引用聖句:民数記8章14節、16節、24節
エゼキエル書44:15-16、28
今まで読んでもらった箇所の中で、何回も「レビ人」という言葉が出てきました。聖書の中で何回も出て来るから、やっぱり大切なのではないでしょうか。 有名なイザヤ書43章1節にも似ていることばが書かれています。 イザヤ書43:1
この言葉は、レビ人についてだけではなく、へりくだったすべての人のために書かれたものです。「あなたはわたしのもの」 そうすると、もう心配しなくてもいいし、思い煩わなくてもいいし、安心して将来に向かうことができるのです。 もう一箇所、読みます。コリント人への手紙第Iの6章、内容的には全く同じことばです。 コリント人への手紙第I、6:19-20
今朝、我々の生活における主の目的について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。 主なる神が考えておられることは、一人でも多くの人々が救われることですが、そればかりではありません。その救われた人々を通して、主イエスのご臨在が外に現れていくことも、主が願い求めておられます。 我々の内に宿りたもう主イエス様、内住の主こそ私たちが生まれ変わった証拠です。人々は、我々の内にイエス様が住んでおられることに気づくはずです。そのように身を持って、イエス様を証しして始めて、主の証し人と言えると思います。 初めに読んだ聖書の箇所では、会見の幕屋で働き、契約の箱を担う勤めをしたレビ人について書いてあります。 16節を見ると、レビ人は全く神に捧げられていたことが解かります。 民数記8:14
一つ残らず全てを主にお捧げしたのが、レビ人でした。全てを主に捧げ尽くしたこのレビ人こそ、主のご栄光を現すことのできる模範の人々といわなければなりません。ですから、ここでしばらくこのレビ人について考えてみたいと思います。 レビ人たちは、イスラエルの民が、荒野を通って旅をした時、主の臨在を現す契約の箱を担って歩いた人々でした。イスラエル人たちは、臨在の雲の柱が上った時、今まで留まっていた所から出発し、雲に導かれ、雲が再び留まった所で民たちは留まりました。 レビ人たちは、主の臨在の雲が留まった時には、素直にそこに留まりました。「なんのため、どうして、なぜ?」と考えようとしなかったのです。そこがどんなに居にくい場所であっても、また見る目に良くない場所であっても、導きのままに留まりました。 我々の場合はどうでしょうか。自分の考えのおもむくままに、良い環境を選んで、そこへ行くのでしょうか。または、主の導きのままに歩んでいるのでしょうか。 実際のところ私たちは、生きているこの世は、どこへ行っても荒野のようなものではないでしょうか。見た目に居心地の良さそうな所でも、実際に住んでいれば、しばらくたつとそこも、荒野であったことが解かります。 私たちは、レビ人と同じように主の御手にある所、主の臨在が現されていくのですから、導きのままに歩みたいものなのではないでしょうか。レビ人たちは、3つの特徴がありました。 第1番目、主に対して礼拝し、 第2番目、人に仕え 第3番目、悪の霊に対して戦う この3つの特徴を持っていました。この3つのことは、そのまま我々の日々の生活に、主が求めておられることです。 まず、主に対する礼拝について、ちょっと考えたいと思います。礼拝について考えると、おそらく誰でもヨハネの福音書4章23節を思いだすでしょう。 ヨハネの福音書4:23
礼拝とはいったいどういうことなのでしょうか。父なる神に、御子であるイエス様の偉大さを認め、いかに尊いお方であるかを心から言い表すのが礼拝です。 心の目で、自らの神から離れ去って、役に立たなくなっており、罪深いダメな状態を見、それとともにあわれみ深いイエス様の御救いを、心の目で見る時、礼拝をせざるを得なくなります。 主なる神のご愛、偉大さを知らないイエス様に属さない人々は、本当の意味で礼拝することができません。また、主イエス様を信じない人々だけではなく、もうすでに救いにあずかっている信者も、主の価値を完全に知ることはできません。イエス様の偉大さを全く知るには、永遠の時を必要とするでしょう。 もっともっと心の目が開かれ、主がどんなにすばらしく偉大なお方であるか、見させていただきたいものではないでしょうか。 主の偉大さに心の目が開かれることは、礼拝にとって本当に必要なことです。主の偉大さが解かれば解かるほど、本当の礼拝に導かれるようになります。イエス様の偉大さが解かれば解かるほど、本当の礼拝ができ、礼拝すればするほど、主の偉大さが見えてきます。 礼拝する人は、主の隠れた新しいことを教えられます。主を見た人々は、主の前にひれ伏し、拝まざるを得ません。高く引き上げられ、天の御位を定めたもう主のご支配が、我々の内にも現実となる時、心からなる礼拝を捧げることができます。 私たちの場合、現実にどうでしょうか。私たちの生活の真ん中に、主なる神に対するまことの礼拝が成されているのでしょうか。礼拝が第一の場所を占めているのでしょうか。時々、仕事が第一の場所を占め、その他のいろいろなことが礼拝に変わる時間を取り、礼拝はどこへか影を潜めてしまうというのが、現実なのではないでしょうか。 私たちは、恵みとあわれみによって救われた者として、この世に生活していますが、礼拝する者として毎日生きているのでしょうか。 主なる神は、あまねく全地を見まわし、心を全うし礼拝する人々を探し求めておられます。主なる神に対する礼拝が、我々の生活の第一の場所を占め、礼拝が我々の全生活を支配していなければならないのです。 レビ人の一つの特徴は、今話したように、主に対する礼拝でした。そして第2番目に、人に仕えることであり、奉仕だったのです。 ご奉仕とは、いったい何なのでしょうか。ヨハネの福音書の中で答えとして次のように書かれています。 ヨハネの福音書6:29
神のわざであると書いてありますが、すなわち主に対するご奉仕です。これは本当に不思議なご奉仕の定義なのではないでしょうか。 まことの奉仕は、信仰の表れです。たとえ、私たちが全生涯を捧げ、持っている物を全部捧げたとしても、信仰がなければそこには奉仕もあり得ません。 ヘブル人への手紙11章、信仰とは何であるか、信じた人々とは、どういう態度を取ったかについて多くのことが書かれています。 ヘブル人への手紙11:6
信仰なくして、主に近づくことは無意味なことです。同じように、信仰なくして、ご奉仕することも全く無意味なことです。 しかし、主を信じるとはいったい何を意味しているのでしょうか。主なる神にご奉仕するということは、信仰の働きです。 もし、これが神の御心であると確信するなら、惑わずためらわず前進することができます。このように主にゆだね、任せきること、これが信仰です。 何かことを始めるにあたり、初めは不安です。自分に何の力もない、自分の無能力さを良く知っているからです。 しかし、やっているうちに効果が現れてきます。結果が希望的に見えてきます。その内に自分は出来ると思い込んでしまいます。 これは大変に危険です。私たちのご奉仕は、瞬間、瞬間、主だけを見上げ、主により頼み進んでいくご奉仕でなければだめです。 旧約聖書を読んでいきますと、レビ人は、驚くほどたくさんのご奉仕を成したことが解かりますが、このレビ人は、そのご奉仕に自分の力の能力により頼まず、ただ主の力により頼んでしたことが解かります。 我々の奉仕も信仰の現れでなければなりません。もし、そうするならどんな小さなことも、まことのご奉仕になるはずです。 コロサイ人への手紙3:23
人間のためにやれば、がっかり、喜ぶ人もいるし、批判する人もいるからです。 コリント人への手紙第I、10:31
神の栄光を現すためにしなさい、それが何であれ、信仰を持って御栄のためにやるなら、まことのご奉仕です。 自分の考え、伝統にとらわれず、ひたすらただ主により頼み、すがって歩みたいものなのではないでしょうか。 我々の生活が全く主のご支配のもとに入っていることを証しするために、我々の全生活を主に捧げたいものなのではないでしょうか。 今、話したレビ人の特徴とは何でしょう。第1番目、主に対する礼拝。2番目、人に仕えることであり、そして、最後に3番目、悪の霊に対して戦う、この3つの特徴を持っていました。 この3つのことは、そのまま我々の日々の生活に、主が求めておられることです。 戦いについて考えると、おそらく誰でもエペソ人への手紙6章を考えるのではないでしょうか。 エペソ人への手紙6:12
すなわち人間 エペソ人への手紙6:12
私たちの格闘は、悪霊に対するものであると、パウロはエペソにいる信者たちに書いたのです。悪魔は、主に用いられ、主の御業のために心を尽くして奉仕しようと、心がける者の上に集中的に攻撃します。 主の臨在を持ち運ぶ、まことのご奉仕にかなう人々は、間違いなく地獄の憎しみを経験します。悪魔の攻撃の目標に置かれているからです。もし、悪魔の目的の中心に立たされていないなら、我々の礼拝、また我々の奉仕は根本から誤っていると言わなければならない。この戦いとは、もちろん厳しい現実です。 この激しい戦いの中にある時もなお、私たちは主が成し遂げてくださる、主は完全なる勝利をお取りになったお方である、悪魔は、打ち負かされて敗北者です。これを固く信じなければなりません。 目に見える現実はどうであれ、主は生きておられ、支配者として導いてくださるのです。不安、いろいろな思い煩い、また行く末を考えておられること、これらは無益なことです。父なる神の右に座したもう主イエス様から目をそらす信仰に、私たちは証し人としての力を無くしてしまいます。 普通の世人と全く同じような状態になってしまいます。イスラエルの民を取り巻く敵たちは、会見の幕屋を見た時、その上に留まる主の臨在を見ました。 主を知らない人々が、我々の真ん中に来る時、我々の内に光輝く主を見るのでしょうか。または失望して元気のない惨めな人々を見るのでしょうか。どうでしょう。 我々の戦いは、勝利から始まります。イエス様は、完全な勝利者となられましたから、私たちはもう勝利者となることはできませんし、またする必要もありません。 どんなに悪魔の力が強く、攻撃が激しくなっても、私たちは、イエス様が我々のために成してくださる、勝利の内に堅く立っていなければなりません。 イエス様の勝利の真ん中に立っているのでしょうか。聖書は、なるほど主の勝利を告げています。また私たちは、過去に勝利を治めたかもしれませんが、今、勝利の真ん中にいるのでしょうか。臨在の雲は、我々の上に留まっているのでしょうか。私たちは、主に喜ばれる者となっているのでしょうか。 私たちの目は、主の偉大さに開かれ、私たちはまことの礼拝する者となっているのでしょうか。私たちは、全身全霊をあげて主を喜んでいるのでしょうか。それとも我々のご奉仕は、肉の力で成されているのでしょうか。あらゆる問題の中に、イエス様の勝利がもたらされ、私たちはそれを喜ぶことができたのでしょうか。 私たちは、レビ人たちのように主に礼拝し、人に仕え、悪霊に戦う者となりたいものです。そして、主のご臨在を現していきたいものです。 もう一箇所読んで終わります。コリント人への手紙第Iの6章。コリントに住んでいた人々とは、決して模範的なキリスト者ではなかったのです。一度救われたのですけど、主の栄光を現す者ではなかったんです。パウロは、だから彼らに書いたのです。 コリント人への手紙第I、6:19-20
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