引用聖句:コリント人への手紙第I、15章3節-8節
今、読んでもらいました箇所は、非常に大切な箇所ではないかと思います。「最も大切なこと」という表現ができます。 本当に大切なこととは、言うまでもなく人間の考えていること、人間の思っていることではありません。だから、パウロはここで二回も、「聖書に示すとおり」「聖書にしたがって」という表現を使いました。 何があっても、聖書は何と言っているかと考えると間違いない。 最も大切なのは、結局、何でしょうか? イエス様は、私たちの罪のために死なれたこと、もちろんそれだけではなく、葬られてこと、そして三日目によみがえられたこと。大切なことは、それです。 パウロは、9節によると何と言ったかと言いますと、「私は価値のないものです。」けれど、価値のない者であるパウロに、復活なさったイエス様に現れたのです。それによって、彼の人生、彼の考え方が完全に変えられるようになりました。 ある家庭集会では、この奥さんのお母さんは、素直にイエス様を信じ、希望を持って死ぬことができたのです。 残されたご主人は、これを見て葬儀の時に決めたのです。「家内の信仰は本物だった。間違いなかった。私も信じます。」という態度を取りました。 けれども、後で娘さんに何と言ったかと言いますと、「家内の信仰は間違いなかった。本物だった。私も主イエスを信じますけれど、わからないことがある。よみがえられたことがまったくわからない。」娘さんにそう言ったらしい。 けれど、「今度、集会が終わってから、もう一回、ベックという男を連れてきますから。」、もちろん彼女は非常に賢い人でしたから、自分の前だったら、お父さんはなかなか正直になれないでしょう。 「ですから、すぐ姿を消しますけれど、おそらく父は、よみがえりのことについて話すのではないかな。」と言いました。その通りだったのです。 彼は、やっぱり、「家内の信仰は間違いなく本物でした。私も、やっぱり家内の信じたイエス様を信じます。けれど、そのキリストとは、よみがえられたらしいからって、これはいったいどういう話し?」、娘は姿を消したから、正直に聞いたのです。 彼の職業柄、言ったのです。「お父さん、裁判の時何が大切でしょうか。裁判官の思っていること、裁判官の気持ちですか。あるいは、証人たちの見たこと、聞いたことですか。」 もちろん彼はわかったのです。「いや、裁判官の気持ちは、全然大切ではない。証人たちの言っていることです。」って。 それで、読まれました箇所を引用して、「キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。」、彼はそれを聞いた時、もう疑問を持たなくなってしまった。 普通だったら、証人は2、3人で充分でしょう。500人以上だったらもうお手上げなのです。話にならない。それで彼も解放され、素直に信ずるようになりました。 われわれも、いつも覚えるべきことは、最も大切なのは、聖書は何と言っているか。 どうしようもない人間が何を思っているか、考えているかは関係ない。聖書は何と言っているか。この態度を取ると、やはり、どういう問題があっても、前向きに生活することができるのではないでしょうか。 一番大切なのは、新しく復活のイエス様にまみえ、新たにされることではないでしょうか。 パウロは、「主イエス様は、最後に私に現れた。」と言って、よみがえりのイエス様にお会いした喜びを書いています。我々も、もちろん、主に新しく会いたいのではないでしょうか。 パウロは一体どうして、イエス様を知るようになったのでしょうか。理屈で攻められ、納得させられたからではない。脅かされて、強制させられたからでもない。 パウロは、よみがえりの主にお会いしたため、イエス様を知り、監禁され、捕まえられてしまったのです。 パウロは、「私は勉強してイエス様を信ずるようになった。」とは、一回も言っていない。「私は捕らえられるようになった、監禁されてしまった。」と言ったのです。 パウロは、どうしてイエス様を紹介する者となったのでしょうか。どうして、イエス様を当時の世界に宣べ伝えられたのでしょうか。 もちろん、よみがえられたイエス様にお会いしたからです。だから、このイエス様を紹介せざるを得なくなりました。 パウロは、イエス様のいわゆるよみがえりの書、このコリント人への手紙第Iの15章、どうしてこの書を、コリントにいるイエス様を信ずるようになった兄弟姉妹に書き送ったのでしょうか。 もちろん、彼らにとって必要だったからです。そして、コリントにいる兄弟姉妹だけではなく、われわれにもこの書が必要ではないかと思います。 コリントの信者たちは、等しくイエス様に仕え、イエス様のためにご奉仕をしようと心がけ、またそうしたのですけれど、全部失敗に終わったのです。 パウロは、このコリントにいる兄弟姉妹の失敗の原因の根本について言ったのです。「あなたがたは、よみがえりを体験する前の状態にある。よみがえりの土台の上に生活していない。」と指摘したのです。 もし、私達が生まれつきの性質から開放され、イエス様のよみがえりの力にあわせられていないなら、信仰生活は上がったり下がったりでしょう。 ペテロもヤコブもパウロも、その他多くのよみがえりの主イエス様に出会った人々は、自分の肉の力から開放され、御霊に動かされた生活に引き入れられました。 これは、彼らのすべてが告白しているところですが、これこそ彼らにとって本当の復活祭だったのではないでしょうか。 今パウロは、コリントにいる兄弟姉妹も同じよみがえりの体験に入ることを願って、そのためにこのコリントへの手紙第Iを書いたのであります。 私達もさまざまな苦しみを通して、この主の驚くべきよみがえりの力を体験的に自分のものとする必要があるのではないでしょうか。 少しだけ、よみがえられたイエス様に出会って、生活を変えられた4人の人々について考えてみたいと思います。 第1番目、マグダラのマリヤです。2番目、ペテロ。3番目、トマス。そして、第4番目ヤコブです。 まず、マグダラのマリヤについて考えたいのです。 彼女は、復活のイエス様との出会いによって、何を持つようになったかと言いますと、新しい愛を持つようになりました。 彼女は、墓より復活されたイエス様に最初にお目にかかった人です。どうして、なぜ、このすばらしい特権にあずかることができたのでしょうか。 イエス様を一番愛し、イエス様に一番すべてをささげ尽くしていたのではないでしょうか。だから、この光栄にあずかることができました。 けれど、なぜ一番初めにマリヤに現れたかと言いますと、もちろん必要だったからです。 彼女はイエス様が亡くなられた時、そんなにがっかりして絶望に沈んでしまったのです。マルコの福音書16章9節に、彼女はどういう女性であったか書かれています。 マルコの福音書16:9
とあります。 この節を見ると、彼女はかつてイエス様に七つの悪霊を追い出していただいたことが書かれています。彼女は悪霊につかれて、恐ろしい生活をしていたに違いない。 ですから、イエス様に霊を追い出していただいた時、彼女が体験した解放も、考えられないすばらしいものであったにちがいない。 このイエス様に、マリヤがもっている愛のすべてを捧げ尽くしたのは無理もない。イエス様は、マリヤのすべてだったのです。 イエス様が十字架で亡くなられた時の彼女の悲しみは、どんなだったでしょう。もしイエス様がよみがえらなかったら、マリヤのイエス様に対する愛は、なおさらマリヤを絶望においやり、悲しみに落とし込んだにちがいない。 当然ですけれど、マリヤの愛の対象は決して間違っていませんでした。神の御子イエス様を愛しぬいたのです。けれど、その愛がよみがえりの力に基づかないで、単なる人間的な愛だったから、絶望に終わってしまいました。 現れたイエス様を見た時、マリヤは喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。聖書を読むと、その時イエス様はマリヤに「わたしにさわってはいけない」と御声をかけられたのです。 イエス様は、なぜそのように言われたのでしょうかね。マリヤのご自分に対する、清くはあるが、肉による愛を霊による愛に変えなければならないことを教えたかったのです。 後にイエス様は昇天され、マリヤは霊によって、イエス様を愛するようになる備えをなさしめたのです。 もし、私達がイエス様に対する愛や献身が、よみがえりの土台の上に立っていないなら、やがてそれらは崩れて絶望に終わるでしょう。よみがえりがイエス様に対する新しい愛を与えてくれます。 よみがえりの前の土台に立っている者は、イエス様とともに十字架につけられ、主とともに葬られていない人です。マリヤがそうでした。 マリヤの愛は、本当にきれいな清い愛でしたけど、人間の愛でした。マリヤのこの愛を少し考えてみましょうか。 まずマリヤの愛は、イエス様が自分になしてくださった恵みの御業に応える愛でした。自由になり、開放されるから。彼女は7つの悪霊を追い出していただいたから、感謝の思いからイエス様を愛しました。 二番目、彼女が愛したイエス様は、肉体をとっておられたので、目に見えるお方としてのイエス様を愛していたわけです。マリヤは目に見えるイエス様を愛しました。それからこのマリヤの愛は、人間的だったから、絶望に終わってしまいました。 これに対し、よみがえりの主にあずかり、よみがえりの土台としてその上に立っている人は、苦しみを通し、悩みを通し、名綾見を通し、主とともに十字架につけられて死に、ともによみがえらされ、天上野の座につかさせられた人であり、まことの主の愛をいただいた人です。 よみがえりの主にあずかり、主の愛を持つ者はまず、イエス様が成してくださった業のために主を愛するのではなくて、イエス様ご自身を愛します。 それらの人々はイエス様を知っています。イエス様との交わりを持っています。イエス様の御旨を知って、イエス様だけを喜びにしています。 それから、よみがえりに基づいた人々は、目に見えないイエス様を愛しています。すなわち、信仰によって歩んでいます。 初代教会の人々の証しとはそういうものでした。 よく知られている箇所ですけど、コリント人への手紙第IIの4章をちょっと見てみましょうか。 コリント人への手紙第II、4:16-18
それから、このイエス様の愛は、主なる神の愛は、たとえ訳が分からないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かれても、愛して愛し抜く愛です。 このような人々は、パウロと同じように、次のように告白することができるのではないでしょうか。 皆さん暗記していることばだと思うのですけれど、聖書の中で最もすばらしい告白の一つです。 ローマ人への手紙8:35-39
素晴らしい、心からの告白なのではないでしょうか。 主なる神の愛は、すべてのものに勝ち得て余りある愛です。この主なる神の愛は、パウロがコリント人への手紙第Iの13章で言っている愛であります。 読んでみましょうか。 コリント人への手紙第I、13:4-7
私たちの場合はどうでしょうか。私たちは主のためにあれをやり、これをやり、奉仕するけれど、イエス様と親しい交わりを持っている方はどれだけいるのでしょうか。 祈りはそのまま、イエス様との交わりであるということはできません。イエス様もわれわれに語りかけることができなければ、交わりになりません。 私たちもマリヤのように、よみがえりの前の土台に立っているのではないでしょうか。 マリヤは、イエス様を神の御子と信じ、しかも自分を悪の霊から解き放ってくださったお方として信じ、心から愛していましたけど、彼女は絶望に陥ってしまいました。 多くの救われた者は、罪の赦しを確信し、主なる神との平和をいただいています。そして、人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物と力を持って、イエス様に仕えようとしています。 けれども、信仰生活は、とめどもなく上がったり下がったりします。イエス様との親しい交わりがない。イエス様と一つになることができません。それは、よみがえりの前の土台に立っているからのです。 よみがえりの土台に立つ者は、自らの力で主に仕えようとしません。自分の力に頼ることをやめ、人の誉れを望まないで、よみがえりの主にまかせ、おゆだねするということは、なんという自由でありましょうか。 自分を愛する愛は、哀れっぽい愛です。自分を愛する愛は、傷つきやすい愛です。これに対して主なる神の愛は、傷つきにくい愛です。 イエス様の愛は失望しない、またいろいろなしるしを求めません。主なる神の愛は、信仰によって、目に見えない物を望み見て歩みます。私たちが、今さし迫って必要としている愛は、この新しい主なる神の愛なのではないでしょうか。 もしイエス様がよみがえらなかったなら、はたしてマリヤは七つの悪霊に立ち向かうことができたでしょうか。 よみがえりの土台に立っていない、コリントの人々はどうだったでしょう。憎しみと、妬みと、傲慢と、汚れの霊に打ち負かされ、全然、証しが立っていませんでした。 イエス様が、我々にマリヤ、マグダラのマリヤのように新しい愛をさずけられ、私たちが心からパウロのように、「よみがえりの主は、最後にこの私に現れた。」と喜ぶことができたら、本当にありがたい。 イエス様のよみがえりの姿を拝した第二番目は、ペテロなのです。 復活されたイエス様と出会によって、彼は何を得たかと言いますと、言うまでもなく新しい信頼です。 イエス様のよみがえりは、結局ペテロにとってすべてとなったのです。 もしイエス様がよみがえられなかったら、ペテロはどうなっていたことでしょう。 ペテロはイエス様を公然と否認しました。「私はイエス様を知らない。何のことか分からない。」と愛するイエス様を裏切ってしまいました。 ペテロは、特に主のそば近く歩み、3年半イエス様に愛されるという特権にあずかるようになり、色々な忠告をイエス様の御口から聞くことができたにもかかわらず、「私は、イエス様を知らないと。」と言ってしまったのです。 その前、彼は何と言ったかと言いますと「私は決して、決してイエスを捨てない。」と誓ったのです。それにもかかわらず、彼はイエス様を否んでしまいました。 否んだイエス様は、十字架で亡くなられた。地上でペテロを助ける者は一人もいない。よみがえりのイエス様だけが、ペテロを助けることができたのではないでしょうか。 マルコの福音書の16章の中で、二つの言葉が出てきます。「弟子たちとペテロ」という表現です。 マルコの福音書16:6-7
よみがえられたイエス様は、使いを送り、ご自身のよみがえりを弟子達に告げましたが、特にペテロの名前をあげて、「イエスはよみがえった。今から弟子たちとペテロの所へ行ってこう伝えなさい。」と言われました。 ペテロはイエス様を否んだまま、イエス様に死なれたので、まったく打ちのめされていました。もし、弟子達とペテロと、ペテロの名前を特別につけて、名指しで呼ばれなければ、ペテロは立ち上がれなかったでしょう。 他の弟子達は、「たぶんペテロは主を裏切ったから、もうわれわれの群れには縁のない者だ。」とペテロを軽蔑していたかもしれない。ペテロがイエス様を否んだから、他の弟子達はペテロを指導者として仰ぐことをやめていたかもしれない。ペテロは信頼を失ってしまいました。 このペテロに対する疑いを解くために、弟子たちとペテロ、ペテロの名前を特に主は付け加えられに違いない。 ペテロは、いかに悩んだかは想像できません。聖書には、一言だけ書かれています。「ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」どうしてであるか、もうおしまいと思ったからです。 ペテロは指導者となるべく、主イエス様から召しを受けました。けれど今、ペテロはイエス様を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ疑われています。 イエス様のよみがえりは、ペテロをどん底から救い出しました。ペテロは元のペテロになった。他の仲間の目にも、ペテロは見事な立ち直りを見せたのです。 ペテロは主を否むという悲しむべき出来事を通して、自らの真相を知ることができました。主を否んでから、イエス様がよみがえられるまでの3日間は、何という暗い日々だったでしょう。 ペテロにとっては、この3日間は夜でした。けど、この真っ暗闇を通される必要があったのではないでしょうか。 もしペテロに、よみがえりの主が現れてくださらなければ、ペテロは絶望し、立ち上がることができなかったでしょう。われわれも、イエス様に用いられるためには、ペテロと同じような体験をしなければならないのではないでしょうか。 私たちは、自我に満ちた生活をやめ、主に生きる、よみがえりの土台に立たせられることができたら本当に幸いです。 よみがえりの主はペテロに現れ、二人で何かお話し合ったはずですけど、その時イエス様はペテロに何をお語りになったか、分かりません。けれど、ルカの福音書24章34節、一文章だけですけれど、次のように書かれています。 ルカの福音書24:34
この箇所を見ると言えることは、イエス様はシモンペテロと親しくお話になったことだけはよく分かる。 イエス様とペテロは、何を話したか知る必要はないし、知る由もありませんが、私たちはペテロと同じように、主に対して不真実であり、不信頼に満ちた心の持ち主であることを、教えていただかなければならない。 それを教えられて初めて、後で見事に立ち直ったペテロと同じようになることができるにちがいないのです。 ペテロは火を通された後、実に揺るがない、その名前のように岩のようなキリスト者となりました。ペテロは多くの人々の信頼を受けるにたる信者となりました。 よみがえりの主は、ペテロを新しくし、ペテロはイエス様に対する新しい信頼を持ち、また多くの人々に信頼される人と造り変えられました。 今、私たちが差し迫って必要としているものの一つは、その主に対する、新しいより頼みないではないでしょうか。 3番目、よみがえりの主にお会いした、著しく変えられたトマスについて、ちょっと考えたいと思います。 トマスは、復活されたイエス様との出会いによって何を与えられたかと言いますと、新しい信仰です。 トマスは、もともと疑問に満ちた疑い深い性質の持ち主でした。ヨハネの福音書を見るとわかります。ヨハネの福音書20章の24節、25節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書20:24-25
他の弟子たちは、イエス様のよみがえりを知って喜び、これを仲間のトマスに伝えたのですけれど、彼は頑として信じようとしません。個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで解けないのではないでしょうか。 聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は、疑い深いトマスのために、わざわざもう一度現れて下さった。何という恵み深い主でありましょうか。 「自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷にさしてみないうちは、イエス様のよみがえりを信じることができない。」と言っていたトマスは、目の前に現れたイエス様の御姿を拝した時、指を傷にあてるどころか、ただその場にひれ伏してイエス様を拝したと聖書は言っています。 疑い深いトマスがこんなに変えられたのは、驚くべきことです。彼は、まことの礼拝者となりました。トマスは疑惑に満ちた者でしたが、新しい光が与えられたら、この疑惑が解けるのだがと絶えず光を求めていました。 けれどイエス様は、なぜもっと早くトマスに現れてくださらなかったのでしょうか。それはイエス様のせいではなくて、トマスは悪かったから。他の弟子たちと一緒にいなかったからです。 もし彼が、ほかの弟子たちのところに帰ってこないで、そのまま自分の道を歩んだなら、イエス様に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれない。 イエス様は救われた者の一人ひとりの頭であるばかりでなく、信じる者の群れ、すなわちご自分のからだなる教会の頭です。ですから主は、兄弟姉妹が共に集まり、御名を賛美しているところにご自分を現される場合が多いのです。 疑いは、もちろんそんなにひどく悪いことではないでしょう。トマスは疑ったけど、彼は正直な男でした。彼はイエス様のよみがえりを信ずることができなかったから、自分を偽らず、はっきり信じられないと正直に言ったんです。 多くの人々は、信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽ってしまいます。トマスは、これらの人々よりよほどましだったのではないでしょうか。 私たちは、それぞれ問題を持っているでしょう。また、これから必ず持つようになります。その中には、よみがえりの主が現れてくだされなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあると思います。 そのような時はトマスのように、心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が、問題に解決を与えてくださいます。 トマスは新しい光を求めて、それを受ける備えをしていました。トマスは主を信じる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒まなかったのです。 トマスは、疑いながらも交わりに加わっていました。そしてイエス様がトマスに現れた時、トマスはイエス様の御前にひざまずきました。礼拝したとあります。 われわれの過去を振り返ってみると、本当に主に対して不信仰な者であり、イエス様を悲しませた者であることが分かります。 私たちが今日、今一番必要としているものの一つは、よみがえりの主に新しくお会いし、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。 最後にもう一人の男、すなわちヤコブについてちょっと考えたいと思います。 このヤコブは、よみがえりの主にお会いして何を得たかといいますと、新しい義をいただきました。 コリント人への手紙第Iの手紙15章、あのよみがえりの書の15章7節に書いてあります。 コリント人への手紙第I、15:7
と書いてあります。このヤコブはご存知のように、肉体的にイエス様の弟でした。後にこのヤコブは、義人ヤコブと言われるようになり、エルサレムの諸教会の監督になった人です。 彼の書いた手紙、ヤコブの手紙を読みますとわかります。このヤコブは正しさ、義を強く主張しています。 このヤコブは、長い間心に持っていた悩みは、本当の義を持っていないで、自分の持っている義はおきての義、自分の義だけだということでした。 彼は生まれ落ちるなり、神の御子であるイエス様を兄として一緒に暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にはイエス様を拒みました。 たぶん彼は、イエス様が罪人といっしょに食事をし、人間の掟をまもらないで、安息を守らないでいたところから、当時の聖書学者と同じように、ヤコブはイエス様と関係を持ちたくなかった。 イエス様を拒んだ、ということです。 ヨハネの福音書7:5
とあります。ヤコブはイエス様の生きている間、イエス様を信じようとしなかったのです。このイエス様を受け入れなかったヤコブは、ついにイエス様を受け入れる時がやってきます。 イエス様は今、十字架の上で苦しんでおられます。苦しみの中からイエス様は、弟子ヨハネに向かって「ヨハネよ。見よ、これはあなたの母である。」と言って、ご自分の肉体の母マリヤを弟子のヨハネに託されました。 続いて、お母さんのマリヤに向かい、「女よ。これは汝の子です。」と言って、ヨハネに生涯の面倒をみてもらうように話されました。 イエス様はいったいどうして、ご自分の母を、実の弟であるヤコブに託さないでヨハネに託したのでしょうか。たぶんヤコブは、始めからイエス様を心から信じていた母親のマリヤと仲が合わず、離れていたからでしょう。 自分を産んでくれた実の母を、自分に任せられず、他人の手に委ねなければならないとは、なんというひどい悲しいことでしょう。これは、己を正しいとする罪の結果です。 自分を義とする結果は、いつも悲劇です。当たり前のこの世の人でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということは、ちょっと心外でしょう。けど、自分を義としたヤコブは、結局、母を見捨てました。ヤコブはこのように、己を正しいとする人間だったのです。 パウロは、前に読みましたコリント人への手紙第I、15章に、よみがえりのイエス様が誰と、誰と誰に現れたか、順序を追って書いていますが、ヤコブの名前は後のほうに書かれています。 イエス様は、己を正しいとするヤコブより先に、罪人や収税人に現れたのです。けれど、ヤコブの身についに奇跡が起こりました。 彼は、自分が正しいとすることは何の役にも立たない、むしろ妨げとなることを悟り、イエス様の前に砕かれ、新しい義をいただいたのです。 多くの人々は己を義とし、めくらになり、かつてのヤコブのように悲惨な状態に陥っています。 よみがえりの主だけが、自分を義とするところから、ヤコブを解放することができました。 私たちも、よみがえりのイエス様に新しくお会いすることによってのみ、ヤコブと同じように義人と呼ばれることができます。 最後にパウロは、イエス様が自分に現れてくださったことを記しています。 コリント人への手紙第I、5:8
とあります。パウロはよみがえりの主イエス様にお会いして、新しい愛、新しい信頼、新しい信仰、新しい義を受けたのです。 私たちもパウロのように、そして最後に、よみがえりの主は私に現れたのですと、喜びをもって言えるようになったら幸いなのではないでしょうか。 よみがえりのイエス様にお会いしたら、私たちの生活は根底から変えられるのです。 イエス様はわれわれに、よみがえりのいのち、またよみがえりの力を与えるために、死よりよみがえられました。 イエス様が与えてくださるよみがえりの力を受ける時、そこから新しい愛、信頼、信仰、義が湧き出てくるのです。 私たちは、コリントの兄弟姉妹がそうであったように、理論ではなく、実際にイエス様の御前にひざまずき、砕かれ、イエス様の備えられるよみがえりの力を受け取りたいものです。 イエス様が、もし実際によみがえったのなら、イエス様のよみがえりのいのちとイエス様のよみがえりの力は、我々のために備えられて、隠されています。 このよみがえりのいのちは、われわれの生まれながらのいのちと全く性質を異にするものです。 このいのちはマリヤの内に、またペテロ、トマス、ヤコブ、パウロの内に宿ったいのちであるばかりでなく、われわれの内にも宿っておられるキリストのよみがえりのいのちです。 イエス様が、われわれにマリヤのように新しい愛、ペテロのように新しい信頼、トマスのように新しい信仰、ヤコブのように新しい義を授けられ、私たちが心からパウロのように、よみがえりの主は「最後に、この私に現れた。」と喜ぶことができたら、本当に幸せなのではないでしょうか。 |