいの?」と尋ねられました。
彼らはバルテマイとは違ってイエス様の弟子であり、イエス様を神の御子であると信じていましたけど、彼らはダメでした。確かに彼らは山の上で主の御体が変わり、御栄光を現しになるのをつぶさに見ていました。
この彼らに向かってイエス様は同じ質問、すなわち「何をして欲しいの?」という質問を尋ねられました。

けれどもバルテマイとは反対に、彼らの答えは主の御心にかなわないものでした。彼らは、私たちの頼みことをかなえて頂きたい。
私たちを、あなたの右と左に座らせて下さい。私たちはできます。そう答えたのです。
これらの答えを聞いて、イエス様の御心はどんなにか痛んだことでしょう。彼らの霊的な状態は、ちょうどヨハネの黙示録にあるラオデキヤの兄弟姉妹と同じ状態でした。

ヨハネの黙示録3:17
17あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

イエス様の御心はその命を捧げることでしたけど、弟子達は、人々の上に立ち支配することを願ったのです。
ヤコブとヨハネは、主に従うということは自分自身を無にすることであるということを、まだ理解することができなかったのです。
ヤコブとヨハネは自分自身の魂の状態に対して、目が開かれていませんでしたから、馬鹿らしい答えをしたのです。

最後に、ソロモン王についてちょっとだけ考えたいと思います。
なぜならば同じ質問を与えられたからです。

列王記第I、3:5-14
5その夜、ギブオンで主は夢のうちにソロモンに現われた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
6ソロモンは言った。「あなたは、あなたのしもべ、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。それは、彼が誠実と正義と真心とをもって、あなたの御前を歩んだからです。あなたは、この大いなる恵みを彼のために取っておき、きょう、その王座に着く子を彼にお与えになりました。
7わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。
8そのうえ、しもべは、あなたの選んだあなたの民の中におります。しかも、彼らはあまりにも多くて、数えることも調べることもできないほど、おびただしい民です。
9善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、このおびただしいあなたの民をさばくことができるでしょうか。」
10この願い事は主の御心にかなった。ソロモンがこのことを願ったからである。
11神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
12今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
13そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。
14また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしのおきてと命令を守って、わたしの道を歩むなら、あなたの日を長くしよう。」

5節ですね。「あなたに何を与えようか。」ソロモンは主を信じる者であり、また自分自身対しても、正しい自己認識を持っていました。

列王記第I、3:7
7わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません。

当時ソロモンは国民に慕われ、尊敬されていた王様でした。彼は、主に願って善悪を判断する心を求めました。
ソロモンは、自分にはそれがないから与えて下さいと願ったのです。
私たちはこのソロモンの願いのうちに真のへりくだりと、正しい自己認識を読み取ることができます。

ソロモンは、自分自身のために何かを求めたのではなく、主に属する民のために兄弟姉妹のために、善悪を判断する心を求めたのです。
ソロモンは、自分自身ののことを求めたのではなく、主なる神に栄光を帰することを求めました。
その結果、ソロモンは、自分自身で求めたことよりも、はるかに越えるものを主から受け取ることができたのであります。

列王記第I、3:11-13
11神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを求め、自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、あなたの敵のいのちをも求めず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、
12今、わたしはあなたの言ったとおりにする。見よ。わたしはあなたに知恵の心と判断する心とを与える。あなたの先に、あなたのような者はなかった。また、あなたのあとに、あなたのような者も起こらない。
13そのうえ、あなたの願わなかったもの、富と誉れとをあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちの中であなたに並ぶ者はひとりもないであろう。

主は、私たちが我儘な自分勝手な願いをしない限り、私たちが願ったことをはるかに越えたものをお与えになられます。
私たちの願いが主をたたえ、御栄光を帰するものであるならば、主はそうして下さいます。

マタイの福音書6:33
33だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

エペソ人への手紙3:20-21
20どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

マラキ書3:10
10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

ルカの福音書6:38
38与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

あなたがたは何をして欲しいのか。何を与えましょうかと、主は尋ねておられます。
私たちは、どのような答えを主イエス様に与えるのでしょうか。

ヨハネの福音書16:23-24
23その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
24あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。

こう約束されています。




戻る