今朝のメッセージの題名は、「主イエスと弟子達の対立」であります。 主イエスと弟子達は全く違うものでありました。それだけではなく、今日もそうなのではないでしょうか。 聖書の中でもっとも大切な命令は、ヘブル人への手紙12章2節でしょう。 ヘブル人への手紙12:2
目を離す瞬間、落ち込むようになります。どうしようもない者になります。 前にも紹介したことがあるんです。スイスの兄弟からEMailもらったことがあります。題名は「考えなさい。」 「昨日、私たちが、主に感謝するために時間を作らなかったら、 今日、主は、わたしたちを祝福するために時間を持てないとしたら、どういうことになるでしょう。 今日、私たちが、主に従順に従わなかったから、 明日、主が私たちを導こうとしないとすれば、いったいどういうことになるでしょう。 今日、私たちは、みことばを読まなかったから、 明日、主が、私たちの聖書を取ろうと思うとしたら、どうでしょう。 もし、わたしたちが、みことばを伝える人に耳を貸さなければ、 主が私たちに語ることをやめるとすれば、いったいどうでしょうか。 私たちが隣の人のために心配し、愛しているくらいと同じくらいしか、 主は、わたしたちを配慮し、また愛し、信頼してくださらなかったらどうでしょう。 昨日、私たちは、主の声に耳を貸さなかったから、 今日、主が、わたしたちの祈りを聞き届けようとしなければ、考えられないことになるに違いない。 私たちは、すべてを主に捧げようとしなかったなら、 主は、今から聞く耳を持とうとしなければ、これこそ、悲劇そのものでしょう。 私たちが、主を大事にしなかったから、 主はわれわれの必要に対して知らん顔をすれば、いったいどうでしょう。 主は、そんなお方ではありません。」 主が、私たちのようではないことは、ありがたいでしょうか。 もうひとつ、南ドイツのある古い古い家の外側の壁に、次のような文章を書いてあります。 「あなたがたは、私を主と呼んでいる。しかし、私に頼ろうとしない。 あなた方は、私を光と呼んでいる。しかし、私を仰ぎ見ようとしない。 あなた方は、私を道と呼んでいる。しかし、私に従おうとしない。 あなた方は、私を命と呼んでいる。しかし、私に近づこうとしない。 あなた方は、私の知恵を認めている。しかし、私に聴く耳を持とうとしない。 あなた方は、私の美しさを認めている。しかし、私を愛さない。 あなた方は、私の富を認めている。しかし、私に頼もうとしない。 あんた方は、私の永遠の存在を認めている。しかし、私を探そうとしない。 あなた方は、私の恵みを認めている。しかし、私に信頼しようとしない。 あなた方は、私の全能を認めている。しかし、私を誉め称えようとしない。 あなた方は、私の誠実さを認めている。しかし、私を恐れない。 もし、私が、あなた方を呪われ永遠の火に渡されれば、驚いてはいけない。」 あなた方は喜びの集いに参加する。しかし聴く耳がないし、悔い改めようとしないし、だから、私はあなた方を祝福することができない。私の力を現わせない。あなたがたを、用いられない。 そう主は言われるようになれば、本当に、たいへんなことなのではないでしょうか。 マルコの福音書10章32節からも、いかなる時にも動揺されないイエス様と、それに対照的に恐れおののく弟子達の気持ちを読み取ることができるのではないかと思うのです。 まず、固く立って動かされないイエス様の態度。すなわち先立たれるイエス様について、ちょっとだけ考えてみたいと思います。 イエス様は、第一にすべてをご存知であり。第二に動揺せず恐れないお方であり、第三にへりくだって人に仕えるお方です。 このイエス様を今日も、もちろん近くにおられます。 マルコの福音書10:32
イエス様はご自分に定められた十字架への道を前進されようとしました。けれども、その時、弟子達は恐れを覚えたと記されています。 弟子達の心は何にも理解しませんでしたし、恐れおののいていましたし、また一方、彼らの心の中には、高慢と自分が人よりも上に立ちたいという気持ちがありました。 それに対してイエス様は、すべてをご存知であられ、どのような場合にも固くたって、恐るることのないお方であり、へりくだって人々に仕えてくださるお方でした。 マルコの福音書10:33-34
イエス様はご自分の上になされようとしている事柄をひとつひとつ知っておられました。 イエス様は、将来を起る事柄を何か漠然とした形で知っておられただけではなく、ひとつひとつを明確にご存知でした。 ちょっとヨハネの福音書からニ、三箇所見てみまししょうか。 ヨハネの福音書6:64
ヨハネの福音書13:11
ヨハネの福音書13:1
ヨハネの福音書18:4
ヨハネの福音書19:28
イエス様はすべてをご存知でした。ご自分が苦しみを受け、十字架上で死ななければならないということをつぶさに知っていました。 けれどもイエス様がそのことを口にされる時には、不思議にも一度として悲しみの口調では語られなかったのです。 イエス様がこの世に来られた御目的は、多くの人々のための贖いの代価として、救いの代価として、ご自分の命を与えるためでした。イエス様はその御業をなかば終えられて、今は十字架におかかりになるためにエルサレムへの途中にありました。 エルサレムとはイエス様にとって、人々に退けられ、辱めを受け、苦しみを受け、十字架を担い、そこで死ななければならない土地であることを示しています。 けれどもイエス様は、この途上において、弟子達に対してご自分の決意を語られたのです。 ルカの福音書9:51
十字架に行こうとして、イエス様は御顔をまっすぐに向けられたとあります。 イエス様はいかなる時にも、ヨブ記11章15節に書いてあるように、堅くたって恐れることがありませんでした。 ヨブ記11:15
イエス様はご自分の命を多くの人々のための贖いの代価として捧げることをよくご存知であり、またそのことを心から望んでおられました。 前に読みましたがマルコの福音書10章45節。 マルコの福音書10:45
イエス様が弟子達の上に望んでおられたことは、弟子達を人々をとる漁師にすることでした。そのために徹底的に自分自身を知ることが要求されます。 イエス様は、弟子達とは全く違った御心をお持ちでした。またイエス様のご目的と、弟子達が心の中で願った目的とは、全く違ったものでした。 それ故、まず弟子達は自分自身の心の状態に目を開けなければならなかったのです。弟子達の心の奥底に潜んでいるものが、明るみに出されなければならなかったのです。 申命記8:2
イエス様は、まことの意味で偉大であるということは、どういうことであるかということをお示しになりました。 そして人々の下に立ち、人々に仕えて、自分の命を人々のために捧げなければならないということをお教えになりました。 そしてその模範をご自分がお示しになったのです。 イエス様は、僕の形をとって地上を歩まれ、そのなして下さった御業は、僕の業そのものでした。 「私が来たのは、仕えられるためではないよ。仕えるためだよ。また、多くの人々の贖いの代価として、自分の命を与える。」と、イエス様は何回も、何回も言われました。 有名なヨハネの福音書13章4節5節をみると次のように書かれています。 ヨハネの福音書13:4-5
ピリピ人への手紙2:7
少しの躊躇も動揺もなく、イエス様はエルサレムへの道をまっすぐに歩み始められました。 私たちもまた、このイエス様のように、私たちの人生の目的を十分にわきまえて歩みたいものです。 申命記5:32
ヨシュア記1:7
箴言4:25-27
エゼキエル書1:12
イエス様は二度ほど言われました。 ルカの福音書9:62
またパウロはコリントの兄弟姉妹を励ますために次のように言ったのです。 コリント人への手紙第I、15:58
ガラテヤにいる人々に同じくパウロは書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:1
ペテロも同じように、当時の信ずる者を励ますために書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:9
ローマの牢獄の中でパウロは書いたのです。ピリピにいる兄弟姉妹に書きました。 ピリピ人への手紙3:13-14
イエス様だけではなく、本当の意味で主に従う者も同じ態度をとるべきです。 すなわち、少しの躊躇も動揺もなく、目的を目指して走るべきです。 それから、ちょっと弟子達の態度について考えましょうか。すなわち、恐れおののく弟子達の態度とはどういうものだったのでしょうか。 弟子達は一番目、何にも理解しない者であり、2番目、驚き恐れる者であり、3番目、高慢と支配欲に満ちた者でした。 前に話したように、イエス様の弟子達の思いとは、イエス様と全く違うものでした。 イエス様のとられた、イエス様の思いと、弟子達の態度とは全く対称的でした。 弟子達は驚き動揺し、主イエス様の後に着いて行くことを恐れました。 イエス様は弟子達に先立って歩まれ、彼らに模範を示されました。けれども弟子達は驚き、また恐れた。 弟子達はイエス様に出会い、イエス様が神のひとり子であることを確信したのです。そして、結局すべてを捨てて、イエス様に従うようになりました。 弟子達はイエス様と共にいて、実にたくさんのことを体験したのです。 何千とも知れない人々が、イエス様の御言葉を聴こうとして御許に集まって来た。そして何千とも知れない人々が、イエス様によって食事を与えられました。また、御許に運ばれた来た病人たちは誰でも、完全に癒されました。 当時の聖書学者たちは、何とかしてイエス様を陥れようとしましたが、いつでも敗北せざるを得ませんでした。悪霊でさえも、イエス様が神の子であると証しし、死人も甦らされました。 弟子達は、イエス様を信頼しておりましたし、彼ら自身多くの奇蹟をその場で見ました。 弟子達は3年間イエス様と行動を共にし、この方こそ約束されたメサイアであるともちろん確信したのであります。 けれども、イエス様は、全く唐突にご自分の十字架についてお語りになりました。 イエス様は、御顔をまっすぐにエルサレムに向けられました。それまでのイエス様は弟子達と親しい友達のように交わりました。 でもその時のイエス様は、今までと違って全く別人のように見えました。弟子達は、もはや、イエス様の御心を推し量ることができなかったのです。 それゆえ、彼らは驚き恐れたのです。けれども、イエス様は固く立って動かされることがなく、十字架への道を歩み出されたのです。 それ故、イエス様は、弟子達のとって、その時、見知らぬ他人のようになられました。 イエス様の御心は弟子達の考え方と全く異なっていました。弟子達は、彼らとイエス様の間には大きな隔たりがあるということに気付かざるを得ませんでした。私たちは、このことをすでに経験しているのでしょうか。 私たちが突然、イエス様について理解することができなくなり、導きの道がなんであるかわからなくなり、私たちの心が闇の中に閉ざされ、驚きと恐れに満たされるということが、往々にしてあります。 このような時私たちが、預言者ミカがとったような態度をとることができるならば、なんと幸いなことでしょう。 ミカ書7:7-8
すごい、素晴らしい証しなのではないでしょうか。 もし私たちがこの態度をとるならば、主に従うことは大きな喜びとなります。 イエス様は、本当の意味で偉大な者とはどのような者であるかということを語り、それは人々に仕える者であり、自分の命を捧げる者であると言われました。 弟子達が考えていた偉大さは、主の考えと違うものでした。 つまりそれは、人の上に立ち、権力を持ち、人々が自分に仕えるようになることでした。 イエス様が、ご自分の十字架についてご自分にお語りになるたびに、弟子達と、イエス様の決定的な違いが、明らかになったのです。そして弟子達はそのたびに、お互いの序列を巡って諍いを引き起こしたのです。 イエス様は、ご自分の益のためには何一つなさろうとはなさいませんでした。けれども、弟子達はいつも自分のエゴイズミから出た願いを持っていたのです。つまり、 マルコの福音書10:35、37-40
私たちの頼みことをかなえて頂きたい。私たちを座らせて下さい。私たちはできます。彼らは自己中心の願いを語ったのです。 けどもこれらの言葉からわかることは、彼らが、自分自身に対して全く盲目でした。自分に対して目が開かれていない者は、ほかの人々に対してねたみをもち、競争心をもたらします。 マタイの福音書23:12
弟子達の持っていた最大の問題は、自分自身について何も知らなかったことです。 そのしるしは、第1にうぬぼれ。第2に自分の力に頼ることです。 マルコの福音書10:39-40
この2節を見れば、弟子達は自分たちが何かえらい者であると考えていたことがわかります。彼らは、自分たちがイエス様の右と左に座るのにふさわしい者であると考えていたのです。 彼らは、自分自身に信頼することが非常に強くありました。けれども、ほかの弟子達も同じ思いでした。 ヨハネの福音書13:37
マルコの福音書14:31
ルカの福音書22:33
このような自分自身により頼む気持ちは、いつでも敗北に終わります。 主の約束は、うぬぼれの強い者に対しては与えられていません。謙遜な者に対してだけ与えられています。 詩篇138:6
箴言22:4
箴言29:23
有名なイザヤ書57章15節をみてみましょう。 イザヤ書57:15
イザヤ書66:2
だからイエス様は言われました。 マタイの福音書18:4
ルカの福音書9:48
ルカの福音書14:11
ヤコブも同じことを書いたのです。 ヤコブの手紙4:6
ペテロもまた同じことを当時の信ずる者に書いたのです。 ペテロの手紙第I、5:5
これらの御言葉には、主の御心と人間の思いとの隔たりがはっきりと出ています。 人間は、自分の思いで何かを得たいと思うときには、自分の力と自分の知恵を用いて努めます。また往々にして偽りやほかの人々を圧迫するという手段を辞さない者です。 けれども何かを得るために主が私たちに勧めていることは、私たちの持っている物を捨て人々に与えることです。捨てることは、与えることは、人間的には損であるかのように思います。けれども、このことによって主はさらにすぐれた恵みをお与えになることができるのです。 イエス様は、ある青年に次のように言いました。 マタイの福音書19:21
弟子達に対してもイエス様は、同じように何回も何回も言われました。 マタイの福音書19:29
マルコの福音書8:34-35
ヨハネの福音書12:24
パウロも彼自身、このことを体験しましたから次のように書くことができたのです。 ピリピ人への手紙3:8
最後に、私たちの態度はどうなのでしょうか?ちょっとだけ考えたいと思います。 イエス様の問いとは、何を欲しいのかと言うものでした。3つの実例について考えたいのです。 第一番目、バルテマイの答え。2番目は、ヤコブとヨハネの答え。3番目は、ソロモン王の答えについて考えましょう。 イエス様が発しておられる質問。 マルコの福音書10:36
この質問について、やっぱり考えるのは大切じゃないかな。やっぱりイエス様が私たちに対しても、「何をして欲しいのかと語ってくださるからです。これこそ素晴らしい恵みなのではないでしょうか。けど、この質問に対してなんと答えるかは大切です。 バルテマイと言う男は、この質問に対してなんと答えたのでしょうか。 マルコの福音書10:46-52
イエス様によって癒され、イエス様の弟子になった人はあんまりいなかった。癒されたからうれしい。さようなら...バルテマイはもう離れられなかったのです。イエス様の弟子になった。 バルテマイは盲目で乞食でした。でもそれよりも悲惨なことは、バルテマイが、主を知らなかったことです。イエス様を知らないということは、私たちにとって何よりも大きな損失です。イエス様を持たない者は、喜びも平安も希望もありません。 バルテマイは、イエス様のみが、自分を救ってくださることがおできになるということを確信したのです。それ故彼は、なんとしてもイエス様に出会いたかったのです。 彼は、このことをただ単に頭で理解しているだけではなくて、それを行動に移しました。 「ダビデの子よ〜。。イエス様〜〜。私を、あわれんでくださ〜い...」と叫び求めたのです。 わたしたちが憐れみを求めて叫ぶと、私たちは必ず主からの答えが与えられます。 イエス様はバルテマイに向かって、「私に何をして欲しいの?」と尋ねられました。 彼は自分が盲目であり、乞食であることがわかったのです。それ故彼は、目が見えるようになりたいと頼んだのです。 彼は自分自身がどのような者であるかをよくわきまえておりましたから、主の御心にかなった答えをお答えすることができたのです。 かつては盲目であり乞食であったバルテマイは、目が見えるようになり、イエス様に従う者になったのです。 彼は、イエス様のみが、自分に真の満足をお与えになるお方であるということを知っていました。 イエス様の後に従うことのみを喜びとしたのです。 2番目、イエス様のふたりの弟子、ヤコブとヨハネもイエス様から「何をして欲しいの?」と尋ねられました。 彼らはバルテマイとは違ってイエス様の弟子であり、イエス様を神の御子であると信じていましたけど、彼らはダメでした。確かに彼らは山の上で主の御体が変わり、御栄光を現しになるのをつぶさに見ていました。 この彼らに向かってイエス様は同じ質問、すなわち「何をして欲しいの?」という質問を尋ねられました。 けれどもバルテマイとは反対に、彼らの答えは主の御心にかなわないものでした。彼らは、私たちの頼みことをかなえて頂きたい。 私たちを、あなたの右と左に座らせて下さい。私たちはできます。そう答えたのです。 これらの答えを聞いて、イエス様の御心はどんなにか痛んだことでしょう。彼らの霊的な状態は、ちょうどヨハネの黙示録にあるラオデキヤの兄弟姉妹と同じ状態でした。 ヨハネの黙示録3:17
イエス様の御心はその命を捧げることでしたけど、弟子達は、人々の上に立ち支配することを願ったのです。 ヤコブとヨハネは、主に従うということは自分自身を無にすることであるということを、まだ理解することができなかったのです。 ヤコブとヨハネは自分自身の魂の状態に対して、目が開かれていませんでしたから、馬鹿らしい答えをしたのです。 最後に、ソロモン王についてちょっとだけ考えたいと思います。 なぜならば同じ質問を与えられたからです。 列王記第I、3:5-14
5節ですね。「あなたに何を与えようか。」ソロモンは主を信じる者であり、また自分自身対しても、正しい自己認識を持っていました。 列王記第I、3:7
当時ソロモンは国民に慕われ、尊敬されていた王様でした。彼は、主に願って善悪を判断する心を求めました。 ソロモンは、自分にはそれがないから与えて下さいと願ったのです。 私たちはこのソロモンの願いのうちに真のへりくだりと、正しい自己認識を読み取ることができます。 ソロモンは、自分自身のために何かを求めたのではなく、主に属する民のために兄弟姉妹のために、善悪を判断する心を求めたのです。 ソロモンは、自分自身ののことを求めたのではなく、主なる神に栄光を帰することを求めました。 その結果、ソロモンは、自分自身で求めたことよりも、はるかに越えるものを主から受け取ることができたのであります。 列王記第I、3:11-13
主は、私たちが我儘な自分勝手な願いをしない限り、私たちが願ったことをはるかに越えたものをお与えになられます。 私たちの願いが主をたたえ、御栄光を帰するものであるならば、主はそうして下さいます。 マタイの福音書6:33
エペソ人への手紙3:20-21
マラキ書3:10
ルカの福音書6:38
あなたがたは何をして欲しいのか。何を与えましょうかと、主は尋ねておられます。 私たちは、どのような答えを主イエス様に与えるのでしょうか。 ヨハネの福音書16:23-24
こう約束されています。 |